はじめに

MCEI大阪・10月定例会はダイキン工業のテクノロジー・イノベーションセンター(以降TIC)での野外研修会である。新大阪から専用バスで約25分、バスの車窓から淀川の本流から三国川(現:神崎川)が分岐するあたりに「江口」というバス亭が目にとまった。大阪市東淀川区の東端で、かつては交通の要衝で、平安京から山陽、南海、紀伊への重要起点であり朝廷の所領がこの地に設定されていた。「江口」は能の曲名・三番目物、観阿弥原作、世阿弥改作でも知られている。旅の僧と遊女江口の君の幽霊の話である。

TICの目の前を流れる淀川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。流路延長75.1㎞、流域面積8240キロ㎡、流路延長は琵琶湖南端からの距離である。河口から最も遠い地点は滋賀県と福井県の分水嶺である栃ノ木峠で、そこから河口までは直線距離で130キロある。流域人口は西日本で最も多く、琵琶湖に流入する河川や木津川を含めた淀川水系全体の支流は965本で日本一多い。この淀川を抱く様に建つ6層の建築の外観は9本の白い水平チューブで構成され、不思議なほど圧迫感がなく、周辺の流域の風景になじんでいる。所在地は大阪府摂津市の西部である。エントランスに入ると大きなガランドウともいえる三層吹き抜けの大きな空間である。このホールには受付カウンター以外はいっさい家具は置かれていない。目をひくのは3階にいたる大階段と敷地内の森から送られる外気を取り込む大きなガラスのパネル、内壁は大きく折られた折り紙のような壁で立体感と躍動感を表現している。天井は満天の星をちりばめたようにダウンライトがレイアウトされている。TIC、この建築は近代以降、特に産業革命以降追求され、具現化されてきた近代建築と一線を画した、ナニモノかであることを予感させられる。

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建築施設としてのTICとは

TICの「圧倒的省エネ性能」を上げてみると、標準のビルと比較してエネルギーの70%を削減しているが、そのなかでも空調・換気は80%の削減を達成している。まさにZEB(ゼロエネルギービルディング)の具現化である。そして空調の効率化をはじめ、快適性を維持する空間を実証し、「個人差」や建物内での「人の分布」を考慮した「室内環境の指標」を検証し、生産性向上を図る空調制御による「快適な室内環境」を実践している。自然エネルギーの有効活用のため、太陽光追尾架台を屋上に施設、熱の有効利用のために熱幹線、水熱源VRV、太陽光州熱、地熱、フリークーリングなどを活用している。建物の外皮性能は省エネ性向上のためゼッフル遮熱塗料(フッ素樹脂系)を塗布している。窓や開口部のガラスはLow−E複層ガラスで自動換気、自動採光である。空調の超高率化と最適制御のために、エネカット、TBAB、蓄熱、最適モード運転、多分割グリッド、VRV・DESICAなど様々な技術が導入されている。その他持続的な排水管理として中水処理システム活用、節水としては超節水器具採用と大規模な雨水利用を導入し、地域への環境対策としては敷地内に「自生植物の森」を創出している。この結果TICは、国内外の建築環境評価認証である、LEED認証で最高ランクのプラチナを、CASBEE認証では最高ランクのSクラスを取得している。

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建築のことに戻る、TICは2015年11月日建設計・NTTファシリティーズの設計・監理と竹中工務店の施工で竣工している。地下1階、地上6階、塔屋2階、延べ床面積は47911.86㎡の鉄骨造・鉄筋鉄骨コンクリート造の建築である。建築計画にふれておく、この建築は大きく「実験棟」と「オフィス棟」の二つのゾーンで構成されている。オフィス棟はエントランス空間から始まり建築空間を垂直に貫く光井戸(ライトウエル)に6階はフューチャーラボ、フェロー室が5階はワイガヤステージ、4階は集中ブース、集中ルーム、3階は知の森が連続して繋がっている。4階・5階がオフィス空間で先ほどのワイガヤステージがその真ん中に位置している。部門を越えたミーティングがすぐにでき、まさに700人の技術者が一つの空間に集結してダイキンが大事にしている経営理念の一つ「フラット&スピード」を実践し社内の共創を加速させている。TICを訪れた人々が自由に議論やコラボレーションを深め、未来を切り開くために専門家から一般ユーザーまで対話を引き出す場が、6階にあるフューチャーラボやフェロー室、そして3階にある知の森である。6階のデッキからは淀川流域の景観眺望が得られ、まさに10年、20年先のイノベーションテーマを引き出すにふさわしい建築空間である。実験棟は世界最高レベルの実験設備でイノベーションを具現化するために、社内だけではなく国内外の研究機関・企業と協創できる実験室を設置している。一階には10m電波暗室、5階には化学実験室も設置されていて、まさに「技術のダイキン」のコア拠点にふさわしい建築施設である。

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ダイキン工業について

ダイキン工業株式会社は1924年大阪で創業して以来、大阪市に本社を置き世界五大陸38か国に拠点を展開する空調機と化学製品の世界的メーカーである。1951年(昭和26年)日本初のエアコン開発に成功、ビルなどの業務用空調設備を特異とし、現在40%の圧倒的トップシェアを誇っている。同年に迫撃砲弾の生産も始めている。家庭用ルームエアコンではパナソニックについで2位、競合家電メーカーのように系列販売店を持たないが、大手家電量販店に積極的に販路を開拓し、「うるるとさらら」がヒットしたことが功を奏したものだ。1963年(昭和38年)商号を「大阪金属株式会社」から「ダイキン工業株式会社」に変更、1972年(昭和4年)「ダイキンヨーロッパ」設立、2008年(平成20年)には環境省からエコファースト企業として認定された。

ダイキンの現在を支える成長の三つの源泉は「人」・「環境」・「進取の精神」である。ここでグループの理念をあげておく。1.「次の欲しい」を先取りし、新たな価値を創造する。2.世界をリードする技術で、社会に貢献する。3.企業価値を高め、新たな夢を実現します。4.地球規模で考え行動する5・柔らかで活力に満ちたグループ6・環境社会をリードする7・社会との関係を見つめ、行動し、信頼される8・働くひとり一人の誇りと喜びがグループを動かす力9・世界に誇る「フラット&スピード」の人と組織の運営10・自由な雰囲気、野性味、ベストプラクティス、マイウェイ 以上である。

空調機事業では2010年に米国のキャリア社を抜き世界第一位となった。また化学製品でもデュポン社についで世界第二位である。そしてフィルターによる換気事業についても世界第一位である。ダイキンは約150か国で事業展開していて、海外売上比率は70%で従業員の80%が海外で働いている。現在2020年に向けて戦略経営計画「FUSION20」のもとグローバル社会の持続可能な発展のために新分野に取り組んでいる。

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ダイキン工業の創業者 山田晃氏のこと

山田晃は1924年(大正13年)、後にダイキン工業となる合資会社 大阪金属工業所を設立、初代社長を務めた。フロン冷凍機械技術とフッ素樹脂などを独自開発し後のダイキン工業の主力となるエアコン開発の礎を築いた。

生い立ちと経歴で創業者ともいえる松田晃氏の人物像を描いてみたい。1884年(明治17年)山口県厚狭郡船木村(現 宇部市)に厚狭毛利家の家臣であった松田隆三の二男として生まれるが、当時松田家は裕福ではなかった。尋常小学校高等科二年終了後、一時漢方医の書生となったが、小倉で紙箱製造販売をしていた兄の誘いで小倉に移る。二年間の受験勉強の後、福岡県立小倉工業学校・機械科に入学、当時クラスで最年長であったが翌年から特待生となった。技術者としての山田晃氏の誕生である。1907年(明治40年)卒業し、12月に山口歩兵第42連隊に志願兵で入営、その後少尉に任官後退役し、1909年(明治42年)大阪砲兵工廠に就職した。この頃の、エピソードがある。「陸軍では作戦遂行上装備の色を黒から褐色に変更したが、飯盒や水筒に塗布すると人体に有害であることが判明した。大阪砲兵工廠に無害な褐色塗料の開発が命じられたが工廠内の研究は難航していた。この問題を知った山田晃は、専門外の化学分野であったが、文献調査や道修町の薬問屋を回り褐色塗料の焼き付け塗装法やさらに漆と練り合わせる今混練機を考案し、人体に無害な褐色塗料を実現した。」1912年(大正元年)山田園冶の長女と結婚し山田性となる。その後、才能よりも学歴を重視する工廠の組織風土や過労による健康障害などで1919年(大正8年)8月大阪工廠を退職、退職にあたり工廠から神戸製鋼所門司工場の転職の斡旋を受ける。同年入社、山田晃は官棒工場に配属された。3年間の在職中に横型水圧機によるパイプの押し出しに成功している。1922年(大正11年9大阪砲兵工廠での上司であった松井栄三郎(当時東洋鑢伸銅取締役工務部長)の推薦により神戸製鋼所を円満退社し、東洋鑢伸銅に入社。同社は当時ヤスリと伸銅の二部門があり、山田氏は伸銅部門に配属された。ここで製造される型鍛造品は海軍の潜水艦の部品に採用された。山田氏は大阪砲兵工廠時代の人脈を生かして自身の信頼度を高めていったのだ。1923年(大正12年)中島飛行機製作所から「ニューポール」式飛行機の国産化に伴うエンジン冷却用ラジエーターチューブ製作の話が持ち込まれた。この時重役のほとんどが受注に反対したが、山田氏は強硬に受注を主張し、「欠損を出したら責任はすべて山田がとる。」との条件付きで受注した。難波新川に休業中の魔法瓶工場を借り、陸軍造兵廠工廠を退職した永田浅五郎を職長に迎えて受注した30万本を納期までに完納したが、製造コストが予定の2倍となり5000円もの大金を山田氏が負担した。1924年(大正13年)二回目の注文を機に独立を決意した。同年10月「合資会社大阪金属工業所」を設立した。山田氏39歳のときである。事業目的は飛行機部品で主として放熱管の製作販売、一般金属の圧搾および搾伸作業であった。川崎造船飛行機部からは「サルムソン飛行機」国産化のためのラジエーターチューブ、東洋紡績からは、糸を巻く木管に取り付けるリングを搾伸法を用いて量産した。これらが創業初期を支える商品となった。1928年(昭和3年)今宮工場操業開始、1929年(昭和4年 37ミリ速射砲の薬莢を受注、その後信管、弾丸も受注し工場の規模を拡大していった。

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フロン製造開発のことについて、1930年(昭和5年)米国GMはシクロジクルオロメタン(R−12)「フロン」には毒性、腐食性、引火性、爆発性がなく冷媒ガスとして優れていることを発表した。米国海軍はフロンを潜水艦の冷媒装置に採用した。この情報は日本海軍の少将で顧問の太田十三男から山田晃氏にもたらされた。この(情報を受けて1933年(昭和9年)今宮工場でフロンの研究が始められ、平行して冷凍機の開発も着手された。1934年(昭和9年)従来のメチルクロライド式の試作1号が完成し「ミジフレーター」の商標で市場へ送り出した。1936年(昭和11年)この「ミジフレーター」を南海電鉄の2001型電車に搭載し、日本初の冷房電車が実用化したことは、昨年のMCEI定例会で南海の和田氏のお話の中で出てきたことである。1935年(昭和10年)フロン合成に成功、1938年(昭和13年)にはフロン冷凍機が完成し、伊号171潜水艦に試験搭載し良好な結果を得たが、先発の米国GMがフロン関連の特許を所有していた。日米関係が悪化する中で、1941年(昭和16年)特許収用例を適用し、海軍艦政本部よりフロン生産命令が出され、1942年(昭和17年9大阪市西成で「大阪金属工業株式会社」を創立。代表取締役に山田晃氏が就任した。この時の資本金は25万円で同年7月に100万円に増資する際、住友伸銅鋼管(現新日鉄住友)が49万5000円出資して資本提携を結んだ。1935年(昭和16年)堺工場建設着手、1937年操業開始。1941年(昭和16年)神崎川が淀川から分流する「地」に淀川工場を航空機専門工場として開設した。山田晃氏は戦後、大阪金属工業の会長を務めた。山田氏自身は大阪砲兵工廠での修練が人間像を形作る基礎工事であった、と語っている。畑違いの科学分野に踏み込んだ飯盒の褐色塗料開発は後のフロン開発につながり、創業時に取り組んだベンチャーともいえる飛行機用ラジエーターチューブ製造やその後の注油器国産化で培った機械製作技術の融合が「ミフジレーター」から「ダイキンエアコン」へと発展する原動力となった。

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結びとして

ダイキン工業が目指すテクノロジーの未来に向けて、TICは淀川流域に舞い降りた。それ自体が「空間」・「環境」・「エネルギー」分野を調和させながら事業対象を拡大するための野心的な建築である。空間や空気環境では、空気の質に加えて、生体センシング生理学を絡めてストレスフリーな生活環境づくりを目指している。モノづくりとしての製造面では、ナノテクノロジー、表面改質や合成技術、先端機能材料などの融合で、素材から空調ハードなどを一段と進化させている。さらにAIやICT技術を空調技術と融合させ新たな価値やサービスの提供を実現させている。2017年にはエネルギー分野でマイクロ水力発電の新会社を設立している。これまで培ってきた空調の省エネ技術を生かして再生可能エネルギーによる創エネ事業への挑戦である。TICには700人の技術者が集っている。専門部分野の異なる技術者は日々侃侃諤々議論し、オープンイノベーションにより社外の知見を融合し、新しいモノづくり、コトづくり、生み出すべく日々切磋琢磨している。テクノロジーを駆使した人工物は経済活動の産物であり、経済成長の源である。日常生活は多くの人工物で溢れているが、技術革新と社会の文化的伝統は相互に影響しあし、それは軍事力を発展させる手段でもあるということはダイキン工業の歴史をたどってみても明らかなことである。しかしダイキン工業は、多様な自然と文化を抱く淀川の流域で先進的な建築と共に未来に向けての持続的なイノベーションを創出している。

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むすびの結びとして「公私一如」とは

創業者山田晃氏は自身が貧乏ゆえに上級学校の進学を断念したこともあり、昭和初年より返済不要の学士援助をはじめた。山田氏は「公私一如」という言葉を好んだ。山田氏にとっての公私は公を先に考え私は後からついてくるという精神だ「公は必ずしも国家に限らず、もっと広く解釈して、各人が所属する社会、地域,階層、会社、協会、組合などの利害を第一におもんばかることを公というと私は思っている。」「こうなると、会社は私のものであって実は私のものではない。社長である私を含めて、この会社で働いている全ての人達にとって、大坂金属という会社は一つの統合のシンボルである。」このシンボルを敬愛する精神が、創業者山田晃が求め続けた「公私一如」の精神であった。

はじめに

9月水口ゼミナールは元アシックス植月正章氏の特別講演に続き、アシックスの企業博物館である<アシックススポーツミュージアム>を訪問することになった。我が自叙伝ともいうべき植月氏の熱のこもった特別講演に続いて、鬼塚喜八郎のオニツカとアスリートの「熱」と「魂」がこもったアシックススポーツミュージアムの空間展示体験、そしてOBである端氏によるスポーツメーカーによるマーケティング戦略の話である。

スポーツの進化を知る体感ミュージアム

神戸三宮から北埠頭行きのポートライナーに乗って、「中埠頭駅」にあるアシックススポーツミュージアムを訪れた。アシックススポーツミュージアムは、アシックスの企業史を学ぶとともにスポーツの進化を学び体感することができる企業ミュージアムである。施設は二層の展示構造で構成されている。まず順路としては二階から始まる。フロアテーマは「ヒストリーフィールド」で創業から現在までを商品を通してアシックスの企業理念や歴史と活動を感じるフロアである。構成の詳細を説明すると、<シアタールーム>ではアシックスの歴史を紹介した映像が流れゆったりとした空間で理解することができる。内容は「響きあう心」「ものづくりの心」「世界のアシックスへ」である。<コーポレートヒストリー>の展示コーナーではアシックスの創業から現在までの歴史とその時代を象徴する商品を紹介している。アスリートヒストリーの展示は、アシックスを使用している選手のサイン入りシューズなどが選手のプロフィールと共に展示されていて、スポーツ好きの人にとってはテンションの上がる展示エリアである。<プロダクトヒストリー>の展示はアシックスの活動・サポートを、オフィシャル商品などを通じて紹介している、あわせてカテゴリー別のシューズの紹介も展示されている。「一階のフロアテーマは「アスリートフィールド」で、アスリートの素晴らしいパフォーマンスを体感し、競技シューズやウエアを見て、触って、感じることでその凄さを理解するフロアである。陸上・テニス・野球の三種目が躍動感あふれるトップアスリートのパフォーマンスを138インチの<スーパービジョン>で見ることができる。<バーチャルビジョン>の展示では光を使ってアスリートが実際に100mを駆け抜けるスピードや野球でピッチャーが投げる球の速さ、テニスの真剣勝負などが目の前で繰り広げられる、約10分間の体験展示である。<走・跳・投>の展示では実際に使用する陸上競技用具に人体シルエットを重ね合わせ、世界記録によるトップアスリートの超人的な凄さを展示表現している。ちなみにウサイン・ボルトが100m走で世界記録を出したときの一歩の歩幅は2.9mで、床にはその時の足跡がマーキングされていた。同様に三段跳びの足跡の歩幅も驚くべきながさであった。また陸上競技や種目の歴史と豆知識も合わせて解説されていた。<触>の展示コーナーでは、様々な競技種目のシューズやウエア、用具が展示されていて、実際に触れてみて知る展示コーナーである。その他一階では「クラフトルーム」が設置されていて、イベントでミニシューズがその場で製作することができる。

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企業博物館とは

ここで企業博物館について述べておきたい。企業博物館は企業の歴史や事業展開や企業遺産、企業の近代化のプロセスを展示する空間・場として設立される。日本は長い歴史を持つ企業が多いこともあり世界的に見ても多くの企業博物館が開設されている。現代日本には約500以上(2013年時点)の施設が確認されている。施設の目的としては宣伝活動という意図だけではなく、企業理念やアイデンティテイの表明、社会貢献活動あるいはCSR活動の一環として位置づけられるなど、いくつかの目的を持って設立される。このように企業コミュニケーション活動として位置づけられた企業博物館は1970年代から80年代にかけて多く設立されていった。設立の経緯や展示方法には違いがあっても、いずれの博物館も一般市民や従業員、取引先とのコミュニケーション手段として使われてきた。いわゆる「企業CI」(企業は何者であって、いかなる業績を残し、これからどのような方向に向かうのか)を示す空間・場といえる。1995年頃から日本においても企業博物館の研究が行われるようになった。ものづくり企業へのアンケート調査から<史料館、歴史館、技術館、啓蒙刊、産業化館>の5種類の分類やその運営実態による分類として、美術館系・博物館係・企業文化広報館系・文化ホール系という分類もある。2000年頃からは国立民族学博物館関係の研究者による新たな視点からの提唱として「企業博物館は神聖化装置」といったユニークな主張もある。日本の企業博物館は日本企業に浸透している日本の文化的特徴の表出と解釈した考察である。一方海外のでは「博物館のような展示手法を通して、従業員や顧客、一般大衆に対して、企業の歴史や業務、関心事を伝えるための企業施設」といった定義があり、また組織論や心理学、歴史学、博物館学、社会学での記憶に関するレビューから組織記憶として機能する企業博物館という考察・研究もみられる。いずれにしても企業のコミュニケーションの大きな役割を担うのが企業博物館である。

語っていただいた、アシックスOB端氏の思い。

さて今回のゼミに戻りたい。施設見学後は先の植月氏の講演を受けて、OB端氏によるアシックスのマーケティング活動の歩みについてお話いただいた。

アシックスの創業理念は1945年創業者 鬼塚喜八郎が目撃した敗戦後の神戸で目撃した騒然とした光景である。「なんということだ。戦死した戦友たちは何のために死んでいったのか、平和な日本をつくるために、子供たちを守るために、死んでいったはずなのに、なんて有様だ。」日本の未来を担っていく日本の青年のために一生を尽くすこと。これが鬼塚喜八郎の「熱」の原点である。創業者の理念としてのスポーツマン精神五カ条はここから生み出された。 一、スポーツマンは礼儀を重んずる 一、スポーツマンはルールを厳守する 一、スポーツマンは闘えばベストを尽くす 一、スポーツマンはチームワークに徹する 一、スポーツマンは目標を求め絶えず鍛錬に励む <鬼塚喜八郎>

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創業からのマーケティング戦略は一点集中作戦(キリモミ作戦)で弱者の戦略ともいわれる。トップ戦略とシャワー効果によりマスメディアの露出を高め、製品の優秀性の訴求である。製品開発は現場のトップ選手から要望や意見を聞き改良を継続実現していった。全国の名だたる競技大会はくまなく営業をかけ、知名度を上げていった。アシックス時代になってからもこの創業理念、営業哲学をビジョンとしてかかげ、「スポーツで培った知的技術により、質の高いライフスタイルを創造する」そのためにアシックスブランドの構築と多ブランド戦略の見直しを進めていった。人材育成としては、マーケティングマインドの醸成とマーケッティング塾の開催を続けた。この頃MCEI創設理事の水口氏との出会いがあったのだ。

創業以来引き継ぐモノづくり

お客様起点であるがあくまでスポーツの現場で、アスリート自身からの意見・要望に耳を傾けることと競技の現場からの気づきである。「七転び八起き」、「失敗を恐れない」も鬼塚喜八郎から学んだことである。次にあげるのは、端氏が語る商品開発の五原則と附則である。 スポーツ文化貢献の原則 独走探究の原則 機能優位性の原則 粦接点価値の原則 客観的検証の原則 附則 マーケティングセオリーの原則 プロセス踏襲の原則 商品鮮度管理の原則

客観的検証の十カ条 1.ターゲットは明確であるか 2.ターゲットのニーズを十分満たしているか 3.ターゲットへの訴求ポイントは明確化 4.独自技術に新規性、優位性はあるか5.商品品質は十分保持されているか 6.販売価格はユーザーに受容されるか 7.商品には店頭での視覚価値が備わっているか 8.卸店、販売店様のニーズを満たしているか 9.市場規模に魅力はあるか 10.市場の成長性は高いか  以上がお話の骨子で、熱く語っていただいた。

創業69年、アシックスのブランド戦略

現在アシックスは2020年に向けて中期経営計画「ASICS Growth Plan(AGP)2020」を推進している。アシックスはアシックスブランドで競技用シューズやスニカー、アスレッチクウェアなどを製造販売する。とりわけマラソン競技、バレーボールなどで高いブランド力を持つ、現在国内では同業界内で売上高一位を誇る。海外売上高は年々拡大して2015年には海外売上比率76%を達成し、グローバル企業としての知名度は高い。企業価値にして40億米ドルを超えるアシックスは、一貫したマーケティング戦略を持たずに来た企業としては、驚くべきスケールである。2020年東京オリンピック・パラリンピック大会のゴールドパートナーとなったアシックスは、現在ブランドの再構築という変革の真只中に在る。その切り札役を担うのがポール・マイルズ氏である。日産自動車では、アジア太平洋地域のマーケティングと広報を担当し、現在はアシックス初となるグローバルブランドマーケティング担当統括部長として「陣頭指揮をとる。日産以前はフランスでユニクロを立ち上げるなど国際経験豊富である。マイルズ氏が現在取り組んでいることが、「オニツカタイガー」と再スタートを切ったサブブランド「アシックスタイガー」のマーケティングで、これによってマーケティングに一貫性を持たせることが彼の重要なテーマだ。日本企業のブランドをよりグローバルな存在にするお手伝いがしたい。日本人とアメリカ人の血が半分ずつ流れるマイルズ氏は「熱」を持って語る。一方世界的にEコマースへの移行が進む中で、顧客との接点であった大手お小売店の淘汰が加速する中で、アシックスはロンドン・東京・ニューヨークといった世界の中心都市で旗艦店をオープンするとともに、自社のEコマースの拡充を進めている、いわば顧客接点の再構築である。顧客の思考もスポーツを様々なイベントと組み合わせて楽しむ傾向が強まっている。そのためにシューズの開発拠点を最先端のトレンド情報が集まる米国ボストンに設立し、開発体制の再編を実施した。この新しい体制で、ライフスタイルに融合したデザイン性と機能性を兼ね備えた新製品を生み出している。また顧客との情緒的なつながりを築くために、2017年8月より新ブランドメッセージ「I MOVE」(私を動かせ)によるキャンペーンをスタートさせている。アシックスは鬼塚喜八郎が創ったオニツカタイガーから、そしてその「熱」の居場所からずいぶん遠いところを歩み始めているのだ。

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オニツカタイガーとナイキの関係

先のゼミで<余話>としてしか触れられなかったが、ナイキとオニツカタイガーの知られざる関係について述べておきたい。ブランドには幾つかの秘められたストーリーがある。これは「ナイキとオニツカタイガーの知られざる因縁」についての物語である。

ナイキ創業者のフィル・ナイト氏は、オレゴン大学時代に陸上選手として活躍していた。後になってスポーツ界をある意味牛耳る男は根っからアスリートだったのだ。その後陸軍を経て退役した後名門スタンフォード大学ビジネススクールに進学して、自分が精通するスポーツ界でのビジネスプランを練るという課題において「日本のスポーツシューズは、カメラ分野と同じくドイツ勢に迫り勝てるのか?」というテーマで論文を書いた事が後に知られている。この時からナイトは日本の技術力の高さや製造コストの低さに注目し、日本のスポーツシューズが世界に通用すると信じていたのだ。大学院を修了したナイトは父親から借金をして世界を巡るバックパッカーの旅に出た。鬼塚喜八郎とナイトが出会うのは1962年11月その旅で神戸に立ち寄った時である。オニツカタイガーの低価格で高性能のシューズに感激していたナイトは、鬼塚喜八郎に面会し、米国西海岸での販売代理店契約をその場で決定した。旅の途中で「日本人と仕事をする方法」という本を丸暗記したナイトは、オニツカ本社で「アメリカのランニングシューズ市場は10億ドル規模になる」「自分はオレゴンにあるブルーリボンスポーツの代表だ。」とハッタリをかましたのだ!「ブルーリボン」は陸上競技で好成績を収めた選手に贈られる賞状のことだ。ちょうど米国進出を計画していたオニツカは信用して契約を結んだのだ。その後ナイトは公認会計士の資格を取り、プライスウォーターハウスで働きながらブルーリボン社を経営することになる。オニツカのランニングシューズは米国でも好評となった。当時世界のランニングシューズ市場はドイツのアディダスが圧倒的シエアを持っていたが、オニツカはアディダスに引けを取らない人気を獲得した。

鬼塚喜八郎はのちに語っている。「裸一貫で事業を始めたいという彼の心意気に、創業当時リュックをかついで全国を歩いて営業した自分の姿が重なり、この若者に思い切って販売代理店をやらせてみることにした。」(日経新聞「私の履歴書」より)当時、鬼塚44歳ナイト24歳であった。海外進出という合理的な理由よりも「勢いのある若者の可能異性を信じたい」という心意気で決断したのだ。それは「情熱」だった。いや単なる「熱」といってもいい。これは、現在もっとも忘れられているコトなのだと思う。BRS社と販売会社設立の計画を進めていたところ、日本の商社の勧誘で他のメーカーからの仕入れに切り替えてしまった。「驚いた私はすぐに別の販売店と契約したが、日本の商習慣になじまないこのドライな行動に裏切られた気がしたものだ。」(日経新聞「私の履歴書」より)まずいことにBRS社が使っていたニックネームを引き続き使用していたため、その使用権の帰属をめぐって両社は対立し、訴訟を起こされた。結局オニツカは、和解金一億数千万円を払うことになる。海外展開をするうえでの良い経験とはいえ、高い授業料となった。その後ナイトはパートナーを日本ゴム(現アサヒシューズ)に変え、自社ブランドのシューズ生産に乗り出した。この時事業資金を提供したのが日商岩井(現双日)ポートランド支店にいた営業担当の皇(すめらぎ)孝之だった。1970年ナイト32歳の時である。これが後に急成長したナイキとオニツカ(後のアシックス)の関係した「話」である。今や世界NO1スポーツブランドとして君臨するナイキと、アディダスに次ぐ世界NO3の座を狙えるまでのポジションにいるアシックスであるが、アディダスやプーマといったドイツの牙城を崩した両ブランドの創業者がその事業の黎明期に出会い、一時代を築き上げてきたという事実は興味がつきない。

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アシックスブランドと企業博物館の未来は(むすびにとして)

アシックスは日本の製造業の歴史や技術の上に成り立つ優れた企業でありながら、この業界で「揺るぎない第三位」のポジションではない。言いかえれば、まだ挑戦者の立場に在るブランドなのだ。アシックスにとっての喫緊の課題は至ってシンプルなのでは、それはスポーツアパレル業界の世界市場を独占するナイキとアディダスに続く、世界三番目の地位を確立することである。これは簡単なことではないが、適切な戦略を練れば決して不可能ではない目標である。皮肉にも、もともとナイキはオニツカタイガーが米国に進出した時の販売代理店であった。ことは、先にのべたところである。「日本のカメラがドイツのカメラを打ち負かせるのなら、日本のアスレチックシューズだって、ドイツのアディダスやプーマを打ち負かせるはずだ」というナイトの卒業論文での仮設提示は一部が正しく、一部は間違っていた。アディダスの牙城を崩したのはオニツカだったが、世界市場を席巻したのは米国ブランドのナイキである。アシックスの売上高は4000億円でナイキの3兆7700億円(343億米ドル)とは一桁違う。靴作りをオニツカから学んだナイトは、その後足を止めずに突き進みナイキという世界ブランドを築きあげた。オニツカは良い靴を作ることに専念しすぎたのか?しかしオニツカに飛び込みで訪問したときのナイトは「大学を出たばかりの私には、人生で何をしたいのか、まだはっきりしなかった。でもアスレチックシューズを売ってまともな暮らしができるなら、それが理想だと確信していた。だからそのビジネスを、自分や家族を支えられるところまで発展させたかったんだ。」フィル・ナイト

ナイキの起業の原動力はとても純粋なもので「熱」といってもいいものであった。アシックスも次のスッテプに向けて新しいマーケティング戦略を展開しているが、この局面だからこそ、マーケティング理論だけではなく、オニツカ伝統の「熱」というものを伝え続けてほしいものだ。歴史と伝統を誇るアシックスだが現在多くの日本人ですらいまだ日本発のブランドであることを知らず、あいまいに「国際ブランド」として認識しているのが実情である。だからこそ、日本に深く根付いた伝統的要素を伝えきれていない側面は否めない。今まで述べてきたように歴史に裏打ちされた優れた企業ブランドを次のステップに押し上げるために、アシックスのスポーツミュージアムの事例に限らず「企業博物館」は今後重要な位置を担っていくと思う。

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9月定例会は、立命館大学大学院経営管理研究科のご厚意で、大阪いばらきキャンパスでの共同開催となった。今月はご自身も立命館大学マネジメントプログラムでNBAを取得され2010年に卒業された「京山城屋」でおなじみの真田千奈美氏の講演である。テーマは「乾物の未来を拓く」~「きづく」ことからのイノベーションである。

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真田家と山城屋とは

乾物と向き合って百有余年。素材、産地、旬にこだわり続ける。創業は明治37年(1904年)四国の香川にて米問屋から転じて煮干し専門問屋「通町山城屋」として開業した。初代真田サダの経営理念は「商いの元は生産者に有り」である。当時煮干しを届けてくれる生産者である漁師を御殿にて上等な夜具で泊め、御馳走で接待したことから評判を呼び、瀬戸内海の煮干しが大量に山城屋に集まり財をなすことになった。真田家は大永元年(1500年初頭)に甲斐の国より讃岐の高松へ移り住み、江戸時代は米問屋を営んで来たわけだが、煮干し問屋に転じるという山人が海人へ変わる人と社会の流転するおかしみを感じる逸話である。

その後、昭和20年(1945年)7月4日の米軍の空襲により、高松市は市街地の80%を被災し、真田家も全戸消失し商売を中止したが、商売の継続をあきらめなかった。昭和21年(1946年)有限会社真田商店として乾物屋を再開した。香川県から30人の嫁候補の中から選ばれ、真田家に嫁いだ真田悦子の代である。二代目真田悦子は四国初出店のスーパーマーケット「主婦の店」の開店を目の当りにして、スーパーマーケットという新しい店舗形態に心動かされ吉田日出男に教え仰いだ。

余話として:「二代目真田悦子に影響を与えた吉田日出男のことに述べておきたい。日本のスーパーマーケットの西の端緒(東は紀伊国屋)である丸和フードセンター(現北九州市小倉北区丸和)の社長であった吉田日出男は、中小小売商の生協対策として1957年3月23日に設立したボラタリーチェーンで、「主婦の店運動」と銘打って全国を飛び回り提携を呼びかけた。この運動の中でレジスターが導入され、セルフサービスを採用したスーパーマーケットが全国に展開された。シンボルマークとしては風車が採用されていた。この主婦の店全国チェーンはテレビCMやプライベートブランドの展開などのスケールメリットを出すための施作に欠けていたため、徐々にダイエーやジャスコの様に独自で全国展開を図る企業やニチリウグループやCGCグループ、オール日本スーパーマーケット協会にも同時に加盟し地方展開を図る企業、先の大手流通企業の傘下に入る企業が増加したことと、出店エリア協定が無く、加盟店同士の出店競争が激化し自己矛盾の中で終焉をむかえた。主婦の店全国チェーンは1998年7月に解散した。四国では解散後も主婦の店鳴門東浜店が店舗ブランドを継続して使用している。」

当時大阪では毎月一店舗のペースでスーパーマーケットが開店していた。昭和33年(1958年)11月30日真田屋は四国より大阪に進出し、スーパー専門問屋となり20年後には30億円の売上高となった。昭和40年(1965年)大阪府守口市へ移転した、まさに京都の入口に拠点を構えたわけである。時代は本格的なスーパーマーケットの時代を向かえ、二代目真田悦子は店舗を訪れるお客様が喜ぶ乾物とは何かを突き詰め続けた。これが現在の産地と旬にこだわった山城屋ブランドの原点である。

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カンブツ(乾物・干物)そして保存食について。

こだわりの乾物を販売する京山城屋を理解するために、日本の食文化の基底を成すカンブツ(乾物・干物)から保存食までをくくって述べてみたい。

水分を抜いて乾燥させた食べ物「カンブツ」には、「乾物」と「干物」の二種類の文字が宛てられる。

「干物」の方は、「ひもの」と呼ばれ、魚介類を干したものである。カンブツ(乾物・干物)の「乾」は訓読みすると「かわかす」で、「干」は「ほす」で、どちらも素材から水分を取り除くということでは変わりはないが、一般的には、野菜や海草などの植物性食品を乾燥させたもので、このとき素材の水分を完全に抜いて常温保存できるものを「乾物」と呼び、魚介類を素材の味を引き出すために適度に水分を抜いて乾燥させたものを「干物」と呼んで区別している。

日本の乾物の歴史は古く万葉集にも登場する、源流をたどれば、縄文時代の人々が食べていた木の実かもしれない。もともと乾物なので放っておいても長く持つ、特に獲物や植物が採取できない冬季には貴重な食物となった。ただし木の実はアクが多いものがあり、アク抜きのため水で晒し粉状のでんぷんとして保存した、多くのアクが水溶性であることを経験上知っていたのだ。縄文時代は食料資源の範囲が狭かったので、食べられる状態にする工夫が発達したのだ。クルミやクリのようにそのまま食べられるものものよりトチの実のように何らかの知恵が必要なものが多かったのだ。こうした調理・保存法が縄文時代から現在に受け継がれる食文化の知恵なのだ。乾燥させればそのまま食べられるものに昆布やわかめなどの海藻類があり、平安時代の市場では今より多種類の海藻の乾物が売られていた。しかし、日本は高温多湿の国である。この湿度の高い環境で水分を抜くには工夫が必要である。例えば三代目が推奨する切干大根やかんぴょうの様に薄く細かく切る。古くは神饌として用いられた熨斗鮑も鮑をりんごの皮の様に細長く紐状にむいて乾燥させたものである。熨斗鮑のように、保存食は神に供えるささげものや縁起物として婚礼や祭礼の時に行事食としても重要な役割を果たしてきた。その他加熱してから乾燥させるアユの焼き干しや地域によっては凍結して乾燥させる凍み豆腐(高野豆腐)やジャガイモを凍らせて乾燥させた凍み芋や乾燥と並んで多くみられる保存方法は塩蔵と発酵で漬物やなれずしなどが上げられる。また何日もかけて徒歩で旅していた時代は携行食として用いた「干し飯」・「焼き米」なども保存食のひとつである。このように旬の時期にその食物の一番栄養価の高くて美味しいタイミングを逃さず、無駄にすることなく(例えば魚の骨や内臓・果実の皮など)保存しようという先人の知恵から生まれたものである。

かかる意味では乾物(カンブツ)は間違いなく保存食品の一つである。保存食の多くは、気候・風土との関係で冬季や乾期など、長期にわたり食品の確保に困難を抱える地方や遠洋航海や戦争などの食料の確保や輸送、あるいは貯蔵・調理に大きな制約を受ける状況下、もちろん最近の激甚な災害も含めて現代社会にとっても欠かすことのできない生活の知恵である。

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こだわりの乾物を販売するということ

三代目真田千奈美もまた香川県出身で実家は商売をしていた。1982年(昭和56年)山城屋ブランドで乾物を発売した。食品問屋から乾物メーカー「山城屋」への転身である。30億円の売り上げ規模から6億円規模のメーカーへの転身はまさにブランドの命懸けの跳躍である。スーパーマーケット専門の乾物問屋のときは競合他社の参入による激しい価格競争に巻き込まれ売上が毎年5%減じていく状況であった。私達の使命は「乾物を通じて、生産者とお客様の心をつなぐ結び目になること」と三代目千奈美氏は語る。これまでも、これからも「生産者の方々の熱意」と「料理をこしらえる人愛情」を大切につないでいくことを使命と考えている。およそ30年前スーパーマーケットが本格化する中で、お客様が喜ぶ乾物とは何かを追求し続けた結果、「産地と旬」にこだわった山城屋の乾物が生まれたのだ。2004年(平成15年)9月29日の山城屋百周年のとき、京都東山八坂の塔の地で京山城屋を開業した。三代目千奈美氏による本格的なブランディングがスタートした。以来日本各地の生産地に直接足を運び、生産者の方々の熱意に実際に触れながら、本当に良い食材だけを厳選したお客様に届けてきた。常に今の時代が求めることを取り入れた商品開発とは、その問いかけの中でお客様相談室の開設や、京都八坂本店での料理教室が開かれ、この料理の現場から寄せられる声にも耳を傾け続けている。大胆な組織改革として大阪支店と東京支店を京都に統合し、商品アイテムを500から300に削減した。商品製造の内省化と合理化の実行だ。乾物をオイシックスのサイトに入れてもらい売上は右肩上がりだ、本当に美味しいものを、チャネルを変えて導入していく。「思ったら行動が成功につながる。何もしなければ何もない。」30年後、100年後の「食にまつわる感動」をお手伝いできることを目指して!

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ロジスティック曲線とドラッカーの時代と思想

気候の変化で食材の収穫が減少する、この大きな気象変動は就農農家を減らしていく。この現実の中で、乾物もその種類を減らしていくことは宿命である。しかし残るものは残る、20人の正社員と共に育んでいく。三代目真田千奈美の取り組みである。この現実の構造を直視するとともに、三代目が影響を受けたドラッカーについて述べておく。

ロジスティック曲線というS字型の曲線とこれを導く方程式は1837年にベルギー人フェルフルフトがマルサスの人口論を批判するものとして、人間の人口理論として提案された。1919年アメリカ人パールによる再発見以降、一定の環境条件下での生物種の消長を示す理論式として広く知られるようになった。S字型を描くのは成功した生物種であり、ある種の生物種は繁栄の頂点の後、滅亡に至る。これを修正ロジスティック曲線と呼ぶ生物学者もいる。再生不可能な環境資源を過剰に消費してしまったおろかな生物種である。哺乳類などの大型動物はもっと複雑な経緯を辿るが基本原則を逃れることはできない。地球という有限な閉域の環境下にある人間という生物種も同じである。これは比喩ではなく現実の構造である。しかし人間についての適用は成立しても、長期的には検証されなかった。人間の地域や国家を範囲とすると人口の流出入は考慮できても、貿易による必要な環境資源の輸出入があり、有害廃棄物の域外や海洋、大気中への排出も可能であるからだ。人間にとってロジスティックス曲線が現実に成立するのは、20世紀末にグローバリゼーションが地球全域に現実に有限性なる「閉域」として立ち上がった後である。グローバリゼーションこそ人間のロジスティックス曲線貫徹の前提なのだ。

1970年代までの人々の歴史感覚は、歴史というものは「加速度的に進歩し発展する」という感覚であった。それはエネルギー消費量の加速度的な増大というデータの根拠によるものであった。しかし冷静に考えてみるとこのような加速度的な進展が、永久に続くものではないということは明らかである。1970年代ローマクラブの「成長の限界」以来多くの推計が示している通り、人類はいくつもの基本的な環境資源を今世紀前半の内につかい果たそうとしている。1960年代は「人口爆発」が主要な問題であった。しかし、前世期末には反転して西側先進国で「少子化」が深刻な問題となっている。「南の国々」を含む地球全体としては人口爆発が止まらないというイメージであるが、じつは地球全体の人口増加率は1970年を先鋭な折り返し点として、以降は急速にかつ一貫して増加率を低下させている。人類は理論よりも早く生命曲線の変曲点を通過しつつあるのだ。「近代」という壮大な人類の人口爆発器は「現代」という未来への安定平衡に至る変曲ゾーンに居るということだ。

そしてビジネススクール時代の真田千奈美氏に影響を与えた、ピーター・F・ドラッカーは1909年11月19日、オーストリア・ウイーンに生まれのユダヤ系オーストリア人経営学者で、「マネジメント」の発明者である。未来学者と呼ばれたこともあったが、自らは「社会生態学者」と名乗った。父アドルフはウィーン大学教授で裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭であった。1931年フランクフルト大学で法学博士号を取得、このころ国家社会主義ドイツ労働党のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッペルスからたびたびインタビューを許可された。しかしユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興に直面し、古い19世紀的ヨーロッパ社会の原理崩壊を目の当たりにし、身の危険を悟りイギリスを経て1939年アメリカに家族と共に逃れた。そこで目にしたのは20世紀の新しい社会原理として登場した組織と巨大企業であった。彼はその社会的使命を解明すべくゼネラルモータースから研究の許可を得、1946年政治学者の立場で「会社の概念」を書き上げた。その中で「分権化」など多くのコンセプトを考案した、その後興味の関心は企業にとどまらず社会一般に及んだ。「民営化」はサッチャーや国鉄の民営化に影響を与え、「知識労働者」も彼の造語である。特に非営利企業の経営にはエネルギーを費やし、1990年「非営利組織の経営」を著している。またティラーの「科学的管理法」やマズローの「欲求めの5段解説」にも多大な影響を与えた。彼の最も基本的な関心は「人を幸福にすること」にあった。そのために個人としての人間と社会(組織)の中の人間のどちらかからアプローチする必要があった。彼は多くの著書を後者でアプローチした。「マネジメント」の中では、古い全体主義的な組織の手法を改め、自律した組織運営を述べている。その前書きで、「成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」と述べている。ドラッカーの思想は、個人のプロフェッショナル成長の分野にも及ぶ。知識労働者が二十一世紀のビジネス環境で生き残り、成功するためには「自己の長所(強み)」や「自分がいつ変化すべきか」を知ること、そして「自分が成長できない環境から迅速に抜け出すこと」を勧めている。

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1968年断絶の時代「いま起こっていることの本質」

ドラッカーの著書「断絶の時代」は、1968年アメリカで大ベストセラーとなった。この当時の思潮や時代感覚を理解するための概念として的を得たこの本を、私は父の書棚に見つけ興味を惹かれたことを、50年たった今でも鮮明な記憶として残っている。ベトナム戦争や学生運動、公民権運動といった政治的な動向はいっさい無視しているにもかかわらず、真実は隠れたところに在るという信念が行間にあふれる、極めて60年代的な書物である。「断絶」と「変革」の違いとは何か!「変革」とは例えれば地震や火山の噴火であって、それは地殻変動によってもたらされるもので、この目に見えない事象がドラッカーの説く「断絶」である。ドラッカーは第二次世界大戦が新しい時代の始まりで一つの時代の終わりであったことを示し、マーガレット・サッチャーが推進した政府現業部門の民営化構想も本書で示されたものである。「断絶」を「不連続」と読み替えても良いが、ドラッカーは4つの分野の「断絶」を明らかにした。

新技術・新産業の出現。従来とは異種の知識技術が生み出す新産業が出現する。グローバル化と南北問題の顕在化。グローバル経済の出現で世界は地球規模のショッピングセンターとなる。政治と社会の多元化が組織を巨大化させ互いに依存しあう「組織社会」の出現知識社会の出現と社会的責任意識の高まり。知識が経済の基盤となり、知識の生産性が競争力の源泉となる。

最後にドラッカーを認める陽明学者・思想家 安岡正篤 <1898年(明治31年)2月生まれ、1904年(明治37年)山城屋創業の年、大阪市芝尋常小学校に入学し四書「大学」の素読を始める。>の言葉で終わりたい。

人間が親子・老少、先輩・後輩の連続、統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるか。国家や民族の進歩、発展も無くなってしまいます。「老」+「子」=「孝」ということだ、真田家は三代続いて四代目へと受け継がれていく。

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今回お世話になった立命館大学ビジネススクールの肥塚 浩先生の言葉

地球には今70億を超える人々が生活しています。人々をつなぐ様々なネットワークは著しい発展を遂げ、グローバル化が進展しています。しかし、同時に多くの亀裂と分断が見られ、グローバル化は岐路に立たされています。

この岐路を超えるための、一つの答えは今回の山城屋の足跡なのかもしれない。

はじめに 

記録的な猛暑が続く8月の「テーマは、これから起こる出来事を捉える」だ。7月は西日本で岡山県、広島県、愛媛県の広範囲にわたる大規模な水害が起きた。冒頭にいくつかの文章をあげておきたい。

「山は川の流れによって作られる。山は川の流れによって壊される。」

「水は山をかいて谷をみたし、できれば地球を完全な球形に復原しようと欲しているのかもしれぬ」

「海底の浅いところは永久であるが、山々の峰は反対だ。さいごに大地は丸くなり、すっかり水に覆われて棲息不可能になるだろう。」<レオナルド・ダ・ヴィンチ「手記」岩波文庫 杉浦明平訳>

この最後の句でレオナルドは陸が海面すれすれまで浸食され、その浸食作用で陸が海面すれすれまで低下することを考えていたらしい。驚くべき洞察力である。

19世紀後半から20世紀初頭に日本紹介書として知られたB.H.チェンバレンの「日本事物誌」によると。「国土狭小なために、たいていの日本の河川は川(リヴァー)というよりも急流(トレンツ)である。」<高梨健吉訳 東洋文庫>。また河川技術者としてオランダから招かれていたJ.デレーケは、明治24年7月の成願寺川(富山県)の大洪水をみて、「これは川ではない、滝だ」といった。

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前置きが長くなってしまった。今月のテーマにもどりたい。今月はMCEI大阪の会員でもある、日本気象協会 関西支社 副支社長 藏田 英之氏の登壇である。
日本気象協会は、1950年財団法人として設立されて以来気象・防災・環境に関する情報コンサルタント企業として60年以上の歴史を刻んできた。近年極端気象による気象災害の激甚化や地球温暖化、人工・食料・エネルギー問題など私達を取り巻く世界に状況が急速に変化してきている中で、気象・地象・水象に関する科学・技術の進歩とその普及を使命とする協会の果たすべき役割は年々大きくなってきている。協会は企業・団体への「プロフェッショナルパートナー」として、個人の顧客へは「お天気コンシェルジュ」として最適な解決策やサービスの提供を提供することにより、持続可能で活力があり、安心で安全な「自然界と調和した社会の創生」(Hamonability)を目指している。

ここで「気象」についての意味を確認しておきたい。「気象」は、気温・気圧などの大気の状態のことで、日本語の「気象」が一般的に大気現象の意味で用いられるようになったのは、明治初期である。1873年(明治6年)Meteorogyを気象学と訳したのが初期の用例で、1875年(明治8年)6月に東京気象台(現在の気象庁)が設立され、行政機関の名称として初めて用いられた。「気象」にもどると、大気の状態でその結果現れる雨などの現象のことである。小さなつむじ風から地球規模のジェット気流まで大小様々な大きさや出現時間の現象のことである。ただし同じ大気中の物理現象であっても、地理的な観点から、「ある土地固有の気象現象」としてとらえた場合は「天候」「気候」と呼び別の意味を持つ。気候はおおよそ一年周期で毎年繰り返す、大気の総合的な状態である。

気候を変化させる要因

地球規模の気候を決める要因には、気候システムに内在するものと、システム外からの影響による外部強制力がある。気候システム内では、大気や海洋が物理法則にしたがって相互作用している。例えば大気と海洋の相互作用によって起こるエルニーニョ・南方振動は、気候システムに内在した変動である。一方、地球の軌道要素の変化により、氷期と間氷期の10万年周期の変化、および亜氷期と亜間氷期の4~2万年周期の変化などは外部強制力である。また小氷期は、火山噴火によるエアロゾル(火山灰)の増加、海塩粒子、土壌性エアロゾル(ダスト)の発生などが要因と考えられ、自然要因による外部強制力といえる。また温室効果ガスや大気汚染物質の排出、森林の伐採や土地利用の変化など、人間活動に由来する外部強制力もある。さらに気候を変化させる要因を考えるにあったて、フィードバック機構がある。これはある要因が気候を変化させ、その変化が要因の影響を増幅する場合、気候には正のフィードバックを起こす機構が備わっていると考える。逆に減衰する場合は負のフィードバックが備わっていることになる。仮に地球温暖化が進んでも、正のフィードバックが暴走する可能性は低いものと考えられている。正のフィードバックとしては氷や雪が融解するとアルベド(日光の反射率)が低い地面や海面が露出し温度が上昇する、アルベド・フィードバックがある。近年の北極海の海氷の融解などがあげられる。また気温上昇により永久凍土が解けるとメタン(二酸化炭素の20倍の温室効果)が放出されることも正のフィードバックであるがこの論はまだまだ不確実性が大きい。負のフィードバック効果の一つとしては、大気からの二酸化炭素を吸収する地表や海洋や生物圏などの自然の貯蔵庫<二酸化炭素シンク>の存在があげられる。

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氷期と間氷期と日本列島への影響

氷河期(ice age)は地球の気温が寒冷化し、地表と大気の温度が長期にわたって低下する期間で、極地の大陸氷床や高山域の氷河群が存在し拡大する時代である。この長期におよぶ時代の中で、律動する個々の寒冷な気候の期間を氷期と呼び、氷期と氷期の間の断続的な温暖期を間氷期と呼んでいる。現在の完新世−間氷期は約1万2千年前に更新世最後の氷期が終わりを迎えるとともに始まった。まさに我々は氷河時代の間氷期―完新世の只中にいることになる。最終氷期はヴェルム氷期と呼ばれ、およそ7万年前から1万2千年前までの時期で、250万年間続く更新世に属する。およそ1万2千年前から現代までは、地質年代でいう完新世(沖積世)になる。最終氷期といっても実際は短い周期で気候は激しく変動していたことが、最近の氷床コアの研究で明らかになってきた。

再寒冷期が続いたのは2000年ほどの短い期間であった。この時期ヨーロッパ北部と北米大陸北部が氷床に覆われていた。氷期末の亜間氷期(ベーリング/アレード期)には「寒の戻り」と言われ、氷床は前進し、動植物の活動は後退した。この後亜氷期(ヤンガードリアス期)の終わりが最終氷期の終わりであり、「更新世」の終わりで、いよいよ現在まで続く「完新世」の始まりとなる。先の時代との違いは、変動が比較的安定していることである。現在は氷床が南極とグリーンランドまで後退している「間氷期」である。日本への影響は、氷期が海面低下期で間氷期が海面上昇期なので、氷期の日本は今より海面が100mほど低く、間氷期には逆に100mほど高かった。日本のように島国で海岸線の地形では、海面変化の影響は甚大であった。面積でみると現在37万平方キロメートルの日本の面積は20万平方キロメートルも面積が拡大し、大陸と地続きとなっていた。海水表面温度もって低下し中緯度で摂氏5度低く、南西諸島のサンゴ礁は無かったと考えられる。このように第四期の氷期と間氷期の気候変化は、降雨と降雪の変化とともに日本の地形の細部を作り上げたといえる。

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第四期地殻変動による日本列島の形成

日本は地震国・火山国として知られている。またここには地殻変動によって形成された複雑な地質構造や凹凸の激しい地形が在る。日本は新生代のある時期から現在に至るまで一つの「変動体」といえる。日本の現在の島弧<千島島弧、日本弧、琉球弧>の形成の始まりは、第三期の中頃で、約2600万年前というのが通説である。

第四期というのは、第三期に続く地質時代で、約二百万年前から現在までの期間である。この時代は、気候の変化とそれに伴う氷河の消長、さらに氷河の消長に由来する海面変化によって特徴づけられ、また「人類の時代」、としても知られている。この200万年ぐらいがまた、現在見られる日本の山脈と盆地が地殻変動によって形成され、山脈は成長とともに浸食を受け、盆地は沈降とともに、周辺山地からもたらされた土砂の堆積によって平野を形成してきた、という時代でもある。さらに火山や土壌もこの時代の産物である。この期間に、日本の陸地でもっとも隆起量が大きかったところは飛騨山脈で、1500mを超え、最も沈降量が大きかった所は関東平野で、1000m以上に及んでいる。この隆起と沈降の量は驚くことに、アルプスやロッキーの第四期隆起量よりも大きかった。これはアルプスやロッキーの第四期隆起量を知っている、欧米の研究者を驚かすほど大きい変動量である。日本の第四期の隆起量は現在の山地高度が大きいほど大きく、小さいほど小さく、この変動はそのまま現在の山地の輪郭となって表れている。つまり日本の山地や盆地のおおよその形(フォルム)は、主に第四期の地殻変動によって作られたということだ。そしてこの変動は似たような傾向として現在でも続いていることが、水準測量でも知られている。

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人類活動に起因する気候変動要因と「人新世」とは

われわれは地質年代でいうと「新人世」に入ろうとしている、いやすでに入っていると言える。

1990年IPCC(国連気候変動に関する政府間パネル)報告によると、過去1000年の間に広範囲にわたる二つの出来事があった。気温が比較的温暖であった中世温暖期と寒冷だった小氷期と呼ばれる出来事である。中世(10世紀〜14世紀)グリーンランドが緑化してバイキングが移住するくらい強い温暖化の時期があり、その後(15世紀〜19世紀)ロンドンのテムズ川が氷結するほどの小氷期が訪れたことをさす。人為的な要因が小さい時代であるので自然的な要因で起こったと考えられるが小氷期はこの要因で考えられるが1860年以降見られる温暖化は小氷期からの回復という自然要因だけではないと考える研究者もいる。

人為的な要因とは、環境と気候を変化させる可能性が大きい人類<ホモ・サピエンス>活動によるものを指す。最終氷期が終わり氷床と動植物の前進が逆転すると、比較的安定している気候変動の中人類は農業を始め、人口爆発を引き起こし、これが文明の誕生につながっていった。この地球温暖化だけが農業の始まりの原因ではないが、不可欠な要素であり、その後人類は気候変動に適応しながら、文化・文明を発達させていったのだ。そして要因の最も大きなものは、ヨーロッパで起こった産業革命である。以来化石燃料を燃焼させる過程で大量に放出された二酸化炭素であり、そのほとんどが1945年以降の放出である。他の要因としては森林の減少、地表のアルベドを変化させる農業などの土地利用の変化、炭素サイクルやメタンの生成への影響、人為物質エアロゾルの放出が考えられる。この中でも大きな要因としては二酸化炭素を中心とした大量の温室効果ガスによる温室効果である。IPCCは、1750年以来、二酸化炭素濃度は31%、メタンガスは151%、窒素ガス17%、対流圏のオゾンが31%増加し、メタンガスは家畜や燃料、米の生産でも増加し、湿地から自然に放出される量の60%におよぶという。以上述べてきたが、「人新世」(Anthropocene)十八世紀の産業革命から始まったと言うが第二次世界大戦後(1945年)から始まったという説もあるが、先に述べたように他の地質学者は、それはすでに8000年前にわれわれが動植物を家畜化して狩猟文化から農耕文化にシフトして定住化し出した頃から始まったと言う。つまり人類が地質学的変化をもたらす最も大きな力になっているような時代である。

ダーウインの進化論では、環境へ適応することで生物は進化してきたということだが、それだけが要因ではなく、「自然選択」は確かに進化の要素には違いないが他にも要因はいろいろある。チョムスキーがいう、人間の言語もおそらくごくわずかの神経網(ニューロン)の接続が、突然変異によって変化したことが始まりであった。また8000年前に人類が道具を開発し建築を始め、都市を造り始めたことで逆に環境を人類の方へ適応させることが可能となったのであるとも言える。地質学者は、今日の人類は地球環境全体を変化させるような力を持っているという。各国の核武装の問題も含めてまさに、人類は神の領域に踏み込もうとしているのではと思う。

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結びとして

今月は地質学者による地球の年代である地質時代区分や、地形学による大きな日本列島の成り立ちを交えて気象変動への影響を考えてきたが、気象、気候の変動はささやかな人間の営みによっても、わずかな地形の変化によっても変動し律動するものである。わずかな気候の変化にも感応できる感性と眼差しを維持することは、今後さらに重要となってきている。我々は地質年代でいう「新人世」に入っている。地質学者はそれぞれの時代の最も重要な地質学的変化を採ってその時代の名称をつけているが、このように人知を超えた時間尺度で考えることは大きな意味を持つと考える。蔵田氏の話を受けて考えさせられたことは、すべてのビジネスと人間の営みは地形とそれを包むように影響を与える気象・気候によって起こされ現象を認識することなく成り立たないということ。NHK番組「ブラタモリ」や中沢新一氏の著書「アースダイバー」東京・大阪など地形が人々や街に与える深層的影響にも注目が集まっている。私の専門分野である「空間の設計・デザイン」においても、微地形・微気候を考慮することは避けられない。

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大きな気候の変動と大きな地形の変化は人間的な時間的尺度と空間的尺度を越えた存在であるといえる。大きな気候と大きな地形の起源を尋ねるには数千年、数万年の歴史的時間を遡らなければならない。いずれにしても人間的時間と空間の尺度を越えている。

「過去の時代と大地の状態を認識することは人間精神の花であり実である。」レオナルド・ダ・ヴィンチ

古代ギリシャ時代のデルポイにあるアポロ神殿に刻まれていた言葉がある。

ミーデン・アガン(meden agan)「過剰にならぬよう」という意味である。

「中庸」(moderation)バランス、仏教と同じである。平衡を得るために理性と感情の均衡をたもたねばならない。

長くなりました、2018年8月16日、お盆の送り火の日に。

ハナムラチカヒロさんのこと

今年の7月は九州・中国・四国・近畿にわたる広域の大雨から始まった、前月の6月は大阪府北部地震であった。そんなうち続く災害は私達の未来に向ける眼差しに不安で、不穏な気配を感じさせる。うだるような蒸し暑さの中、7月のMCEI大阪支部定例会は講師としてハナムラチカヒロ氏に登壇いただいた。ハナムラ氏はランドスケープアーティストであり学者であり役者である。大阪府立大学21世紀科学研究機構准教授。一般社団法人ブリコラージュファウンデーション代表理事。研究領域は「まなざしのデザイン」という表現方法と「風景異化論」という理論で、芸術から学術まで領域横断的に多様な活動を行っている。風景をつくる、風景をかんがえる、風景になるという三つの視点から、ランドスケープアートという表現を生み出している。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための蛇の彫刻堤防などを制作、世界各地の聖地におけるランドスケープのフィールドワーク、街頭でのパフォーマンス、映画や舞台にも俳優として立つ。


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ランドスケープ・デザインについて

ランドスケープは「風景」「景観」という意味である。もとは風景「画」を意味していてこれは画家が風景、景観をつくるという意味ではなく、ある視点を画家が主観で選んで空間を解釈するという意味である。オランダ語の風景画を描かせる際に契約書の用語として使用されたlantschappenという言葉が英語でlandscape等に派生していった。ただしフランス語では農風景から派生したpaysageという言葉があてられた様に国によって用いられ方は異なる。英語、ドイツ語のLAND・・・はどちらも土地をつくるという意味の他、共同体という言葉と同一の語源である。狭義には「眺め」そのもの、あるいはそれを通して捉えられる土地の広がりをさすが、広義には「自然」と「人間」の関わりの様態であると考えられる。ある土地における、資源、環境、歴史などの要素が構築する政治的、経済的、社会的シンボルや空間または、そのシンボル群や空間が作る都市そのものと捉える考え方もある。風景や景観のような感覚的、審美的な側面だけではなく、土地や自然を基盤とする生物学的な性状や秩序を含めた概念として認識される。

ランドスケープ・デザインはランドスケープ・アーキテクトなどと同様に、庭園の計画・設計分野で用いられた呼称である。近年様々な都市開発事業が行われ、様々なランドスケープ・デザインの事例が身近で見られる。都市計画とランドスケープの繋がりは古くから存在する。古代より、東西を問わず、山や川など人々の周りの風景や自然の創造物を元に人々の生活は展開してきた。高台の神社、大きな寺院、高い塔を持つ協会などシンボルとなる人口の構造物をランドマークとして多くの都市設計が行われてきた。広場など人が集まる場所の構築もよく使われた設計手法である。古代ギリシャのフォルム、帝政ローマのフォロロマーノ、など公共施設に囲まれた都市の中心となってきた。

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近代的な職能としてのランドスケープ・デザインはアメリカで確立した。18世紀のイギリスで発達した風景式庭園(ランドスケープ・ガーデン)の影響を受けながら、ニューヨークのセントラルパークを設計した、フレデリック・オルムステッド(1822年〜1903年)が自らの職能をランドスケープ・アーキテクトと提唱して多くの都市計画、公園計画に関わり、この分野の礎を築いた。1899年にアメリカ・ランドスケープ・アーキテクト協会が設立され、1900年にはハーバード大学に教育コースが設置された。20世紀、都市の拡大とともにランドスケープ・デザインの領域も拡大した。その20世紀半ばには建築の分野でモダニズム運動に同調するように、ダン・カイリー(1912−2004)、ガレット・エクボ(1910−2000)、ローレンス・ハルプリン(1916−2009)らによりランドスケープのモダニズム運動が展開し、住宅庭園から、都市におけるアクティビティを支える公共空間のデザインまで実に様々な試みが行われた。1970年代に至ると、環境問題への市民意識が高まり、ランドスケープ・デザインは社会的意義として環境エンジニアリング的側面が喧伝されていった。1980年代から1990年代には、ピーター・ウォーカーらによりランドスケープ・デザインの芸術的側面の「復権」が提唱され実践された。

日本におけるランドスケープ・アーキテクチュアは明治期に「造園学」と翻訳され、伝統的庭園の作庭技法を継承しながら、主に公園や公共緑地などの整備を中心に展開した。社団法人日本造園学会は1925年(大正14年)に設立された。この時期の造園に明治神宮内苑(1920年)、明治神宮外苑(1926年)がある。第二次世界大戦後は、高度経済成長による急速な都市化と開発による自然環境破壊に対する理論的・物理的な抑止と補償の役割が強調された、1990年代には建築・土木に隣接する分野として注目され、多くのコラボレーションによるプロジェクトが実施された。

近年のヨーロッパの動向として、古典的庭園様式の現代的解釈を都市公園に応用するフランスや、広域的な自然生態系の保全・風景化を進めるドイツ、人工的な国土で人為と自然の干渉をダイナミックに表現するオランダなど、意欲的な試みがみられる。「自然」と「人間」が結ぶ「像」が地域や時代によって異なるものであるならば、ランドスケープも多様に捉えられるものであり、それを対象とするデザインも地域、文化に固有の方法論がありうる。

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異化と異化効果について

ハナムラ氏が表現の中心に据える概念である「異化」とは、慣れ親しんだ日常的な事物を非日常的な事物として表現する手法のこと。知覚の自動化を回避するため、ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーによって概念化された。いいかえれば日常言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで生の感覚をとりもどす芸術の一つの手法であるといえる。理解のしやすさ、平易さが前提となった日常言語とは異なり、芸術に求められる詩的言語は、その知覚を困難にしてその認識の過程を長引かせることを目的としている。「芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的」である。

異化効果、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト<(1898−1956)、ドイツの劇作家、詩人、演出家。1922年に上演された「夜打つ太鼓」で一躍脚光を浴びる。>が1920年代に考えた概念である。日常性を異常化、非日常化させて、芝居を脱習慣化させる方法である。文学作品における異化効果は、ロシア・フォルマリズムの作家シクロスキーによって考察されたが、同時期にブレヒトは演劇に「おける異化効果の可能性について考えていた。ブレヒトは政治やマルクス主義との関わりから、演劇における役者への感情移入を基礎とする従来の演劇を否定し、出来事を客観的・批判的に見ることを観客に促した。ブレヒトは自身の演劇を「叙事的演劇」と呼び、従来の演劇「劇的演劇」と区別した。ブレヒトによれば「劇的演劇」は、観客を役に感情移入させつつ出来事を舞台上で再現することによって観客に様々な感情を呼び起こすものであり、それにたいして「叙事的演劇」は役者が舞台を通して出来事を説明し、観客に批判的な思考を促して事件の本質に迫らせようとするものである。ブレヒトはこのような「叙事的演劇」を、悲劇を観客にカタルシスを起こさせるものとして定義したアリストテレスに対して「非アリストテレス的」と呼び、このような「劇的演劇」を現実から目を背ける「美食的」なものとして批判した。このブレヒトの「叙事的演劇論」としてよく知られているものが「異化効果」(Verfremdungs)である。これは日常において当たり前だと思っていたものに、ある手続きを施して違和感を起こさせることによって、対象に対する新しい見方・考え方を観客に提示する方法を指している。この「異化効果」はハナムラ氏が「まなざしのデザイン」で提示する風景に補助線を加えてモノの見方を変える、風景の異化に通じる。ハナムラ氏は日本の造園手法である「見立て」を使って見立てワークショップを各地で開催し、人々に新しい風景の発見を促している。

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ランドスケープに向けられた2つの眼差し、そしてもう一つの目とは。

我々はランドスケープに向けて2つの眼差しを持つ。1つは客観的で、主観を排除した眼差しである。我々は1968年アポロ宇宙船によって宇宙から地球に向けての眼差しを手に入れた。その時目にした地球の姿は「神の眼差し」を思わせるものがあった。2つ目は我々の主観的な眼差しである。この2つの眼差しを受け入れ我々はランドスケープを理解し認識している。

しかし風景とは、地(ランド)に足をつけて立つ人の視点から眺めた土地の姿であるともいえる。地上からの眺めは、視点の位置によって変幻自在、不安定ではあるが味わい深い。つまり空中の視点は、普遍的な神の眼差し(世界像)を与え、地上の視点は、その場所限りのそれぞれの人間の眼差しが、まさに人間の風景が立ち上がる。ルネサンス期に、人間の視点から見た通りに空間を描く透視図法がもてはやされたのも人間復興の理念に沿って人間の眼差しを取りもどそうとしたからであろう。地形の客観的な形状よりも主観的透視像を重要視するところに地形学と風景学の違いが現れてきたともいえる。この風景においてひとたび安定した集団表象が成立すると、それによる風景体験は広く伝えられ、時代をこえて変化しながら継承される。仮に実景が消えても文学(言葉)や絵画に造形された表象が残り、継承されていく。「実に、名所は名所よりも長持ちする。」(小林秀雄)ここに風景巡礼ともいえる実景訪問による名所体験が表れる。写しと見立てという造園に関係する手法がある。教典の仏国土の写しとされる浄瑠璃寺や平等院や平泉の浄土庭園、ヨーロッパ各国の王侯・貴族のヴェルサイユ宮殿の写し、日本の「名所縮景」などがあげられる。平清盛による厳島神社造営にともなう風景構想は、内海そのものを一つの泉水に見立てる庭園形態である。これは実景を「逆見立て」する庭園設計の大飛躍であった。風景の見立ては各地に「何々富士」「浄土ヶ浜」の類として現在でも残っている。まさのハナムラ氏が指摘するように、風景の半分は想像力でできているが、またそれは様式化、固定化されるものでもある。

ランドスケープに向けられる目として、もう一つ付け加えたい。つかんで出ていく(grab and go)、アマゾン・ドット・コムが2018年1月から始めた食品スーパー「アマゾン・ゴー(Amazon Go)」のことだ。店内にはレジがなく、その代わりに130台のカメラ、つまり「目」が天井に設置してある。「目」は四六時中人の動きを観察し、買うもの、戻したものを性格に見極めスマートフォンで決済処理する。アマゾンはこの米国で始めた店舗の仕組みを世界に広げる計画である。

生物の歴史上、最も重要な節目を提供したのは実は「目」だった。「カンブリア爆発」という出来事が5億年前のカンブリア紀に起こった。カンブリア紀を境に「門」などの生物の属性が爆発的に増加したという説である。それ以前から生物は多様な生態系を持っていたが、やはり「カンブリア紀」は大きな節目であった。地表に届く太陽光が増え、生物が「目」を獲得したからだ。イギリスの生物学者アンドリュー・パーカーの「眼の誕生」によれば、カンブリア紀に増えたのは化石だ。目を獲得した生物は、目を持たない生物を捕食し始めた。捕食される生物は自分も目を持とうとする一方で、捕食されにくい硬い殻を身にまとう方向に進化し始めたという。弱肉強食が加速した時代であったのだ。アマゾンの話に戻ると、同社は「目」を獲得しインターネットだけではなく「残りの9割の経済」といわれるリアルな世界に本格的に飛び出したのが「アマゾン・ゴー」である。同社が進める産業のdestruction(破壊)という名の捕食はこれまでよりも一段と広く、深く進行する可能性をはらんでいる。後世に「デジタル・カンブリア紀」と呼ばれるような時代がもう始まっているのかもしれない。われわれはハナムラ氏が指摘するように、固定化した眼差しを解体し新しい「目」を獲得しなければならない・・・

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結びとして、フラーとランド・アートのこと

ハナムラ氏の思考に大きく影響を与えた人物は、バックミンスター・フラー(1895−1983)である。フラーはその生涯を通して、人類の生存を持続可能なものとする方法を提案し続けた。全28冊の著作によって、「宇宙船地球号」、「エフェメラリゼーション」「シナジェティクス」などの言葉を広めた。彼の思考は独特であった。バックミンスター・フラーが公言した富の概念とは、我々の大部分が当然の様に認めている「貨幣」ではなく、人間の生命を維持・保護・成長させるものとした。それらを達成するための衣・食・住・エネルギーを効率的に成し遂げるための形而上的なノウハウの体系としてのテクノロジーである。そしてそれ自体を未来に向けて発展し続けること。デザイン建築の分野ではジオデシック・ドーム(フラードーム)やダイマクション・ハウスなど数多くの発明をした。ハナムラ氏に影響を与えた人物としてもう一人紹介したい。イサム・ノグチである。現代的な意味でのランド・アートを構想した最初の作家としてイサム・ノグチの名が挙げられる。1933年の段階で、古墳や古代遺跡、日本庭園から着想を得て、地球を素材とすることを提案したのだ。ニューヨークのイサム・ノグチ美術館には「火星から見える彫刻」の模型(1947年)が残されている。これが実現していればノグチは最初のランド・アート製作者となっていた。彼が1930年代から建築家ルイス・カーンと共に提案し続けた「プレイ・マウンテン」は彼の死後、モエレ沼公園で実現している。その後ランド・アートは1960年代後半にアメリカの彫刻家たちによって、確立される。1968年ニューヨークのドゥワン・ギャラリーで開かれた“Earthworks”展はその潮流を加速させた。この企画をリードしたロバート・スミッソンは1970年、ユタ州の湖沼に岩石や土で螺旋形の突堤を造った。ランド・アートの記念碑的作品「スパイラル・ジェッティ」である。制作時グレート・ソルト湖の水位が記録的に低かったため、数年に一度しか湖面に表れない。

我々は今困難な世界・環境に在る。自然の大変動による災害の拡大。「デジタル・カンブリア紀」ともいえる、第三の目による圧力とで「宇宙船地球号」の操縦は困難な状況にある。ハナムラ氏が提唱する「まなざし」を取り戻し立ち向かわなければならない。その「まなざし」を獲得するためにフラーの言葉で結びたい。「誰もが生まれたときは天才であるが、生きる過程でそれを失ってしまう。」


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2018年はMCEI大阪が45周年を向かえます。今回の特別講演会は、水口ゼミとの同時開催で多くの皆様にご出席いただきました。このたびの記念講演には元アシックス専務取締役植月正明氏に登壇いただきました。植月氏は2003年に退任後も兵庫県陸上競技協会会長、近畿陸上競技協会副会長、神戸マラソン実行委員会会長など公職を歴任され2017年に勇退されました。今回の記念講演においては快諾のうえ登壇いただきまして、誠に感謝にたえません。

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アシックス世界ブランド構築への道のり

今や世界で誰もが知るブランド、と言えるであろうアシックス。シューズの機能性において右に出るブランドは無く、国内外を問わず多くのランナーに愛用されるアシックスブランド。欧米でのランニングブームではその牽引役となり、スポーツ業界においてシェアを拡大しつつある。企業価値にして40億米ドル、事業展開の75%は海外、一貫したマーケティング戦略をもたずに来た企業としては驚くべきスケールである。

鬼塚株式会社は1977年(昭和52年9月 株式会社ジィティオ、ジェレンク株式会社と合併し、アシックスが誕生した。アシックスの創業哲学は、古代ローマの作家ユウェナリスが唱えた「健全なる身体に健全な精神が宿れかし(Mens Sana in Corpore Sano)という言葉から着想を得ている。Mens(才知、精神)をAnima(生命)に置き換え(Anima Sana in Corpore Sano = ASound Mind a Sound Body)その頭文字を取った「ASICS」が社名となった。今回の講演の主題は、アシックスが創業者哲学を基に行ってきた「ブランドコンセプトと商品開発の一貫性」とは何か?である。

競合の二大グローバルブランドであるNIKIやアディダスは、世界のプロスポーツ界のスーパースターを起用した大規模な広告宣伝とプロモーションを積極的に行い、消費者にたいしてブランドイメージを醸成するという手法である。これには当然莫大な広告宣伝費が必要となる。この方法にたいしてアシックスは、トップアスリートの「足」に関わるデータをベースに地道な商品開発を積み重ね、一般の消費者には店舗にある測定器で科学的に分析し、最適なシューズの選択を可能にするなど、あくまでも「健全なる身体=シューズ利用者の快適さ」を主軸として取り組んできた。

これにより、履き心地や走りやすさを体感した、パフォーマンス向上や疲労感の軽減を経験したユーザーがリピーターとなっていくのである。あくまで商品(シューズ)を利用してはじめて感じられる価値、「体験価値」を高めることでブランド力の向上を図ってきた。他の大手競合社のように「ブランディング=広告宣伝活動」でイメージを作っていたならば現在の成長は見られなかったかもしれない。

アシックスはインターブランド社の世界のグローバルブランドトップ40にも名をつらねるグローバル企業である。しかしアシックス本社は世界各地のグループ企業の採用や人材育成を統括していない。販売やマーケティングが主体の海外ビジネスにおいては、現地の人材が中心となり組織を作り上げ、経営するという手法である。地域ごとの個別のマーケティング戦略は現地に任せるが、世界全体の戦略は日本の本社が統轄する、これがアシックスが考える管理体制である。世界全体におけるブランドの方向性、ブランドの立ち位置などの根幹にかかわる部分は日本の本社が統轄するが、人材は日本人にはこだわらない。

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植月氏と創業者鬼塚喜八郎の原点について

植月氏は1938年鳥取県智頭町に生まれた。氏が背中を追い続けた創業者の鬼塚喜八郎も同じく鳥取県気高群明治村(現鳥取市松上)で農業を営む坂口伝太郎の末っ子として生まれた。坂口家は元は小作人だったが、祖父伝十郎の代に地主となり農業の傍ら和紙、因幡紙の仲買人なども行っていた。ちなみに喜八郎の名は大倉財閥を興した大倉喜八郎にちなんでつけられた。商売の道との深いつながりを感じる。

1936年(昭和11年)鳥取一中(現鳥取西高校)を卒業、在学中は陸軍士官学校進学を目指したが肋膜炎になり療養生活を余儀なくされ断念する。1939年(昭和14年)徴兵検査で甲種合格、その三か月後に甲種幹部候補生試験に合格し見習い士官となる。同期から一年遅れで将校となった。見習士官時代に陸士出身の上田寛俊中尉と懇意となり、上田氏が養子縁組を結ぶ予定であった鬼塚清一夫妻とも知人となった。この縁が後の神戸三宮と繋がっていく。所属する連隊(姫路陸軍第10師団重兵第10連隊)はビルマ戦線に参加、喜八郎は留守部隊指導のため残留となったが戦地に赴いた上田中尉は戦死した。喜八郎は上田中尉から自分が帰るまで鬼塚夫妻の面倒を見ることを約束していた。「男の約束」であった。喜八郎は1945年内地で終戦を向かえ12月に鳥取に帰るが、神戸の鬼塚氏から上田中尉が亡くなったので面倒を見てもらえないか、と相談を受ける。喜八郎は上田氏の約束を果たすために、両親の反対を押し切って、神戸三宮に向かった。人と人、人と都市が不思議な縁で繋がっていく。

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1945年の神戸三宮は国際都市だった。
戦後の焼け跡には無秩序に外国人が入ってきて荒廃していた。治安も悪く、空襲の焼け跡には闇市が立ち、そこに流れ込んで住み始めた子供たちは非行に走っていく。アメリカの進駐軍も進駐してきて、日本の少女達がパンパンという売春婦となり彼らの手先となっていった。神戸の闇市は終戦直後、中国人が揚げ饅頭を一個5円で売り出したのが最初とされる。省線(現在のJR線)三宮から神戸の高架下、2㎞にわたりピーク時で1500軒の屋台がひしめいていた。高架南側の道路と緑地帯を不法占拠のバラックが埋め尽くした。1946年に兵庫県が実施した闇市の実態調査では、物資の入手経路は、産地への買い出しや、統制組合などからの横流れ品、生産工場の不正放出、盗賊品など多岐にわたる。敗戦後の騒然とした世相がうかがえる。闇市は「三宮自由市場」と名前を変えるが、全国的に闇市撲滅が叫ばれ、

1946年夏、国が取締を強化し、翌年2月バラック群は撤去された。このようなひどい有様を喜八郎は目の当りにし愕然とさせた。「なんということだ。戦死した戦友たちは何のために死んでいったのか、平和な日本をつくるために、子供たちを守るために、死んでいったはずなのに、なんて有様だ。」ここに喜八郎の原点が在る。(あるいはオニツカの事業展開の根幹)日本の将来を担っていく日本の青少年のために一生を尽くすこと。青少年を立派に育てて、健全な国民に育てていくことが、自分の使命である。」という考えに至った。

「次代を担う青少年の教育とは。」、「青少年を立派に育てるための仕事をしたい。」教師でもなく、軍人だったのでGHQにより教職にもつけなかった喜八郎の問いに答えたのが、戦友だった当時は兵庫県の教育委員会で体育保健課長だった堀公平だった。堀に青少年の教育について問うと「健全なる身体に健全なる精神が宿る。」との格言に在るように、教育の原点は心身共にバランスよく成長することだ。知育・徳育・体育を三位一体となって育成できるスポーツが最適である。スポーツマンシップを根幹にスポーツで鍛えることで青少年は育つ。だから君はスポーツの振興に役立つ仕事をしたらどうだ。」

この時のこの言葉が鬼塚喜八郎に一生の仕事と経営哲学の基礎を据えさせた。教職には就けない元軍人の喜八郎に、堀はスポーツ振興に役立つスポーツシューズを作ることを勧めた。神戸市にはシューズメーカーが集まる長田区がある。さっそく堀に紹介してもらった工場で働き始め、一年後の独立を目指して工場でシューズの製造方法を覚えていった。1949年(昭和24年9月)独立を果たし、スポーツシューズの専門メーカー「鬼塚株式会社」を創業させた。社員4人、資本金30万円であった。

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一点集中作戦と錐モミ作戦とは

ここで鬼塚株式会社(後にアシックス)が歩んだスポーツシューズ専門メーカーとしての歩みに植月氏の業績を重ねて振り返ってみたい。

鬼塚式シューズの製品開発はバスケットシューズからであった。当時兵庫県バスケットボール協会理事で神戸高等学校バスケットボール部監督の松本幸雄の勧めだった。「選手の足の動きをよく見ろ。」この松本の助言により、暇があるとコートに通い、選手達から要望を聞き製を改良していった。1951年(昭和26年)夏、キュウリの酢の物に入っていた蛸の吸盤に目が止まりソレをヒントにした全体が吸着盤のような凹型の靴底を考案し鬼塚式バスケットシューズとして販売した。その後全国の競技大会をくまなく営業して歩き知名度を上げていった。これが鬼塚式営業の始まりであった。このシューズブランドは、スポーツシューズにふさわしい強さと敏捷性を表す「虎印」とし鬼塚と組み合わせて「ONITUKA TIGER」印とした。

1953年(昭和28年)マラソンシューズの開発をめざし別府マラソンのゴールで選手を待ち構えて、足を調べた。トップ選手の寺沢徹はじめ選手達の助言や意見をあおぎ、空気が入れ替わる構造のシューズを考案し、特許を取得した。1956年(昭和31年)オニツカタイガーがメルボルン五輪日本選手団のトレーニングシューズとして正式採用された。

1961年(昭和36年)毎日マラソンで来日した、当時裸足のランナーで有名だったアベベ・ビキラ選手をホテルに表敬訪問し「裸足と同じくらい軽い靴を提供するからぜひ履いてくれ。」と説得し、シューズを提供。アベベはその大会で優勝した。

植月氏はこの時代に鬼塚株式会社に入社した。その経営方針は家族主義、スパルタ式、社員には見合いの世話、仲人をするなどした。また遼を設けて徹底した新人教育を施した。朝8時から夜の11時に及ぶこともあった。そのような鬼塚の背中をみながら植月はオニツカ株式会社のビジネス最前線に向かっていた。

1960年(昭和35年)ローマ五輪でメダルを目指す日本マラソン陣のサポートでは脚力をフルに生かすために軽く薄いスポンジ底の高機能性マラソンシューズを開発したがローマの硬い石畳に阻まれ、弾力性不足で惨敗の苦渋を味わう。この経験からマラソンコースの事前調査の大切さを学んだ。このときから植月氏には3つの目標が芽生えた。
一つは「いつかオニツカタイガーでオリンピックのメダルを獲得する。
二つ目は「金メダルを獲得する。」
三つ目は「メインポールに日の丸を揚げる。」
目標の期限は決めなかったがこの後の植月氏の道標となった。一つ目は1964年東京五輪で達成、銀・銅二つのメダルを獲得した。1968年メキシコでも銀・銅を獲得し二つ目の目標の金メダル獲得へと植月氏は心を高ぶらせた。1980年のモスクワ五輪はソ連軍のアフガニスタン侵攻でボイコット、1984年のロサンゼルス五輪は不振に終わり、1988年のソウル五輪ではとの思いで万全のサポート体勢を整えた。82年ヨーロッパ陸上競技選手権で優勝して以来快進撃を続けるロサ・モタ選手(ポルトガル)を擁しての大会で見事金メダルを獲得、同大会では男子金メダルのジュリンド・ボルティンカ(イタリア)もアシックスのマラソンシューズを履いていた。
残る三つ目の目標は高橋尚子選手によって2000年7月シドニー五輪で達成された。バレーボールでも1972年(昭和47年)ミュンヘン五輪は「オニツカ」にとって新しい歴史を刻む大会となった。8年計画で金メダルを目指していた日本男子バレーボールチームは、松平康隆監督のもと劇的優勝を飾ったのだ。結果は男子が金とソ連の銅、女子はソ連の金と日本の銀がオニツカタイガーのシューズを使用してのメダル獲得であった。
バレーボールシューズでは男子は実に83.2%の高い使用率であった。マラソンシューズでも地元アディダスを上回る41.1%のトップシェアだった。このミュンヘンの経験は1976年モントリオール五輪で大きく花開いた。この大会を植月氏は企画室長でむかえた。選手村にサービスブースを持つことができ、スタジアムまで5分の立地にアパートを借りて臨んだ。プレオリンピックからの2年間はモントリオール中心に年間300日家を空けるというハードな生活を続けた。年齢的にも仕事の上でも脂がのったときにむかえた五輪であった。

選手の立場からの製品づくりと、万全な状態でレースに臨めるようにするためのフォローアップ、そして何よりも信頼関係から築きあげられた絆によって成し遂げられたものである。

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アシックスの未来は、そのグローバル戦略

1977年(昭和52年)に株式会社アシックスとなり、日本の製造業の歴史や技術の上に成り立つ優れた企業でありながら、アシックスはこの業界で「揺るぎない第3位」のポジションではない。言わば、まだ挑戦者の立場にあるブランドである。アシックスの喫緊の課題は、至ってシンプルだ。スポーツアパレル業界の世界市場を独占するナイキとアディダスに続く、3番目の地位を確立することである。これは簡単なことではないが不可能な目標ではないだろう。

伝統と歴史を誇アシックスだが、多くの日本人ですらいまだに日本初のブランドであることを知らず、単に「国際的ブランド」として認識しているのが実情である。多くの日本人が子供のころからアシックスと共に暮らしてきたにもかかわらず、この歴史に裏打ちされた優れたブランドを次のステップに押し上げることが今後の課題である。2015年よりユニクロ、日産自動車に関わったポール・マイルズ氏がグローバルブランドマーケティング統括部長に就任している。正しい成長を成し遂げるために、ブランドポジショニングをはっきりと定位し、情報集約機能を強化するという。

余談として:(皮肉にも、もともとNIKEはオニツカタイガーが米国に進出した時の流通業者だった。NIKEの前身であるBRS社は、米国でのオニツカタイガーの販売代理店となっていた。スタンフォード大学で経済学を学んだ後、1963年卒業旅行で日本に立ち寄ったフィル・ナイトは、オニツカシューズの品質の高さと価格の安さに感銘を受けて、すぐさまオニツカ株式会社を訪ねて米国でのオニツカシューズの販売をやらせて欲しいと依頼したのだ。フィルはオレゴン大学の陸上コーチだったビル・バウワーマンと共同でブルーリボンスポーツを設立し、オニツカの輸入販売代理業務を開始したのだ。)

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結びとして、終わりなきオニツカタイガーの命懸けの跳躍

一つの統一性を持った宇宙を確立しながらもその外部(他者)に出会うたびになお変容する可能性を示す。「閉じつつ開いている」という不可思議なダイナミズムを持つ、単なる商品ではなく、時間と空間を超越し、しかも共同幻想にとどまらぬ価値を持ったブランド、創業者の鬼塚喜八郎の言葉と態度はブランドの命がけの跳躍を深く考えさせられるものであった。

ウィトゲンシュタインは、言葉にして「教える」という視点から考察しようとした。これははじめてではないとしても、画期的な態度の変更である。

「われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人」は、ウィトゲンシュタインにおいて、単に選ばれた多くの例の一つではない。それは「言語―聞く」というレベルで考えている哲学・理論を無効にするために、不可欠な他者をあらわしている。言葉を「教えるー学ぶ」という関係においてとらえるとき、はじめてそのような他者があらわれるのだ。私自身の“確実性“を失わせる他者。それはデカルトとは逆向きであるが、一種の方法的懐疑の極限においてあらわれる。

「教えるー学ぶ」という関係を権力関係と混同してはならない。「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。<探究Ⅰ 柄谷行人 1992年3月>

マルクスがいったように商品はもし売れなければ(交換されなければ)、価値ではないし、したがって使用価値ですらもない。そして、商品が売れるかどうかは、「命がけの飛躍」である。商品の価値は前もって内在するのではなく、交換された結果して与えられる。前もって内在する価値が交換によって実現されるのではまったくない。

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6月定例会は、奈良を拠点に地域とそこに関わる個人の活性を目指して事業をプロデュースする、山本あつし氏の登壇である。その<方法>は多彩でありまさに思考の“ブリコラージュ”(後程解説]ともいえる。今回のお話は「余熱でプロデュースするカルボナーラ思考」である。あなたの身近にある「余熱」とは、それを「活性化して何をしますか、「○○をいかして□□をする!」が本日のテーマであり「余熱」はキーワードとなる。

山本氏は1971年生まれで、現在放映されているNHK朝ドラ「半分、青い。」の主人公、鈴愛さん律くんと同世代である。建築も学んだ山本氏は、大阪芸術大学でデザインプロデュースを教えている。またソーシャルビジネスを学ぶ場も主催しながら、各種事業プロデュースを手掛けている。

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1970年代のこと。「コトという幻想、もしくは虚構の時代」

山本氏が生まれ彼の幼少期を育んだ1970年代は過渡期であった。広告が商品の品質訴求から、イメージ訴求へと変わる時代であった。この年代以前の日本は、品質の向上を第一としてきた。国産品は安かろう悪かろうといわれていたのだった。品質訴求の時代は、「モノ」そのものの「良し悪し」をうまく伝えることを求められた。当時広告は新しい良きモノを語り、そこに新しい情報が在るから受けては待っていてくれた。メーカーにとって幸せな時代であった。しかし1980年代からメーカーの生み出す製品品質が上限に近くなっていった。

1970年代にもどると、この時代は現在のライフスタイルや文化の原型を形作った時代であった。その一部を素描してみたい。戦後から70年代半ばまでの間に首都圏に大量の人口が流入し、首都圏の人口集中が進んだ。この人口の急激な膨張で絶対的な住宅不足が明らかになり、住宅確保が喫緊の課題となる。これによって郊外の住宅開発が急速に推し進められ、多摩地域のニュータウンは1966年に着工し1971年から入居が始まった。このような郊外型の住宅地が定着したのが1970年代であった。当時はベビーブームによる子育て世代が多かったのである。


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ファーストフードの国内展開が始まったのも70年代である。1971年歩行者天国の銀座にマクドナルドの1号店が開店した、ファミリーレストランの「すかいらーく」も1970年に誕生している。当時は田圃や畑が目立つ甲州街道沿いに「レストランスカイラーク」のはでなビルボードとガラス張りのモダンな建築が駐車場を備えて出現した。郊外立地の店舗展開の始まりであった。これらのファーストフードやファミリーレストランという業態の上陸は日本人の食習慣を大きく変える転換期となった。それまでは食事は家でとるのが当たり前であり、このいわゆる「お袋の味」というものが幼い記憶に刻み込まれた最後の世代が山本氏の世代かもしれない。

暮らしに欠かせない大型総合スーパーは高度成長期から拡大し、1970年代に全国に広まった。1972年にダイエーが売上高で三越を上回り、小売業のリーダーの地位を百貨店から奪取した。ベビーブーム世代が子供時代を過ごした1970年代から1980年代にかけては家族で買い物に出かける人気のスポットであった。1974年日本でのセブンイレブン1号店が東京・江東区に開店し、1975年にローソン1号店が大阪。豊中に開店した。その後専門店の台頭やホームセンター、ドラッグストアが参入し現在の小売業態の状況を形成している。

マスメディアも1970年代に大きく変わっている。「女性誌」の誕生である。1970年創刊の「an.an」

はフランスの「ELLE」と提携し、誌名はモスクワのパンダの名前からとった。1971年創刊の「non.no」はアメリカのGLAMOURと提携し、誌名はアイヌ語で花という意味である。この2誌は高校生から20代前半をターゲットに、ファッションや旅行やグルメについて語り、「芸能情報は取り上げない「おしゃれな」雑誌であった。この2誌を片手に観光地を訪れる女性を「アンノン族」と呼び社会現象となった。新聞が国民皆読であった時代は終わり1975年頃から若者の新聞離れが深刻となり、誰もがNHKを見る時代の「終わりのはじまり」があったのも1970年代だった。ハリウッド映画の普及もこの頃からで、日本映画のシェアを洋画が上回るようになった。国際的な出来事を補足すると、1974年にウォーターゲート事件が起き、1975年サイゴン陥落でベトナム戦争が終結、1979年イラン革命によりホッラー・ホメイニによりイスラム共和国が成立した。第一次オイルショックは交通の停滞を巻き起こし、世界経済におおきな損害を与えた。1978年にキャンプデービッドの合意がなされ、1979年にはスリーマイル島の原子力発電所事故が起こり、アフガニスタンに旧ソ連が侵攻したのも1979年であった。

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人々の行動から建築や都市の在るべき姿を導き出す。

心が躍るあらゆる物事を作り出し、思い描いたビジョンを実現すること。大切なのは「余熱」=そこにあるものごとをうまく活かす「カルボナーラ思考」で、その思考は開示して広げることが大切であると言う。
便利に、効率的に進めるだけでは人は考えなくなる。少し不便でも、心に響くことに意識を向ける。そうすれば人はそのプロセスを楽しみ様々な可能性に気付く!この山本氏の思考の流れに繋がる先達の思考と行動が過去にあった。「考現学」である。

考現学は今和次郎らによって1920年代に実施された一連の社会調査を指す。人々の行動に関するものを対象とした徹底したフィールド調査により、不定形で変化の激しい都市の風俗を科学的に扱おうとする先駆的な試みであった。今はそれまで柳田國男らとともに農村における民家研究に取り組み成果を上げていたが、1923年(大正12年)の関東大震災の東京において「見つめねばならない事象」の多さに気付き、廃墟の中から立ち上がるバラック建築をはじめ日々移り変わる都市の風俗へと関心を寄せていった。本人の語るところによるとこの考現学の研究のため柳田に破門されたという。その後「東京銀座外風俗記録」「東京深川貧民靴風俗採集」などの調査に取り組み、1927年に新宿紀伊國屋書店でこれらの「しらべもの展覧会」開催に合わせて、考古学に対して、現在に対する科学的方法の確立をめざして、これらの調査を「考現学」(Modernology・正式にはエスペラント語のModernologio)と名付けた。

考現学で重要なことは、都市が国家や資本家によって計画され生産されるものだけではなく、人々の日常の暮らしの中にある消費行動や、モノと身体の相互作用によって生み出されているんものとして捉えた上で、そうした都市の変化を科学的に捉えた点である。「人がその居住している場所に無意識のうちに築いている跡、痕跡のことを「建築外の建築」と呼び、その中に「人間の動作の源泉と真理」を見出そうとした。言い換えれば都市をつくる側からだけではなく、使う側・生きる側の論理から捉える試みが「考現学」であった。不特定多数の人々の日常的な行動を動植物の採集手法に則った徹底した直接観察によって記録し定量化することで、その背後にある意味を掬いだそうとする、この点に「考現学」の画期があった。

この方法は当時の民俗学のように「多数のものの中から限定した数だけの研究対象を常につかまえるのではなく。特定の場所と場合における全ての要素を調べ上げる「一切しらべ」を基本とし、さらに機械的に対象を記録することで客観的なデータの採集が目指された。採集されたデータは統計的に分析され、他の場所・異なる時間と比較することで、人々の行動を観察し、変化し続ける都市の風俗に迫った。人々の行動が都市をつくるという現在のマーケテイングに近似する方法であった。大正時代は人力で実施せざるをえなかったので、考現学はその後十分に発展することはなかった。

「考現学」を継承する事象としては、「路上観察学会」がある。路上に隠れる建物(あるいはその一部)・看板・張り紙など通常あまり注目されないものを観察、鑑賞する団体である。1986年に実質的には筑摩書房の編集者松田哲也の規格による「路上観察学入門」の出版にあったての編集活動である。赤瀬川源平を中心に据えた、美術家・漫画家・特異な収集家が集まりその発売に合わせて、東京一ツ橋の学士会館で結成発表会を行った。このグループは4つに大別される。
1.超芸術トマソンで知られる赤瀬川原平グループ
2・東京建築探偵団として活動していた東京大学生産技術研究所助教授(当時)、建築史家の藤森照信グループ
3・マンホールの蓋の本で世に出た観察収集家林丈二、建築破片の収集家一木務など孤高の収集家、観察家グループ
4・博物学研究の荒又宏、評論家四方田犬彦、江戸風俗研究家杉浦日向子など有名作家グループである。
結成発表後は学士会館まえでモーニングを着用したメンバーの記念撮影が行われたが、全員集合したのはこの時だけだった。

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自分の言いたいことより、相手が聴きたいこと、そして継承するべきこととは・・

山本氏の思考の原点にあるのは、2011年3月11日東日本大震災に在る。当時強調された言葉に「生き残る。」Suryiveに違和感を感じたという。生き残るは必ず生き残れない人たちを内包する。そうではなくて、生かし・生かされ・生きる知恵を得るための思考とは何かを思考し始めた。
自分のまちを独自の視点で読み解き伝えていくことを始めた。「超珍」まちを照らす明かりをつくろう。「わたしのマチオモイ帖」は2011年から始まり6年間で1400帖になった。まちを思い歩きそして一冊の本にする、そして「わたしらしさ」に再会する。人の目線だけ「わたしのマチオモイ帖」がある。2017年東京丸の内のKITTEビル一階アトリウムで1日だけ特別展が開催され大きな反響を呼んだ。

私達の日常の身近な環境の中にある「余熱」に気付くためのいくつかの思考的アプローチがある。

セレンディピティ(serendipity)イギリスの政治家で小説家のホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語である。「セレンディピの三人の王子」というスリランカの童話にちなんだものである。「偶察力」と記されることもあるが、精神科医の中井久夫は「徴候・記憶・外傷」みすず書房2004年においては「徴候的知」と呼んでいる。セレンディピティは、失敗してもそこから見落とさずに学び取ることができれば成功に結び付くことがあるという文脈で語られることが多い。ルイ・パスツールの言葉から「構えのある心」がセレンディピティの本質だとされる。事例としては「スリーエムのポストイット」、「Twitter社のTwitter」、「コカ・コーラ社のコカ・コーラ」など変化に気付き、新しい価値観を受け入れる力があったからこそ成功に結びつけられたことを示している。

アナロジー(Analogy)は類推ともいい、特定の事物に基づく情報を、他の特定の事物へ、それらの間の何らかの類似に基づいて適用する認知過程である。これは問題解決、意思決定、記憶、説明、科学理論の形成、芸術の創造などで重要な働きをするが、論理的誤謬も多く含むので脆弱な論証方法でもあるが、意味を生成、創造する過程においては大きな働きを示す。言語表現においては表現される事物に対する類似に基づいた表現方法を比喩と呼ぶ。

ブリコラージュ(Bricolage)は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」こと。「器用仕事」とも訳される。元来はフランス語である。ブリコラージュは理論や設計図に基づいて物を作る「エンジニアリング」とは対照的なもので、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として試行錯誤し新しいものを生み出すことである。ブリコラージュする人を「ブリコルール」といい、創造性と機知が必要とされる。情報システムを組み立てる技術者、その場にある有り合わせのものでピンチを脱するフィクションや神話の登場人物まで、「ブルコルール」とされる人物像は幅広く、今回の山本氏も冒頭に紹介したがまさに「ブルコルール」である。フランスの文化人類学者のクロード・レヴィストロースは、「野生の思考」1962年の中で世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく当面必要で役立つ道具を作り出す事例を紹介し、「ブリコラージュ」と呼んだ。彼は人類が古くから持っていた知の在り方「野生の思考」はブリコラージュよるものとし、近代以降のエンジニアリングの思考を「栽培された思考」とよび、ブリコラージュを近代以降にも適用できる普遍的な知としている。

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日常性へのアプローチそしてロマンの復権へ

彼のいる場所「奈良はある意味歴史的重さというハンディがあるが、にも関わらず彼の仕事には楽観主義と軽さがある。限られた資源に対処し、様々な条件に挑戦する、ある気質がある。質素、単純性が創造性を導くように見える。小経の探検、サーキュレーションのリサーチ、場所の認識、展開すること、驚きの発見、日常の生活、公と私の境目を探る実験。それは私達の存在、周囲との関係を私達に気付かせる、空間の運動である。建築的な形態を超えた、場所の価値に気付く作業に参加することは、不確実さに覆われた私達の社会でのポテンシャルを拡げる道をつけることである。

この世界からロマンが失われつつある。文学も、音楽も、恋愛も、生活も、あらゆることが少しずつロマンティックでなくなってきている。同じ文学作品を読んでも、その解釈には人によって大きな違いがあるのは至極当然のことである。書かれた文字情報には限りがあるから、受ける方がその想像力を働かせて、ロマンを膨らませる。
ほとんどのロマンは見事な誤解の上になりたっている。誤解が大きいほど感動も大きい。崇高な音楽に涙するのは、自分の感情の記憶を刺激して、想像力を羽ばたかせるからである。そこに神の存在や介入が在るのではなく、在ると自分が想像するからである。たくさんの情報がそれぞれの本来の姿を映し出すようになると、思い込みと想像と誤解が減った分世界が必要以上に大きく見えることが少なくなった。ロマンが残っているとすればそれは人と人、人とモノ、人と雰囲気、人と場所、との化学作用もしく波長と言ってもいいかもしれない。

「人生は出会いが全てかもしれない。」


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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也

九州を売る“JR九州の挑戦がテーマの今月の定例会は九州旅客鉄道株式会社 常務取締役 事業開発本部 副本部長 津高 守氏に登壇いただいた。

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氏は1961年大阪堺市出身で1979年私立清風南海高校を卒業、1985年九州大学工学研究科修士課程修了、1987年に日本国有鉄道入社、同年国鉄分割民営化により九州旅客鉄道(株)入社、以来40年以上関西の地を離れている。
共同体の拘束を超えた、根っからの旅人で異端の人といった強い印象を受けた。一人の人間の最初のアイデンティティは、ある特定の空間と時間に属することによって得られる。血縁、地縁、学歴、文化といった人間生活の条件は、一人の人間をある空間、時間に繋ぎとめて置く装置でもあるが、しかしながら人間はついに一定の空間に拘束される存在ではない。異なった現実に身を置いて自己の真髄を試してみたいという欲求は、安定した生活を営みたいという欲求と同じくらいに強い。そこで人間は境界を出ていくことになる。

国鉄で入社された津高氏にも強く「旅」のイメージが付きまとう。私達の世代は国鉄と言えば電通によるキャンペーン「ディスカバー・ジャッパン」を思い浮かべる。
1970年の大阪万博では国鉄輸送網が活躍し大量の乗客を輸送した。大阪万博までは団体旅行が主流であったが、万博以降個人旅行に国民の目を向けさせるきっかけとなったキャンペーンである。コンセプトとしては「ディスカバー・マイセルフ」で日本を発見し、自分自身を発見するで「マイセルフ」の部分表現として「美しい日本と私」という副題ができた。このフレーズが、川端康成のノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本と私」に似ていることから、川端康成氏にこのフレーズを使うことを打診したところ、快諾された。そのうえポスターに使う揮毫までしてもらったというエピソードがある。
キャンペーン開始と同時に国鉄提供のテレビ番組「遠くへ行きたい」が始まった。永六輔が日本全国を旅して、各土地の名所紹介と住民とのふれあいがテーマであった。永六輔が作詞した同名の主題曲とともに当時の国民の旅への憧憬を誘った。

また1970年は女性雑誌「an.an」が、1971年に「non-no」が創刊され「アンオン族」を生み出し、若い女性の旅のスタイルを広めていった。余談ではあるが1970年と言えば、富士ゼロックスのキャンペーン「モーレツからビューティフルへ」もこの国鉄のキャンペーンを手掛けた電通の藤岡和賀夫氏で、私自身漠然と「デザイン」を志すきっかけとなったことを思い出す。こうして「アンノン族」に代表される女性客が増えるにつれ、国鉄のキャンペーンは女性を重視していった。1978年11月山口百恵が歌う「いい日旅立ち」キャンペーンが始まった。1980年以降は累積赤字が大きな問題となり、キャンペーンも下火となっていった。

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国鉄の起源をたどると

1825年イギリスで、蒸気機関を利用する鉄道が実用化されて以来、鉄道は先進国で産業発展の担い手として発達した。この技術は30年後の幕末に日本に模型として到来した。
1855年(安政2年)佐賀藩のからくり儀右衛門の名で知られる田中久重が蒸気機関の模型を完成させた。
1869年、明治維新の翌年に新政府は官営による鉄道建設を決定した。新政府は自力での建設は無理だったのでイギリスから資金と技術の援助を受けた。
1872年(明治5年)に新橋から横浜間で、日本初の鉄道路線が開通した。鉄道は大評判となり、翌年には大幅な利益を上げた。このとき以来「鉄道は儲かる」という認識が日本に広まった。国(官吏)が建設した鉄道だから官設鉄道または官営鉄道といった。
当時、明治政府は全国に鉄道を建設しようとしたが財力が無かったために、一部は民間会社に建設を許した。先行利益を許すが、国が要求すれば譲渡しなければいけない、という条件があった。これらの主要私鉄路線を国が買い取って国営鉄道と呼んだ。当時の国鉄は国営鉄道の略称であった。
1881年(明治14年)半官半民の日本鉄道が設立されてより、政府保護を受けて営業成績も良かったため、同じ方式で北海道炭鉱鉄道、関西鉄道、山陽鉄道、九州鉄道が設立され、明治の「五大私鉄」と呼ばれた。大私鉄建設の時代であった。
時代は巡り、1945年(昭和20年)太平洋戦争の終戦後、日本は敗戦国となりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本の民主化を進めるために労働組合を認めた。国営鉄道に労働組合を置くために、国から分離して公共事業体とした。これが日本国有鉄道という特殊法人だ。国営から国有へ、国鉄は国有鉄道の略称となった。公共事業体とは、公共性の高い事業に国が出資して、独立採算とした組織で日本では塩と煙草と樟脳を扱う日本専売公社、電話を扱う日本電信電話公社ができて、国鉄と併せて三公社と呼ばれた。

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国鉄赤字転落への道程

その後国鉄は利益を上げ、優秀な公共事業体となった。その利益を蓄積して設備投資に備えたが、1964年国鉄は初めて8300億円の赤字決算となった。東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催された年だ。高度経済成長の中、モータリゼーションの進展により近距離交通では自動車が普及し、長距離交通では旅客機が発達していく中で、鉄道は世界的にも斜陽産業と呼ばれ始めていたのだ。
1966年国鉄は完全な赤字決算となった。補填の方法は、財政投融資の借入と政府保証鉄道債券であったが、これらは返済時に利子の支払いが必要で、後年利子が増大して長期債務を増やす原因となった。国鉄の赤字転落の原因は他にもあった。
民業圧迫を避けるため、副業が制限され多角化ができなかったのだ。私鉄のように不動産や流通部門の黒字で鉄道事業を支えるという仕組みが無かったのだ。さらに都市部の拡大と人口増加により、通勤利用者のための設備更新や増強が必要となり、これに要する費用は国からの補助はなく国鉄の負担となった。ローカル線の建設も政府の決定により国鉄が負担して開業していった。そのローカル線のほとんどが赤字路線となっていった。

新幹線の建設にも巨額の費用が投じられ、そのまま国鉄の債務となった。また政府の雇用対策の受け皿として、戦後の引き揚げ者を大量に雇用し、その給料は年功序列で増え続け、退職金や年金の負担があり、準公務員だから一定以上の役職には恩給の追加負担の必要もあった。結果その労働コストは増え続けた。また国鉄は晩年に至るまで運賃の値上げができなかったことも大きな原因である。特殊法人であるため、運賃値上げ・路線の建設、廃止・役員人事などは政府による法案作成と国会での議決が必要となり、政治の介入を強く受けた。

1969年日本国有鉄道財政再建特別措置法が成立した。経営合理化・赤字ローカル線の廃止・新路線建設の凍結・国鉄用地の固定資産税の減額などが決められた。それでも運賃の値上げは認可されなかった。新路線は国が鉄道建設公団を作って続行された。田中角栄首相の「日本列島改造論」や「我田引鉄」と言われた政治家が選挙区に鉄道を誘致し票を得る、利益誘導のために地方ローカル線は利用された。1980年(昭和55年)路線の新規建設が凍結されるまで続いた。

1976年ようやく国が運賃の値上げを認めた。同年の値上げ率は50%、翌年1977年も50%の値上げ、そして1978年から毎年の運賃値上げが始まった。この極端な値上げ策と1965年(昭和40年)から続く「マル生運動」の失敗から労使関係が悪化し、順法闘争やストが派生し、1975年の8日間のストライキで労使関係は決定的に悪化し、職員のモラルが低下は、国民の国鉄離れを加速させてしまった。

1986年国鉄最終年度となった累積債務は25兆円を超えていた。これは途方もない金額であり、債務解消と赤字体質の改善は疑問視された。当時の大蔵省は財政投融資からの貸付を渋り始め、政府保証鉄道債券も引受先が危ぶまれた。付け加えると、最終年度は値上げと合理化の効果により一般営業利益と幹線の利益は黒字となったが貨物の赤字、利子の支払いで全体的には1兆8478億円の赤字であった。

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30年前国鉄は終わった。

1987年政府は長い議論の末に国鉄の分割民営化を決定した。ことの経過は1981年(昭和56年)第二次臨調を設け土光敏夫会長による国鉄改革など財政再建に向けた審議が始まり、その中で「国鉄解体すべし」や「国鉄労使国賊論」などが発表され、分割民営化を前提とした情報発信がなされていった。
1982年第二次臨調は基本答申で「国鉄は5年以内にお分割民営化すべき」と正式表明、国鉄そのものの消滅へと大きく舵を切った。同年11月国鉄再建監理委員会が設置され、国鉄内部では松田昌士、葛西敬之、井出正敏の「国鉄改革三人組」と称されて分割民営化を進めていくことになる。分割民営化に反対する国鉄経営陣は「国体護持派」と呼ばれ、その後推進派と反対派は政界を巻き込んで争うことになる。結果として国鉄経営陣は分割民営化推進派が勝利を収めた。

ここで分割民営化について確認しておきたい。国鉄が分割民営化されてJRになったと理解されていることが多い。JRは政府が100%株主となった新しい会社で、国鉄を継承したわけではなくて、その債務も消えていない。国鉄の債務と人材を承継した組織は国鉄清算事業団である。引き継いだ遊休地の公示価格は約7兆円であった。元々清算事業団が解消した債務の残りは国の一般会計で処理することになっていた。バブル期には一度追い風が吹いた、バブル経済の到来で地価は高騰した。汐留貨物駅跡地など一等地は2倍の価値があるといわれたが、このタイミングで土地売却はできなかった。政府が過剰な地価高騰を招く恐れがある国有地などの売却を停止したからだ。ここで全ての遊休地を売却できれば、長期債務の半分程度は減らせたかもしれなかった。
政府はJRには介入しなかったが、国鉄清算事業団には介入し続けたのだ。国鉄遊休地の売却はバブル崩壊後が再開されたが、景気の停滞で買い手がなかなかつかなかった。当初10年間で売却終了予定が計画通り終わらず、長期債務は25兆円から28兆円まで膨れ上がった。国鉄清算事業団は解散しその業務は日本鉄道建設公団が引き継ぎ、現在は独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構となっている。
遊休地の処分はようやく30年後の2017年に終わった。旧梅田貨物駅跡地の「うめきた再開発用地」と、仙台長町の操車場跡地である。残された長期債務の28兆円は、1998年から一般会計で処理されることになった。国民の負担で、返済期間は60年である。
ちなみに1904年に始まった日露戦争の戦時国債は海外からの借金で、政府はその返済に82年かかった。返済終了は1986年、国鉄が終わった年である。

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JR九州のこと

通称JR九州、九州旅客鉄道(株)は1987年4月国鉄から鉄道事業を引き継ぎ発足した。津高氏が入社した年である。九州地方を中心に鉄道路線を有し、旅行業や小売業、不動産業、農業なども展開し海外にも進出している。
九州新幹線と九州地方の在来線を営業エリアとし、総営業キロ数2273.0㎞、567駅の運営を行う。JR九州発足以来2016年3月まで一度も営業黒字を計上したことがなく、九州新幹線が全線開業した2011年以降も厳しい経営状況が続いていた。2015年に減損会計を実施し、減価償却の大幅な圧縮や合理化で2017年3月決算で発足以来始めて鉄道事業で250.8億円の営業黒字とした。
一方でこの鉄道事業を補完するために、事業の多角化を進めている。その営業範囲は首都圏や関西圏そして海外へも広げている。2017年9月にはタイに不動産開発を手掛ける現地法人を開設し長期滞在用サービスアパートメント事業にも参入している。
総売上高に占める「非鉄道部門」の割合はおよそ51%であり、こうした事業の多角化は経営面での安定化に寄与しており、JR旅客会社の中で経営が厳しいと見られていた「三島会社」では初めて完全民営化を果たしている。
「つくる2016年」中期経営計画で株式場上を掲げ、2016年10月に東証での上場を果たしている。経営環境から鉄道事業をみると、九州は早くから高速道路が整備され、料金面で割安な高速バスと九州新幹線と在来特急による中距離輸送の競争は厳しく、小倉〜博多の新幹線はJR西日本の所有であるなど、主な収益源を得なければならない路線で苦戦を強いられている。近距離輸送でも福岡市や北九州市など輸送量の大きなエリアもあるが首都圏や関西圏に比べると大きな利益をもたらすものではなく、厳しい経営環境である。
このような環境の中で中距離輸送のサービス向上として、割引切符や増発を実施し、あわせてワンマン運転の拡充や駅の無人化を進めている。管内各地のローカル線については「D&S列車」を観光面に特化して運行している。これらの列車はそれぞれ特別なデザインで、運行する地域にもそれぞれの物語がありこのデザインと物語のある列車で、観光地としての印象が希薄な九州を国内から海外にまで発信し、交流人口の拡大をねらっている。目指すのは「心の豊かさ」であり、「新たな人生に巡り合う旅」である。
1989年に同社初の観光列車として「ゆふいんの森」が運行を開始し、2004年からは九州新幹線の部分開業に合わせて、鹿児島、宮崎を中心に多数の観光列車が運行されてきた。九州新幹線が全線開通すると、沿線である熊本、鹿児島でもさらに多くの観光列車が投入された。その列車のほとんどは従来から使用されていた列車のリニューアルでその全ての列車デザインは水戸岡鋭治がてがけてきた。内外装やサービスに乗客を楽しませる仕掛けが施されている。「A列車で行こう」「指宿のたまて箱」「海彦山彦」などネーミングからもコンセプトが伝わってくる。
2013年からは九州管内の七県にまたがるクルーズ「ななつ星in九州」も運行を始め、企画に厚みを増している。またJR九州は駅舎にもこだわる。事例をあげると日豊本線にある日向駅とその周辺環境である。2006年に高架化を完成させ、2007年より旧駅舎の解体を着手し、現在の駅舎は建築家の内藤廣氏が手掛けた。東京大学の篠原修氏も都市計画で加わり、鉄道関係者、行政関係者、そして市民が参画しておよそ10年かけて完成させている。
}地元市民からは地産の杉材を活用することを強く要望され、高架駅にもかかわらず杉材を効果的に設計に組み入れ耐風性にも考慮された木造のような駅外観である。駅舎や高架下の建造物インテリアにも杉材が豊富に使われている。島式ホーム1面2線の高架駅でプラットホームも広い。2008年(平成20年)鉄道にかかわる国際的なデザインコンテストであるブルネイ賞で最優秀賞を受賞した。さらに地元杉材を活用した駅舎と駅周辺の景観は国土交通省に評価され、2014年度の都市景観賞を受賞した。内藤廣氏といえば鳥羽にある「海の博物館」が出世作であり土地に根付く建築として印象深い。東京大学では土木課に招へいされ教鞭をとり、「建土築木」を提唱し、ユニークな講義をおこなった。ちなみに今回のスピーカーである津高氏も土木畑である。

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結びとして。

旅からの気づきとは<方向>と<意味>と<感覚>から生まれるものである。多くの人は旅を人生のアナロジー(暗喩)と考える。それは身近な生活の中でもよく見られることである。人は 旅<未知と偶然の要素を多く含んだ>に出るとき、どこへ行きたいか、何かを調べたいかといった、なんらかの意味で目的を持った自分の意思とは別に、一種のあやしい胸のときめきを感じるものだ。それは一抹の不安を交えた心の華やぎであり、それによって旅立ちは独特の感情の色づけがなされる。まさに「いい日旅立ち」という国鉄のキャンペーンはここからきているのではないかと思う。旅への出立がすぐれて演劇性があり、祝祭性を持ちうるのは、そのような感情の色づけのためであろう。
旅立ちの場所である駅舎やプラットホームが現在の生活の中では珍しく濃密な意味場を形作り、そこに毎日多くのドラマや祝祭が見られるのは、誰もが知るところである。旅立ちに際した時のこのような不思議な心の在りようを巧みに捉えた先人は次のように書いている。

「春立る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ神のモノにつきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、云々」(松尾芭蕉・おくの細道)

旅が日常性を超えた、異次元への飛翔ともいうべき側面を持っていることをよく示している。日常が惰性的であればあるほど私達の心は閉ざされる。そんなときに旅は私達の心を開かれた予感に満ちたものにしてくれる。旅先で見たものや聞いたものは、しばしば私達に新鮮な驚きを与え、旅先で出会った出来事はしばしば私達に強い感動を与える。旅に出ると人は誰でも<芸術家>になり<詩人>になる。このとき人は日常とは違った、深層の生を生きることになり想起的で表象的な記憶がイメージの全体性を強化していく。だから旅での想起的記憶はすぐれてコスモロジカルであり身体的であるのではないか。鉄道とそれによる旅はこのように私達に<方向>を与え、濃密な<意味>を与えてくれる。「偉大とは方向を与えることだ。」プラトン

年度の初めに

小売業で明暗が分かれている。2017年の全国スーパーマーケット既存店売上高はネット通販などとの競争激化で、2年連続で減った。コンビニエンスストアと百貨店も伸び悩む。一方でドラッグストアはスーパーなどが得意とする食料品や日用雑貨品を充実させ客を呼び込んでいる。株高などで富裕層の高額品が好調な一方で、消費者の節約志向も根強く業種間の競争が激化している。2018年度最初の定例会はこのスーパーマーケット業界で北の大地そして巨大な島である「北海道」にて気を吐く桐生宇優社長の登壇である。

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北雄ラッキーのことから始めたい。

1971年(昭和46年)食品の小売及び卸売を目的として、札幌市手稲西野に株式会社オレンジチェーンが設立された、1974年(昭和49年)に商号を山の手チェーンに変更し、本格的にスーパーマーケットチェーン展開を開始した。同年5月、山の手店をはじめ5店舗の営業を始め、これが北雄ラッキーの始まりである。現在札幌市を中心に北海道全域に展開しているスーパーマーケットである。
1982年5月 株式会社まるせんと合併し、北雄ラッキー株式会社に商号を変更し、同年株式会社札幌惣菜センターを設立し、惣菜・米飯・漬物類の製造販売を開始した。1977年EOS(補充発注システム)を導入し、1991年にPOS(販売時点情報管理システム)を導入した。1994年には 株式会社シティびほろ と合併し道東地区へ進出、1997年にインストアベーカリーをてがけ各店へ導入、1998年山の手店を増床のうえ大規模改装を実施し新しいプロトタイプ店舗づくりに着手した。2015年には山の手店を建て替えて新装オープンさせフラッグシップショップとしている。
以上が沿革の大筋である。
現社長の桐生宇優氏は2代目で、理工系大学の出身でシステムエンジニアリングから社会でのキャリアをスタートさせている。家業のスーパーマーケットの経営は門外漢であったが、事情により後を継ぐことになった。従業員は正社員487人パートナー社員1468人で、成長戦略は取らず、直近の5年間は430億円前後の年商である。スケールでは勝てないので、質で勝負している。企業理念は「北雄ラッキーは日本一質の高いスーパーマーケットをめざします。」
北雄ラッキーは以上の成り立ちを見ても、北海道という大きな島に根ざして広域に、けっして密ではなく道内に展開する。稚内は札幌から329㎞、網走は札幌から334㎞、桐生氏は長距離トラックのドライバー並みに道内を駆け回る。(ちなみに大阪から広島が331㎞である。)物流効率もよくない、競合状況をみても巨大なスケールのイオンや生協、セブン&アイ、アークスなどに寡占化が進んでいる。まさに2代目桐生氏は荒波の中の船出であった。

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スーパーマーケットのことを確認したい。

スーパーマーケットは高頻度に消費される食料品や日用品などをセルフサービスで短時間に買えるようにした小売業態である。その名称は「市場(いちば)」を意味する“マーケット”に、「超える」という意味の“スーパー”を合成し、「伝統的な市場を超えるほどの商店」の意で作られた造語であるが、スーパーマーケットの事業が拡大するうちに一つの名詞となった。
特定の品目を専門的に扱うのではなく、幅広い品目の商品を取りそろえることが通例である。余談ではあるがスーパーマーケットという言葉を日本で初めて店名として使ったのは、京阪電気鉄道株式会社が1952年(昭和27年)旧京橋駅構内に開店した「京阪スーパーストア」が最初であった。

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スーパーマーケットの歴史を振り返る。

欧米での小売店はかつて、客と店員がカウンターを挟んで対面し、客の注文に応じて店員が商品を取り出す対面販売方式が通常であった。また当時食品や商品は消費者が購入するサイズに分けて包装しているわけではなく、客の注文に応じて切り分けたり、計量して包装する必要があったので労働力への依存が大きく、コストも高くついた。購買にかかる時間もおのずと長くなり、一度に対応できる客の人数は店員の人数によって制限される。この形態の小売店は現在も精肉店・洋菓子店などの専門店で存在している。セルフサービスの食料雑貨店というコンセプトはアメリカの企業家クラレンス・ソーンダースが創業したPigglyWiggyが起源である。1916年9月テネシー州メンフィスに一号店がオープンした。この店舗は大成功でソーンダースは特許を取得してフランチャイズ展開を開始した。TheGreatAtlanticPacificTeaCompany(A&P)もカナダとアメリカで同じ方式で成功を収め、1920年代の北米の小売店を牽引した。夜間に商品陳列し、翌日顧客が棚から商品をカウンターに持って行って支払うというセルフ販売方式は時間短縮など大幅な合理化につながり、規模の経済効果の実現と労働力の不足を補った。生鮮食品を扱う食料雑貨店も1920年代に誕生している。

アメリカにおける現代的な、この一つの店舗でいろいろなモノが買えるという革命的な業態スーパーマーケットは元クローガー(グロサリーストア)の従業員だったマイケル・J・カレンが大恐慌の翌年、1930年8月にニューヨーククイーンズ区のジャマイカ地区に560㎡の空きガレージで始めた店舗King Kullenが最初だとされている。「高く積み上げ、安く売る」をスローガンとして経営した。1930年代は既存のクローガーやセイフウェイ食品雑貨チェーンも在り、カレンのアィディアに抵抗したが、世界恐慌で景気が落ち込み、消費者の価格志向が強まり、結局既存のチェーン店もス−パーマーケット方式へと転換していった。クローがーはさらに革新を重ね、四方を駐車場に囲まれたスーパーマーケットを初めて建設した。

第二次大戦後は、郊外の開発が進みカナダやアメリカではスーパーマーケットの展開が拡大していった。北米のスーパーマーケットの多くは郊外のショッピングセンターの中心となる店舗として建設されてた。スーパーマーケットチェーンの多くは地域的なもので全国的なブランドではなかった。クローガーはその中でもアメリカ全土に知られているが、傘下には多数の地域ブランドを抱えていた。また都市の郊外へのスプロールとともに、モータリゼーションによって自動車で買い物に行くという文化が生まれ、大規模な駐車場を備えたスーパーマーケットが確立していった。

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日本におけるスーパーマーケットの来歴は

セルフービスのスーパーマーケット業態が日本に導入されたのは、高度経済成長期を向かえつつあった、1953年に東京・青山にオープンした紀ノ国屋が最初である。高級青果店を営んでいた増井徳男が米軍の求めに応じて、生のままで食べられる清浄野菜を米軍用売店(PX)に納入するようになり、そこで得たアイデアであるショッピングカートやレジスターを店舗に導入し、ガラス張りの店舗ファサードとともに話題を呼んだ。当時の紀伊国屋は、高所得者や外国人向けの店舗で庶民にはまだまだ遠い世界であった。

日本の場合、売場面積300㎡から3000㎡以上までいくつかのタイプが認められる。大規模なものでは食料品・日用品といった消費財から、衣料品・家電までの耐久消費財までを扱う、ゼネラマーチャンダイズストア(GMS)が主に市街中心地に数多く出店された。
1990年代後半以降は、規制緩和によりタバコ・酒類などの免許品の取り扱い、長時間営業・売り場面積の拡大・新規出店の増加が進んだ。ここでスーパーマーケットを類型的に分類してみたい。

食品スーパーマーケット:食品の売上構成比が70%以上あり、業態の中では最も多い。住宅地に隣接した立地で、来店頻度は週に2.3回が想定される。生鮮食品を主力として日常生活を支えることを目標としている。郊外型の大規模な店舗はスーパースーパーマーケット(SSM)とも呼ばれ、インストアベーカリー・惣菜の調理場・イートインスペースなどを備え、最終加熱するだけの食品販売などミールソリューションを行うようになってきている。また1980年以降に急速に広がった大衆のグルメ志向もあり、一般では手に入らない食材なども揃えられる。

ミニスーパー:2000年代半ば以降、首都圏居住者の都心回帰や人口の高齢化が進み大規模な敷地の確保が困難な都心部ではコンビニ程度の店舗面積のスーパーが増え続け、ミニスーパーと呼ばれている。自宅周辺に立地し、コンビニほども高くなく、売れ筋商品中心に一般のスーパーに準ずる品揃えがあることが強みとなっている。厨房を持たないので、肉・魚・弁当・惣菜などの商品は工場から運ばれる。

衣料品スーパー:商品の大部分を衣料品で占め、その売上構成比が70%以上ある店舗。元々は衣類販売店が大型化していったものが多い。

総合スーパー:構成比が70%以上の部門がなく、3つ以上の部門にわたって品揃えしている店舗。GMSと呼ばれるがアメリカは食品を扱わないので日本と異なる。日本で初めてこの業態で営業を始めたのは、福岡市のユニードである。複層の建物で、敷地は広い。品ぞろえの幅も広く、日々の買い物よりも週末などのまとめ買いに向いている。

1990年以降は郊外型の大型店が多く立ち上がり、現在にいたっている。スーパーマーケット業界を牽引していたダイエーの業績が悪化し始め、総合スーパーの力は弱まっていった。その原因の一つとしては専門店の台頭とGMS自身の何でも扱っているという品揃えの薄さも上げられる。
インターネットを使った地域商圏内の消費者に直接商品を届けるサービスも始まり、もともと消費大国アメリカのチェーンストア(正式にはチェーンインダストリー)を忠実に実行することから始まった日本のスーパーマーケット、チェーンストアは大きな変化に直面している。今後何でもそろっている超大型店の時代から、食品と衣料・家電・ドラックスなどに特化した専門店チェーンの競争時代に入っているといえる。ことに、どんな不況の中でも人の生活に欠かせない食料品を扱うチェーン店舗が好調である。

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再び、北雄ラッキーのこと。

北雄ラッキーは4つの店舗フォーマットを持つ、大型店は500~600坪の食品と700~800坪の衣料品で構成されている。中型店は食品600坪を中心に1000坪程度のスケールで展開され、小型店はラッキーマートとして人口5000人~7000人程度の商圏に対応する。
山の手店は旗艦店舗として2015年より建て替えて営業している。北海道は札幌や函館など都心を含む商圏や稚内や網走など地域商圏ともいえるエリアなど広域で多様である。画一的な店舗フォーマットで大規模に展開するより多彩なパターンで質を重視して展開するほうが島では有利にはたらく。

北雄ラッキーの事業展開コンセプトは明快である。「料理をする人を応援する」をコンセプトに、その商品ラインアップは切れ味が鋭い。“商品力”としては「ラッキー100のアイテム」をかかげて、地域商品は店長の権限でバイイングできる。“マーケティング力”としてはお客様と商品の接点を作り出すこと。営業施策は常に点検し追加施策もタイムリーに実施する。
“現場力”としては店長を主役として決定権を持った個店経営である。店舗での成功例を増やすために現場のチーフ力も強化する。チーフが活性化すれば売上も向上する。スーパーマーケット業界にありがちなブラックな職場の対極にある現場である。
以上のうち特に商品力については時代背景に合わせた6つのMDを持つ。
パワープライス(スーパーマーケットにとって大切)
量のMD
即食、簡便(紅鮭の切り身をさらに半分に、小分けされた高級ブドウ、下ごしらえされた骨付きチキンなど
地元MD(大手にはできない、できても続かない、小樽の生シャコ、ワカサギの佃煮、協働学舎のラクレットなど)
ティスティラッキー(毎日食べるものだから本当のこだわりを食べ慣れてもらうことを大切に、金華豚、アサヒぽん酢、バゲットなど)
ナチュラルラッキー(おいしさと健康は我慢だ!有機野菜、オーガニックワイン限定されたターゲットにも集中して展開)
こうした料理をするという行為にこだわった特化カテゴリーを現場で決定し積極的に展開し料理における「専門性」を表現していく。
MDの水平展開におけるグレード合わせ、重複アイテムの整理統合など地道な努力も含めて、このように小回りが利くことは大手に対抗できるブランディングなのでは。桐生氏は「生き残る」ではなく「勝ち残る」のだと強調する。これも北海道という島であることから生まれた戦い方なのでは。

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結びとして、

島の規則

古生物学に関する「法則」がある。

島に住んでいる動物と大陸に住んでいる動物とでは、サイズに違いが見られる。典型的なものはゾウで、島に隔離されたゾウは、世代を重ねるうちにどんどん小型化していった。島というところは大陸に比べ食物量も少ないし、そもそもの面積も狭いのだから、動物の方もそれに合わせてミニサイズになっていくのは、なんとなく分かる気がするが、話はそう単純ではない。ネズミやウサギのようなサイズの小さいものを見てみると、これらは逆に、島では大きくなっていく。島に隔離されていると、サイズの大きな動物は小さくなり、サイズの小さな動物は大きくなる。これが古生物学で「島の規則」と呼ばれているものだ。・・・

動物には、その仲間の体のつくりや生活法から生じる制約がある。だからサイズにしても、むやみと変えられるものではなく、ある一定の適正範囲があるものと思われる。その適正範囲の両端のものは、何らかの無理がかかっていると見てよいのでは。北雄ラッキーの桐生社長の戦略は、北海道という島(いささか大きいが)においては示唆に富んだ戦略といえる。


ワールド・ワイド・ウエッブ(www)誕生から2018年3月で29年を向かえる、今や地球はどんどん狭くなり一つの島といえる状況に立ち至っている。産業革命から近代、これまでは「大陸の時代」だった。これからは好むと好まざるとにかかわらず「島の時代」になる。日本人は島に住んでいるのだから、自己のアィデンティティーを確立し強みを発揮するためにも、

「島とは何か」

を、まじめに考えるべきだと思う。



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2017年度末における所感

早いもので本年度も最終の定例研究会となった。
思い起こせば前期の野外研修は8月の暑い日、京阪奈に出かけて国立国会図書館とサントリーの研究所を訪ねた。確か都市の成り立ちとサントリーがこだわる「水」の話になったと記憶する。京阪奈の丘に埋め込まれた建築に存在する膨大な知の集積と土地の記憶、さらに「水」の物語である。今回の研修も古都京都の「水」にまつわる話になった。

私たちが日常感じている都市空間は目に見える物理的実体のみで成りたっている訳ではなくて、人をとりまきその五感のすべてに働きかけ、訴えかけ、または感じ取っているものこそが都市空間である。都市は近代以降に急速に表面をおおいだした広告記号や電脳的情報に覆われ埋め尽くされ窒息思しそうになっている。だからこそ、不可視の見えないもので充満していると考え直してみると、都市をもまたマーケティングの方法として再編成できるのでは・・・

MCEIが実務家の集まりとすれば、人と人・人とモノが切り結ぶ都市空間を経験的、感覚的にとらえることも重要になってくる、しかも動的にとらえることだ。都市もまた動的平衡の中に存在する。人を含むあらゆる生命体がそうであれば・・・まずは都市と水の関係そして水が育んだ「和菓子」と「日本酒」の物語から始めてみたい。

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京都水盆

遠い過去から、京都に暮らす人々は、豊かな地下水の恵みを受けてきた。
世界の中でも1200年の栄華を誇る都市は数少ない。京都乙訓山城地域の多くの自治体は、水道水源の大半を地下水に頼っている。一本の井戸で一日2000〜2500t揚水して、8000人〜10000人に生活用水を供給している。京都市内には河原町、白河、今出川、堀川、御池など水に関わる地名や通りがたくさん存在する。都市が安全に維持されるためには、生活に欠かせない良質の水を安定的に確保する必要がある。
京都盆地は南北33㎞、東西12㎞の縦に長い形状をしており、地下水は主に沖積層の砂礫層に多く包蔵されている。その砂礫層は最も厚いところで巨椋池あたりで800mある。そしてその地下水が流れ出す箇所は桂川、宇治川、木津川の三川が合流する天王山と石清水八幡宮が鎮座する男山の幅1㎞辺りのみである。天王山と男山は同じ古生層からなり、その下を流れる淀川と繋がっておりその深さは30mである。すなわち、幅約1㎞の天然の地下ダムができている。そのためほんの僅かしか地下水は流出せず、結果京都盆地には大量の地下水が貯留されている。その地下水量は驚くべきことに琵琶湖の水量に匹敵する211億トンにもなる。関西大学環境都市工学部の楠見教授はこれを京都水盆と名付けた。

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古代の果子から和菓子へ

食が充分ではなかった古代人は、空腹感を感じると野生の「古能美(木の実)」や「久多毛能(果物)」を採って食べていた。


この間食が「果子」と呼ばれるものになったと考えられている。食べ物を加工する技術が無かった太古には果物の甘味を特別な恵みと感じ、主食と区別したと考えられる。


日本最古の加工食品は農耕が始まった頃で、まだまだ食べ物は不足していて椚や楢などどんぐりを粉にして水に晒してアクを抜き、団子に丸めたものに熱を加えたものである。「団子」の始まりでやがて934年頃「餅」が誕生した。当時としては何よりも大切な米を用いたので神聖なものとして扱われた「豊後風土記」。


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遣唐使(630年〜894年)が唐朝から持ち帰った「唐菓子」は米・麦・大豆・小豆などをこねたり、油で揚げたもので祭祀用として用いられ後の和菓子に大きな影響を与えた。鎌倉時代初期(1119年頃)栄西によって伝えれた喫茶の流行は「茶の湯」につながり、室町時代の茶席の点心の中に、「羊羹」がみられる。


「羊羹」は羊の肉を使用するが当時獣食の習慣の無い日本では麦や小豆の粉で象ったもので代用した。後に1800年頃寒天が発見されて練羊羹に変化していった。このように茶の湯の菓子は和菓子の発展に影響を与えていった。


その後南蛮菓子の渡来があり、ボーロ、カスティラ、金平糖、ビスカウト、パン、有平糖など現在にも残る和菓子の原型となった。戦乱が止み江戸時代に入って、和菓子は大きく発展し、京都の和菓子と江戸の上菓子は競い合うように発展し菓銘や意匠に工夫を凝らした和菓子が次々に誕生していった。


現在の和菓子の多くは江戸時代に誕生した。当時は砂糖はまだまだ高価で「菓子見本帳」によって受注し製造していた。

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亀屋良長と醒ヶ井

亀屋良長は元々京菓子の名門と謳われ一時江戸にまで名を知られた菓子司の亀屋良安が火災にあい家業を続けられなくなり、暖簾分けするかたちで当時の番頭がその意思を継ぎ1803年に四条醒ヶ井の地に創業した。
当時大宮から西は壬生の辺りまで田畑が広がるだけであった。その様な商家には不向きな立地に創業したのは、“水”へのこだわりであった。
だから、四条醒ヶ井の地は亀屋良長にとって特別なこだわりを持っている土地である。地名の由来となる「佐女牛井」は、もとは源氏堀川邸にあった名水であり、足利義政や千利休も用いたと伝えられる。場所は少しはなれるが亀屋良長が掘った井戸から、良質の水が湧き出たことは醒ヶ井という地名と深い因縁を感じる。

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平成3年に社屋を新築し、昭和37年の阪急地下鉄工事で枯れていた井戸を80mの深さまで掘り直し、「醒ヶ井」と名付けて再び菓子作りに使用している。和菓子は米粉、豆、砂糖、水で成りたっていて、とりわけ水は大切であった。水は和菓子の味を決める重要な要素で、良質の水を使うと、小豆や餅米などの素材の香りが際立ち素直で洗練された味わいが立ち現れる。江戸時代から使われ始めた砂糖はことさら貴重で、各都市では銀の流出を防ぐために製菓業を組合によって制限することが常であった。京都市内では248店舗が御免となり製菓業を営んだ。

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研修でいただいた菓子について印象深ひと品を記述する。創業以来の銘菓である「烏羽玉」で、二百年近い年月を経て、今なお往時のままの姿を残している。茶花のヒオウギの実である「ぬばたま」を象った菓子で、黒砂糖とこし餡を練り固め、寒天でくるんで芥子粒を振り掛けたもの。漆黒の銘菓である。

家訓“懐澄”は二代目当主が定めたもの「懐が澄む」と訓む、いつ懐を見られてもよいように、適正な利潤を上げ、またそれを還元、循環させ、常に清らかにしておくようにという意味である。現当主八代目吉村良和氏は、「私は、菓子作り、あるいは経営において、京都に住む人や京都を訪れる人の期待に添える商売をしなければいけないと考えています。そのためにはやせ我慢も必要ですが、誇りを持って歩んでいれば、やせ我慢もまた美しく見えるものでありましょう。京都の文化を支えてきた「水」を大切にしながら、今後も精進していきたいと思います。」と語る。

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伏水と黄桜

京都は450年前から酒造りが盛んで、伏見地区には約30社の酒造会社があり、現在でも酒造りには地下水を使っている。黄桜株式会社は初代松本冶六郎が1925年(大正14年)に伏見の蔵元・澤屋(現松本酒造)の分家として創業した。

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近代的な工場を完成させ、首都圏を主力市場として全国に販路を広げていった。また進取の精神を持つ松本はいち早くマス媒体での広告を始めた。社名の由来は、社長が黄桜の花(淡く緑色がかった白い花を咲かせるサトザクラの一種)を好んだことから。

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漫画家清水昆が描く河童を長期にわたりマスコットとしており、1974年からは漫画家清水功がデザインを担当している。楠トシエが歌う「河童の歌」も数十年にわたって使用している。大塚製薬や日産自動車とともに讀賣グループとも関係が深い。伝統の日本酒文化を継承しつつ「品質本位の酒造り」をモットーに、酒それぞれの個性を主張する商品開発をこころがけ、ロングセラーの「金印黄桜」、「呑」、「山廃仕込」、「辛口一献」などを発売し、常に時代のニーズにきめ細かく対応した商品開発と販売戦略を展開している。

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また若年層や女性にも親しめる純米大吟醸やスパークリング清酒にも取り組み、地ビール業界へもいち早く参入し、記念館と地ビールレストランを併設する「キザクラカッパカントリー」や吟醸酒造りと地ビール造りを一度に見学できる「伏見蔵」を運営している。伏見蔵は日本酒造りの骨格となる、麹造りや立ての様子、仕込みなどの工程見学ができる。

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1995年誕生した京都初の地ビール「京都麦酒」は、仕込みタンクや醸造タンクが並ぶ醸造所、缶充填から箱詰めまでの工程を公開している。また酒造りのこだわりに関するパネル展示やイメージキャラクターの「河童」の紹介コーナーもある。


今回研修はこの施設の見学と懇親会をお世話いただいた。これらの地域活性化に貢献する活動と「品質本位」をモットーとした醸造技術を化粧品や食品などへも分野を拡げた事業展開は人々の豊かな生活へと繋がっていく。現松本真治社長は「売上が伸びている地ビールの生産量を拡大することで、多くの来日客に訪問してもらい、近年販売量が減少している日本酒の輸出をふやすことが目的」と語る。


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まとめとして

マーケティングは人と人、そして人とモノが切り結ぶ偶有性の中にある。ことに人の行動は常に、最初は衝動的で不正確であるが、安定と正確性はその後にくるものであり、人々を魅了することを学ぶ時間が必要なのである。

伝統という束縛が自由とか順応の可能性を妨げるのではなく、促進するようにするためには、伝統という時空間はいかに構成され得るのだろうか?つまり大切なのは、それを満たすことではなく、慣習を絶えず粉砕することによって、それを維持し奮起させることである。

その時に物事の全てを自分でコントロールしょうと思ってはいけない。不安定な状況の中に身を置く、その目標に向かって確固たる目標を持って邁進することが重要である。ことに人と人の偶然の出会いとそこにおける直観はマーケティングの現場においてダイナミックに作用することが在る。”科学”あるいは”アカデミック”が重要視されるが、“世界を観る独特の方法ではあるが唯一の方法ではない・・・われわれは科学的認識によって学ぶと同時に感情や生活によって学ぶ。
科学は真理への通路の一つであるが、通路は他にもある。ことに偶有性が大きく影響するマーケティング活動においては、未来を創るのは事実の蓄積だけではなくて、人類を愛する前向きな人の心、人の心の延長線上に未来があって、それらは創造される。未来はひとりでにやって来てはくれない。我々が正しい方向で仕事することこそが、未来へのよりよい出発点となる。

一年間有難うございました。”Marketing of the Future” そしてその次へ!


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小嶌久美子さんのこと

世界のコワーキングスペースを巡り、コワーキングスペースの実際を語ることはそのヒューマンスケールの空間デザインを論じる事だという。目に見えない数値化されない空間の価値までも、体験したまま明晰に伝えることを目指している。小嶌氏は東京大学工学研究科土木を修了しその後ニールセン・カンパニー、リクルートパートナーズを経て、2015年より京都を拠点としてフリーランスとなった。行政からコワーキングスペースの調査を委託される、その他にも観光事業やコワーキングスペース立ち上げにも幅広く関わっている。今回のテーマは「世界のコワーキングスペース事情〜異業種・多職種が集まるワークスペース、その共創の仕掛けと作り方〜」である。



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コワーキングスペースが今注目される理由とは
便利な立地に多様な空間、最新のIT環境などを備えた“働く場”を、それぞれ個別の仕事を持つ“働く人”たちが共有することがコワーキングである。

起業家やフリーランサーなど個人が集まることで始まった新しい“働き方”だが、その波は企業、企業人にも及んできた。世界のコワーキングスペースは2010年には7800か所に急増している。(米・総合不動産サービス業ジョーンズ・ラング・ラサール調査)
コワーキングスペースの柔軟性は高い。月単位、一人ずつなど期間や人数が少ない数量から調整可能なので長期の不動産計画に縛られない。社内のニーズの変化に応じて仕事の場を低コストで調達できるのでかなり自由度は高い。企業は競争の激化と既存事業の変化にさらされており、柔軟なオフィス投資へのアクセスが重要になってきている。
日本には、会社が第二の家族となり何十年も一緒に過ごすような組織文化がある。まだまだ多様性の低い職場が多い。こうした環境下では、反対意見を述べるということはリスクとなり、権力のある人の意見や集団の空気を忖度し、それに沿った形で同意する「集団思考」マインドに陥る可能性が高まる。
このような「集団思考」の環境下ではクリエイティブなアイデアは生まれにくいし、有意義なコラボレーションの形成も困難である。今日では多くの企業がこの硬直的な組織あり方に限界が来ていることに気づいて、オープンイノベーションやコワーキングなど、より多様性があり、開かれた環境を提供することに積極的になってきている。
どうすれば企業はより深く個人の成長にコミットできるのか。経営者や組織のリーダーは、個人の成長を組織の成長につなげる視点を持ち始めている。目先の効率ではなく、個人の自由な働き方や新しいアイディアやイノベーションの「創造性」を促す環境である。いっそうの少子高齢化を迎える時代でもあり、どの世代もコワーキングは選択の幅を広げてくれるものとなる。

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コワーキングスペース、近代との相克で考える

コワーキングスペースを考えるにあたって、1960年代からの近代もしくは近代建築を批判したムーブメントを捉えてみたい。そこに現在のコワーキングスペースに繋がる里程標が埋め込まれているからだ

オフィスランドスケープ

ブルペンオフィスと呼ばれる1940年〜50年代のアメリカにおける典型的な大部屋形式のオフィス(間仕切りの無い体育館のような空間)をドイツのビジネスコンサルタントが視察し最初にこのコンセプトを生み出した。

1950年代後半から60年代後半のことである。ここから生まれたオフィスランドスケープとは近代建築の延長線上に現れた、当時新しく、極めて特異なタイプのインテリアデザインであった。ドイツ語のBuro-Landshaftから出ており、ヨーロッパで発達したオフィスプランニングだ。それは従来のモダンデザインの原則を破壊しているように見える。

平面計画では、家具や可働間仕切りなどが、空間にあたかも無秩序にばらまかれているような印象は、当時のデザイナー達に大きなショックを与えた。この手法を開発したハンブルグのクイックボーナー・チームは、実際デザイナーというよりはむしろオフィスマネジメントのコンサルタント達であった。

彼らはオフィスの運営内容を研究調査した結果、オフィスプランニングとは、コミュニケーションのパターンを基盤にすべきであり、他のデザイン上の諸条件(外観、地位や権威の象徴、因習的な形式など)はむしろ無視し、あるいは二義的な問題と結論づけた。

各オフィスの配置は、日々の作業機能によって最も重要なコミュニケーションの流れによって決定される。そこではコミュニケーションが極めて容易となり、循環する空間を共有する結果、スペースの節約とすべての運用が敏速かつ経済的となる。

あわせて従来の空間内の地位の象徴や価値を捨像することにより、オフィス内でのさわやかな人間関係やモラルを確立し、仕事の能力向上に役立てることを目指した。その設計手法は、まずオフィスの成り立ち、そこで働く人々が関与するすべてのコミュニケーションの調査から始められる。

そのデータを分析し、それぞれのコミュニケーションの最短距離を結ぶ一線にワークスペースを配置していくものである。レイアウトの詳細は幾何学的ではない。しかしこれは無秩序を意味するものではない。この設計手法は当時ヨーロッパを中心に発展してきた。

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パターン・ランゲージ

「パターン・ランゲージ」は近代都市計画批判の立場から新たな建築方法論として、カリフォルニア州立大学バークレイ校の環境デザイン学部教授だったクリストファー・アレクサンダーが1970年代から提唱しているものである。

その中で、人々が心地よいと感じる環境(都市・建築)を分析して253のパターンを提示した。

それぞれのパターンは集まり、それら相互の関係の中で環境が形づくられる。194は町・コミュニティに関するパターン、95〜204は建築に関するパターン、205〜253は構造・施工・インテリアに関するパターンで、そのパターンの例を上げると「小さな人だまり」「座れる階段」「街路を見下ろすバルコニー」など、これらのパターンは世界各国の美しい街や住空間に共通する普遍てきなものであり、かつては誰もが知っていたパターンであったが、近代都市計画による急激な近代化の中で忘れられてしまったものである。

既存の建物を撤去したまっさらな土地に区画整理を導入し、道路や建築を立てるといった近代都市計画とは正反対の思考であり発想である。既にある街の文脈を読み、狭い路地や目にとまる植栽、窓からの眺めといったヒューマンスケールな情緒的、詩的ともいえる要素を重視するものであった。

 

建築の多様性と対立性

ロバート・ベンチューリの「建築の多様性と対立性」(1966年出版)は1960年代に近代の転機を理論づけたものである。当時正当な近代建築家は、社会的機能の複雑さを無視し、初源的で一元的なものを理想と考え単純性を追求した。いわゆるモダンデザインである。

ルコルビュジェは「明確でしかも曖昧さの無い偉大な単純形態」、ミースは「Less is more」 カーンは「単純性への欲求」と言った。近代建築を中心とする当時の革新者達は、要素を分離または排除することで建築やデザインの多様性を認めてこなかった。ヴェンチューリーはこの単純化に対して「単純性がうまく作用しないと、ただ単純さが残るだけである。

あからさまな単純化は味気ない建築を意味するのだ。より少ないことは退屈である。「Less is bore」ヴェンチューリは単純性(simplicity)と単純化(simpleness)を明確に区別する。近代の機能性や合理主義と合致し正当化され広がっていった単なる建築の単純化はすべての問題を解決できることはない。ミースの言葉を拡大解釈した、いき過ぎた単純化を批判した。

「単純性(simplicity)と秩序の間に合理主義が生まれたのだが、合理主義は激変の時代にあっては物足りないことがわかってきている。それとは正反対のものから、均衡が作り出されるべきなのである。そうして得られた内的平衡が、対立性と曖昧さとの間に緊張をもたらす。・・・・逆説をよしとする感情は、いくらか対立すると思われるものの共存を許容し、それらの不調和そのものがある種の真実を提示するのだ。

オーギュスト・ヘッシャーの言葉を引用、「何かを排除するのではなく、受け入れようとする建築においては、断片、対立性、即興、またそれらの緊張状態などを取り込む余地があるものです。」ヴェンチューリはここに可能性を見ていたのだ。多様な建築への欲求は十六世紀のイタリアや古典時代のヘレニスム期、マニエリスとの時代において共通に見られた姿勢である。

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小嶌氏が注目する、WeWorkとは

Do What You Love 、つまり「心から好きなことをせよ」。

仕事は自己実現の手段であるべきだという哲学が込められた、同社を象徴する言葉であり、世界中のクリエイターを魅了するストレートなコンセプトだ。

WeWorkは現在、開設予定を含めて全世界52都市に211拠点を持つ。メンバーは世界に約14万5000人いる。まさにコワーキングの雄である。もちろんメンバーはこの言葉を地で行くような「成功した自由人」ばかりではない。

「自己実現している人に囲まれていると、自然に同じようなマインドを持つことができるようになるものだよ」「頭で考えてしまうと難しいけど、体感すればよくわかる。・・・・・

僕たちのネットワークに入れば、世界中のクリエイティブな活動を間近に感じることができる。好きなことをやって成功しているメンバーの体験を共有することで自分もそのムーブメントの一部なんだという実感が得られるからね」と語る共同創業者のミゲル・マケルビーはオレゴン大学で建築を専攻し、2008年に後にWeWorkを立ち上げるアダム・ニューマンからシェアオフィスの構想を聞く。2010年にWeWorkを共同操業した後は、チーフ・クリエイティブ・オフィサーとして建築インテリアデザインを取り仕切っている。

空間設計に際してはデータアナリストを交えてユーザーの行動を徹底して分析して、空間設計を提供し続ける。各都市ごとのユーザビリティを追及し、個々の文化に根ざしたローカルな運営ができる空間を設計していく。

「運営方法は地域によって様々だけれど、ポジティブな空気は共通だね」(WeWorkJapan CEO クリス・ミゲル)属性も専門分野も異なる、物理的に離れたオフィスにいるユーザーが等しくモチベーションを保つためにWeWorkが独自に運営するこのコミュニティが効果を上げている。

WeWorkが目指すのは単なるアウトソーシングの効率化ではない、「それぞれの地域には得意分野があり、それは素晴らしいことだが、だからといって固定観念に縛られ、その能力を限定するのではなく、むしろ従来の役割分担をひっくり返し、ポテンシャルを育てること!」だという。

それぞれの地域、世界で創造的な役割を果たすための手助けである。入居者で近年法人のユーザーが急増している。2016年は新規メンバー約1万6000人のうち、30%がグローバル企業の社員である。

「小さいものから大きいものへの影響力」WeWorkが目指すのプラットフォームになることである。「前に倣え」の大企業病への処方箋となる。この失敗を恐れなくていい環境は、日本のイノベーターにとっても良い触媒になるかもしれない。

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まとめとして・・

世界を巡り、探索を続ける小嶌氏が共創を生み出すコワーキングスペース4つの設計要素を上げる。小嶌氏は設計者、デザイナーとしての眼差しで「場」の生成を分析している。

集める(利用者が集まるための要素)集める(利用者を選び決定する項目)つなぐ(連携・関係をつくる仕掛け)育てる(メンターやアドバイザーから学ぶ仕組み)といった要素で空間を調査分析していく。

イノベーションの原点は新しい知を生み出すことである。経済学者ヨゼフ・シュンペーターは「新しい知」は既存知と既存知の「新しい組み合わせ」から生まれると説明する。人は新しいアィデアを考え付くときにいままでつながっていなかった知と知をつなげている。現在のようにネット環境が発達すると、仕事による近接性は必要なくなる、というがそれは違うのではないかと思う。

ネットで得られるような知や情報は、年齢・経験に関係なく誰でも入手できる。ということは、ビジネスの優劣を決定という意味では、価値がないということだ。本当に価値ある知や情報は人と人が直接交流して得られる知と情報なのでは。

だからアメリカのシリコンバレーにあれほどの企業がいまだに集積するわけだし、コワーキングスペースのように様々な人々が集まる「場」に「知と知の組み合わせ」が次々と生まれていく。今、企業にとってコワーキングスペースが必要だと説くJLLコーポレートソリューションズのマリー・ビュイバローはキーワードとして「イノベーション」と「コラボレーション」と「ヒューマンエクスペリアンス」を上げる。

長年世界のクリエイターやスタートアップを観てきたWeWorkのミゲル・マケルビーは、あることに気付いた。どんなに優秀で独創的なアィデアの持ち主でも「自分よりも優れた「何か」の一部になりたがっている。・・・

コワーキングスペースが創造する「未来」がそこにある。

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栃内三男氏のキリンでのキャリアは1979年営業企画課から始まる。キリンレモン、キリンオレンジ、長野トマト、レーズンバター、ロバートブラウンなど主力商品でない商品ラインを手掛けてきた。1981年(昭和56年)キリンライトビールが発売され、ここでも苦労された。1984年当時原宿にあった本社営業企画に配属された。Mets、紙パックジュースなど商品化して市場に定着できる製品は「千に三つの世界」であったと回想する。1988年キレインビバレッジの立ち上げにかかわり、1991年上場させた。苦労の連続であったことであろう。1992年よりワイン課に所属しソムリエの資格も取得された。DANCE(カリフォルニアワイン)などの売り込みで麻雀荘などを廻った。1998年MCEI[のキリンビールでの窓口を担当され、2001年よりキリンプラザ大阪広報部に着任された。そのころ私は栃内氏と出会ったわけである。キリンビールなのにワインのソムリエ、しかも現在アートにも関わっている、何か不思議な印象を記憶している。ここから今回の物語は始まった。

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突然舞い降りた光の塔

日本の繁華街は、屋号や企業の広告のサインが溢れそれぞれが光る記号として散乱している。その中でもその量において群を抜く道頓堀戎橋界隈に1987年11月4日キリンプラザ大阪が開館した。“現在芸術との出会い・・・芸術創造型の活動を目指して”「新たな可能性に挑戦する現代芸術を支援する」をコンセプトに、KPOキリンプラザ大阪を情報発信拠点として活動を開始した。大阪ミナミに舞い降りた光の塔(蛍光管が5000本内臓されている。)は道頓堀川の川面を照らし、建築家高松伸による、斬新なスタイルの建築の出現は大阪に大きな衝撃を与えた。この建築は、日本建築学会賞を受賞するなど、内外からの大きな評価を得た。

「その猥雑さに関する限り、日本においてこの建築の立地を凌ぐ場所はひとつとして無い。かかる立地における我々の使命は極めて明瞭であった。即ち企業を象徴するという使命である。ところで、ある特定の記号や指標でも用いない限り特定の企業をシンボライズすることなど不可能である。ましてや建築は記号や指標からは最も遠い存在である。従って残された解法は理論的にただひとつ。建築が建築自身を象徴しなければならないという処方である。即ち立地の特性はもとより、それ自身のコンテクストさえ無縁な孤立性を開発し、これを建築においてひたすらかつ圧倒的に高めなければならないというわけだ。おそらくその孤高の強度の析出こそが、猥雑なる意味の坩堝にまみれつつ、建築という意味の器を擁立する唯一の方途である。」<高松伸>

余談として、KPOは1989年公開の映画「ブラック・レイン」に「クラブみやこ」の外観として登場する。監督はリドリー・スコットで彼は「ブレードランナー」で描いたような猥雑なイメージを日本に求めたが、実際の日本はかなり清潔な街並みであったため驚いたという。タイトルの「ブラック・レイン」は原爆投下や空爆によって起こる煤混じりの雨を指している。アメリカが戦後日本にもたらした個人主義が、義理人情の価値観を喪失した松田優作演じる佐藤の様なアウトローを産んだと暗にアメリカを批判している。

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KPO、場所の起源は<敷地面積505㎡>

カフェテリア式の食堂が日本でいつ頃から始まったかは定かではないが、大正末期には東京・京橋の星製薬ビルで簡易食堂が営業されていた。1930年(昭和5年)に吉岡鳥平が「カフェテラス式食堂」を描いた漫画があり、大阪・戎橋にあった南海食堂が舞台となっている。昼食時であろうか、大店の番頭風の男性が、3品のおかずとビールをのせた盆を運んでいる。なかなか贅沢な食事である。メニューには、コロッケ、ロールキャベツ、ライスカレーなどがみられる。若旦那風の洋装の男性もきちんとした身なりをしているので、大衆食堂よりももう少し価格が上の食堂と思われる。<「哄笑極楽」より。>

また、同年大阪では「プロレタリア食堂」が開店した。プロ小鉢(刺身、焼き魚、煮しめなど)が付いた朝食が15銭、ビールが10銭、酒15銭であった。こうした簡易食堂で食事の時ビールを飲む人が現れたことは、日本人の食生活」が変化したことの表れである。大正時代以降、サラリーマンという「新中間層」が誕生し、このような人に受け入れられビールも大衆化していった。KPOが建っていた場所は1958年から1980年代中頃まで、緑色タイル張りのキリン会館があった。戎橋に面した壁面には巨大なビールの神ガンブリヌスが飾られていた。ガンブリヌスとはビールを創造したとされる神の名前で、ビール王やビールの守護神として色々伝説があるが、実在した人物「ヤン・プリムス(1371〜1419)が伝説のもとになった「ガンブリヌス」はそれが訛ったものと言われている。会館は映画館とビアホールなどが入居していた。KPOが在った「戎橋」は今宮戎神社の参道であった。江戸時代にはこの道西成郡難波村、今宮村を通って今宮戎神社に向かった。大阪ミナミの中心である。KPOが立地した北詰は心斎橋筋の南端で心斎橋筋商店街が長堀通まで、南詰は戎橋筋の北端で戎橋筋商店街が難波駅まで伸びている。とりわけ南西袂にあるグリコサインは有名で観光スポットとなっている。1925年(大正14年)竣工の鉄筋コンクリート製の橋が架かっていたが、2007年に現在の橋に架けかえられた。KPOが閉館した年である。KPOは一階に地ビール工場KPOブルワリーを設置し現在ブームのクラフトビールに繋がる質の高いビールを提供していた。3階にはKPOキッチンというレストランを営業し、キリン会館依頼のテナント南海食堂も入居していた。

KPOコンテンポラリー・アワードからキリンアートプロジェクトへ

キリンによる芸術文化支援活動のひとつ。芸術家の発掘と育成を目的とし、1990年に「キリンプラザ大阪コンテンポラリー・アワード」として創設された。1993年より「キリンコンテンポラリー・アワード」の名称で開催されたが2000年から2003年までは「キリンアートアワード」の名称で開催された。1998年KPOはメセナ大賞「普及賞」を受賞した。アーティストの登竜門として、多数の応募を集めた。ジャンル不問の公募コンクールで受賞者からは、世界レベルで活躍するアーティストが多数生まれた。ヤノベケンジ(1990年)・H・アール・カオス{1993年}・犬童一心{1993年度最優秀作品賞}・安田真奈{1996年}・束芋{1999年}・ヒユークリッド写真連盟(1999年)など多彩な芸術家を輩出してきたが、2003年の審査員特別優秀賞を受賞したビデオ作品全46分「ワラッテイイトモ」が著作権や肖像権にからみ、受賞展で公開されたのは修正版となった。この頃からKPOへの社内での風当りか風向きが変わりだした自主規制である。もちろん社会自体も変わりだしたのだが。14回目を迎えた「キリンアートアワード2003年」は応募作品が前年を大幅に上回る過去最高の1102点となったのだが。ここまでは公募形式だったが、2005年から「キリンアートプロジェクト」として、企画書を基に選出した「新鋭アーティスト」4組と「ゲストアーティスト」が同じテーマで新作を制作し展示会を開催した。一般来場者の投票で新鋭アーティストの中からグランプリを決定する形となった。プロジェクトは4人のキュレター(ヤノベケンジ、五十嵐太郎、椹木野衣、後藤繁雄)がテーマ設定から作品の選定、新鋭アーティストのサポート、展示会の企画構成まで統括した。運営においても風向きは変わっていった。

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忽然と消えた孤高の光

KPOキリンプラザ大阪は2007年10月31日閉館し、翌年2008年解体された。一人一人の人生に何らかの影響と意味を与えて、時代を席巻していった、マス広告とも一線をひきながら、ひたすら赤字を続けながらも、その文化活動は大阪人的発想と考え方に少なからず影響を与えながら光の建築と共に、その姿は道頓堀の川面から忽然と消えた。派手さが売りものの大阪・道頓堀の電飾看板にも負けない、ポストモダンのキッチュな建築は大阪発現在アート興隆の夢とともに泡と消えたのか。

当時キリンホールディングスは解体の理由として①ビルと敷地を所有する子会社との20年間の賃貸契約が10月で満了する。②建物内装の老朽化が進み、10億円以上の改修費が見込まれる。などの理由を設計者の高松氏に打診した。「朽ちていく姿をさらすより、解体のほうがよい。」と理解を得られたとし、解体を決定した。高松事務所の裏話として、建物として残してもその後の用途が設計コンセプトに合わなくなるという危惧も在ったらしい。企業メセナ全盛の頃にオープンしたKPOだが、多くの企業は現代アートには二の足を踏んだ、しかしKPOは大阪で果敢に現代アートと取り組んだ。経済に左右される商業建築であるが、日本のバブルの熱気を伝える建築が消えるのは残念なことであった。企業メセナとしての現在アートが時代にそぐわなくなってきたことも事実であるが、なぜ現在美術が最初に切られることになったのか?KPOの現在美術における貢献が大きかっただけに、アートマネジメントの面からアートの社会的効果を再度企業側に訴え、問いかけてもいいように思う。株主にしろ市民にしろステークホルダーの利益を阻害するから解体すべきだと判断されるならば、その阻害要因を取り除く可能性を示し、所有者の認識以上に「建築はその場所で価値を醸成する存在」であることを示す必要性を強く感じる。



MCEI大阪支部 橋詰 仁


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2018年が明けました。今年の定例会は社会医療法人「生長会」副会長 田口義丈氏の登壇から始まります。

テーマは「超高齢社会と人口減少での医療の未来」保健・医療・福祉の総合的ヘルスケア体制の確立である。
生長会の始まりは1955年(昭和30年)大阪府和泉府中市に開院した府中病院から始まった。創業者は岸口兄弟で、無医村での地域貢献の思いを込めて設立した。創業時の建築平面図をみると木造総2階建で、一階は診療室やサービス空間で2階に30床の病室があり全て個室となっている。診療科目は内科、外科、産婦人科で職員は24人で運営していた。現在は社会医療法人生長会として堺、泉州に集中して44の事業所、職員数約4900人、社旗医療法人の売上規模としては39,987百万円で全国3位である。社会医療法人とは救急や周産期、僻地医療など公共性の高い医療の担い手となる代わりに、税祭優遇などを認められた医療法人で都道府県知事が認可する。分類としては公益法人である。「生長会」は社会潮流の大きな流れの中で、環境変化に適応しながら成長してきた。

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老いる世界、高齢化社会とは

総人口に占める65歳以上の老年人口(高齢者)が増大した社会のこと。高齢化社会という用語は、1956年(昭和31年)の国際連合の報告書で、当時の欧米先進国の水準を規準に、7%以上を「高齢化(aged)人口と呼んでいたことに由来するとされるが、定かではない。一般的には、高齢化率{65歳以上の総人口に占める割合}によって以下のように分類される。高齢化社会(7%〜21%))、高齢社会(14%〜21%)、超高齢社会(21%以上)人類社会は、一定の環境が継続すれば、ある一定の面積に生存している人口を養う能力の限界に達し、ある程度の時間が経過すれば、必ず高齢化が顕在化してくる。高度に社会福祉制度が発達した国家では、その負担に応じるために労働人口が子孫繁栄よりも、高齢化対策に追われ、少子化が進行し、さらなる高齢化を助長していく場合が多い。高齢化と少子化は必ずしも同時並行的に進むとは限らないが、年金・医療・福祉などの財政面では両者が同時進行すると様々な問題を引き起こすため、少子高齢化と一括りとすることが多い。

国・地域の人口構成は、発展途上段階から経済成長とともに、多産多死型→多産少死型→少産少死型と変化していく。

国連は2050年には世界人口の18%が65歳以上となると予測している。OECD諸国では現加盟国の全てにおいて、2050年には1人の老人(65歳以上)を3人以下の生産人口(20〜65歳)が支える超高齢社会となると予測する。

世界で類を見ない日本の高齢化

国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、日本の人口は2000年の国勢調査からは1億2700万人前後で推移していたが、2020年には1億2410万人、2030年には1億1662万人となり、2050年には1億人を、2060年には9000万人をも割り込むことが予想されている。一方、高齢化率は上昇が見込まれており、2025年には30%、2060年には約40%に達すると見られる。
2065年日本の人口は8808万人中位数年齢は、1970年のサラリーマンの定年年齢の55歳前後に上昇する。現在から半世紀前の定年制度を適用すれば、人口の半分は引退した人達という時代がやってくる。日本はすでに「超高齢社会」と呼ばれる状況だが、日本の高齢化が「世界でも類を見ない」と言われる理由の一つとして、高齢化の進行の速さがあげられる。医療の発達により平均寿命が伸びたことから、高齢化は世界各地で起きているが、国別に「高齢化率が7%を超えてから、14%に達するまでの年数」を比較すると、フランスは126年、ドイツで40年かかっているが、日本では1970年に高齢化率が7%を超えると、わずか24年の1994年に14%に達していて、さらにその13年後の2007年に21%を超えて「超高齢社会となっている。こうした「超高齢化社会」がもたらす課題として、総務省は15歳以上65歳未満の「生産年齢人口」の減少や、介護負担の増大を上げている。これは「働きながら家族の介護をする人」の増加を意味している。

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日本の人口減少「慣性の法則」人口モメンタムとは

人口の増減は、出生、死亡、そして人口移動(移入、移出の多寡によって決まる。ここで移出入がないとすると、長期的な人口の増減は、出生と死亡の水準で決まる。そしてある死亡の水準下で人口が長期的に増えも減りもせずに一定となる出生の水準のことを「人口置換水準」と呼ぶ。1人の女性が一生の間に産む子供の平均人数を合計特殊出生率という。それを人口置換水準で表すと日本は2.07となる。人口問題研究所によると、仮に2010年以降出生率が2.07を回復したとしても、2070年代まで日本の人口は減り続ける。なぜなら人口を維持するだけの子供が10年から生まれ続けてもその子供達が出産年齢に達するまでは出生率1台の母数が小さい女性が出産適齢期であるため、40から50年まで出生率は低下をたどる。その間高齢者の死亡数は増え続ける。結果日本の人口は60〜70年間減り続けるメッモンタムが構造的に埋め込まれている。この日本の人口推移について「生物学・生態学の理論を逸脱している。」という有識者もいる。因みに日本の合計出生率は、第一次ベビーブームの1947年に4・54であったがその後減少し続け、1956年に2.22となり人口置換率を下回った。1966年(丙午)には1.58に下落したが、1967年に2.23に回復、第二次ベビーブームの1972・73年頃まで横ばいであったがその後漸減し2005年にはボトムの1・26に低下しその後1.5を下回る水準で推移している。

有史以来の人口爆発がもたらす世界の高齢化

長寿化とともに、世界では有史以来の人口爆発が生じている。国連人口基金(UNFPA)の推計によると、人類が誕生した十数万年前からおよそ西暦1000年までは、人類は10億人を超えることがなかった。ところが産業革命以降急速な人口増加が始まり、1950年の25億人から、2017年には76億人、2050年には98億人に、2100年には113億人に達するとされている。ただし予測には幅が在る。国連によれば、2050年の世界人口が94億人から100億人の範囲ある確率が80%ということだ。ここでは「注意予測」という将来の出生パターンが従来と大きく変わらない仮定する計算方法がつかわれる。人口増加を後押ししているのは出生率の上昇ではなく、寿命の伸びだ!現在生まれる人は世界平均で70歳まで生きると予測され、2050年に生まれる人は77歳まで、2100年生まれる子孫は83歳まで延びると予測される。
一方出生率は多くの地域で低下する。世界の女性一人当たりの出生率は、現在の平均2.5人から、21世紀末には平均2人に低下すると国連は予測する。出生率は自然にどんどん低下するわけではない。国連は家族計画とリプロダクトヘルス(性と生殖に関わる健康)に対し、世界規模の投資を求めている。出生率がわずか0.5上回れば、世界人口は2100年までに166億人に達すると予測されるからだ。2050年までに15歳未満の子供と60歳以上の成人がおおむね同数となり、労働力の点で経済に大きな影響を与える。20年後に予測される現実である。この予測が上回るか下回るか分からないが、一つ確かなことは、全ての人類が「分かち合い」を学ぶ必要あるということだ。

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超高齢社会日本で生長会が描く医療の未来

以上繰り返し見てきたように、日本は現在高齢人口の急速な増加の中で、医療、福祉をこの問題に対応させることが喫緊の課題となっている。この高齢社会の到来は予想以上に医療、福祉の分野に大きな課題をもたらしている。人口比率が変わると疾病構造が変化し、要介護者の数が急増する。家族制度など社会構造変化もある。例えば都市の高齢化が進み事により単身高齢化率が上昇し、在宅で介護することが困難となる。
高度経済成長以来の流れの中で、都市部でも地方でも「地域社会」が崩壊していった。地域社会の地縁や、地域の生活インフラが徐々に失われてしまっている。地域住民同士の絆が希薄化し孤立する人が増えている。孤立死も問題となっている。このような社会状況の中で、高齢者を地域で支える「地域ケアシステム」が作られた。団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを続けられるように、住まい、介護、予防医療、生活支援が一体的に提供される仕組み作りの構築である。「生長会」の取り組み、活動も地域の自主性や主体性に基づいて地域の特性に応じて構築されてきた。

生長会の取り組みとして①理念と医療と福祉の連携がある。1979年制定の理念は「愛の医療と福祉の実現」<やさしさ、慈しみ、生き方を示す、社会への約束、私達の存在意義>であり、地域住民のアンケートにより病院に求めるものを技術力・信頼感・優しさとし理念の共有も始めた。高齢化時代を見据えたベルランド医療福祉構想はこのチャレンジのスタートとなった。昭和57年5月竣工、当時縦割り行政の壁への挑戦でもあった。
二つ目は②CSとディズニー研修である。平成7年の厚生白書で医療はサービス業とされ利用者中心、顧客満足度重視が掲載され競争が本格化していった。平成12年生長会もディズニーで60名がCS研修を受講した。これをきっかけに理念を更に具体化・体系化し、全社活動としてのSC21活動へと展開させていった。
三つ目は③医療の質向上である。1965年から1975年消費者運動の高まる中で、医療界は医療事故の増大に直面した。医療の質を問われた医療界は改善目標として安全性・有効性・効率性・患者中心志向・適時性・公正性を医療システムの目標とした。効果ある医療を、安全を確保して、要望に沿い、早く、安く、待たせず、これら全ての質の向上である。ここでの医療法人は非営利組織の運営であることを再度認識することが重要である。ミッション(使命感)に働きかけるということだ。安全な食事の提供を目指し、堺市のO-157をきっかけにベルキッチンも開設された。
四つ目は④機能分化と地域連携である。人口問題を受けて社会保障制度改革国民会議報告書の考え方は自助、自立、共助、公序(地域で互助)と社会保険方式を基本とする財源の考え方は、社会保険料+税金で給付と負担の公平性と世代間の公平も目指す。1970年モデルから2025年モデルへの変換である。医療は「いつでも、すきなところで」から「必要なときに必要な医療にアクセスできる」医療に、「病院で治す」から「地域全体で治し、支える」医療に、高齢者の疾病構造の特性、変化に合わせて医療はその提供体制を医療と介護の一体改革で、病床の機能分化と退院患者の受入体制の整備を同時に行う。在宅医療と在宅介護を充実させる提供体制を地域ネットワークによって地域包括システムとして構築する。このシステムの連携拠点としてベルアンサンブルが平成24年に開設された。医療・介護・住まい・在宅支援の一体施設である。これが医療提供概念の拡大だ、医療は個人から地域へと視点を広げていく。その中で地域医療連携推進法が平成29年施行された。
五つ目は人材育成である。医療サービス・機能は人材で決まる。田口氏が強調するところである。まず人材像を明確にして理念に賛同共感できる人材を確保する。内外での研修で人材育成を強化。職員の参画と評価処遇体制の構築を計る。サービスは人が決め、人の成長は法人の成長である。人材確保と育成は採用、教育、評価、処遇の充実から。そして生長会の発展は看護助産専門学校から大きな意義を見出していく。

非営利組織が教えてくれる組織の未来とは!

田口氏による生長会の成長要因を5つ挙げている・看護師等の重要性に気づいていた・理念の浸透と共有に努めてきた・医療と福祉の連携に挑戦してきた・早期からの非営利性が寄与した。・事業計画による運営を行ってきた。・常に質を重視した運営を心掛けてきた。この5つをドラッカーの概念と対比させてみたい。

今日の非営利組織は損益の概念がないからこそマネジメントが必要なことを知っている。ミッションに集中するにはマネジメントを駆使しなければならない。ところがこれまで、非営利組織のマネジメントのためのツールがほとんど無かった。私の知る限り、ほとんどの非営利組織の成績が「並」である。努力が不足しているわけではない、懸命に働いている。問題は焦点がぼけているところにある。加えて経営ツールの無いことにある。「最も重要な五つの質問」この質問は、今行っていること、行っている理由、行うことを知るための経営ツールである。次の五つの問からなる。

「われわれのミッションは何か」「われわれの顧客は誰か」「顧客にとっての価値は何か」「われわれにとっての成果は何か」「われわれの計画は何か」いずれもミッションに焦点を合わせ、成果をあげていくためのもの。<P.F.ドラッカー著「非営利組織の経営」>

医療の根本はいつも不変。制度は変わるが患者の不安は変わらない。医療のミッションの確認と患者の期待に応えるのみ・・・ <生長会・田口義丈氏>

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結びとして

1969年「断絶の時代」で、ドラッカーは多元化時代の到来を説いた。社会全体が多元化していくならば、その中心を占める組織も、マネジメントも多元化していくと考えるのが自然である。ドラッカーが注目したのはそのような多元化した社会の実相であった。ドラッカーの視野の中心は人と社会にあったから、営利組織と非営利組織の間にさしたる区別はない。ともに成果を上げ、同時に個人に市民性を与えるべく期待される組織であることに違いはない。人口問題、マネジメント、組織、我々マーケティングの実務に関わるものにとって未来を予測するにあたって示唆に富む年始定例会となった。私にとっても、50年前、父の書棚で読んだドラッカーの「断絶の時代」だったが、なにか腑に落ちたように感じている。

2017年、本年最後の定例会は南海電気鉄道(株)和田真治氏の登壇である。氏は1963年姫路生まれで、1987年大阪市立大学商学部卒業ご同社に入社、経理部、経営企画部などを経て現在「なんば・まち創造部」を担っている。今回は電鉄会社のなんば・まち創造活動の話である。

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南海電気鉄道のこと

南海電鉄は2015年に創業130年の歴史を持つ我が国最初の純民間資本による鉄道会社である。
社名の「南海」は、堺―和歌山間と紀伊国が属する律令制の南海道に因んで名づけられたことに由来し、のちに淡路・四国航路との連絡も果たした。大阪難波から関西国際空港、世界遺産の高野山、和歌山市を結ぶ鉄道会社で大阪府南部と和歌山県北部を基盤とするディベロッパーでもある。南海グループは運輸、不動産、流通、レジャー、サービス、建設など6セグメント84社で構成される。かつてはプロ野球球団(南海ホークス)や、野球場(大阪球場、中百舌鳥球場)を経営していたが、1988年に撤退した。

ブランドスローガンは「愛が、多すぎる。」
当初の社章は「羽車」と呼ばれ、車輪に翼が生えたものであった。南海がヨーロッパから車両を輸入した際この紋章が附けられていて、「車両に羽が生えれば速い」とい意味とともに車輪の向きを変えて社章に採用した。南海ホークスの球団名も、「羽=鳥」に因んだといわれる。現在でも難波駅の北側入り口に、羽車を意匠化したモニュメントが飾られている。1972年6月1日に制定された2代目社章も「羽車」の意匠を残しながらコーポ―レートカラーの緑を取り入れ、より直線的なデザインとなった。1993年のCI導入による「NANKAI」を表した3代目ロゴマーク制定後も正式な社章として使用が継続されている。このときコーポ―レートカラーもファインレッドとブライトオレンジの組み合わせに変更された。総合生活企業として未来に向けて力強く羽ばたいていく姿勢を表現している。

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南海電気鉄道・歴史の道筋

1884年に関西財界の重鎮、松本重太郎・藤田伝三郎・田中市兵衛・外山修造らによって大阪堺間鉄道として設立され、1885年に難波―大和川間を開業した阪堺鉄道を始まりとしている。1898年に新設会社南海鉄道が阪堺鉄道の事業を譲り受け、ここに難波、和歌山をつなぐ鉄道が完成した。1909年浪速電車軌道、1915年には阪堺電気鉄道、1922年には大阪高野鉄道、1940年には阪和電気鉄道、1942年には加太電気鉄道を合併していった。1944年に、元阪和電気鉄道の路線を戦時買収で運輸通信省に譲渡、後に阪和線となる。戦時企業統合政策により関西急行鉄道と合併、近畿日本鉄道となる。しかしこの合併は、社風の全く異なる者同士のもので、当初から無理が生じていた。終戦後1947年分離運動が起こり、高野山鉄道へ旧・南海鉄道の路線を譲渡する形で、南海鉄道が発足した。

初代社長の松本重太郎氏は1844年11月14日(天保15年)に丹後国竹野郡間人村の代々庄屋を努める松岡亀衛門の次男として生まれる。10歳から京都で丁稚奉公にあがり、1868年(明治元年)24歳ごろ独立し、1870年「丹重」を屋号とする店舗を構え、西南戦争のとき軍用羅紗の買い占めで巨利を得た。銀行、紡績、鉄道、肥料など多くの企業の設立、経営に参画し西の松本、東の渋沢と呼ばれた。鉄道事業のことを付け加えると、1886年に重太郎が発起人となって成立した山陽鉄道は1892年に神戸、三原間の敷設を完了したが1890年不況のため工事が止まってしまった。1892年重太郎が社長に就任し、1894年までに三原、広島間の敷設を完成させ日清戦争の軍需輸送に貢献した。その後山陽鉄道は下関まで軌道を延ばし、関門連絡船を介して九州鉄道との連絡を実現した。その他浪速鉄道、阪鶴鉄道、七尾鉄道、豊州鉄道、讃岐鉄道などの鉄道にも関係し、西日本の鉄道網形成に大きく寄与した。

南海道への遥かなる遡上

南海から由来するコーポ―レートイメージは私が南紀新宮の出身でもあり、遥かなる古代の南海道までイメージを遡上させてくれる。南海道(みなみのみち)は、五畿七道の一つで、紀伊半島・淡路島・四国ならびにこれらの周辺諸島を含む古代の行政区分と同所を通る幹線道路(古代から中世)のことである。畿内より南の海域へ下る道であることから命名された。畿内の南西に位置し所属国の大部分が瀬戸内海に臨む地域であるため、内海交通の活発とあいまって大和朝廷の時代から重要な地域であった。685年(天武14)に南海使者を派遣のことが見えるので、成立時期は天武朝末年と考えられる。南海道の道筋は小路で、各駅には馬五疋を定置していた。四国と紀伊、淡路はそれぞれ異なる性格を持っていた。五畿七道(ごきしちどう)について述べておきたい。元々は中国で用いられていた行政区分「道」に倣ったものである。日本における「道」の成立は、古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道とも呼ばれた。難波宮にはじまる都周辺を畿内五国(大和、山城、摂津、河内、和泉)それ以外の地域を七道{東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道}に区分したものである。畿内から放射状に伸びていて所属する国の国府を結ぶ駅路の名称である。1869年(明治2年)に北海道が新設され五畿八道と呼ばれる。1871年の廃藩置県以降も残っていたが、1885年以降はすたれた。しかし、現在の日本各地の地名(東海、東山、山陽、山陰、北海道)や交通網などの名称にその名残を残している。

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ミナミノ海のミチ、ミナミノミチ、から難波へ

まず難波(なにわ)から話始めたい。難波エリアが含まれる浪速区が1925年に区を新設する際に古代の博士、王仁(ワニ)が詠んだ和歌「難波津(なにわづ)に咲くやこの花冬ごもり今や春べと咲くやこの花」から区名を採ったという。ナニワの語源には波が速い意の「なみはや」、魚(ナ)が獲れる庭(ニワ)など諸説がある。難波(ナニワ)の名がついた最初の本格的な都市は7世紀に朝廷が置いた「難波の宮」だ。当時は今より海岸線が内陸に入り込み、大陸との交易に都合が良かったのだ。

中世以降難波の地名の由来となった西成郡難波村は、もともと南船場・島の内・下船場・堀江の一帯にあり、上難波村(南船場)と下難波村(その他)に分かれていた。江戸時代初期の大阪城拡張で上難波村はわずかに飛び地としてその姿を残すのみとなる。下難波村は寛永年間の新町遊郭の開発に伴い道頓堀以南に移転となり、1700年に上難波村飛地が下難波村に編入され、難波村と改称された。江戸時代の難波村は藍の産地で知られ、濃色に優れる阿波産の藍に対して薄い色に優れていて、難波水藍とも呼ばれた。江戸後期に最も早く市街化されて大阪三郷へくみこまれたのが、概ね現在の中央区難波にあたる難波新地である。1724年享保の大火の後の移転と1765年の三町開発によって難波新地一丁目から二丁目が形成された。明治前期1872年3町編入と翌年難波村で市街地化が見られた区域の編入と合わせて難波新地一番町から六番町に再編。この拡大された難波新地の範囲が現在の中央区難波の範囲となる。難波は大阪の二大繁華街の一つでありミナミに包含され、南海難波駅や大阪難波駅(近鉄、阪神難波駅)周辺の繁華街を指す。概ね道頓堀以南・千日前以西の地域を指す。ミナミの玄関口でもある難波は多種多様な店舗が混在する。

このように現在ではもと難波新地・河原町・新川・蔵前町といった繁華街だけを指すことが一般的であり、歴史的にも現在の地域区分としても繁華街以西の木津川付近までの地名であると言える。ミナミは島の内・道頓堀・千日前といった地域に広がる繁華街の総称で、大阪市の中心業務地区である船場の南側に位置することや、大半がかつての南区の区域にあたるのでミナミと呼ばれている。道頓堀を東西基軸、心斎橋筋を南北の基軸とし、北は長堀通、南は南海難波駅、西は西横堀川、東は堺筋までを指す。心斎橋はミナミと呼ばないが東心斎橋は例外で歓楽街を指してミナミと呼ぶ。近世初期、大阪城下の南端にある道頓堀に芝居小屋ができると、対岸の島の内内南部には遊里ができ、この遊里をミナミと呼んだ。その後城下各所に点在していた遊里は下船場の新町遊郭に統合された。しかし、以降も宗右衛門町、九郎衛門町、櫓町、坂町、難波新地など続々と遊郭ができ[南地花街]と称された。船場と道頓堀に挟まれた島の内は、北は職人町として城下の中枢を担ったが、色町となった南は船場の商いどころに対して粋どころと呼ばれた。心斎橋筋は新町遊郭と道頓堀を結ぶミチとして発展し、小売店が立ち並ぶようになった。近代以降刑場や墓地であった千日前にも繁華街が広がり、難波駅や湊町駅が開業すると一気に拡大した。

タブララサ(焦土)から難波開発の系譜

1935年(昭和10年)地下鉄御堂筋線が開通し同時に南海難波駅と接続した。拡大していく郊外から都心への流入増加、国土軸にある梅田との接続で難波の近代化が本格的に始まったわけだが、南海電車の直接のキタへの乗り入れは4度にわたり大阪市に却下され現在に至っている。昭和20年3月の大阪大空襲で難波は焦土と化したが、難波駅と路線は奇跡的に焼けずに残った。戦後開発の幕開けを担ったのは南海ホークスと大阪球場であった。鉄道会社でありながら路線の先に施設を作るのではなく都心の難波の中心に夢の球場を作り青少年の健全な育成を計ったことは現在の南海電鉄の開発姿勢に繋がっていく。

1983年(昭和53年)難波駅が地上三階に上がることにより下層階になんばCITYが開発された。コンセプトは①ミナミの復権②21世紀を指向するビジョン③郊外生活の拠点④ディベロッパー主導型の街づくり、である。南海サウスタワーホテルの開業は1994年(平成2年)である。難波のスカイラインが大きく変わったことは記憶に強く残っている。従来鉄道が地に沿って進む面から鉛直方向にも拡大する球体的開発である。球はその中心点をミナミへミナミへと移動させながら多層的な都市構造を産み出していく。

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南海難波駅周辺は再開発地域となっており、2002年(平成14年)なんばパークス第一期が開業し屋上公園が話題となった。駅前の南街会館跡地にはなんばマルイがオープンし1932年(昭和7年)関西した南海ビルは難波駅と高島屋が入るテラコッタ貼りのコリント様式のビルであるが、その高島屋も本館の改修と新館の増床を2011年(平成23年3月)にオープンさせた。高島屋は2007年のなんばパークスの2期工事で専門店街のプロデュースも担い、ミナミの集客には大規模な投資と役割を果たしてきた。

南海ターミナルの開発コンセプトは「伝統と先進」である。昭和7年の南海ビルを残すことも保存再生という意味で意義がある。南海ビルにダイキンの冷房を取り入れたのも食堂車を導入したのも南海が初めてであり先進的気風はそのころから引き継がれている。長年親しまれたロッケト広場を改修しガラスの大屋根で覆われたガレリアが新設されインバウンド向け総合インフォメーションも開設され新しいターミナルの在り方を模索している。ここを起点に難波はミナミミナミへその拡大を続けている。平成19年にオープンした「なんばこめじるし」はスタッフがミナミの413店舗を食べ歩き厳選した13店舗が集結している。南海電車の高架は昭和13年に完成し75年にわたって南海電車を支えてきた。この周囲の記憶が重層した産業遺構ともいえる場に平成26年4月に人々が集まる商業空間EKIKANが

開店した。昭和初期から街と街を繋いできた鉄道高架は新しい役割を担っている。また南海第一ビルでは大阪府立大学と地域活性化連携協定を結び観光と文化と地域を結ぶ拠点づくりと人材育成を進めている。新会館ビル建替計画は「都市再生特別地区」の事業としてNANBA SKY,O 超高層ビル(84000㎡)で30年9月の開業を目指している。

オルタナティブな地ナンバからシビックプライドの醸成

なんば駅前広場 歩行者優先社会実験が実施された。官民協働の公共空間の活用である。道路にウッドデッキを張り、カフェによるにぎわいを創りだし、憩の空間演出を実現した。人は都心でのくつろぎ空間を求めている、実施後のアンケートでも確認された。公共性と事業性のバランスをとりながら、「上質な空間も合わせて整備し街の深みを増幅させていく。既成の市街地をリノーべーションしながらナンバのすそ野をミナミまで広げていく。御堂筋千日前以南モデル地区における社会実験は地区の整備を80周年を迎える御堂筋の周年事業として市民から発信していく。「歩いて楽しい大阪」への転機に歴史ある御堂筋を世界のメインストリートに伍する通りにしていくことを目指す。通行空間から滞在空間への転換である。南海電鉄は道頓堀遊歩道(とんぼりウォーク)の運営管理も受託しエリアの回遊性強化に一役買っている。2017年「行くべき世界の場所52」に大阪が選ばれた。和田氏が主導する南海電鉄の街づくりは「なんばの杜」を掲げている。まちを構成する個々の要素のハーモニーである。まち全体を杜になぞらえた概念で、高島屋、スイスホテル、なんばCITY,、なんばパークスはスカイラインを構成する高木、戎橋商店街、千日前商店街、法善寺横丁などの通りは歴史ある繁華街としての森であり植生(特性)を際立たせる、老舗名店や集客力のある個店は個性を主張しながらまち全体の価値を高める林床、そして有機物に富んだ土壌は沿線を含めたなんば全体の歴史風土である。エリアブランディングはこれらの個々の個性や特徴が全体として協調するハーモニーを醸し出しまちのブランドイメージを想起させる。個人それぞれがまちのビジョンを共有し、共通の方向性を認識し、まち全体の空気感を生みだす時シビックプライドを感じて「すでにその街にあるものをどう活かすか」という行動に現われ、エリアブランディングが成立する。梅田でもない首都圏でもない、なんば独自の新しい価値を創造し発信していくこと。二極性や対立物ではないオールタナティブ(対置物、選択性)としての なんばを目指す。そしてその背景となる大阪の歴史的背景を掘り起し、次世代の大阪文化をインキュベートすることが和田氏が主導する南海電鉄まちづくり創造事業のミッションである。

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結びとして

都市の魅力とはストリート(通り・街路)やスクエアー(広場)の魅力であり、強制されず任意のアクティビティが許容される自由なオープンスペースである・訪れた街のイメージはSOLIDな「図」ではなくVOID「地」の部分である。歩行者空間が街の魅力の決め手である。デザインすべきものは建築の集合体でもなく道路でもない。「建物の間のアクティビティ」である・ <ヤン・ゲール>

品田英雄さんのこと

今年も恒例で日経BP総合研究所 上席研究員 品田英雄氏に登壇いただいた。4年連続の登壇であるが初めて品田氏のことをご紹介しておきたい。品田氏は1980年に学習院大学法学部を卒業、ラジオ関東(現RFK)に入社し洋楽番組のディレクターを努める。1987年、日経マグロビル(現日経BP)入社し週刊誌記者からマルチメディア開発室を経て、1997年から日経エンタティメント創刊時編集長に就任。2007年同編集委員に就任。2013年から日経BPヒット総合研究所上席研究員となり現在に至っている。「宣伝会議」のライター養成講座の講師も務めている。遡って豊島区立第一中学校(現明豊中)ではブラスバンドでチューバを担当し、当時全国大会の常連であった。このような幅広い分野の経歴と音楽や言葉に深く関わってきたことが、現在の品田氏を形成している基盤となっている。

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ヒット商品を振り返り、次年度のヒットを予測すること

私達はつかみようのない不安の中にいて、そのもやもやをヒット商品に変える、そして次に一世風靡するトレンドとはいったい何だろうか、を求め続けている。製品の技術や用途が製品名(ブランド)をはっきり指示し、使用機能が製品名(ブランド)を特徴づけ指示すべき対象が在る、このように指示する根拠があれば製品が大量に販売でき消費される時代ではなくなって久しい。現在は大きく変化し、私たちは膨大な情報の海とパラレルな時間の中を高速で泳ぎ渡っている。品田氏はいくつかの方法とキーワードを述べている。最新のヒット商品を知り(知識)、来年の傾向を考え(予想)、成長の方法を体感する(実践)これがトレンドを読み解くためのサイクルである。「この分野ならこの人」という特定の専門家を決めて常にウォッチする。それから徹底して自ら体験する。イベントでも旅行でも消費でも、自分で驚きや楽しさを感じて、それを元に「次のトレンド(流行)はこれだ!」と語る。品田氏の流儀である。

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流行を読み解くキーワード

品田氏の流儀を支えるキーワードがある、これがトレンドを読み解く手法に繋がっていく。

アクティブラーニング:参加者を中心とした学習をさし、ケースメソッドはその代表的な手法である。参加者中心型学修(Participant Centered Learning)と呼ばれ幅広い層を対象とした教育方法として確立している。「正解がない」議論を教師がハンドリングし個人としての結論を議論の中心から引き出し、参加者個人としての「一般化」を実現することを目指す。正解・解答がある課題から、答を導いたり、正しい「知識」を修得するのではないところが、流行のトレンドを読み解くヒントとなる。この手法に必要な要素として、予習して議論に備える姿勢・知識を主体的に学ぼうとする姿勢・考えの異なる人と議論しようとする姿勢があげられる。

編集力:文字・言語による情報はもちろん、五感や心で受け取るあらゆることを情報であると考え、それらの情報を収集し、分析し、関係づけ、表現することが編集である。現在私達の世界は膨大な量の情報に満ち満ちているが、それらの情報は様々な形で編集されている。それぞれのシーンで使われる編集の「方法」を抽出し、様々な局面で活用することが「編集術」である。放送局では「編成」であり、美術館・博物館では「キュレーション」となる。このように「編集術」は、発想力、整理力、記憶力と言い換えられたりして様々な場面で応用される。このような創発的なアプローチとして編集工学研究所の松岡正剛氏は物語の型から文脈的構想力を引き出す「ナラティブアプローチ」、ルーツや原型から回帰的連想力を呼び起こす「レトロペクティブアプローチ」、仮設と共に暗示的推察力を立ち上げる「アブダクティブ・アプローチ」として提唱している。今回のテーマに関連付けると示唆に富む。

CGM(Consumer Generated Media):直訳すれば「消費者生成メディア」である。Webサイトのユーザーが投稿したコンテンツによって形成されるメディアのことである。一般的なブログサービス、BBS、SNSなどがこれに該当する。従来のインターネットメディアは雑誌や書籍などと同様にプロのライターと編集者が内容を構成していく出版社型の事業モデルが主流だったが、CGMでは一般の消費者が直接情報を投稿し掲載される。メーカーやマスメディアが想定できない特殊な事例や自由な意見が情報として収集される。消費者にとっては重要なサポート環境であり、メーカーにとっては商品の良し悪しがそのまま人気に直結する場となっている。

現在は、製品やサービスの作り手と売り手、情報の発信者と受信者が一体となっていく時代であるCGMは本当の意味で離陸期に入っていると考える。だからネット経由で意見を求めながら、「次に何が来るのか」を追い続けていく必要がある。

2017年のヒット商品ベスト30は、全体的に小粒である。ヒットのキーワードは①いじれる、突っ込める②ママのサポート③説明が難しいである。一人一人の発信力が大きくなっていき、ママが勝ち組みとなり、ヒット商品ではないけれど政治や働き方など社会構造の変化がトレンドに影響を与えていく時代でもある。

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現実へと逃避する時代

昨年述べた「現実は、常に反現実を参照する。現実は、意味づけられたコトやモノの秩序として立ち現れている。意味の秩序としての現実は、その中心に現実ならざるもの、つまり反現実を持っている。反現実とは何か?「現実」という語は、三つの反対語を持つ。「{現実}理想」「{現実}夢」「(現実)虚構」である。集められたヒット商品を眺めていると以上のことが頭をよぎっていく。戦後という日本固有の時代意識からこの「反現実」というモードを規準に時代を逆照射したとき、現在は「虚構の時代1970年~90年代」を起点にして1995年阪神淡路大震災と2011年東日本大震災の2つの転換点の延長線上にあると思う。製品(ブランド)が現実の企業経営や市場競争の中で重要な役割を果たしていること、そしてブランドの理解の違いでそれぞれの企業の戦略が変わってくることも現実である。この「現実からの逃避」ではなく、「現実への逃避」へ眼差しを切り替えると奇妙な「現実」がたち現れる。ブランド(製品)の指示するものがない、奇妙な現実である。現在社会の富は「膨大な商品の集積」ではなく、「膨大なブランドの集積」として現れる。高級品から日用品まで、ブランドではない商品・製品は見つけにくい。このブランドの基本的な性格を考えると、ブランドの集積が奇妙な現実を作り出すという話がある。普通ブランドはそのネーミングに、指示すべき対象がある、あるいは根拠がある。名前というかぎり、何か実体を指示しているはずである。しかし「無印良品」や「ベンツ」のように説明すべき対象がみあたらない。そして「今あるそれらのブランドの現実は、そのブランドが存在することによってしか説明できない」というトートロジカル(同義反復的)な関係だけが見える商品群である。「無印良品」の作り出す宇宙は「意味での同一性」というよりもう少し深い「意味の同一性」によってつくりあげられている。“意味の同一性、意味の世界”、それはまさに詩や芸術の世界の話である。

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創造された意味の宇宙へ

「創造的意味」についての理解を促すために、山村暮鳥の詩を引用する。

青空に 魚ら泳げり

わがためいきを しみじみと 魚ら泳げり

魚の鱗 ひかり放ち

ここかしこ さだめなく

あまた泳げり

詩人が見た「青空に定めなく泳ぐあまたのもの」は、何かそれを指す的確な言葉が先にあって、「魚ら」というのは、その言葉の比喩にすぎないとは考えない。「青空に泳ぐあまたのもの」は、「魚ら」としてしか言葉にならず、そのため、そう認識することが正しいかどうか(妥当性)を問うこと自体、無意味なのだ、と。

創造的意味と言わざるえない理由とは、「魚ら」という言葉が、<青空に、さだめなく泳ぐあまたのもの>を指す言語的習慣がわれわれにはないからである。ここではひとりの詩人の「魚ら」と見たものしかその“意味”となることができず、ここに代替あるいは逸脱があると述べることは何も説明しないに等しい。しかもそれは、ここで指されているもの、つまり通常の言語に翻訳しうるものを見出すことが難しいという意味あいにおいてだけでなく、詩人にとって、「魚ら」という表現だけが根源的な記号でもあったという二重の意味においてである。ここではもう説明方式の妥当性いかんではなく、説明することの可否そのものが問われているかのようである。個の一線を境にして、おそらく人は詩人と言語学者に分かれる。(山中圭一「文化記号論への招待」1983年)

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詩人をマーケターに置き換えて考えたい。未来は誰もが知ることができる。そして知ることが可能なのである。現実を結びつける因果関係に興味を持ち、出来事の原因を探究し、分刻みで毎日未来への小さな歩みを理解し、不変の要素を見出し、新たなものを創造し、論理に従うこと。未来は何一つ決まっていな。世界はさらなる自由に向かっている。

巨大艦隊パナソニックが挑む大企業からのゲームチェンジ! 

大企業の枠組みを崩さないままイノベ―ティブな商品や技術に取り組もうという活動が活発化しているが、そもそも従来の“活動”でイノベーションは起こせるのか?企業組織というのは、個人よりも全体の和で物事を進める機能が強く働く。雁首を揃えて討議する中で個人の考えは抑えられる傾向が強く、個性とともに前へ前へと駆動する個人の思いが届かないことが多い。これでは組織全体に影響を与えるほどの大きなエネルギーは生まれない。つまり大企業の活動によってイノーベーティブな新規事業の“創出”はできないかもしれないのだ。しかし大企業というスケールの大きな枠組みが在れば、イノベ―ティブな発想・事業提案を生み出す環境を整えられる可能性は大きいと言える。“新規事業開発室”まさにイノベーションの源泉ともいうべきアイディアを求められる部署の室長を任された深田昌則氏は半年間考えた。



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大企業は鈍するのみで、変化の速さに追従できないのか。大企業には重さもあるが、一方でゆるぎない基盤もある。要素技術の蓄積、細かな機構設計から量産、流通、保守に至るまで必要な要素は全て社内出そろう。費用もかかるが、大きな規模でのビジネスを作れることに大企業の価値があり、そこにベンチャー的な“小回りが利く組織で革新的アイディアを素早く始める”という手法を持ち込んでも大企業本来の強みを活かせないこともある。“社外に対して開かれた手法でなければオープンイノベーションではない”という制約を外してみると、既存の大企業という枠組みの中で企業が持つ本来の力を引き出すという意味において“オープンイノベーションの精神”を取り入れることができるなかもしれない。大企業ならではの良さを活かし、新しいアィディアを製品化へとつなげる流である。1989年入社、以来一貫して海外でキャリアを積んでいた深田氏は2014年夏まで、商品販売の現場を経験していた。そんな中、カナダにおけるパナソニックブランドの急速な伸長を目の当たりにしていた。理由は高画質なプラズマテレビの供給に在った。その後パナソニックはプラズマテレビからの撤退を決め、カナダのパナソニックは中心となる商品を失うことになる。しかしブランドの中核を担うユニークで画期的な製品があれば、パナソニックブランド全体の底上げができると確信も得られた。同じような事は、中国における商品でもあった。キッチン家電や美容家電に対する厚い信頼であり、常に新たな商品ジャンルの開拓への期待にあふれていた。しかし、ひとたび日本に戻り日本の家電事業における新規事業開発を見ると、ほとんどが既存事業の継続商品ばかりであった。すでに既存領域で出来上がっている大きなプレゼンスを既存事業領域で改良していれば、収支は確実に取れるからだ。当然ながらそこからは新しいアィディアは生まれない!

アプライアンスが見る未来とは!
 

2016年4月、アプライアンス社は立ちあがった!アプライアンス社の概要は、パナソニック社の社内カンパニーとして家庭からオフィス・店舗にいたる幅広い空間に対応」した商品を提供することによって人々の豊かな暮らし、快適な社会に貢献するグローバルトップクラスのアプライアンスカンパニーを目指している。

2015年に2025年に向けてアプライアンス社の社長 本間哲郎氏を中心に、中期経営計画を立案するプロジェクトを進める中で、社内の事業再建や構造改革という枠にはまらない、未来の家電市場を支えるアイディアを育てるという方針が固まった。10年後にパナソニック・アプライアンス社はどうあるべきなのか。これまでは「暮らしの願いを形にする。」が事業ビジョンであった。技術の前進が、常に商品の改善を意味する時代はそれでも良かったが、あらゆる商品ジャンルの性能・機能が底上げされてくる時代となると、別の切り口が必要となる。「これまで成功してきた経営手法、発想、組織の形が今後通用しなくなるのではないか。ではどうすればいいのか?従来とは異なる発想を、社内から集めていくにはどうすればいいかを議論した。」(深田氏)

2016年4月「GCカタパルト」が始動し、社内公募が始まった。社内の有志で新しい家電の開発を行なっていた挑戦的な社員たちや、志を一つにする社員が偶然出会いチームを作っていった。

社内で様々なアイディアを集める社内ベンチャーコンテストは、パナソニックでも松下電器産業の時代からあった。しかし実際に商品化するには、相応の予算と商品化するための組織が必要となる。まったくの新規プロジェクトはリスクが大きくて、成熟市場では既存の事業ラインに乗らないアイディアは、どの様なものでも投資が行われず消えていった。結果アイディアはアイディアだけで消えていくことが恒常化し、アイディアを商品化する雰囲気そのものが社内に存在しなくなっていった。このような流れを打破するために「GCカタパルト」は立ち上げられた。オープンイノベーションに長けた外部アドバイザーを迎え、方法論やコンセプトにオープンイノベーションを取り入れながら、社内の活性化、従来の方法とは異なる手法での製品開発、プロジェクト編成を模索する試みである。社内応募には44組の応募があった。まるで異種格闘技のようで、一つの枠組みで括れない内容であった。その中から一次選考にあったては基準としての考え方、ポリシーが存在した。「マイクロソフトやアップルが現れてもIBMが生き残ったのは、IBMだからこそ可能なITソリューションビジネスを提供し続けたからだ。」(深田氏)ベンチャーにできることを大企業が模倣するのではなく、パナソニックが持つ規模や生産技術、グローバルなネットワークを活かしたプロジェクトに仕上げられる可能性が見えることを規準とした。巨大企業の組織的問題はあるかもしれないが、これまで松下電器時代から築き、蓄積してきた長所を捨てる必要はない。従来のパナソニックからは生まれなかったアイディアを、パナソニックでなければ実現できないプロジェクトとして育てる。そんなコンセプトで開催された第一回GCCの結果が2017年3月「SXSW」で一つの区切りを迎えた。2016年7月」最終選考に選ばれた8つの事業がお披露目となった。

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楽観主義(オプティミズム)を危機に変えるということ、そしてその危機に何かを語らせるということ。 

危機的な現実から既存の枠組みを守り続ける大企業の心地よい虚栄心や自己愛から抜け出さなくてはならない。カタパルトとは発射台のことで、古くローマ時代は投石器のことである。パナソニックという巨大艦隊に備えられたカタパルトは社内のアクセラレータとなり、社内外の多くの人々を巻き込む共創の場をつくり、新しい製造業の在り方を模索していく。メーカーがメーカーで在ることがいつまで続くのか、事業アイディアを具体化できる風土づくり、ビジネスモデルに磨き上げる活動、事業化を実現する投資の仕組みづくり、これらを同時に一気にやる。リーン&スピードである!「仮説を立て形にし、絶えず修正を加えるリーン・スタートアップも含め、当たり前の事を当たり前にできる環境を大きな企業の中で実現したい。」(GCC事業開発リーダー真鍋馨氏)「事業のポートフォリオ自体を書き換えられるような、新たなビジョンや商品を生み出したい」GCC運営陣(鈴木健介氏)「新時代をつくるという熱意と、一気にプロトタイプを作成して具体的な議論から実現へ到ろうとするスピードに触れて、新たな道が開いていく感覚を抱いている。」(ヘルスケアウェアラブルチーム秋元伸浩氏)「商品のユーザーとメーカーといった壁が崩れていく感覚を体感している。」(住空間のディスプレイの感応性を探究する谷口旭氏)「商品開発の在るべきサイクルをしっかり回せることに、とてもやりがいを感じる。」(洗濯機の新規ソリューションを考える大倉さおり氏)プレゼンテーションを勝ち抜いた8つのチームのメンバーは、ポジティブなムードに満ちている。要因のひとつは“共感”である。GCカタパルトは家電=ハードウェアという枠組みを取っ払い、既存の事業形態では考えられないようなサービスまで含めて探究していく。「社内スタートアップをいち早くSXSWのようなイノベーション最前線に提示し、そこで得られた知見を社内にスピーディにフィードバックしていくのが狙いだ!」(深田氏)活動のキーワードとしては、Social<社会の課題を解決する家電>Engapement<繋がる事>Empathy<共感が呼べること>である。行動指針として、Unlearn<今までまなんできたことと、固定概念を頭からはらう。>Hack<叩き切って、固定概念を変える。>劇的な断定と荒々しい挑戦的態度である。

変化は外界と接するところで変化する。CoreはEdgeに移っていく。

世界は大きく変わりつつある。1920年からのシステムは70年の安定期の後1990年代のSNSの普及とAIの進歩をきっかけに2~3年のサイクルで大きく変化し続けている。現在は常に変化が発生する不安定な時代ともいえる。(John Seely Brown)「新しい」ということはすでに存在するものから外れている、あるいは離れていると定義するならば、「新しい」とは2次元の平面状のグリッドには映しきれない創造的で物質的な不安定さから産まれるものである。「新しいもの」は万人の周囲どこにでもある「外部」から届くものである。私たちは何かを実行する際の「過激」な状況の中に、また物質が熱狂的に流れている激しいモバイル環境へリアルタイムで関与している状態の中に、「外部」をはっきりと目撃している。あらゆる既存のものを排除する時、危険な状態になる。あらゆる過激なスポーツ、例えばスカイサーフィン、バンジーバレエ、BMX、スピードクライミングなどは到達し維持しなければならない限界がある。言い換えれば「ぎりぎりの境界」として理解される。ギリギリの境界に立たされた時、わたしたちは危険に晒されると言われる。物事の周辺では非常に多くの次元の事が一斉に重要なやり取りを強いられるのだ。GCカタパルトもこのような行動を目指しているように見える。カタパルトから放たれたそれぞれのプロジェクトはフルメタルジャケットをまとって空中戦に放たれる弾丸である。

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最後に第二次世界大戦時、天才的戦闘機のパイロット チャック・イエーガーの格言を記しておく。

敵よりも多くを見よ。パイロットにとってこの格言はただ一つのことを意味する。物体から目を離し、物体優先に目が行ってしまう癖を直せ、ということである。空間全体を取り込み、すべての物を見るような焦点を取るための矯正法を、イェーガーは明らかにしている。

四次元すべてを使え。標準的なパイロットであれば、空間を三次元の連続体と捉えている。しかし空中戦においては時間に対する正確な感覚、とりわけ、柔軟な感覚を持つことが重要である。「スロットルを操ることで時間も操っている」ということである。ここでいう時間とはすなわち、そこから他の全ての次元が繰り広げられていく次元なのである。時間という次元はあらゆるものに隣接し、どんな境界にも迫り、全ての新しい局面への入り口を指定し、あらゆる生成へと通じているのだ。

イェーガーの最も神秘的な弾丸を放て!という格言。飛行機を誘導するためには、飛行機を自分の体の延長にすることができなければならない。私達はまず飛行機の事を忘れなければならない。あなたの焦点が開くにつれ、飛行機はあなたの中に引き込まれてゆく。(宇宙は金属のようなものだ!)旋回のことすら考えるな。ただ頭か身体を回し、飛行機をついて来させるだけだ。狙いを定めたら、その位置に弾丸を放て。

まだまだ暑さの続く9月定例会は兵庫県芦屋生まれの東洋大学理工学部建築学科都市計画専攻の教授野澤千絵氏に登壇いただいた。氏は1996年大阪大学大学院を修了後ゼネコンで開発企画業務に従事するがその後2002年に東京大学大学院で都市工学専攻博士号を取得し同大学非常勤講師を経て東洋大学に移られ、2015年より現職に就かれている。今回は都市計画とマーケティングの関係を探ってみたいと思う。

私達は、「人口減少社会」なのに「住宅過剰社会」という不思議な国に住んでいる。

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高度経済成長という亡霊が残した時限爆弾 <1955年から2060年> 

世帯数を大幅に超えた住宅がすでにあり、空き家が右肩上がりに増えているにもかかわらず、将来世代への深刻な影響を見過ごし、居住地を焼畑的にひろげながら、住宅を大量に作り続ける社会を「住宅過剰社会」と野田氏は定義する。

2060、日本の人口は約8700万人となり、人口減少が始まった2010年の人口1億2806万人の約7割にまで減少すると予測される。

日本の世帯総数は約5245万世帯で、すでに国内に建っている住宅は約6063万世帯(2013年度)。つまり世帯総数にたいして、住宅のストック数は16%も多い。日本では戦後から高度経済成長期にかけて住宅の量は極めて不足していたため、国は新築・持ち家重視の住宅政策を積極的に推進してきた。その結果1973年以降全国で住宅のストック数は一貫して世帯総数を上回り、年々積み上がり続けている。

欧米に比べても人口1000人当たりの新築住宅着工戸数は日本においてはここ20年間、イギリス・アメリカ・フランスの中で常にトップレベルである。欧米に比べて新築住宅を大量に作り続けている国なのだ。なぜ人口が減少しているのに新築住宅が作り続けられているのか?それは供給側である住宅・建設業界土地取得費や建設費といった初期投資を短期間で回収でき事業性の確保が容易で、引き渡した後の維持管理の責任も購入者に移るため事業リスクが低いからである。つまり売りっぱなしで済むからだ。住宅・建設業界というのは、「常に泳いでないと、死んでしまうマグロと同じ」と言われ、基本的にはつくり続けないと、収益が確保しにくいビジネスモデルである。その住宅を購入する側も「住宅は資産」と考える人が多く賃貸住宅や中古住宅よりも新築住宅中心の市場となる。「売れるから建てる」この流れはなかなか止まらない。住宅のストックが積みあがっていく一方で、空き家率も増え続けている。2013年の調査では全国の空き家は820万戸でまさに空き家増加国家、日本である。

2025、人口の5%を占める団塊世代が75歳以上となり、後期高齢者の割合が20%にまで膨れ上がる。「2025年問題」である。2035年前後から団塊世代の死亡数が一気に増えることが予測される。そのため、住宅地の行く末は相続する団塊ジュニア世代がどう振る舞うかにかかっている。野村総合研究所によると、このまま空き家の除去や有効活用が進まなければ2023年には1400万戸、空家率は21%に、2033年には約2150万戸、空家率30.25%になると予測される。3戸に1戸が空家という「時限爆弾」を日本は抱えているのだ。

2035、全国の世帯数は2019年の5307万世帯をピークに減少に転じ、4956万世帯まで減少すると予測されている。(国立社会保障・人口問題研究所)東京都・神奈川県・愛知県などの大都市部でも2025年頃から世帯数が減少に転じると予測される。にもかかわらず、国は経済対策や住宅政策の一環として、これまでと変わらず新築住宅への金融・税制等への優遇を行い、住宅建設の後押しを続けている。問題はこの新築住宅が居住地の基盤(道路・小学校・公園)が整っていない区域でも、野放図に作り続けられ、居住地の拡大が止まらないことであり、この拡大に多額の税金が投入されることである。自治体も開発業者もまるで焼畑農業(伝統的焼畑農業ではない!)のように、既存の街の空洞化を食い止める努力をせず、少しでも開発しやすい土地や規制の緩い土地を追い求めている。継続してその敷地で住宅を着工する再建築数が新築着工数に占める割合はここ数年10%を切り、既存の街並みが維持されずに新しい住宅地が広がり続けている。人口減少社会で住宅過剰社会が深刻化すると、将来売りたくても買い手がつかないで税金や管理費を払うだけといういわば「負動産」の増加を促すことになる。資産としての住宅の有用性が根本から揺らぎ始めている。

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1968年、高度経済成長期真只中「都市計画法」が制定された。都市計画法とは、個々の建築活動が都市全体に大きな影響をおよぼさないように、都市全体の土地活用を総合的・一体的観点から適正に配分・配置するためにあるものであるが、大都市部では都市全体の開発プロジェクトごとに国や自治体が容積率規制の緩和を行い、積みあがっていく住宅総量を調整する仕組みがないまま、超高層マンションの林立を後押しする結果となっている。1980年代後半から2013年まで東京都の超高層マンションは550棟近く建設された。2015年以降も109棟(約5万戸)建設される予定である。ちなみに東京都区部を除く首都圏では69棟(2.7万戸)近畿圏では39棟(約1.4万戸)、その他地域では46棟(約1万戸)である。つまり超高層マンションは東京都区部で集中的に増加する。東京湾岸エリアは超高層マンションが林立する光景に変貌した。しかし今後東京圏は急速に低下していくと予測される。

2010年以降東京では、30年で高齢者率が53.75も増える。さらに今後40年以上前に整備された大量の公共施設やインフラが総じて老朽化していく。1964年のオリンピックで整備されたインフラの更新の必要性である。2020年のオリンピックはインフラ再整備五輪とも言えるのだ。超高層マンション林立のからくりとは、国と自治体がその区域の都市計画規制を大幅に緩和しているからである。東京都中央区ではマンションを建てられる区域は「再開発等促進を定める地区計画」の区域であるが、1980年以降様々な形で緩和制度が肥大化していった。公開空地、総合設計制度はよく利用されている。「都心居住の推進」や「市街地の再開発」のために多額の補助金も投入されている。しかし住宅過剰社会に突入している日本はこのような過去の残像をひきずり、個々のプロジェクトごとの視点だけで、規制緩和や補助金をむやみに投入し住宅総量を拡大する時代は終焉しているのではないかと思う。

2000年、都市計画法が改正された。大都市で超高層マンションの林立が進んだ同時期に、大都市郊外に広がる市街地調整区域の開発許可基準についても大幅な緩和がなされた。バブル崩壊以降、日本経済の成長、景気刺激、不況対策などの経済政策と民間活力導入施策を背景にしたこの2000年の改正は、開発許可権限のある自治体が開発許可基準に関する規制緩和の条例を定めれば、市街地調整区域でも宅地開発が可能となったのである。その結果本来都市計画として、市街化を「促進・誘導すべき」市街化区域よりも、「市街化を抑制すべき」市街化調整区域での新築住宅の開発が活発に行われてしまった。日本の都市計画の枠組みは、日本の国土が3780万haでその中の都市計画区域は1076箇所ある。各都市計画区域は市街化区域と市街化調整区域に線引きするが、そのどちらにも入らない非線引き区域という不思議な区域が存在している。この非線引き区域は、都市計画法による開発規制が無いに等しい区域であり、農地関係の他法令の規制が許せば、住宅であればどこでも建てられるまさに新築住宅の立地が野放図に進んでいる地域で、全国に494万haある。これが居住地の広く薄い拡散が防げない原因である。他の市町村がどうなろうと、自分たちの町の人口をとにかく増やしたいという根強い人口至上主義も大きく影響しているのでは!

1950年代の高度成長時代の拡大主義による都市の膨張はビッグネスという亡霊にたとえてもいい。日本の都市はその亡霊が写しだす幻想から逃れなくてならないのでは。

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ビッグネス、または大きいことの問題

建築はあるスケールを超えると大きい(ビッグ)という資質を獲得する。大きいということ(ビッグネス)の話を持ち出す理由はエベレストに登る人の答えがいちばんいい。「そこにあるから」だ。ビッグネスは究極の建築である。

建築家の意志など関係なく、建物のサイズ自体が思想的な計画になるというのは、もの凄いことじゃないかと思う。

世の中のあらゆるカテゴリーのなかで、ビッグネスだけはマニフェストに値しなさそうに見える。知的な問題だとは思われておらず、まるで恐竜みたいに不格好で鈍重で融通が利かず厄介だから、絶滅してしまいそうにも見える。だが実際のところ、建築とその関連分野の全知全能を動員して「複合性の体系」をつくり出さるのは、このビッグネスだけなのだ。

100年前、革新的な発想とそれを支える技術が次々と生まれ、建築のビッグバンが起こった。エレベーター、電気設備、空調、スチール、そして最後に新しいインフラ基盤が人間のランダムな動線を可能にし、空間どうしの距離を縮め、室内を人工化し、量塊を減らし、寸法を伸ばし、建設のピッチを上げた結果、変異が群発してそれが新種の建築を誕生させた。こうした様々な発明の相乗効果により、構造物はかつてない高さと奥行―大きさ(ビッグネス)−を持つようになった。しかもそこには、社会が再編成される可能性も生まれた。以前よりもはるかに豊かなプログラミングが可能となったのだ。

定理 ビッグネスは最初、純粋に量的な世界の、思考ゼロのエネルギーで進行し、思想家というものがほとんど皆無の状態が一世紀近く続いた。無計画の革命だったわけだ。

<S,M,XL+ レム・コールハース>


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結びとして、高度経済成長という亡霊がしかけた時限爆弾 <1955~2060年>

私達は将来世代の町を作っている。このまま住宅過剰社会を助長すれば、将来世代の負の遺産となる住宅や町を押し付けてしまうことになる。住宅過剰社会からの脱却に向けては、空き家を減らす、中古住宅を流通を促進させる、市場に依存しすぎた新築住宅中心の住宅市場からの転換が必要不可欠である。すでにある住宅のリノベーションにより住宅の質を高めて住宅市場に流通させていくという住宅単体の話と、公共施設・インフラの再編と統廃合、地域コミュニティ・ライフスタイルの変化に合わせた生活環境など、多様な分野が複雑に絡み合う住環境の問題を多元的に解きながら、将来世代が住みやすい町や都市へと改善しなければならない。都市計画や住宅政策が高度経済成長期の都市化志向の枠組みのままフリーズした状態に陥っている現状を考えれば私達の抱える時限爆弾の時限まで私達に残された時間は長くない。住宅過剰社会という問題を自分たちの問題として考え、住宅過剰社会の流れを変えていかなければならない。

気づきに気づくデザインの発想法

8月酷暑の大阪定例会にマジックインキで有名な内田洋行様に、大阪芸術大学 デザイン学科教授でグラフィックデザイナーの三木健氏に登壇いただいた。

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今世界が注目する、デザイン科の授業「APPLE」は、りんごをモチーフにして「デザインとは何かを問いかける授業である。気づきに気づくデザインの発想法とは、問題を正確に「理解」し「観察」しその関係性を探る。そして「思考」を立体的に組み立てる「想像」行為へつないでいく。そこで目的へと繋がる「必然性」が無ければ「分解」し[編集]する。独自の視点からコンセプトを導き、明確なカタチを導きだし「物語化」し理念として「可視化」していく。
これを三木氏はデザインと定義する。

なぜ「リンゴ」を研究するのか、自分の好きなものでないと授業で伝えられないから。アダムとイブ、ビートルズ、アイザックニュートン、ステーィブ・ジョブズなど世界を創るのはりんごであるという仮説に基づく。こんなポピュラリティーなりんごだから世界中が理解できる。そんなどこにでも在るりんごだから、実は本当の事を知らない。ソクラテスの「無知の知」だ。この授業で三木氏が伝えるデザインの楽しさや奥深さとは、あったらいいな、こんなデザインの学校 <学び方のデザインりんご、体で理解する(りんごの周囲の長さを計り可視化してみると)、自分のものさしをつくる、一つのことから世界を見つめる、自然の摂理に学ぶ(一見赤いりんごにも無数の色が在る)、人は何かしら形に意味をさがす、不自由さが気づかせてくれる、手で考える、話すデザイン・聞くデザイン、喜びをリレーする、つながる・ひろげる・みつかる、感じる言葉、気づきに気づく、絵に命を吹き込む、プロセスを振り返る、>

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ここで三木氏のデザイン手法を並べてみると、<話すようにデザインする「話すデザイン」とは話し手と聞き手の双方向の働きかけ[聞くデザイン]で、モノやコトの根源を探り物語性のあるデザインを展開する。デザインは寄り道、道草で進めていく、その過程でアイディアのジャンプがある。書籍や資料は本箱に整理、分類しないで広げておく。

その中の一つの言葉でイメージが触発されアィディアがジャンプすることがある。偶然何かに遭遇する機会が増え、発見や発明に繋がっていく。暮らしの中に数多のデザインが存在する。使いやすくて、気持ち良いものが見えないところにたくさん存在する。料理だって掃除だってデザインだ。デザインに領域なんか作らない、だから暮らしの全てを見つめていく。その観察がデザインのヒントと種になっていく。デザインは領域を横断していく。デザインは考え方をつくること。作り方をつくること。本当に大事なことを見極めること。「借脳」は三木氏オリジナルの概念で借景とも繋がり、いろいろな人の意見を取り入れデザインの起点とする。ルールを知り回答へのプロセスを考えることも大事。句点の位置で文章の意味が変わる松岡正剛の「編集」の概念も大事である。>

デザインの今をその発生過程からとらえる

我が国日本というのは、明治時代に欧米からいろいろな考え方や社会的な仕組み、文化も含めて大幅に輸入したということが在る、「文明開化」である。


その輸入産物の中に西欧的なデザインが物と技術に乗じて諸外国から入ってきた。これは入れざるを得なかったわけである。問題は輸入した西欧型デザインが、時代によって変化するべきなのにしなかったということだ。ここで我が国が初めて取り入れた19世紀のデザインというのは、西欧を中心に18世紀末から起こってきた産業革命によって生み出されたものの一つだった。当時は新しい美術や技術的な産物が建築に至るまで世の中に出回り、それが大量生産時代の幕開けを作り出していった。産業革命は技術の発明だけではなく、企業という社会的な装置を発明した。これが非常に重要で、職人というポストが衰退していき、大量の勤め人が企業で働き、企業は消費財を大量に製造していった。そして消費者というものを作り出し“豊かな社会”の基本的社会構造を作り出していった。



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ここで製品が社会にあふれだすことによって、ある矛盾が生じることになった。機械である、これは長い歴史を経た“人間対自然”の関係とは全く違う存在物だった。過去の人間と自然との関係には大きな矛盾はなかった。しかし産業革命以降の大衆消費社会には“人間対機械”という対立的な状況を生じさせた。(現在地質学では“新人世”といわれ“人間対AI”の関係に踏み込んでいる。)この対立構造から生じてきたのがデザインではないか。すなわち頭の中で概念的に考えたものを存在様式として可視化して存在させていく。新しい存在物である諸機械や製品と人間との間のインターフェースを考えなくてはならなくなったのだ。

また知識の専門化の限界という事もある。
視点を定め、領域に分けて知識が体系化されるのはなぜか。西欧の学問は知識を領域に分け、専門家を生み出すこと、これも産業革命の発明であった。視点を定めた領域に対応した専門職が仕事の構造をつくったのも産業革命からである。このことが現在、デザイン、そして物を作るということに大きな障害を作ってしまった。効率的に社会的分業を行うという方法である。分業化への反省は20世紀の初めにもあったが、特に文学の世界で「分析の時代は終わった、これからは総合の時代」と高らかにうたわれたが、20世紀は何をやってきたかというと、分析ばかりであった。

デザインを新しく定義する必要性

人間にとって決して快適とはいえない人工的な物や環境、諸機械を目の前にして生まれたのがデザインであるならば、それはもう陳腐化しているのでは、少なくとも限界に来てしまっているのでは。
確かに人間に富みをもたらす大発明であった産業革命は、ずっと今まで駆動してきて、地球上の多くの地域を豊かにしてきたが、一方で5分の3から4分の3と言われる多くの地域を豊かにすることができなかった。現在までのやり方で豊かになろうとすると、地球環境破壊という新しい問題に直面し前進できない。先進国で言われる「欲しいモノが無くなった。」という話も現在の特徴である。
それなら現在のデザインとは何なのか。これを今定義することが必要だと考える。これはすなわち、デザインを駆動する、あるいはデザイナーの心を駆動する要因は一体何なのかということだ。地球上の積み残した地域をいかに豊かにするか、人々が本当に欲しいと思うような製品をいかに作り出すのかということなのでは。明治の時代に我が国が文明開化とともに西欧型デザインを輸入したときと全く違う状況の中で、人工的なるものとしての仕組みや装置が現在うまくいかなくなってきている、デザイナーは現在の敵といえる、行動そのものの内なる矛盾というものを見つめることによって、自分の行動のモチベーションを作っていく事が必要なのではと考える。

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設計学から導くデザインの方法論

何か物を作るというとこには、どういう知識をもっているかということが大切になる。
知識の無い人には物は作れない。
製品に関わるデザインのことを考える場合、あるいは製品そのものを設計する時にも当然知識が必要となる。問題はその知識をどう使うかにある。“仮説提示力(アブダクション)”としてのデザインが重要になる。知識が現実の行動にどのように役立っているのだろうか。それについて我々は実は何も知らない、知識を持っていても何もできないとさえ、言えるのではないか。一般に知識を体系化するときに必要な事は、現象を“視点に分ける”ということです。視点を定め、それにしたがって領域を分け、その領域を理論的につくる、まことに華麗な一つの理論体系が作り上げられる。
問題は、この様な領域的な知識の集合を使って、現実的な行動規範を生み出す事ができるのかいう事です。これができない、知識があればできるということではない。ということは、我々の知識の体系には失われた環が在るのではないかと考えられる。これを繋ぐことがデザイナーの仕事なのではないかと考えられる。この失われた環のことを知っている人がいる。理論的には解明されていないのに、日常的に行動している場合なども、やはり何か失われた環を使っているはずだ。これが何かと問うことがデザインを踏み込んで考える上で非常に重要な事である。

三木氏のリンゴ繋がりで科学的な発展の過程におけるアブダクションの事例としてニュートンの万有引力発見を取り上げる。
「諸物体は支えられていないときには落下する」という事実から「質量は互いに引力を及ぼし合う」という法則を発見した。この発見は、我々が直接観察した事実(諸物体は支えられていないときには落下するという事実)からその事実とは違う種類の、しかも直接には観察不可能な「引力」という作用を想定する仮説的な思惟による発見」であると指摘する。つまりこうした理論的対象の発見は観察データから直接的な帰納的一般化によって導かれるものではなく、それは諸物体の落下の現象を説明するために考え出された「仮説」による発見なのである。だからアブダクションによる推論が不可欠なのである。(米盛祐二[アブダクション:仮説と発見の論理])アブダクションは観察された結果や既知の規則から仮説を生み出すため、拡張的(発見的な機能を持つ推論である。だから説明仮説を形成する方法(Process)なのだ。しかし可謬性(かびゅうせい)の高い推論でもある。

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知識を生みだす仮説提示力

知識の使い方という問題が在る。
知識の使い方というのは知識の作られ方と深い関係がある。どこに視点を定めるか、どのような領域に分けるか。ニュートンは物体の運動に焦点を絞り、理論化した。それがニュートンの力学の3法則であって、物体の運動をきれいに体系的に記述した「プリンキピア」である。物理学理論は、簡単な法則と演繹体系でできている。それを我々は知識と呼んでいる。問題は、ニュートンの3法則をどうやって見つけたかである。「プリンキピア」にはどうやって見つけたかということは1ページも記述されていない。実はそこには、人間固有の能力、アブダクションがあった。アブダクションとは論理の一つの形で、「人間が死ぬ」という大前提と、「あるものが死んだ」という事実があった時に、「それは人間だ」と仮説を立てることをいう。ニュートンが3法則を見つけ出すのも、デザイナーがいいデザインをするのも、実はそれはアブダクションという推論でやっているのである。
一般には、現象の集合Aがあったときに「BならばA」を成立させる“B”という原則を思いつくのが「仮説生成」すなわちアブダクションになる。そこでこの理論をデザインと対応させてみる。例えば建物を設計デザインするとき観察される現象を全て集めるように、施主の要求全てに対応する。要求を全て満たす設計デザインが正しいというわけである。デザイナーは、世の中にはこういうことが要求されているに違いないというのを出来る限りたくさん考えて、それを全て満たすようなデザインとは何かと考える。しかしそれが唯一の解だとは永久に証明できない。これはニュートンの3法則がこれだけと永久に証明できないのと同じ意味である。だからデザインが絶対に真であることが証明できないことは誇っていいことである。デザイナーは毎日ニュートンみたいなことをやっていることになる。
ただしニュートンがいずれアインシュタインに敗れたように、デザインもいずれ敗れることがある。それはマーケットと世界が判断してくれる。ニュートンも物理学のソサエティーの中で激しい議論をしながら、時には修正しながら自分の理論を磨いた。決してりんごを見ながら、ぼやっとして理論を作ったわけではない。デザインは時代の変遷と共に新しい要求のもとに切り替わっていく。デザインは常に動揺している。その時代のデザインを提案するのはデザイナーしかいない。あたかも仮説を提示するように。

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仮設提示力をいかに向上させるのか

アブダクションとは極めて不思議な人間の能力で、それでいて知識をつくるという非常に重要な仕事である。
良い仮説を生み出すにはパースによると最終的には人間の美的な感覚によるという。ニュートンが3法則を見つけたのは、美的な感覚によるという話。こだわったのは常識主義、常識こそすべて。それから経済的思考。効率よく考えるための知識を持っているか。さらに人間の美的感覚、ヒューマンタクト。結局アブダクションとは、非常に不思議な能力だということである。そこでデザイナーに課せられるのは、アブダクションの能力、アブダクションスキルをどうやって向上させるのかということである。
例えば家を設計するときには、耐震、防水、保温、など複数の知識が必要になりそれぞれに体系化された知識が対応する。体系化された知識は概ね数式の知識なのでそのままでは使い物にならない。そこで常識的な知識というか目的に合った形にコード化し直す。目的別に知識が再編成されるわけだ。そして違う領域の知識を同時に集めて、もう一度アブダクションを行う。このどういう目的を設定したら、どういうコードが生まれるのかという法則性を探っていくのが実は設計の手法なのだ。集めた現象や知識を全部集めておいて、それを再編成していく仕事は多分デザイナーは無意識のうちにやっていることである。パースの言うアブダクションスキルである。そこでアブダクションを容易にするために、知識の体系のあり方を客観的に選び出す方法を考えることが有効ではないかという一つの仮設に立つことができる。デザインの対象を調べ、それについてどういう知識体系を持っているかを調べ、それ向きのコード化のルールがあるならば、われわれは上手にコード化できる。実は我々の知識体系というのはトポロジー、すなわち位相空間なのだ。視点を定めて領域に分けて分類し抽象概念の操作を加えると人工物はこの概念操作でどんどん生み出される。このような知識の再編成能力がアブダクションを可能にしている。どんな時代においてもデザイナーの基本的な力というのは、アブダクションによって作られてきたのではないか。知識の操作能力があるとするならば、その部分を強化していくことが、時代に即応しながら、正しいデザインをしていくことの基本ではと考える。

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「経験をいくら集めても理論は生まれない」アインシュタイン

静かな表現の中にエモーショナルなコミュニケーションを潜ませる三木健氏のプレゼンテーションに設計デザインの方法を対応させながら、今月も白熱した定例会でした。

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微生物が発酵するごとく「経営者意識」が醸し出されていったこと。

就職活動の時、「これがしたい!!」というものは特にありませんでした。だから有名な会社に行けば優秀な人と働けて、きっと得るものも多いだろう・・・ その時は安易にそう思って、とにかく大手ばかりを受けていましたね。と語る岡田充弘氏は1996年日本電信電話(株)(NTTは日本の通信事業の最大手であるNTTグループの持ち株会社で、東京証券取引所のTOPIX Core30の構成銘柄の一つで世界的なリーディングカンパニーである。)に入社した。

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企業情報通信システムを扱う関西法人営業本部に配属され営業成績トップとなる。また支店初となる精密機器製造会社のBRPプロジェクトを獲得しそれをリードした。( BRPとは売上向上、収益率改善、コスト削減といったビジネス目標を達成するために、現在の業務内容やプロセスを分析し最適化すること。)その後IBMとの合弁会社に出向しそこでも大手商社大規模BRPプロジェクトを獲得した。5年間をNTTで働いた後、「尖った」会社を望む気持ちが強くなり、2001年よりプライスウォーターハウスクーパースというコンサルティング会社を選択した。

PwCは世界159か国に18万人のスタッフを擁する世界最大級のプロフェッショナルサービスファームである。世界4大会計事務所(Big4)の一角を占める。PwCの企業形態は、LLP<有限責任事業組合>と訳される。その法的構造は通常の企業とは大きく異なり、世界規模のファーム(事務所)はそれぞれ自律的に経営されるメンバーファームの集合体である。同社ではハイテク業界におけるサプライチェーンマネジメントや組織変革などを手掛ける。自社プロジェクトとして丸ビルオフィスにコンサルトの癒しと知的交流の場「ピアッツァ」を企画・設計し現在も稼働中である。NTTとは企業文化もオペーレーションも全く違い、非常に刺激的な環境であった。「こんな世界があるんだ」と思い知らされたりもした。

2005年より世界最大の組織・人事戦略コンサルティング会社マーサージャパンへ、マーサー(英語社名Mercer)は組織・人事・福利厚生・年金・資産運用分野におけるサービスを提供するグローバル・コンサルティング・ファームである。全世界に21000人のスタッフが40か国以上約180都市の拠点をベースに130か国以上で28000超のクライアント企業のパートナーとして多彩な課題に取り組み、最適なソリューションを提供している。同社では大手金融機関の再生案件や自動車メーカーの組織・人材変革プロジェクトなど多数の変革プロジェクトに参画、又社内のIT活用を推進し、多くのビジネスシステムを企画・設計した。このころから「経営者意識」を持って仕事に取り組むようになった。

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多くの改革による再生と再発酵そして新しい方向へ・・・

2006年よりカナリアの前身である甲南エレクトロニクスにマネージメントディレクターとして参画。同社は神戸に拠点を構え、遠隔撮影用のリモコン雲台を開発・製造販売している。ここで、事業再編・ブランド構築・プロセス改革・ナレッジマネジメント・経理改革・オフィス改革を短期間に断行し創業以来最高の業績を達成した。なかでも一番意識をしたのは「ブランド構築」であった。自分たちの「使命」と「価値観」を定義することで、従業員の意識と商品の方向性そして企業文化が明確に構築されていった。2008年にカナリア株式会社に社名を変更し、自ら代表取締役に就任した。

その後も「ブランド構築」は継続している。この戦略の最大の目的は差別化、differentationによるイメージの形成である。ブランディングとは世界中の膨大な情報の渦の中で消費者にとってブランドの持つ力は一つの指針となる。一言で説明するならいわゆる宗教のようなもの。私達は快適に過ごしたいと願っている。その理想のライフスタイルを送るための手助けをしてくれるものである。

ブランドcanariaとは世の中に無いモノを、ゼロから考える。ITを徹底活用し、人材力を極限まで引き出す、そしてカタチある製品として具現化する。過去のしがらみとも決別し顧客(放送・医療・土木)と製品も徹底して絞り込んだ。そんなモノづくりの精神をシンボライズしたブランドがcanariaである。「can+realize」実現できるを語源としたブランドだ。「世界から撮れない場所を無くす」が事業メッセージである。

2013年4月より脱出ゲーム企画会社 クロネコキューブ(株)を設立し、代表取締役に就任。設立2年で年間公演数が240回以上、参加者が10万人以上の関西No1の謎解きイベント会社に成長。そのミッション(経営理念)は「ワクワクで世界を変えていく」謎解きの楽しさを一人でも多くの人に体感して欲しい。謎解きに必要なものは観察、ひらめき、思考だ。知識はほとんど要らない。小さな子供からお年寄りまで謎が解ける醍醐味が体感できる。また謎解きをチーム戦で体験することにより、見ず知らずの人たちが互いの頭脳を結集し問題を考えることにより協力関係を構築し深い絆が出来上がる。

これは必要とされていたけれど まだ世の中になかったものだ。法律に触れなければ理論上なにをしてもよい場所に私たちは生活している。でもその場所で自由に動き、誰かと熱狂を分かち合うことは意外と難しい。「見知らぬ人とともに閉じ込められる」という限定された状況だから、人は自由に振る舞い熱狂できる。なぜならその場所には自分で切り開くべき物語が在るからだ。物語の中で、間違いなく役割を果たすことができればこの空間から脱出できる。クロネコキューブの主なサービスは多岐にわたる。

例えば謎解きによって地域を活性化させる。観光マップには載っていないが不思議な魅力に溢れた場所、そんな隠れたスポットをゲームの舞台にすることにより住人や訪れる人たちに地域の魅力を再確認してもらう。法人・団体イベント社内向けイベントの実施は手軽な余興からカスタマイズしたものまで要望に柔軟に応じる。法人・個人研修参加型謎解きイベントを応用した企業研修でチームビルディングや情報応用のあり方を学んでもらう。また自主公演の主催者で行う公演はクロネコキューブの世界観を存分に楽しめる。

受託公演は依頼主団体が主催する参加型謎解きイベントの企画・制作・運営の協力またはパートナー団体として共催を実施している。ここは必要とされていたけれど、他の場所には無いエネルギーを生む場所。限定された空間と時間は、自由な発想と大きな熱狂を生む。謎解きイベントは集客に苦労するテーマパーク(年間集客力300万人越えは上位16施設のみ)やスポーツ、音楽などのイベントに比べて既存の施設や環境を活用し低コストで短期間で準備ができ、制作人員も少なくその消費範囲は広域であり、ユニークなコラボも取り組めてそのポテンシャルは大きいと言える。

2015年10月よりミニマル建築・デザイン会社 ウズラ(株)を設立し、代表取締役に就任。あえてカタチから変えていくアプローチによって、街・人・組織の活性化を目指す。<私達は日常、今いる場所や目の前の物理的形状から、何らかの心理的、行動的な影響を受けながら生活している。そのことに関心が払われることもそう多くは無い。しかし身近な空間や身の回りを取り巻くモノの形状ほど、人間に無意識の影響を与えるものは無い。その影響力はメディアやUIと同じか、それ以上と言っても過言ではない。そこで私たちは、それらの巷に溢れている「ありきたりのカタチ」をデザインし、「あえてカタチから変えていく」ことで、街・人・組織を活性化させ世の中に新しい命の息吹を宿していく事を目指していく。>

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時代は遷るそして、新しい海図を示すために。

1996年岡田氏はNTTから我々の棲む時代に向けて、そのキャリアを出港させた。先に航海に出た我々の世代はと言えば・・・<1990年代世の中が一夜にして変わってしまう様な経験をそれまで持たなかった。個人に頼るべき技術さえ「会社」に委託された。「会社」にしか居ないのがプランナー達だ。「企画」と呼ぶ他はない曖昧なテクニックを我々は容認していった。先の80年代に広告の中心がテレビに移っていった以上ある意味仕方のない承認だった。「会社」によって仕掛けられたテレビ中心の大型キャンペーンこそ90年代であった。

ある意味民主化され管理され同時に希少価値を失ったように見えた。個人の物語がどんどん失われていくようにも見えた。表現の本質が「個人」から「会社」へとリレーされたわけではないと思っていた。そう思いながらも「会社」の持つチカラに頼り、我々は仕事を続けていた。プランナーの多くはサラリーマンになってしまった。時代は正しい方向に推移するのではなく、ただ便利な方角に向かうだけだった。>・・ここで少し時間を遡っておくと、NTTの前身である日本電信電話公社は第2次オイルショックにより、1981年3月(昭和56年)3月に鈴木内閣は、日本経済団体連合会(経済連)の名誉会長土光敏夫を会長とし増税なき財政再建をスローガンとし第二次臨時行政調査会が発足させた。

その第2次臨調の答申事項の一つとして、政府公社の民営化が含まれていた。この答申を受け中曽根内閣の民活路線のもと、3公社 日本電信電話公社、日本専売公社、日本国有鉄道の民営化が議論され実現へと向かっていった。1985年(昭和60年)4月1日に「日本電信電話株式会社法」が施行され、日本電信電話が発足した。90年代に切られた舵は今も尚有効である。しかし絶対ではない。取りあえずそのまま蛇行を続けている。もう明日にも、新しい目標がセットされ新しい海図が示されるかもしれない。

人が育つ一番の要素とは、岡田氏の示す新しい海図。

会社を成長させるためには「情熱」だけではなく「情報」の扱い方が重要。岡田氏が情熱を傾けていることは「教育」である。まずは情報の扱い方に関する基礎技術をしっかり覚えること、そして大量の情報の中から事実や重要なことを見極めて、ロジックで整理できること。そうして社員一人ひとりが短い時間でより多くの情報を扱えるようになれば、チームとして創造性に満ちた環境を実現できる。

ITリテラシーによる知的生産性の最大化、具体的にはPC内での検索力向上・ショートカットキーの習得と啓蒙・タスク管理ツールの活用促進などである。ITツールもそのマシーン性能を最大に引き出す。高性能で汎用的なHW・SWを採用・初期設定で最速にして利用・定期的なメンテとリプレースを断行する。
隠し事の無い、明るくオープンなオフィスへ、これで利益が上がる。ミニマルな空間の力だ!
ブランドを押し出したWebサイトをデザインし製品単価は3倍増。ブランドを表現するデザイン力だ!
欲しい情報は10秒以内に見つかるようにする。リアルなものもオフィス断捨離で集約し整理する。あたかも住所の様に絶対的尺度で整理し情報を素早く取り出せる空間を構造化し定着させることだ!

かつて世界を覆ったピラミッド型経済モデルではなくマルチタスキングによる創造的多角化の推進である。これはリスクを分散させ、事業の生存率を高めていく。社会を市場をそこに棲む人を棲む世界を感じることが大事であり、あえて事業計画書はつくらない。今後も会社を増やし続け、社会に好循環を生成させる野生企業の生態系を創り上げることこれが岡田氏が示す新しい海図である。ミニマルデザインファームのウズラ社が設計するオフィス内バルを備えたSVANNAビルに今日も個性あふれる人々が集う。
結びとして、今問いたい祝祭と想像力の意味。

「祭りが明治時代なら明治時代に持っていた、あるいはもっと古い昔に持っていた意味と現在の管理社会の中での祭りというものの意味とが繋がると思うんですね。管理社会という事を肯定的に捉えれば、人間が危機に陥るということを出来るだけなくしてくれるようシステムが管理社会だと思う。それで個人的な危機に陥らないで、皆が平和に暮らせるようになっていて、しかもその社会全体が、かえって危機に押し込まれてしまうような状態が現在の私達の問題である。」

そこで文化人類学者の山口昌男氏が学問的挑発力を失わないでやってきたことは、単純なことで要するに始まりの始まりに立ち返るということ、始まりの始まりに立ち返るために、危機という構造を潜り抜けることが大事だ。そこにおいてアイデンティティを解体すると、人間の住んでいる世界が管理が管理されている世界のように一元的ではなくて多様になってくる。だから個人のアイデンティティの死が、無数の可能性をそこに引き寄せてくることがあって、いわゆる世界のイメージを固定させるものに対して立ち向かうという働きと似た関係が出現してくるという感じがする。アイデンティテイを解体するというのは一時的な危機を持ち込む分けである。それは個人の関係においても、集団においても祭りというのは皆が共同して危機の中に入るということ。こいうことは何も新しいことではなくて、例えば禅になどの「止観」という言葉があって、その中の判断停止ということで行われてきていて、想像力の根源には何かそういうところがある。祭りは始源に返る。<山口昌男>

お祭りは毎年あるということです。毎年ありながら、そのたび毎に終わってしまうという危機感がある。それは人間が生まれて死んでまた再生するということと強く結びついている。<大江健三郎>

岡田氏が示す海図と尖った世界は何かこのような祝祭と想像力に構造的に繋がっているように思う。


2017年7月 京都祇園祭りの中で。



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ビール新時代 クラフトビールによるキリンの取り組み

キリンビール株式会社 企画部 部長 山田精二氏は島根県出身で1989年早稲田大学政治経済学部を卒業後2008年に一時キリンHD人事部に配属以外は一貫して同社マーケティング企画を歩んできた人である。キリンが目指すビールの姿はお客様のことを一番に考えている会社、もっと身近なビール屋へ、みんなで創る“ワクワクするビールの未来”をモットーとしている。「飲み物」を進化させることで、「みんなの日常」を新しくしていく。そのキリンがクラフトビールに取り組んでいる。

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クラフトビールとは

地ビール?味が濃い?職人が作る?など日本においては明確な定義は無い。個性豊かな作り手の感性と創造性が楽しめるビールである。かつては「地ビール」と同義に捉えられることもあったが、伝統的で高品質な「ビール職人による本格ビール」をクラフトビールと称し、差別化を図るようになってきている。1994年の酒税法改正により、ビールの最低製造数量基準が2,000キロリットルから60キロリットルに緩和された。これにより全国各地に地域密着型で小規模の醸造会社が誕生し地ビールブームが起こり、一時全国に300社以上の地ビール会社が乱立したが品質が伴わず地ビール冬の時代を経てそのブームは収束した。2012年頃から英語圏で使われる「クラフトビール」という呼称が認知され人気が高まり現在に至っている。国内にある240社だけでなく世界中のクラフトビールが注目を集め、価格は大量生産品より高いが無濾過、非加熱処理で出荷され、100種類以上の製法の多彩さなど既存のビールには無い魅力で人気を集めている。2011年10月の雑誌ブルータスの記事が日本のマーケットにクラフトビールを認知させた起点である。
ここでアメリカ合衆国におけるクラフトビールはどうか、マイクロブルワリー(小規模な醸造所)の団体であるブルワーズ・アソシエーション(BA)によると、クラフトブルワリーは600万バレル(約70万キロリットル)以下、自身がクラフトブルワリーではない他の酒造製造業者の支配する資本が25%未満、伝統的手法に革新を盛り込んだ原料と発酵法を用いることがクラフトブルワリーの条件としているが、クラフトビールの定義は定めていない。何がクラフトビールかは飲み手次第だと考えるからである。

日本のビール市場の今は

キリン、アサヒ、サッポロ、サントリー、沖縄のオリオンなど国内大手5社の出荷量は2005年以降連続で減少している。1986年アサヒがスーパードライを発売し、1989年キリンビールはキリンラガービールに名称変更し、1990年には一番搾り麦汁を使用したキリン一番搾り生ビールを発売した後1994年が出荷量のピークであった。このピーク時の出荷量と比較すると現在は4分の3(約540万キロリットル)まで縮小している。昨年2016年の出荷量は4億1476万ケース(前年比:2.4%)12年連続で過去最低を記録している。その原因の一つとして考えられるのはライフスタイルの変化である。高度経済成長以降、仕事中心であった社会はワークライフバランスの浸透により「一服」や「お疲れ様」といった休憩するシーンが激減していった。オンとオフが曖昧なライフシーンにおいては、かつてビール業界の成長とともにあった「とりあえずビール」というシーンは徐々に減っていった。なぜなのか、ゆっくりと自分のペースで、幸せに自分の好きな事をたしなみながらお酒を飲む。お酒は重要な脇役として個人個人の好みで選択されていく。2005年以降のビール出荷量低迷は、他のカテゴリーに流出し続けた歴史であった。ワイン、酎ハイ、ハイボールなどライフシーンのTPOに合わせてそれぞれの場面で選択されていくものとなる。喫煙率の減少なども一服お疲れ様型の休息シーンの減少に拍車をかけていった。曖昧で多様なライフスタイルが主流となっていったのだ。多様化に乗り遅れたビールはこの変化に適応するために新製品の開発を増やしていった。プレミアムビール、低糖質ビール、ノンアルコールビールそしてクラフトビールである。

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クラフトビール成長の見立ては

大手ビールメーカーが主に製造するのは「ラガービール」だが、これよりもホップの香りやモルトがしっかりしているペールエール、柑橘系の香りと独特の苦みがあるインディア・ペールエール(IPA)、小麦からつくったヴァイツェン、果汁を加えたフルーツビール、黒くて泡が滑らかなスタウト、アルコール濃度が高いバーレーワインなどクラフトビールは多様で多彩な特徴のもとに製造されている。

山本氏は国内のビール市場におけるキーワードを嗜好性、多様性、革新性とし、特に多様性を最重要キーワードと位置付ける。新しくても伝統に基づいた技術と製造者のアントレプレナー的精神で製造されるのがクラフトビールである。最近20代、30代の若年男女の飲用志向は高く将来有望である。クラフトビールの伸長の可能性は高く、アメリカ合衆国ではすでにシェアで12%、金額で20%を占めている。現在日本のブルワリーは250箇所でアメリカは5,000箇所である、ここにおいても国内の潜在力は高いと考える。日本のビールの常識<価格単一、ライトビールは主流にならない、クラフトビールは定着しない>は崩れ、アメリカ型に移行すると予測している。

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歴史に学び、多様性を受け入れること

1870年ノルウェー系アメリカ人ウィリアム・コープランドが横浜山手123番に「スプリング・バレー・ブルワリー」を開設。大衆向けビールとしては日本で初めて継続的に醸造・販売を開始した。当時としては最新鋭のパストリゼーション(低温殺菌法)を取り入れ大量醸造・販売を開始した。1875年コープランドは工場隣接の自宅を改装して日本発のビヤガーデンであるパブブルワリー「スプリング・バレー・ビヤガーデン」を開設した。現在のSVBの起源である。1885年T.グラバーや三菱財閥の岩崎弥之助が発起人として加わり、外国資本による「ジャパン・ブルワリー」を設立し「スプリング・ブルワリー」の醸造所を買収。醸造所の技師や従業員の多くが新会社に引き継がれた。1888年ジャパン・ブルワリーが明治屋と売買契約を結び「麒麟ビール」大瓶を一本18銭で発売した。1907年三菱財閥と明治屋の出資による日本資本の新会社「麒麟麦酒株式会社」が設立されジャパン・ブルワリー社から組織と事業を引き継ぎ現在にいたる。

時を経て、2015年「ビールにワクワクする未来を」をテーマに、キリンビールのグループ会社「スプリング・バレー・ブルワリー」によって代官山ログロード内にSVB TOKYOがオープンした。開業後2年間で50万人が来場した。現在ウィリアム・コープランに縁のある横浜でも開業している。朝8時から営業しているビアタバーン(タバーンは酒場)で年間40種類のビールを造っている2017年秋には京都での開業も目指している。SVBのブランドデザインは「旅するブルワリー」である、そのデザイン展開は“カルチャーコラージュ”をテーマとし店舗空間では醸造しているところをシースルータンクで視覚体験できたり、ビールをカスタマイズできる高機能サーバーを備えていたりしてそれらをビア・アンバサダーが解説してくれる。それぞれのビールに合わせた料理も用意されていてビールとフードのペアリングが体験できる。CLUB SVBではコアアイテムの限定販売など仲間たちと一緒にビール文化を創っていく姿勢をつらぬき、歴史に根差して未来を志向している。キリンビールの歴史と伝統と技術は極めて多くの種類の原料や酵母の蓄積があること。ここでも真の多様性は自社ブランドだけでは創れないと山本氏は考える。クラフトビールの個性と味わいは勝ち負けではなく醸造家とその共感者である仲間が集う場で形成されていくと山本氏は語る。毎年10月にはFRESH HOP FESTが開催され国内の主要なブルワリーが集い、それらの多様性を互いに認めて醸成させていく場を持続させている。このように継続して日常化されていくことが大切だという。儲けだけではなく、楽しくないとだめでまず需要創造が先で効率の悪いことも無理してやってみるということだ。

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Less is more from Yes is more!

今回のお話に関係付けたいこととして「イエス・イズ・モア」がある。これは建築家ビャルケ・インゲルス率いる建築家集団BIG(コペンハーゲンとニューヨークで400人が働く)のスローガンである。このスローガンは建築に対するインクルーシブなアプローチの仕方を表現したものである。建築とは「適応のアート」であるべきである。アバンギャルド的な革命的な態度というのは「反体制」「反既存スタイル」が典型的な常套句であるが、これに対して「過激にインクルーシブ」にすることで、革新や発見の確立を上げようというのがBIGの態度である。だから、単に一つの条件や要求に対して「イエス」と答えるだけでなく、複数の、しかも対立するような要求に対しても何とかしてすべて「イエス」と答えようということ。「イエスと言うことで可能性が広がる」(Yes is more.)ということだ。そうすると、スタンダードな既存の解決方法というものは全く役に立たなくなる。全ての条件や要求には答えられないからで、そこから全く新しいデザインというものが半ば強制的に生まれてくることになる。全てに対して「イエス」と言うことで、結果的にもっとたくさんのことをしなければならなくなるからだ。「制約」こそクリエイティビティの基ということだ。山本氏がクラフトビールの醸造家から学んだことの一つにも「やらない領域を決める。」ということがある。

結びとして「共感する力」

人間の存在は浜の真砂の一粒のように、限りなく小さく限りなく軽い、たいして意味のないものだというのはかくしようの無い事実なのだ。人は誰しも、日々薄氷を踏むようにして生きており、それがいかに危うい生であるかを知らずにいる。複雑で多様で、ある意味非常なこの世の中で生き延びていくためには、多少のエゴとか愚かさも必要である。情報が加速度的に増加し、人々に時間が無くなり、何事も効率が良くなってくると、ますます個人の存在が軽くなる。無駄な時間を使うことが圧倒的に減るので、「無駄な時間を使った分だけ、その対象が自分にとってとても重要になるんだ」(サン・テグジュベリ)というようなアタッチメント(愛着)の感覚がはぐくまれにくいからだ。それでもわれわれには「共感する力」というものが備わっていて、それによって個人ではなしえなかったことを、次々と達成してきた。波長の合う人や、様々な記憶を共有する人たちにとっては、ある砂の一粒が他の砂粒より輝いて見えるというのも事実であって、人間である限り人と人とのつながりが誰にとっても重要であるなら、一粒の輝きは限りなく小さいが、それが見える周りの人たちにとって、かけがえなき輝きで在るに違いない。

最後にもう一つ、

「目の前にある現実を鵜呑みにせず、ごくありきたりになってしまった物のあり方をもう一度批判的に見直し、そうでない物事のあり方を探す。」<アッキレ・カスティリオーニ>


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