コロナ禍で先行き不透明な中、何度か手にしたマーケティングの本があります。
『マーケティング戦略の実際』。
新しい年度が始まるにあたって、改めて読み返しました。

戦略デザイン研究所所長でMCEI(Marketing Communications Executives International)東京支部・大阪支部の創設者、故・水口健次氏の著書。
1983年に1版が出て2007年には3版10刷となっています。ロングセラーです。
本の最後に、実務家、水口マーケティングのキーポイントが7つ挙げられて整理されています。

7番目は、“朝は夜より賢い”。引用します。
「これは、本文に書いていないことです。人間というもの、朝は夜より賢い、と思います。思い悩むことが山ほどありますが、精一杯努力して、疲れたら飲んで寝るー それしかないと思います。朝は夜より賢いのです。明日はまた、新しい知恵と勇気が出てくるはずです」

少し煮詰まったら、いつも思い出し、勇気づけられる言葉。

“水口語録”と呼ばれる数多くの金言を残しておられます。
2008年に逝去されるまで、MCEI大阪支部1月の定例会は水口健次さんの新年の提言をお聞きするのが恒例でした。
その中で、いつも口にされていて、印象に残っているのが次の2つの言葉

「マーケティングは愛だ」
「すべてのコストの負担者はお客様である」

MCEI大阪支部のホームページには「水口創設理事長特設ページ」があります。
そこには、プロフィールや功績の他に、「水口健次著書一覧」、「水口健次年表」、「水口健次戦略コラム」を紹介しています。

例えば、「水口健次戦略コラム」を見ると水口氏は卓越した先見性の持ち主であることが分かります。2008年の時点で、ジェネレーションZを顧客として、同時に、従業員として、受け容れなければならない立場にある、恐ろしい時代、難しい時代と言及されています。

前期3月度定例会でも、水口氏の「知覚されないニーズ=生活者インサイト」がパネルディスカッションのテーマとして取り上げられました。
MCEIの諸先輩方は、よくご存知かと思いますが、是非、下記サイトをご覧いただければ嬉しいです。
また、これを機会に「水口ゼミナールリレーコラム」をスタートしますので、ご期待下さい。

↓以下からリンクしております。
【MCEI大阪支部「水口健次創設理事長ページ」】

【MCEI大阪支部「水口ゼミナールリレーコラム」】


MCEI大阪8月定例会が開催された8月6日は、大阪府からのミナミのお店に対して営業時間短縮、休業要請のあった初日でした。その大変な中、ご登壇いただいたのが千房ホールディングス株式会社 代表取締役社長の中井貫二さん。「経営は終わりのない駅伝」と題してお話いただきました。

千房さんといえば、個人的にはラジオ大阪の番組「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」がきっかけで、大学生の頃に初めて行ったのを思い出します。今でも“ぬかる民”の裏メニュー「ぬかるみ焼き」は注文があればどのお店でも食べることが出来るとのことですよ。

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1973年創業の千房さん、現在、FCを含めて、千房グループで国内79店舗、海外7店舗を運営されています。6月に虎ノ門ヒルズにオープンした「琥 千房 虎ノ門」は千房グループ最高峰の業態「クラシックス」で、お客様の単価5万円と超高価格にもかかわらず大人気というから驚きです。百貨店やホテルへの出店、機内食の提供など業界初のチャレンジをされています。昔から、従業員の皆さんに常々言ってきているという“やらかす千房”の合言葉が活かされています。「『や』わらかな発想で、『ら』しさを大切にして、『か』んがえたことは、『す』ぐにやる!」を意味しています。千房のオリジナリティの源ですね。

中井社長が掲げられた3つのテーマは、「グローバル視点」、「受け継がれるおもてなし」、「飲食店は共育産業」。「グローバル視点」では、インバウンド、アウトバウンドのシナジー効果やお客様に喜んでいただくための環境整備に注力。日本人、外国人も分け隔ての無いおもてなしで期待に応えたい“大阪らしさ”を伝えたいということで、「まいど」、「おおきに」といつも通りの接客をされています。ハラル対応、グルテンフリー対応もすでに導入されています。先日、私もグルテンフリーのお好み焼をいただいてみました。ふわふわとしていてこれが美味しい、当たり前のように美味しいのがいいですね。

千房さんでは「おもてなし」のマニュアルがないとのこと。“見返りを期待しない、お客様の想定を大幅に上回るサービスを提供する”、この「大幅に上回る」というのがポイントです。

「飲食店は共育産業」という点では社会貢献として「出所者雇用」を熱心に続けているのは有名です。社員教育は、外部ではなく社内のスタッフで実施しています。“共育”で“人財育成”。

「ピンチはチャンス、チャンスはチェンジ、チェンジはチャレンジ」。

コロナ禍の影響で千房グループさんも大きな打撃を受けています。先ずは、売上・利益効率・体制等、短期目標達成のために、”Reborn Project”としてスクラップ&ビルトや体制強化などに着手。同時に、中長期目標を掲げ、外食企業の可能性の追求にとどまらず、既存資産を活用した食をコアにしたコングロマリットの構築に向けて始動されています。

“「従業員の幸福」がなければ「お客様のご満足」はない、「お客様のご満足」がなければ「会社の発展」はない”、という三位一体経営で、「世界一従業員が幸せな会社にしたい」。

子どもの時から「従業員のおかげで食べていけてるんやぞ」と言われて育った中井社長の目指す所です。

お話の中で、随所に、現会長であるお父様の創業者理念を大切にされてることが出てきました。事業を継承していく面と革新していく面、この二つを兼ね備えているのが中井社長ですね。

講演の題目として挙げられた「経営は終わりのない駅伝」。マラソンは一人で走るためその距離も時間も限られていますが、駅伝はタスキをつなぎます。中井社長は、創業者のお父様、急逝されたお兄様を経て、“千房経営”のタスキを受け取られました。経営者の大きな役割として、100年企業に向けて自分のタスキをどうつないでいくかを考えておられることと思います。

6月、新聞に掲載されていた千房さんの広告、強烈な印象が残っています。

「負けへんで 絶対ひっくり返したるっ “美味しい”はコロナにまけへん。」

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二〇世紀はテクノロジーの進歩により環境の変化が印象的だ。二一世紀も単線的に続くと思われた。近代以降の人々の考え方では、世界は大体理解できるものだというのが支配的だが、未知のもの・合理的理解の不能な世界がある。その外界としての世界への関心・理解はモノの価値を生み出す原則と深くかかわっていくことになる。

「見えないものに気付く」から「見えないものをカタチにする」「言葉にできないものをカタチにする」など新しい方法が必要だ。自分で見てきて、知ることが大切だ。その場に行って見るということは、やはり大きなことだと思う。仮想のイメージや複製されたもので何かを語ることは危険である。人の噂に左右されない方がいい。そうやたらに信じない、まず疑ってかかるという意識を持つこと、誰か人が何かを言ったらすぐに信じることなく、その現場に行って状況を自分の目でみようということ。この行動が実務の場での気付きにつながる。

何ごともない平和なときだったら、何が大事で何が大事ではないかというモノの価値の段階がある。資本主義社会ですら大抵のものには正札がついていて値段の高いものはいいとか、値段の低いものは良くないとか値段の段階がある。ところが戦争とまではいかないが今回の世界的パンデミックで、身近に死が迫ってくると、そういった段階が崩れる。どちらでもよくなるのである。要するに正札が取れてしまう。これは一種の価値の転換だ。見えない価値に気付くということなのだ。

2000年からMCEI大阪支部で理事をひきうけて、ほぼ20年がたった。その間の多くの気付きは私の方法論を成長させてくれた。

最後に、 「神々は異邦人のふりをして諸国を放浪する。」 ―ホメロスー

私もこのひと区切りで、旅をしてみることにする。

2020年5月19日

橋詰 仁

はじめに

暖冬が続く中、2月定例会は4月初旬並みの暖かさで迎えた。2月MCEI大阪定例会はgraf服部滋樹氏の講演である。2010年12月以来実に9年振りの登壇である。その時のテーマは「grafの考える“暮らし”のデザイン」であった。今回のテーマは「リサーチライティングーデザインの可能性と使い方」である。デザインをどのように日々の暮らしの中で活用していくのかという方法論である。服部氏がgrafを立ち上げてから22年にお歳月が経った。20世紀が終わろうとする時にgrafは誕生したのだ。服部さんはデザイン教育にも携わってきた。


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最初は京都精華大学の建築領域でデザインフィロソフィを教えていた。建築形態を描く前に建築を立ち上げるしくみやコンセプトが環境にどう関わっていくのかと言うことである。現在は京都造形芸術大学で教鞭をとっていて、今年で11年目を向かえている。情報デザインを基本として、21世紀となり時代が大きく変化する中で、インフォメーションからコミュニケーションへと情報デザインの中心テーマを移して「誰のために何をどの様にコミュニケーションするのか」がデザイン教育の中心テーマとなっている様だ。本日の講演の冒頭に、服部さんは身振りに言葉を添えて「林檎」を表現して見せた。そして子供の頃風邪にかかったとき、母親が林檎をすりつぶして食べさせてくれた時に話を添えて見せた。会場のオーディエンスの多くがその記憶を共有し心開かれたのではないかと感じた。服部さんの「物語」が始まった。

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graf の起源から

ここでgrafのことに触れる。服部さんが大学を卒業したのは1993年、ちょうど2年前にバブルは崩壊し「就職氷河期」と呼ばれる時代を迎えていた。このバブル崩壊をきっかけとして、これまでの社会構造に疑問を持ったことがgrafの起源となった。20世紀特に第二次世界大戦後の日本のデザインは焼け野原から始まり、デザイン=機能性のもとに生活に便利なモノを大量に生産することに突き進む。一例を上げれば本田のスーパーカブなどは戦後わずか10年で量産にこぎつけている。1960年より高度経済成長期を向かえデザイン=嗜好性のもとに様々な流行を生み出し、デザインは様々な変化を見せた。機能は同じでも表層のデザインを変えることで消費も細分化されていった。1970年代から80年代は、デザイン=豊かさでありデザイン=経済であったのだ。結果大量生産・大量消費の下にモノつくりが進められバブルが崩壊したのだ。戦後からバブル崩壊まで日本の社会は縦型であったと服部さんは感じたのだ。「縦型って、まずトップにメーカーがいて、その下に生産者がいてユーザーがいて、その中で強いのはいつもメーカー側。泣かされるのは結局、生産者なんですよね。そういう構造的な問題を考えたときに、デザインや企画をする人達も生産者もユーザーも、みんな上下のない横型のものづくりができひんかなって思ったんですよ。」grafをつくろうと思った最初のきっかけを服部さんは語る。1970年以降、ライフスタイルがとなえられ人々を様々なライフスタイルに嵌める広告が溢れ、社会はモノとコトに覆われる。生産の効率上の問題で、あらゆる分野が細分化していき、縦型の生産構造になっていったのが20世紀であった。しかし改めて考えてみれば、もともとは経済も文化も食も、全て同列に生活の中に格納されているもので、この意識をもとに考えると、自分たちがすべきは全ての基盤である「生活」と向き合い、横の繋がりを大切にすることではないかという考え方に辿りついたのだ。バブルをきっかけにして、社会ではなく生活に注目できたことは大きかったと語る。生活を基本にした上で、自分たちでものづくりをして生きていく仕組みとは何か。最初に集まった6人のメンバーは議論を重ねて、グラフの基本理念である「暮らしのための構造」という考え方が生まれた。カテゴリーにとらわれず、様々な視点を持って「生活」を考える。このグラフ独自のものづくりの発想は、立ち上げ当初に集まった、全く個性の違う異業種のメンバーが集まったから生まれたのだgrafは大阪を拠点に「暮らし」にまつわるあらゆるものをデザインしているクリエイティブ集団である。このグラフのスターティングメンバーはバラエティ豊かである。グラフィックとプロダクトのデザイナー、映像作家の他に、家具職人や大工、シェフまでいる。服部さん自身大学では彫刻を学んだ。その活動はデザイン制作から家具作り、カフェの運営、国際的アーティストとのコラボレーション、企業のブランディング、マーケット形式のコミュニティプロジェクトなど多岐に渡っている。異業種が集まりジャンルにとらわれず、独自の視点で活動している。様々なジャンルを飛び越え縦横無尽に活躍する現在のgraf。学生時代に出会った仲間に服部さんは最初に「オレ、”少年探偵団“みたいなチームを作りたいねん。」と語りかけた。

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21世紀デザインの方法論

ここで服部さんが上げるデザインの方法論について述べてみる。

Research Writing

マーケティングはニーズに応えて利益を上げること。企業が売りたいモノを売る(プロダクトアウト)から消費者が欲しいモノを売る(マーケットイン)の発想があり、このように目的を持ったリサーチが従来の方法であったが、服部さんは生産者との出合いからモノを組み立てるためにリサーチを位置付ける。このフィールドワークでの出合いからモノを組み立てていく。服部さんは事例として農業を上げる、日本の農業も代替わりして親の代では農協へ納めていた生産物を直接ユーザーへ届けるためのマーケットでの接点を求めている。2010年ある雑誌社の企画で畑づくりを始めたグラフ、不慣れな農作業で悪戦苦闘する中、周囲の農家が手助けしてくれた。彼らと親しくなる中で農家が抱える生産者としての悩みを知ることになる。「卸し先に出荷するだけの生産工場として野菜をつくるのではなく、顔の見える人達のためにものづくりをしたい。」この農家の人達の悩みを受けて始まったのが、マルシェ形式のコミュニティプロジェクト「ファンタスティックマーケット」だ。「出会い、繋がる、広がる」をテーマにしたマーケットである。デザイン事業も農業も広い意味ではものづくりで繋がっているのだ。

モノ本来の価値はネットの波及で大きく変わった。モノを目利きする能力が減衰していく中で、直接知覚できるリサーチが重要となっている。物語を服部さんは物(モノ)と語(カタリ)に分解する。かつて物が語る時代があったように楽しく語ることが大事であるという。使い方より作られ方を語ることがブランディングの要点であるという。レタスの包装もサラダの写真ではなくて生産者の顔を載せるようになっている。

Wisdom Report

暮らしの中の知恵をリサーチして、そこから得られた知恵でデザインを発送すること。服部さんが教育の現場から話された台湾の学生が暮らしの中から取り上げ発想した幾つかのデザイン事例は刺激的で暮らしを豊かにするヒントが豊富にある。蟻がテーブルに上がってこないように脚部の床との接地面に取り付けられた水を張った陶器のソーサ、皿とワイングラスとカップを組み合わせたケーキの展示台は幾つかのモノを用途にこだわらず斬新に組み合わせたデザイン、充電時に床に置かれた携帯電話を床から浮かせて位置付けるための笊、幾つかの用途やモノが組み合わされ、利害関係を超えた3者以上の関係性の提案だともいえる。21世紀のデザインは二つ以上のモノや価値を掛け合わせるクロスイノベーションを試みて、これが新カテゴリーを生むための方法論となる。

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Verb Report

動詞の連鎖で暮らしが成り立っている。経験を重ねて無意識の中に暮らしの動作が成り立っている。服部さんはアフォーダンス、アフォードを操作して暮らしに役立てていくシグニファィアとい概念をあげる。

アフォーダンスとは、動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味・価値であると定義される。この概念の起源はゲシュタルト心理学の要求特性と誘発性の概念にあると、この言葉を造語したアメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンは述べている。「与える、提供する」という意味の英語affordから造られた。デザインにおけるアフォーダンスは、1988年ドナルド・ノーマンがデザインの認知心理学的研究の中で、モノに備わったヒトが知覚できる「行為の可能性」という意味でアフォーダンスを用いている。この文脈での語義が、ユーザーインターフェースやデザインの領域で使われるようになった。アフォーダンスはモノをどう取り扱ったらよいかについての強い手掛かりを示してくれる。たとえばドアノブが無く平らな金属片が付いたドアは、その金属片を押せばよいことを示し、逆に引手の付いたタンスは引けばよいことを示している。これらは体験に基づいて説明無しで取り扱うことができる。しかし本来の意味でのアフォーダンスとは「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」の事である。近年デザインの領域で「人と物との関係性をユーザーに伝達すること」「人をある行為に誘導するためのヒントを示す事」といった意味に誤って使われていた。これを修正するためにシグニファイア(sigunifier)という言葉がある。これは対象物と人間との間のインタラクションの可能性を示唆する手掛かりのことで、デザイン用語としてノーマンによって提唱されたものである。

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結びとして

21世紀は価値観が大きく変化している。モノが成り立つ本質や作り方に興味を持つ人が増えてきた。コミュニティでモノや仕組みを作り上げる人々も増えている。しっかりと丁寧に淀みなく作り続づけられる長続きするPROGRAMが必要である。実験的行為であるPROJECT>PROGPAM>MOVEMENT>CULRTUREのサイクルである。ユーザーとかコミュニティにアクセスしプロジェクトよりプログラムを生みムーブメントに高めカルチャーとして定着させる。これが服部さんの方法論である。

ソーシャルデザインからシンバイオテックリレーションへ、腸内環境のアナロジーともいえる共生関係をどの様に生み出すかが重要となる。「僕ね、どうしてデザイナーやってはるんですかって聞かれたら、いっつもこう答えるんですよ。おじいちゃんになった時に、世界中にたくさん仲間がいたら良いと思うから。」服部さんのこの言葉こそが、幅広い分野を横断するgrafの活動を象徴的に表した言葉である。

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80年代頃まで日本のデザインは、個的な問題や表層的な形態(かたち)などの限定された範囲でとらえられ、社会や歴史との深い関わりや有用行為としての見方は希薄であった。しかし90年代以降から現在に至って、デザインは社会や生活に重要な役割と関わりを持つようになっている。また「時代を表徴するデザイン」をめぐっては様々な認識闘争が展開されてきた。この変革の時代を経て現在の状況にあるわけだ。この変化の根底にあるのは、社会・経済・政治・地球環境の構造的危機などの20世紀を支配してきた自然科学や近代主義への警鐘や、人芸性や精神性に基づくコミュニケーションと物質との関係、共同体システムや生活の変化が実は芸術や表現活動と本質の部分で密接に関連していたコトへの“気づき”として表出してきているのだ。今後さらに進展し続ける情報技術が生み出す大海原の中で、デザインの実用体系が大きく組み替えられ、それが生成される時に多くの矛盾を露呈している。それらはまさに個としての恣意性を超えたシステムの問題であり、デザイン行為という専門的技術体系を超えた情報性・認識性の問題であったりする。結論的に述べれば、いまデザインに必要とされるのは「方法」と「認識」である。現在はどこまでがデザインの領域と呼べるのか規定することは難しいが、少なくともデジタルに細分化された思考体系を、デザイナーが持つべき「認識」によって、またデザイン技術の総合性を活かすことによって、文化的手法を結び合わせてその応用によって「関係の時代」を築いていくことが重要となっている。それは人間や民族が本来持っている精神的営み、物語性などの理解への回路と応用に関与する「意匠」という意味で。

はじめに、本郷氏のことから


暖冬の2020年、年頭の定例会はMBSの本郷さんの話から始まる。
本郷義浩氏は1964年京都生まれである。1988年に毎日放送に入社し、一貫して制作局で番組の制作に関わってきた。チーフディレクターを務めた「あまからアベニュー」から引き継がれた「水野真紀の魔法のレストラン」で2001年からプロデユーサーを務め、10%以上の視聴率をとる人気番組となっている。2016年からは京都に関わる番組「京都知新」、「美の京都遺産」、「音舞台」シリーズ、「真実の料理人」などの番組を手掛けて京都のアート系と食関係の職人・アーティストを紹介している。


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ネットの存在が大きくなるにつれて、ネットの広告費が右肩上がりに増え続け、テレビの広告費が著しく減少するという傾向がしばらく続き、今は年間1兆7000億円ほどで下げ止まり均衡状態を保っているが、ネットの広告費は現在1兆円超の規模まで膨れ上がり、テレビの広告費に次ぐ規模になっている。「テレビ事業は広告だけではだめ。」MBSメディアホールディングスではこの危機感の中で社員600人に向けて「新規ビジネスコンテスト」を実施した。本郷氏は220件の応募を勝ち抜き、現在は番組制作を続けながら2019年9月よりMBSホールディングスの完全子会社であるMBSイノベーションドライブの中で、新たな「食」に関する事業をプロデュースする株式会TOROMI PRODUCEを立ち上げて事業展開を始めている。本郷氏は代表取締役として就任している。本郷氏は海外でのテレビ賞受賞も50を超え、「麻婆豆腐研究家」を自称し、年間120食以上食するほど偏愛している。
本郷氏は同社が目指すことは、飲食店・商業施設・ホテルなどの「レストランプロデュース」、食フェスやパーティ、セミナー企画等を手掛ける「イベントプロデュース」、TV番組・Webサイトなど「映像コンテンツ制作」食品・調味料やグッズの企画など「商品開発プロデュース」を四つのメイン事業とし、それぞれのシナジー効果によって価値あるサービスを提供することだと述べる。また同社が求める人材については、「自律して仕事に取組み続けられる事、自分なりの世界観を大切にする人材が必要。今まで学んだ経験、様々な芸術や映画などの作品に触れる事で醸成させた自分なりの世界観、世の中に新しい、面白い価値観を提供していきたい意欲などは全てが魅力的な人材の要素と言える。そして何よりも大事なのは「食」への飽くなき探求心。私たちが関わることで日本中の食文化をワンランク上に誘導することが同社の使命である。」と語る。


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毎日放送について
株式会社毎日放送、略称MBSは、近畿広域圏を放送対象とする特定地上基幹放送事業者である。大阪では唯一の同一法人によるAMラジオ放送とテレビジョン放送の兼営局で、ラジオはJRNおよびNRNとのクロスネット局で、テレビ放送はJNN系列の準キー局である。

設立は第二次世界大戦終戦の年1947年(昭和22年)、GHQが「放送基本法」と「伝播三法」の立法措置を指令し、1950年(昭和25年)に施行された。これ契機に「民間放送」設立が日本各地で相次ぎ、民間放送会社16社に予備免許が下りた。その中の一つが新日本放送株式会社で、関西政財界の支援の下、毎日新聞社と京阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)と日本電気(NEC)を中心に設立された。創立の中心となったのは、毎日新聞社を依願退職した高橋信三であった。高橋は民間放送の将来性と必要性を説き、毎日新聞社時代に培った人脈をフルに活用して出資者や番組のスポンサーを募った。

 

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設立途中で出遅れた朝日新聞社の机上案に過ぎなかった朝日放送との合併工作を頑として撥ね付け、公聴会の激しいやりとりの末、漸く新日本放送の開局に漕ぎつけた。毎日放送の前進である新日本放送は1956年12月に朝日放送・朝日新聞社・毎日新聞社と合併して大阪テレビ放送株式会社(OTB)を設立してテレビ放送に参入した。その後大阪ではもう一つテレビチャンネルが割り当てられ、ともに独自のテレビ局を持ちたかった朝日放送と新日本放送は、別々に免許を申請し、朝日放送は大阪テレビ放送と合併し、新日本放送は1958年6月毎日放送に改称した上で、大阪テレビ放送から資本と役員を引き揚げ、1959年3月に独自で準教育テレビ局として開局した。開局当初のテレビスタジオは、堂島の毎日大阪会館南館12階にあった。キー局は紆余曲折の末、日本教育テレビとなり、当時のNET系の純粋なフルネットはMBSだけであり、営業面や報道面で様々なハンディを背負いながらの発足であった。スタジオも小さく、使い勝手も悪かった。しかしMBSはこうしたスタジオ事情を逆手に取り、難波南会館からの「番頭はんと丁稚どん」や梅田花月劇場からの吉本新喜劇中継などの外部公開収録番組が生み出された。


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テレビとその歴史
テレビ、テレビジョンはフランス語televisionテレビシオンに由来し「TV」と略されることが多い。teleはギリシア語の「遠く離れた」、visionはラテン語で「視界」という意味である。テレビジョンは放送あるいは通信や遠隔監視に使用される遠方へ映像を送る技術で、テレビ放送は主として電波を使って不特定多数のために放送する仕組みで、動画に加えて音声や付加情報を送ることができる。電波を使わずに有線で送出するケーブルテレビ(CATV)もある。このテレビジョン放送で送られるコンテンツが番組(プログラム)である。日本の電波法での「テレビジョン」の定義は「電波を利用して、静止し、または移動する事物の瞬間的映像を送り、又は受けるための通信設備」となり、放送法ではテレビジョン放送は「静止し、又は移動する事物の瞬間的映像及びこれに伴う音声その他の音響を送る放送又は信号を併せ送るものを含む。」と定義している。中国では電信と電話を繋げて「電視」と呼ばれている。

「テレビジョン」の歴史は19世紀に始まる。1873年イギリスで明暗を電気の強弱に変えて遠方に伝えるテレビジョンの開発が始まる。1884年ドイツのポール・ニコプーが直列式の機械走査を実現し「ニコプー円板」を発明した。1897年イタリアのグリエル・マルコーニが電磁波を使って3キロメートル離れた地点間でのモールス信号の無線通信に成功している。1897年ドイツのフェルディナント・ブラウンが受像菅に用いるブラウン管を発明。20世紀に至ると1911年ロシアのボリス・ロージングが世界で初めてブラウン管テレビの送受信実験を公開し、簡単な図形の輪郭の受像に成功するが、実用レベルの受像に至るには映像を電気信号に変換する光電管とそれを増幅する真空管の発達を待たねばならなかった。1925年スコットランドのジョン・ロージ・ベアードが機械式テレビを開発。見分けられる程度の人間の顔の送受信に成功する。1926年に同じくジョン・ロージ・ベアードが王立研究所で動く物体の送受信に成功している。

 

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日本では同年12月に浜松高等工業高校の、高柳健次郎がブラウン管テレビの開発で「イ」の字を表示させた。1927年アメリカのフィロ・ファンズワースが電子テレビ撮像機の開発に成功し、撮像・受像の全電子化が達成された。1929年英国放送協会(BBC)がテレビ実験放送を開始。日本では1931年NHK技術研究所でテレビの研究が開始されたが、戦後の1945年から1946年までGHQにより日本のテレビの研究は禁止されていたが同年7月に禁止令が解除され、NHKにより研究が再開された。1952年松下電器産業(現パナソニック)が日本初の民生用テレビを発売した。1953年にシャープが国産第一号テレビTV3-14Tを175,000円で発売。同年、日本放送協会と民放としては初めて日本テレビがテレビ放送を開始した。当時の主な番組は大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継と記録映画であった。白米10㎏が680円、銭湯の入浴料が15円程度であった当時、テレビの受像機の価格は非常に高価で20万円から30万円程度で当然一般の人々にとっては手が届かなかった。多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビや、街の名士などの一部の富裕世帯宅、喫茶店、蕎麦屋などが客寄せに設置したテレビを視ていた。私もテレビが我が家に届いた日のコトを鮮明に記憶している。その頃テレビは特別な「電視装置」だったのだ。1958年12月23日東京タワーからのテレビ放送が開始され、テレビの時代は本郷氏の生まれた60年代に向かって行くことになる。


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次に何が起こるかワクワクして視るもの
テレビは見られているのか、いないのか、よく分からなくなってきた。テレビと視聴者の関係が変化したのだ。テレビとは何かという問いは以前からある。1960年代に出版された書籍「お前はただの現在にすぎない。」は当時のテレビ論の基本となっていて、歴史的名著とも言われている。この考え方を最も具体化したのは萩本欽一氏である。2013年2月1日、テレビ放送が始まって60年を迎えたこの日にNHKは記念番組として「テレビのチカラ」を放映した。その番組で萩本氏が最も影響を受けたテレビ番組として挙げたのは「あさま山荘事件」の中継映像であったと語っている。過激派が立てこもる山荘で何が起こるのか、中継の映像はぶっ続けで山荘を写し続ける。「窓ばかリ写すのね」と萩本氏は言っていた。コントの練習をしていたのに戻ってこない二郎さんが、テレビに写る山荘の窓をじっと見ていたのだ。この気づきから生まれたのが「欽ドン!良い子悪い子普通の子」であった。素人や新人ばかりを起用した番組で、出演者が素人なので次にどんな反応を示すのか分からない、だから面白かった。アドリブがエンターテイメント化するという発想の大転換であった。こうして萩本欽一は“視聴率100%男”と呼ばれ、テレビ史上類のないヒットメーカーになっていったのだ。

 

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その後各時代で一世風靡した「元気が出るテレビ」、「オレたちひょうきん族」、「進め電波少年」などは台本無視でドキュメンタリーの様な制作パターンで欽ちゃんの系譜を継いでいると言える。テレビはこの頃までずっと何かが起こりそうで、次に何が画面に出てくるのかワクワクする電視装置だったのだ。テレビ番組の制作側はまちがいなく「何かが起こりそう」を意識していた。クイズをよく出したり、クイズだけではなくテレビはよく“引っ張る”演出をするが、ふと気が付くと視聴者はもう待てなくなっていたのだ。視聴者としての私は、もう引っ張られなくなっていたのだ。少しでも引っ張れば私はスマホに向かってしまうのだ。現在起こっていることは急速に増大するネット環境であり、それに接触する時間なのだ。これは「モバイルシフト」と呼ばれ、メディア接触のスピード感覚が大きく変わり、接触時間の「緩急」の差が大きく開いていく。モバイルシフトが起こると、メディア接触のスピード感覚が大きく変わり、「緩急」の差がものすごく開く。日常的には“ファストな”メディア接触となり、スマートフォン上で次から次にメディアを渡り歩き、どん欲にコンテンツをむさぼる。ある瞬間にスイッチが入ると、急にコンテンツをじっくり視聴して堪能する。その後またスイッチが入るとファストな接触に戻り次々にメディアを渡り歩く。要するに自分でスピード調節して情報環境を最適化したいのだ。ここに「放送」のように定時にその場にいなくてはならないものとの乖離がある。テレビ離れではなく、放送離れなのだ。


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結びとして
ネットが人々の生活の隅々にまで浸透した結果、社会の動きとネット上で騒がれていることが一致する状況がかなり一般化している。社会で起きている事象が、ネット上で可視化される時代に入っている。テレビ番組制作の現場も、ネット上の「ネタ」を集めた番組が増加している。「テレビはすでに壮大なネット文化の中の一部として取り込まれてしまったのかもしれない。」慶応大学 夏野剛氏の意見もある。流行やファッションもインスタグラムなど会員制の交流サイト(SNS)から生まれて世界的なトレンドになる事例もある。レストランに行きたいと思えばネットを視れば実際に行った事のある人のリアルな行動に基づいた情報を得ることが可能だ。ネットが普及するまでは、こうした情報はテレビや雑誌が取材して、その情報をテレビ番組や雑誌の中で知るというのがサイクルであった。10年前までは、テレビと雑誌はとかく反目し合うライバルの様に言われてきたが、現在は共存関係になっている部分も多く見られる。2008年頃からフジテレビなど在京のキー局がネット上に番組公式サイトを作るようになった。潮目は明らかに変わったのだ。「モバイル・シフト」が進みテレビとネットが「敵対」から「共存」へ移行する最中に、本郷氏はTOROMI PRODUCEで64本のビジネスモデルを同時に進行させようとしている。その圧倒的な量の質を落とさせないのは、長年テレビの番組制作の現場で培われた「制作力」に在ると感じた。スタッフは5人だけ、人的ネットワークとアウトソーシングを駆動させながら、大風呂敷を拡げて上手くいくものに絞り込む。「やって失敗するほうが、やらないよりいい。とりあえずやってみる。」「映像」で切り取ると、見えないものが見える。ともいう、向かう視点を定める所に気付きが在ると語る。テレビ番組制作一筋の凄みがそこに在る。

はじめに

今回講演をいただく川島康夫さんとの出会いは、女浄瑠璃を後援する「瑠璃の会」会合であった。いろいろ気さくにお話しいただく中で、川島氏が松下電器産業に勤めていて創業者の松下幸之助とも関わりがあったことが分かった。川島氏は「創業者とは何回か話させていただきました。だから物の見方や考え方がよくわかる。貪るように教えを吸収しました。組合活動はいろいろな人がいるからそれは大変です。しかしひ弱な私をよくぞここまで鍛えてくれたと、感謝しています。」と語る。第9回のゼミは川島氏のご案内で門真市西三荘にあるパナソニックミュージアムを訪ねることになった。

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松下電器産業からパナソニックへ

1917年(大正6年)松下幸之助は大阪東成郡鶴橋町(現東成区玉津二丁目)の借家で電球ソケットの製造を始める。当時は妻むめのと妻の弟である井植歳男の3人での営業だった。1918年に大阪市北区西野田大開町に移転し松下電気器具製作所を創立した。ここ現パナソニックの原点である。1927年(昭和21年)自転車用角型ランプを販売、この商品からナショナル(National)の商標を使い始める。1931年(昭和6年)ラジオの生産を開始し、1932年に重要部の特許を買収し、同業メーカーに無償で公開し、戦前のエレクトロニクス業界の発展に寄与した。1935年(昭和10年)12月松下電器産業株式会社に改組し、松下電気、松下無線、松下乾電池、松下電熱、松下金属、松下電気直売など9分社を設立した。1937年(昭和12年)「ナショナル」のロゴ書体「ナショ文字」を制定した。1943年(昭和18年9に軍需産業に本格参入、1945年に日本敗戦により、存外資産のほとんどを失い、1946年にはGHQにより制限会社の指定を受けたが、当時の松下航空工業以外の分社を再統合して事業部制にお戻し、洗濯機などの製造を開始した。

松下電器産業からパナソニックへの社名変更は2008年10月1日である。元々「Panasonic」は海外、「松下」もしくは「National」が国内でと使い分けられてきたが1980年代後半からは国内でもPanasonicを使うようになっていた。白物家電では「National」の認知度が高かったからだ。

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パナソニック株式会社は大阪府門真市に拠点を置く世界的な電気メーカーで、国内では日立製作所、ソニーに次いで3位で、38の事業部からなる社内カンパニー制を採用している。アプライアンス社、ライフソリューションズ社、コネクティッドソリューションズ社、オートモーティブ社、インダストリアルソリューションズ社、中国・北東アジア社、US社の7カンパニーである。連結対象は592社、これら関連会社も含めて、家電の他にも産業機器・住宅設備・環境関連機器など電気機器を中心に多角的な事業を展開している。創業以来消費者向け製品・サービスに力を入れてきたが、2013年から企業向け製品(BtoB)の比率を上げていく方向へと舵を切っている。現在売り上げ全体に占める家電の割合は24%である。松下電工の合併および三洋電機を連結対象とする現在は、車載設備・住宅設備・エネルギーマネジメント機器などをコアとして成長戦略を加速させている。グローバル展開ではアビオニクス、カーナビなどのIVIシステム、車載用リチウム電池、換気扇、コードレス電話、業務用冷蔵庫で世界一位のシェアを誇る。国内では唯一全部門を網羅する総合家電メーカーで家電業界の多くの部門でトップシェアを有し、家電以外でも電池、住宅用太陽光発電機、照明器具、電設資材、ホームエレベーター、電動アシスト自転車で国内一位のシェアとなっている。また知財活動にも秀でており、パテント・リザルト社の「特許資産規模ランキング」で2017年は二位となっている。

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パナソニックミュージアムのこと

1918年(大正7年)松下電気器具製作所の創立以来100年。パナソニックは創業者・松下幸之助の経営理念「企業は社会の公器」を確立して、その事業を通じて社会に貢献することを実践してきた。企業活動の枠を超え、広く人類の繁栄と幸福を願いその実現に情熱を傾けてきた。そこには、より良い暮らし、よりよい社会を求め続けた松下幸之助の高い志、「生き方・考え方」を数多の後進が継承し、数々の製品・技術を生み出してきたパナソニックならではの企業文化が息づいている。「パナソニックミュージアム」は2018年3月に創業100周年の社会や消費者への感謝を表すとともに、松下幸之助の言葉や、歴代の製品に触れながら、その熱き思い、パナソニックの“心“を未来に伝承していくことを願って開設された。施設は大阪府門真市にある本社敷地内に建設された。京阪本線の西三荘駅から徒歩2分に位置する。施設の全体配置計画は、「松下幸之助歴史館」、「ものづくりイズム館」そして2006年にオープンした「さくら広場」で構成されている。創業50周年のとき「松下電気歴史館」が創設されていて、ほぼ50年ぶりのリニューアルである。「松下幸之助歴史館」の前には「創業者松下幸之助翁寿像」が立っている。建築は丸窓が特徴的な外観で1933年に門真に建てられた本店・工場をそのまま模したもので船舶を連想させる近代建築である。敷地も本店跡地そのままで、当時の意匠をより正確に再現している。屋根にある煙突や舵輪のオブジェも当時のままである。舵輪は松下電器の進路を定める本店の使命を象徴するものである。展示室は「松下幸之助に出会える場所」として「道」をコンセプトに幸之助94年の生涯をたどる展示計画となっている。時代軸と事業軸でその生涯を追っていくものである。写真パネルで幸之助が何を考え、どういう行動をしたのかを展示している。

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展示各所には幸之助の名言とそのもととなった文章を示した「松下幸之助のことば」カードが用意され見学者は自由に持ち帰ることができる。展示構成は1章1904年〜礎から7章1968年〜経世で構成されている2章1918年〜創業の展示空間に旧歴史館に在った「創業の家」のレプリカが移築されている。これはまだ松下幸之助が存命の頃に造られたものなので、細部まで往時の様子が再現されている。薄暗い展示は当時の家屋の照度を再現しているためである。家の中には”もう一人の創業者妻・むめの”とアタッチメントプラグの材料を混ぜて釜で煮ている“むめ”の弟 井植歳男(のちの三洋電機創業者)そして土間には松下幸之助が座っている、創業時のシーンがマネキンでディスプレイされていて、旧歴史館の頃から社員教育に使われていた。5章1961年〜飛躍の展示から高度成長期に製造されたテレビ、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が展示されている。6章1961年〜打開では1964年の「熱海会談」が展示され印象的である。7章1968年〜経世では晩年に至って「明日の指導者を育成する」を目指し、1978年に開塾した松下政経塾が展示されている。社会に様々な貢献を果たした松下幸之助は1989年、昭和が終わった年に94歳で亡くなった。この展示室に併設されたライブラリーでは、紙資料2万点、書籍1200冊、写真やネガ3万枚、音声2000本、映像5000本などパナソニックの100年にわたる歴史資産をデジタルデータ化し、閲覧が可能となっている。閲覧端末はスロットに「松下幸之助のことば」カードを差し込むとカードの言葉に関連した資料にスピーディにアクセスできるようになっている。壁面は松下幸之助の著書と関連する書籍がその解説とともに展示されている。

「ものづくりイズム館」は旧歴史館の建物そのものなので外観は同じである。展示テーマは「パナソニックの“ものづくりDNA”を探る」で、人々の100年の暮らしの変化とともに歩んだ歴代の製品約550点が展示される。エントランスにはナショナル坊やと歴代のロゴが彫られたレリーフパネルがあり、続くストレージギャラリー(収蔵庫)はそれぞれのジャンルの一号商品やデザイン家電がまとめられそれぞれのパッケージの連続で展示されている。川島氏がデザインした家具調テレビも展示されている。ストレージギャラリーの先にあるのはマスターピースギャラリー、「思いやり」「感動」「安心」「新定番」「家事楽」「自由」の6つのテーマで構成されていて、それぞれの分野の「マスターピース」が展示されている。デジタル・ムーバP201HYPERはデジタル方式携帯電話で初めて100gを切った、当時世界最小最軽量の携帯電話だった。モバイルノートPC「レッツノート」は今も改良を重ねながら発売されている。ロングセラーの「ハイ三角タップ」「ハイトリプルタップ」も展示されている。展示空間の最深部にあるのはヒストリーウォールで、横16m・縦2.2mの636インチスクリーンである。8K映像で100年間の製品を一望できる映像展示となっている。スクリーンの下には「宣伝・広告の100年」がパネルで展示され一覧できる。

「ものづくりイズム館」から道を挟んだ向かい側には今回見学できなかったが「さくら広場」がある。ソメイヨシノが190本植えられていて、地域貢献の一環として無料開放されている。広場の中の築堤には1933年に門真の地に本社・工場を移したときに新築された松下幸之助門真旧宅と大観堂がある。これは創業期から松下幸之助の良き心の支えとしてパナソニックの発展に寄与した真言宗醍醐寺派の僧侶加藤大観師の遺徳と功績を偲び、1956年に建立されたもので、いずれも限定公開である。

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川島さんのこと

今回のゼミを主導してご案内いただいた川島さんのことに触れてみたい。川島さんは1944年神戸市生まれである。大阪府立西野田工業高等学校・工業デザイン科を1962年に卒業している。大阪府立西野田工業高校は大阪府立の職工学校として1908年に現在の福島区大開にお開校した。大阪府内の工業高校としては大阪府立都島工業高等学校とともに一番古い歴史を持っている。1941年に大阪府立西野田工業高校へと改称し1948年に学制改革により、大阪府立西野田工業高等学校と改称し、現在に至っている。川島さんは卒業後、松下電器産業に入社した。1965年(昭和40年)10月当時一世を風靡した家具調テレビ「嵯峨」のデザインなどを担当した。「嵯峨」は北欧デザインに影響されたが、米国のテレビ受像機の模倣ではなかった。当時すでに松下電気デザイン部は、海外のデザイン情報を取り入れて、日本独自のデザイン開発を推進できる状況にあったのだ。「嵯峨」のデザインはステレオ「宴」に影響され、「宴」はステレオ「飛鳥」に影響された。余談だが「飛鳥」は「校倉造」のイメージがつけられているが日本調を狙ったわけではなく、宣伝によってつけられたイメージである。「ホワイトグッズ(白物家電)」に対して、木を用いたものは「ブラウングッズ」と呼ばれ、他社のデザインにも影響を与えた。その後周囲の強い要望により、若干20歳で労働組合に従事した。当時の労使関係は混迷を極めていた。その安定化と労働組合の近代化を目指して川島氏は寝食を忘れて取り組んだ。「賃金闘争だけではなく、一市民として地域社会を良くする義務がある。この時の川島氏はそういった労働組合を「目指して取り組んでいたのだ。専従を含む組合活動は28年に及んだ。その間の活動は、淀川の水質浄化、都市の緑化、電力不足、エアロビクス運動の提唱、関西国際空港建設の推進など市民生活に直接関係する課題を取り上げてきた。社会を構成する一因としての責任と自覚を持って組合活動を推進した。また民労協のヨーロッパ旅行がきっかけとなり、桜の並木道をヨーロッパにも作ろうと寄付を募り、パリ、ロンドン、ローマ市長に桜の苗木をプレゼントした。「これからの労働組合は、文化的な面での社会貢献も果たさなくてはならない。」という思いからであった。このような機運の中から出てきた課題が、大阪で廃れつつあった歌舞伎を復興させるという課題である。1977年(昭和52年)大阪歌舞伎座で澤村藤十郎襲名披露公演が開かれたが、入りが悪く大阪顔見世は9回で打ち切られた。澤村藤十郎がなんとか大阪で歌舞伎を復興させたいと頼ったのが当時川島氏の上司であった大阪労協代表(松下電器労組合長)の高畑敬一郎であった。高畑から上方歌舞伎の復興支援を依頼されたことが川島氏の歌舞伎との出会いであった。松下電器の創業者松下幸之助の言葉に「不況もまたよし」という言葉がある。不況の時こそ気持ちを引き締め、反省する。そこから新しい挑戦のチャンスが生まれる、ということだ。澤村藤十郎襲名披露公演の不入りが「関西で歌舞伎を育てる会」を誕生させ、川島氏との出会いも生んだわけだ。松下幸之助氏は川島氏にとって尊敬して止まない人生の師である。仕事や労使協議の場を通して、物の見方や考え方の多くを学んだ。「関西歌舞伎を愛する会」は1993年(平成4年)に「関西で歌舞伎を愛する会」に名称を変更した。川島氏は1994年からパナソニック映像の社長に就任した。赤字会社を三つ集めて作った会社を2年で黒字にし、8年8か月社長を務めた。「人生に無駄な経験などひとつもない。全ては次のことに生かされる。」この教えも創業者から学んだ。松下幸之助氏は父が米相場に失敗し、9歳で大阪に丁稚奉公に出た。父が米相場で失敗しなかったら松下電器は存在しかった。川島氏は三宮で生まれ、父は大きなクリーニング店を営んでいたが、戦争で全てを失い疎開した茨城では雨漏りしても受け皿がないほどの貧しさだった。そこから何をするにも必死で頑張ってきたわけである。創業者松下幸之助にオーバーラップする川島氏の原点である。

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松下デザインからパナソニックデザインへ、

日本の現代デザインは、第二次世界大戦後に開化したといえる。1946年から通産省(現、経済産業省)は工芸技術産業試験所の活動を機関誌「工芸ニュース」により広報し、海外市場調査(現、JETRO)を設立して、輸出振興の観点から海外デザイナーの招聘や海外へのデザイン留学生の派遣を積極的に行った。1952年には日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)が設立され、そのデザインコンペティションはインダストリアルデザイナーの登竜門となり、1954年発売の天童木工のバタフライ・スツールで知られる柳宗理やマツダ三輪自動車K360の小杉二郎などを輩出した。また東京芸大教授の小池岩太郎を中心として組織され、ヤマハのオートバイYD1型のデザインに参賀したGKインダストリアルデザイン研究所などのデザイン事務所もこの時期多く設立された。どGKの栄久庵憲司によるキッコーマン醤油の卓上瓶は今でも語り継がれている。「もはや戦後は終わった」と経済白書が宣言したこの時期、食事の所作を変えたこの卓上瓶は、デザインが新しいライフスタイルを提案したものと言える。

パナソニックデザインのルーツは1950年代までさかのぼる。1951年に初めてアメリカ市場視察を行い帰国した創業者の松下幸之助が飛行機のタラップを降りるや「これからはデザインの時代やで」と言った話は有名である。当時のアメリカで、ビジネスの決め手がデザインになっている現場を目の当たりにしてきたのだ。松下幸之助氏はすぐに、当時千葉大学工業意匠科講師であった真野善一氏を招聘し、松下電気に「宣伝部意匠課」を3名配属し設置した。それは日本で初めての企業内デザイン部門の誕生であった。真野は1916年(大正5年)生まれで、東京高等工芸学校工芸図案科を卒業、商工省陶磁器試験所、高島屋東京支店設計部などに勤め、昭和25年に千葉大学工学部教授となった後、昭和26年に松下電気工業デザイン部宣伝部意匠課長に迎えられたのだ。

扇風機20B1は、真野による初の「松下デザイン」であり、これ以降あらゆる製品のデザインが製品意匠課に持ち込まれるようになった。1953年にはラジオDX-350が新日本工業デザインコンペで特選2席を受賞し活躍した。当時はデザインプロセスへの理解の無さから、「その場ですぐやってくれ」という無理な依頼も少なくなかったが、しだいに製品開発段階からデザイナーが関わることを求められるようになり、デザインとは表面的なスタイリングのみを表現するのではなく、製品が使われる場所や使われ方も含めた設計思想であるということを理解してもらおうと努めて活動することになる。パナソニックデザインとなっても、この黎明期の活動、思いをDNAとして継承しながら、今日に至っている。

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結びとして、余話として、

今回のパナソニックミュージアムの見学を終えて、産業革命以来、近代から現代への160年にわたるデザイン、その中でもプロダクトデザインの歴史的変遷を追いかけ、製品デザインの基本ルールやデザインがどこに向かっていくのかを解き明かしてみたいと思った。

日本におけるデザイン草創期のエピソードを幾つか上げてみたい。エポックメイキングなデザイン製品、キッコーマン醤油の卓上瓶にもどる。当時、日本の一般家庭では、一升瓶入りの醤油を買ってきて保存し、食卓で醤油さしに移し替えて使っていたが、注ぐたびに口から垂れて食卓にシミを作ってしまうという問題があった。野口醤油醸造(現、キッコーマン)は「新しい醤油の形」を新進デザイナー栄久庵に依頼した。残量が分かる透明のガラスと醤油本来の色をイメージさせる赤いキャップを採用し、安定感と詰め替えを意識して底部口部は大きく、中間部は女性の持ちやすさと注ぐときの手の形の美しさを考慮して細くしたとされる。注ぎ口の下側を細くして液誰もなくなった。食事の所作を変えたこの卓上瓶は、新しいライフスタイルを提案したものと言える。その後神武景気に沸いた時期には、自動車の生産も再開され本格的なモデルが登場した。トヨタが「designの勝利」と広告したコロナ、日産のダットサン310(初代ブルーバード)、富士重工のスバル360などが上げられる。家電でもシンプルなモダンデザインとして、1955年発売の東芝の電気釜ER-4や東京通信工業(現ソニー)のトランジスタラジオTR-610などが注目された。東芝の電気釜はネーミングとして「電気炊飯器」ではなく「電気釜」とすることで「釜の過熱手段が燃料から電気に変わっただけ」という安心感を消費者に与え、従来のかまど口をイメージさせる黒い台形の操作部を採用し、デパートでの実演販売でおいしごはんが「科学的」に自動で炊き上がることをアピールした。東芝はネーミング(視覚・聴覚)、デザインモチーフ(視覚)、実演(味覚・聴覚・臭覚・触覚)など、消費者の五感を総動員させるマーケティング手法を駆動させたのだ。これも新しい経験とライフスタイルをデザインした事例である。本田のスーパーカブC100もこの時代の製品で、以後2008年までシリーズ全体で6000万台売り上げた。1957年には、通産省に意匠奨励審議会が設置され、グッドデザイン(Gマーク)商品の選定事業が開始され、翌年にはデザイン課が設置されて、デザインの奨励、振興の体制が国として整備された。1960年世界デザイン会議が日本で開催され、各分野のデザイナーや建築家が対等に議論を闘わした。その経験は1964年東京オリンピック、1970年日本万国博覧会に活かされていった。また1970年代、1980年代にかけては広告・デザインが大きく変わったことは他でも述べている。新聞広告をテレビ広告が追い抜いたのは1975年であった。その前年に日本広告審議機構が発足して、広告の社会的役割が問われると同時に、広告表現の芸術性の追求が盛んになった。消費者の価値観やライフスタイルに「焦点を「あてて、企業ポリシーへの共感を得ることに重心が移っていった。商品と直接関係無しない映像・音楽を流す「イメージ広告」が表現の主流となっていった。糸井重里や中畑貴志などのコピイライターが脚光を「浴びた時代であった。西武系のファッションビル「パルコ」は1974年渋谷店を開店し、大胆なビジュアルと印象的なコピーのポスターを中心に、渋谷の街全体を媒体とする広告展開をし、それと前後して西武劇場(現PARCO劇場)開設や「ビックリハウス」創刊などの文化事業を展開して企業イメージを高めていった。この総合的な戦略は80年代のCIブームとなって社会に広まっていった。ケンウッド、日本たばこ産業、アサヒビール、JRなどがその導入例である。

さらに海外のエピソードを追ってみたい。ドイツにBRAUNという家電ブランドがある。日本ではシェーバーや電気歯ブラシでおなじみであるが、ドイツでは幅広く家電製品を製造していてグローバルに展開しているメーカーである。ブラウンはデザイン性の高いプロダクトデザインで他の多くのメーカーから尊敬されていて、あのAPPLEもブラウンから影響を受けていると言われている。ブラウンは「家電デザインのルーツ」と呼ばれているのだ。その理由は創業からの歴史にある。1921年にマックス・ブラウンによって創業され、最初は工業用機械のベルトを固定する工具の販売から始まった。最初の自社製品はHi-Fiラジオである。1930年代に入るとドイツを代表するラジオメーカーへと成長する。第二次世界大戦の間は、家電機器が製造できなくなるがその間ブラウンは様々なアイディアを温めており、戦後はジューサーやクッキングミキサーなどのキッチン家電を相次いで生み出した。1951年マックス・ブラウンは急逝し、その経営は技術者のアルトゥール・ブラウンとビジネス学位を取得していたエルヴィン・ブラウンの二人の息子に引き継がれた。ブラウン兄弟は「人に対する尊厳」というビジョンを掲げ、高いデザイン性と機能性を持つ優れたプロダクトを生み出していく。

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川島さんのことにもどる。川島さんの名刺には、「関西歌舞伎を愛する会」事務局長という肩書の下に、こんな言葉が記されている。「他人のために生きた人生だけが、価値を持っている。」(アルバート・アインシュタイン)川島さんの半生はまさにこの言葉通り「ボランティア活動のために生きた人生」であったのではないか。「関西歌舞伎を愛する会」」大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」、「南米ペルーでの小学校の寄贈」この三つが活動の柱である。松下電器産業に入社後テレビなどの製品デザインを担当した後、若干20歳で乞われて労働組合活動に従事。当時混迷する労使関係の安定化と労働組合活動の近代化に寝食を忘れて取り組んだ。「賃金闘争だけでなく、一市民として地域社会を良くする義務がある。」そういった組合活動を続けたのだ。「これからの労働組合は、文化的な面での社会貢献も果たさなくてはならない。」松下幸之助から、松下のデザインから多くを学んだ川島さんの言葉である。今回のゼミナールも川島さんとのご縁から、多くの学びと気づきを頂いた。「温故知新」

はじめに

2019年12月、緩やかな暖冬の中今年最後となるMCEI大阪定例会を向かえた。今回のテーマは、みらいごはんー2050年の食生活を支えるしくみ創りーである。MCEI大阪には2000年以降20年間協力いただいている田中浩子氏の登壇である。田中氏は立命館大学 食マネジメント学部で教授を務めながら、「八剣伝」でおなじみのマルシェ株式会社と業務用冷凍庫を製造するフクシマガリレイ株式会社で社外取締役を「担っている。「栄養」と「経営」二つの視点から「社会実装研究」をまさに実践している。30歳代前半にフリーランスの栄養士としてスタートした時、栄養士の「マーケティング力の弱さ」であった。「食べる楽しさと大切さを伝えるしくみ創り」これが田中氏の現在に至る原点となっている。

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ここで今回のテーマに在る2050年を展望してみたい。世界人口は現在の77億人から2050年には97億人、2100年に109億人に増加すると推計する報告書が国連によって発表されている。同時に2100年をピークとして減少し始める可能性も指摘している。この50年までの増加のうちインド、ナイジェリア,コンゴ(旧ザイール)など9カ国が全体の50%超を占める。インドの人口は27年頃中国を抜いて世界一となる見込みである。環境・気候変動については、人為的な温室ガスの排出量が2030年まで増え続け、2030年をピークに減少するものの、炭素循環フィードバックやアイス・アルベド・フィードバックなど気候プロセス上の要因も加わり、2050年までに3度上昇する。1.5度の上昇で西南極の氷床が融解し、2度の上昇でグリーンランドの氷床が融解する。2100年には18世紀の産業革命前に比べて6度〜7度上昇するという悲観的な予測を出すフランスの研究者もいるが、2060年までにカーボンオフセットにより相殺が可能となれば、1.5度の上昇にとどめられる。こうした異常気象は食料の供給を不安定にし、人口が97億人に達すると予測される2050年には穀物価格が最大23%上昇する可能性も指摘される。ただ単純に農地を増やせるかといえば、そうでもなく農業は異常気象の影響を受ける一方で、家畜を飼育し窒素肥料を使用することで、大量の温室ガスを出す、排出源でもあるのだ。技術では2045年にAIが人類の知性を上回るシンギュラリティに到達し、2050年に地球と宇宙をつなぐ「宇宙エレベーター」が実現、脳に電気信号を読み取るチップの埋め込みが普及、目の細胞に外部信号を送ることで、盲目の人が見えるようになる、富裕層は子供の遺伝子構造を選択できる、など様々な分野で予測されるが実現の振幅は大きいと思われる。これを進歩と単純にとらえられない複雑な様相である。

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2050年の世界経済は

ここで2050年に向けての世界経済について触れておく。2042年までに世界経済の規模は倍増する。中国はすでに購買力平価(PPP)ベースのGDPが米国を抜き世界最大の経済大国になっている。購買力平価とは為替レートの決定メカニズムの一つで、ある国の通貨建ての資金の購買力が、他の国でも等しい水準となるように、為替レートが決定されるという考え方。モノの価格に注目して外国為替レートの変動を説明する理論で、1921年にスエーデンの経済学者、グスタフ・カッセルが提唱した。英語の「Purchasing Power Parity」の頭文字を「とってPPPと呼ばれている。また市場為替レート(MER)ベースでも2030年までに世界最大となる。

2017年2月以降世界の経済は現在の先進国から新興国へシフトする長期的な動きが2050年まで続くと見込まれている。2050年までに主要経済大国7カ国の内6カ国は現在の新興国が占める見込みである。2050年までにインドは米国を抜き世界第2位、インドネシアは第四位の経済大国となり、日本、ドイツなどの先進国を抜き去る見込みである。ベトナムは2050年までに世界で最も高成長を遂げる経済大国となり、予測されるGDPの世界での順位は第20位に上昇する。コロンビアとポーランドは、それぞれの地域(中南米とEU)で最も高成長を遂げる経済大国となる可能性がる。トルコは、政治不安を払拭し経済改革を推進すれば2030年までにイタリアを抜く可能性がある。ナイジェリア、南アフリカ共和国、エジプトは自国経済の多角化、ガバナンス水準向上、とインフラ改善の前提条件を実現すれば年平均成長率4%前後の成長を2050年までの間維持できる。EU加盟国27カ国の世界GDPに占める割合は2050年までに10%未満へと低下するが、英国は、Brexit(ブレグレジット)後も貿易、投資、人材の受け入れにオープンであれば、成長率においてはEU27カ国平均を長期間上回る可能性はある。世界経済は今後2050年までに年平均実質成長率約2.5%のペースで成長し、その経済規模は2042年までに倍増すると予想される。その成長の主な牽引役となるのは、新興市場と開発途上国となる。E7(ブラジル、中国、インド、インドネシア、メキシコ、ロシア、トルコの新興7カ国)は今後34年間、年平均3.5%のペースで成長し、G7(カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、アメリカ)はわずか1.6%程度の成長にとどまる。E7のGDPにおけるシェアは2050年までに約50%上昇し、G7のシェアはわずか20%強にまで縮小する。ただ一人当たりのGDP順位は、2050年でもE7よりも高くなる見込みで、新興国の所得格差が収斂するのは2050年以降も時間が掛かる見込みだ。しかし、技術革新が高度なスキルを持つ人材と資本家に優位に働くことから、各国の所得格差が拡大し続ける可能性もある。

世界経済の成長は2020年まで年平均3.5%で推移したあと鈍化し、2020年代は約2.7%、2040年代は約2.4%と予想される。これは多くの先進国が労働人口の著しい減少に見舞われるためで、同時に新興国の市場が成熟し、キャッチアップ型の急成長が困難となり、成長率が鈍化するのだ。新興国は自国の潜在力を実現するために、教育・インフラ・技術への持続的で効果的な投資が必要となる。新興国経済の多角化が重要であり、政治、経済、法律、社会面の諸制度を確立しイノベーション、起業家精神の創出に取り組む必要がある。

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食料自給率について

日本の食料自給率は2018年度、過去最低にまで落ち込んだことが明らかになった。日本の食料生産は危機的な状況に陥りつつある。一方世界では、旱魃や豪雨などの異常気象が頻発し、食糧生産が不安定になることが指摘されている。食糧自給率とは国内の食料消費が国産でどの程度賄えているかを示す指標で、総合食料自給率と品種別食料自給率の二種類があり、基本的には総合食料自給率のことを指す。この総合食料自給率は熱量で計算する「カロリーベース」と、金額で計算する「生産額ベース」があり、日本ではこの二つの基準が長期的に低下している。2017年度の指標だが、日本のカロリーベース総合食料自給率(一日一人当たり国産供給熱量を一人一日当たり供給熱量で割った指標)は38%であった。この時点で私たち日本人は食べ物の62%を海外からの輸入に頼っていることになる。ちなみに生産額ベース(食料の国内生産額を食料の国内消費仕向額で割った指標)は66%であった。他の先進国に比べても、日本の水準は最低である。食料自給率トップのカナダは200%を超え、続くオーストラリア、アメリカ、フランスも100%を超えている。しかし、品目別食料自給率で見ると、日本も米は100%、野菜は79%自給しており、全ての食料を輸入に依存仕手いる訳ではなく、また生産額ベース(66%)で自給率を考えると、日本と他の先進国の差は縮小する。

第二次世界大戦終戦直後の1946年度(昭和21年)の日本の食料自給率は88%で、その後緩やかに下降し続け1989年(平成元年)に50%を割り込み、2000年代に入り40%前後の横ばいで推移したが2017年度に38%に下降したのだ。日本の食料自給率の低下の原因は、戦後の復興に伴い国内生産が主であった米・野菜が中心の日本食から欧米化した食事にシフトしたことから、海外からの輸入による小麦や飼料や原料の多くを輸入に頼る畜産物(肉類)や油脂類の消費が増加したことである。まさに“食生活の変化”がその大きな要因となったのだ。中でも飼料を含む穀物全体の自給率の低さは日本の特徴としてあげられ、特に畜産物(肉・卵・乳製品)に影響を与える例えば牛肉1㎏にはその10倍の11㎏の穀物飼料が必要なのだ。この飼料を含む穀物全体の自給率は28%である。

田中氏によると日本の食生活は第二次世界大戦後に大幅な改善がなされた、戦後の飢餓・低栄養からの脱出である。その後1975年(昭和50年)頃から米飯を主食として、魚介類と肉類を半々に出現させ、季節の野菜や乾物類を副菜とし卵、牛乳を加えた変化に富んだ献立を作り出した。「一汁一菜」、「一汁三菜」の日本型食生活の確立で、これは世界でも評価された。1964年の東京オリンピックの選手村でのメニューやNHKの「今日の料理」などもこの「日本型食生活」の確立に貢献した。しかし平成に時代が変わっての30年間は生活習慣病の増加など、「日本型食生活」は新たな課題を突き付けられている。

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消費ではなく持続可能な生産へ

今、世界の政策立案者は、長期的かつ持続的な成長を実現するために、多くの課題に直面している。高齢化・気候変動などの構造的な変化に対応するために、持続的に社会貢献できるような労働力の育成や、低炭素技術の促進など、未来を見据えた政策が必要となる。世界貿易の成長鈍化、所得格差の拡大は多くの国で、地政学上の不確実性を増大させている。広範囲な産業で多くの人に機会が提供されるよう、多様性に富んだ経済の実現が急がれる。

世界のエネルギー消費量が2050年に2010年比で80%増となる可能性が予測される。このまま温室効果ガスの排出が増え続け世界の平均気温が18世紀の産業革命前に比べて3〜6度上昇すれば、人類は地球という閉じられたグローブの中で生存のための閾値を狭めていくことになる。人類は、はるか紀元前から文明を育み始めた。その暮らしの起源より、生きられる場所で暮らしてきたのだ。生物としての人は当然生きられる場所、環境でしか生きられる訳がないのだ。人類は食料増産のために数千年にわたり森林を切り開らいて農地に転用してきた。今後さらに森林を伐採すれば、その影響は農業生産に直接跳ね返ることも事実である。今後農業生産の現場には、温室効果ガスを減らす努力を益々求められていく。

日本の国土面積の約7割は森林が占めていて、農地として利用できる面積は限られている。一人当たり農地面積は近年の宅地等への転用と耕作放棄地の増加により、農地面積が最大であった1961年(昭和36年)に比べて、25%減少している。まずは耕作放棄地を蘇らせることが大切だ。農業従事者も2017年時点で平均年齢が67歳と高齢化が進み、新規就農支援制度の充実や農業法人への就職促進など官民で人材確保への取り組みが必要である。この人材確保と同時にロボット技術やICT,AIなどの先端技術を活用した「スマート農業」の実現促進も重要である。また私たちが暮らす地域は、それぞれの土地の気候・地形等の環境に適した食物が栽培され育ってきた。一人一人が地元で獲れた食材を食し、「地産地消」に取り組むことも、日本の食料自給率向上には有効な手立てである。2050年に向けて田中氏は“2050年食生活未来研究会”を立ち上げ活動を始めている。不確実性に富む現在の状況の中では、未来を正確に予測することよりも、それぞれの地域の主体者自らが、望ましい自分の目的に向け、未来を創造していくこと、自分が思い描く“世界“を築いていくことが大切だと語る。まさに”気づくから築く“である!また人口減少社会における生活者としての「マインドセット」も必要であるという。この思考は食を起点とした街づくり、持続可能な街づくりへと続いていく。すでに福井県の小浜市は2001年9月に「食のまちづくり条例」を制定し、2004年には「食育文化都市」を宣言し、食の街づくりを推進している。小浜市は、豊かな自然から得られる食材を、飛鳥、奈良時代には朝廷に献上し、伊勢・志摩、淡路とともに「御食国」(みけつくに)と呼ばれてきたのだ。

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また、日本の食生活は、食べ残しを足元から減らすことも大切で、日本では年間1900万トンも廃棄している。世界では約10億人。7人に1人、アフリカでは3人に1人が飢餓の状態であることを考えれば「食」に対する考え方を改めていくことは、人類の喫緊の課題ともいえる。

最後に、少し長くなるが、私が大きく影響を受けた中尾佐助氏(遺伝育種学・栽培植物学 専攻)の文章を紹介しておきたい。

「文化」というと、すぐ芸術、美術、文学や、学術といったものをアタマに思い浮かべる人が多い。農作物や農業などは“文化圏”の外の存在として認識される。しかし文化という外国語のもとは、英語で「カルチャー」、ドイツ語で「クルツール」の訳語である。この語の元の意味は、いうまでもなく「耕す」ことである。地を耕して作物を育てること、これが文化の原義である。これが日本語になると、もっぱら“心を耕す”方面ばかり考えられて、はじめの意味がきれいに忘れられて、枝先の花である芸術や学問の意味の方が重視されてしまった。しかし、根を忘れて花だけを見ている文化観は、根なし草にひとしい。文化の出発点が耕すことであるという認識は、西欧の学会が数百年にわたり、世界各地の未開社会に接触し調査した結果、あるいは考古学的研究、あるいは書斎における思索などを総合した結論である。人類の文化が、農耕段階にはいるとともに、急激に大発展を起こしてきたことは、まぎれもない事実である。その事実の重要性をよくよく認識すれば、“カルチャー”という言葉で、“文化”を代表させる態度は賢明といえよう。・・・・・中略・・・・人類は、戦争のためよりも、宗教儀礼のためよりも、芸術や学問のためよりも、食べる物を生み出す農業のために、いちばん多くの汗を流してきた。現代とても、やはり農業のために流す汗が、全世界的に見れば、もっとも多いであろう。過去数千年間、そして現在もいぜんとして、農業こそは人間努力の中心的存在である。このように人類文化の根元であり、また文化の過半を占めるともいい得る農業の起源と発達を眺めてみる必要がある。

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農業を、文化としてとらえてみると、そこには驚くばかりの現象が満ち満ちている。ちょうど宗教が生きている文化現象であるように、農業はもちろん生きている文化であって、死体ではない。いや、農業は生きているどころでなく、人間がそれによって生存している文化である。消費する文化でなく、農業は生産する文化である。

会員様、はじめご理解とご協力いただいた皆様に、

本年もMCEI大阪の活動を支えていただきありがとうございます。来年もよろしくお願いいたします。

はじめに

未来の消失?現在の矛盾。

今年もあと少し、11月の定例会は恒例となった日経BP総研 品田英雄氏の講演である。
ヒット商品ベスト30を見ると、年々商品の差異が曖昧となり溶け合っている様に見えるがその背景は深淵とも思える。モノもサービスもコンテンツもあり余り、新しいサービスが次々と登場し、企業は商品開発において困難な状況にある。何をどのように提供するかが難しくなっているのだ。日本人の消費スタイルは1970年代に過渡期を経て現在に至っている。70年代は商品が品質訴求から、イメージ訴求へと変わっていった時である。品質訴求の時代は「モノ」そのものの「良し悪し」をつたえ、新しき良きモノを売れば良かった。そこには新しい情報があるから、消費者もその情報を待っていてくれた。
次にくる1980年代から企業が生み出す製品の品質が上限に近くなっていく。言い換えると、メーカーが生み出す製品の基本品質の差が無くなり横並びとなる。品質が微差となると「モノの良し悪し」が届かなくなり、訴求ポイントは、「モノ」から「コト」へと移行した。消費者は「好き」か「嫌い」かで、商品を選択するようになった。商品はイメージ化に向かい、工業製品であってもファッション化せざる得なくなった。

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ここで時代を60年代に戻してみる。1958年から50年位の間に日本人の「心のあり方」に表には表れにくいが大きな転換があったのではないかという仮説がある。1950年代、60年代、70年代位までは青年たちにとって現在よりもずっと素晴らしい未来が必ず来るといった、「当然の基底感覚」が確かにあった。それがどの様な未来であるかについて、イデオロギーやヴィジョンが対立し、世代間で闘われてもしていた。しかし21世紀の現在このような「未来」を信じている青年はほとんどいない。1973年以降5年ごとに行われてきたNHK放送文化研究所による「日本人の意識」調査のデータによると、現在日本を構成する世代を15年ごとに「戦争世代」「第一次戦後世代」「団塊世代」「新人類世代」「団塊ジュニア世代」「新人類ジュニア世代」と分類し、各世代の各時点の意識の変化を示す表があり、この表で「星座」のように見える一つ一つの塊は調査時点の「意識」の在りかを点で表示し結んだものである。この「世代の星座」が最近になるほど接近しているという事実が浮かび上がる。「戦争世代」と「第一次戦後世代」と「団塊世代」の意識は大きく離れているが、「新人類世代」と「団塊ジュニア世代」は一部が重なり、「団塊ジュニア世代」以後はほとんど混じりあっているのだ。現在における世代間の精神の「距離」は「新人類」以降差異をなくしているのだ。1970年代にあった大きな「世代の距離」が80年代末に著しく減少し、今世紀に入ってほとんど「消失」しているのだ。「70年代以降に生まれた世代の間で感覚の差異が無くなってきている。」この事実はファッション界でも、教育の現場でも商品開発の現場でもすでに語られてきたことである。


品田氏が上げる社会変革のためのキーワード

今回、品田氏は商品開発において、三つの社会的課題を挙げている。高齢化、非婚化、多文化共生である。

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まず高齢化についてである。世界的な高齢化傾向によって、世界の人口動態は未知の領域にさしかかり、世界の人口と社会が変化している。この強烈な実態による社会経済的負担は専門家や政策立案者に警鐘を鳴らしている。元米国国務長官のピーター・ピーターソンは人口高齢化を「化学兵器、核拡散、人種間紛争による脅威よりさらに重大で確実な脅威」と称している。(Peterson1999)

日本は世界でも最も高齢化の進んだ国として突出した地位につけてから35年目を迎えていて、現在、高齢化社会がもたらす大きな社会経済的負担に対応している。2018年(平成30年)時点の内閣府データによると、日本の総人口は1億2632万人でこのうち65歳以上の高齢者は3562万人で、総人口の28%を占めている。高齢化社会の推進要因は人口統計的な要因が強く結合して高齢化の波を突き動かしている。
日本のベビーブーマー世代(1947〜1949年生まれの団塊の世代)が高齢化し、2012年には65歳の通常退職年齢に達することが、日本の人口動態の変化を誘発する要因として大きく働いた。この世代が高齢者になるにつれ、その集団の人口に占める大きさが、日本の人口ピラミッドの形を大きく変えた。また出生率も、この世代の誕生の後は徐々に低下していった。1949年(昭和24年)の第一次ベビーブームには約260万人を超えたが1989年(平成元年)150万人を切り、2065年には56万人まで減少すると見込まれる。人口減少も進み2030年には1億2000万人を割り込み、2055年には一億人を切ると予測される。

この急速な高齢化は日本における主要な公共政策の課題となっている。大きな問題は労働年齢の減少である。1950年では高齢者1人を約12人で支える計算であったが、2015年には高齢者一人を2.3人で、2065年には高齢者一人を1.3人で支えることになると予測されている。経済活動の担い手である労働人口の減少が常態化すると経済にマイナスの負荷がかかり続ける、「人口オーナス」である。逆に高度成長期は生産性の上昇と労働人口増加で成長率が高まる。この状態を「人口ボーナス」と呼ぶ。「人口オーナス」は国内市場の縮小と人々の集積やイノベーションを起こしにくくし、それによって成長力が低下し、労働力不足がワークライフバランを崩し、少子化が更に進行するという縮小スパイラルを引き起こす可能性がある。

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二つ目は非婚化についてである。男女ともに高学歴化が進み、大学卒業後一定期間社会経験を積むまでは結婚を控えた方が将来の所得増につながるという説は経済学的定説となっている。女性の社会進出が進む現在では、夫の収入のみに依存するのは女性にとってリスクが高すぎる。また健康状態が良くなって寿命が延びたことも晩婚化の原因と言われている。「健康で体力のあるうちに子供を産み育てなければ」というプレッシャーは極めて少なくなっている。1950年の日本では全体の97%が自宅で出産、出産に伴う生命の危険も高かったという事実を見ても理解できる。社会全体の意識の変化も大きい。30年も遡ると就職する女性の多くは「結婚までの腰掛け」という社会的通念のようなものがあった。この一方的な価値観の押し付けが薄らいだことも晩婚化の原因の一つである。都市部と地方を比較すると、一般に都市部のほうが晩婚化・非婚化が進んでいる。都会だと同程度の学歴や収入のある異性が周りに多勢いるので慌てて結婚する必要性を感じないのだ。「いくらでも相手がいる。」と絶対数が多いことによって誤解するのだ。都心部への人口流入はいまだ止まらないので、「非婚化・晩婚化」は将来的にも進んでいくと思われる。

この次の世代をどのように形成していくかに大きく関わる問題を、性別差の観点から考えてみる。結婚に関する個人主義は「結婚は個人の自由であるから、人は結婚をしなくてもどちらでもよい。」という意識で表現される。他方、結婚に関する伝統主義・保守主義として全ての人は当然結婚するものだという皆婚主義がある。男性については「結婚して一人前」などと表現され、女性については「女性の幸せは結婚にある。」といった意識である。結婚至上主義ともいえるこの意識はどちらも性別役割意識、ジェンダー規範を含んでいる。これらの意識は1990年代後半より、個人主義が強くなり各人の結婚感を非婚へと向かわせる基盤条件となっている。晩婚化、非婚化はどのような階層においても進行した、より一般的な意味を持つ社会変化と言える。これは多くの曲折はあるとしても、基本的には結婚含む社会関係が全体として自立した個人の人間関係へ変化する過程と言える。また女性の社会的地位向上の過程ともいえる。現在の日本では晩婚化、非婚化として表れている。米の第二の人口転換と言われる過程は、同様の本質を持つものであるが、比較的多くの国で同棲が増加し、出生率低下を緩和している点は日本と異なっている。今後日本の社会変化がいっそう進行し、この変化が持続して個人の平等が醸成されていくことによって、晩婚化・非婚化の問題も緩和されていく可能性も現段階では考えられる。

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三つ目は「多文化共生」について。日本に暮らす在住外国人は、近年増加の一途をたどっている。外国人登録人口は平成30年末に273万人にも達している。前年末に比べ16万9245人(6.6%)増加となり過去最高である。平成18年3月には、総務省が設置した「多文化共生の推進に関する研究会」が「多文化共生プログラム」を公表し、在住外国人の生活環境整備に向けて省庁横断的な検討が始まっている。経済のグローバル化や人口減少の進展の中、在住外国人の数は今後も増加が予想される。また、在住外国人が日本に定住する傾向が強まるとともに日本で育つ在住外国人の子供も多くなっている。在住外国人への対応については様々な考え方がある、在住外国人はあくまでも一時的な滞在者であり、滞在中の生活についてはそれぞれの母国が対応すべきであるという考え方から、日本社会への同化を求める考え方までである。日本の現状を考えれば多文化共生は、「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的違いを認め、対等な関係を築こうとしながら、共に生きて行くこと」と定義した方が望ましい。すなわち、在住外国人を日本社会の構成員として捉え、多様な国籍や民族などの背景を持つ人々が、それぞれの文化的アイデンティティを発揮できる豊かな社会を目指すことである。

この「共生」という概念に関連して近年注目されるのは、インクルーシブ教育がある。1990年前後からアメリカやカナダを中心に広がり始め、1994年の特別教育に関するサマランカ声明でインクルーシブな学校が提起され国際的な市民権を得た。この教育における考え方は人間の多様性の尊重を強化し、障碍者が精神的および身体的な能力等を可能な限り最大限まで発展させ、より自由な社会に適切に参加することを可能にすることを目的とするものである。障害のある者と傷害の無い者が共に学ぶ仕組みで、インクルージョン教育とも呼ばれる。この教育の実現を通して、共生社会の実現に貢献しようという考え方で、2006年12月の国連総会で採択された障碍者の権利に関する条約で示されたものである。日本でも同条約の批准に向けて2011年8月に障碍者基本法が改正され、「可能な限り障碍者である児童及び生徒が障碍者でない児童及び生徒と共に教育を受けられるよう配慮」(16条)を行うことが示された。

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結びとして、グローバルシステムの危機、あるいは球の幾何学

日本人の消費スタイルは、物質から非物質へ、所有から共有へ、ブランドと持続的な関係から刹那的な関係へ・・・・というように捉えどころのないものに変化しつつある。「液状化消費」と呼ぶ人もいる。建築家・槙文彦は建築デザインと様式の現状を「モダニズムの後、建築様式はまるで大海原を漂う粒子の様だ。」と表現する。1970年代までの人々の歴史意識、歴史感覚は歴史というものはある速度を持って進歩し発展するものだ。という感覚であった。この感覚には客観的な根拠がある。エネルギー消費量の加速度的な増大という事実である。<「世界エネルギー消費量の変化」環境庁長官官房総務課編>しかし冷静に考えてみると地球という閉じられた環境圏域で、このような加速度的なエネルギー消費の進展を永久に続けられるものではないことは明らかである。人類はいくつもの基本的な環境資源を今世紀前半の内に使い果たそうとしている。われわれのミレニアムは、2001年9月11日に世界貿易センタービルに激突する数分前の航空機に例えられるのでは。生物学者がロジスティック曲線と呼ぶS字型曲線がある。成功したある種の生物種は繁栄の頂点の後、滅亡に至る。地球という有限な環境下の人間という生物種もまたこのロジスティック曲線を逃れることはできない。現実構造である。

1960年代までは地球の「人口爆発」が問題であったが、20世紀末には反転してヨーロッパや日本などの先進産業国では「少子化」が深刻な問題となっている。世界全体の人口増加率の数字は1970年を尖鋭な折り返し点として、以後は急速にかつ一貫して増加率を低下させている。現在は「近代」という巨大な人類の爆発期を経て未来の安定平衡期に至る変曲ゾーンにあると見ることができる。「現代社会」の様々な矛盾に満ちた現象は中国やアメリカのように「高度成長」をなお追及し続ける慣性の力線と、安定平衡期に軟着陸しようとする力線が拮抗するダイナミズムの種々相と読み取れるのでは。

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余話として
コトという幻想、もしくは虚構の時代へ、そしてミレニアルへ・・・

高度経済成長期から脱高度成長期に至る時代の青年たちの精神の変化について、現場からの報告として三浦展によるアクチュアルな現場からの報告がある。三浦氏は高度経済成長期の頂点ともいえる1980年代のリッチで華麗なる消費文化を主導してきたPARCOの「アクロス」誌編集長としてこの時代の若者達の動向を定点観測して発信してきた。1990年にPARCOを退社、バブル崩壊後も定点観測を「続け、持ち前の鋭敏な現場感覚で得た情報を発信し続けている。三浦氏の主要な関心は若者たちのライフスタイル、ファッション、消費行動である。高度経済成長期終結後の三浦氏の観測は、2009年「シンプル族にお反乱」(KKベストセラーズ)と2016年「毎日同じ服を着るのがおしゃれな時代」(光文社新書)でまとめられている。キーコンセプトはシンプル化、ナチュラル化、素朴化、ボーダレス化、シェア化、脱商品化、脱市場経済化である。以下この二著からキーワード、項目を挙げてみる。お金があっても質素に暮らすことがカッコイイと思われる。物をあまり消費しない。使わないものをため込むのはもったいないと考える。好きなものだけ部屋に置き、あとは物を買わない。共有で済む物は共有する。手仕事を重んじる。手作りを好み、既製品を自分で手を加えたい、改造したい。暮らしの基本である衣食住を大切にする。便利な物に依存せず、昔ながらの方法で暮らし、大事なものに手を入れる。

自動車離れが進んでいる。自転車の人気が上昇。この消費者達に集まってもらい、どんな商品が欲しいかとインタビューすると「余計なデザインをするな、余計な色を付けるな、余計な機能を付けるな、ゴテゴテさせるな、何もしなくてもいい、普通がいい。」という声ばかり聞こえる。カルチュラル・クリエイティブズ=シンプル族は「進歩(モダン)の終わり」の人間像。大衆消費社会が終わり、シンプルライフ志向が拡大しているのだ。シンプル族の生活志向は1エコ志向2ナチュラル志向3レトロ志向・和志向4オムニボア志向(様々な文化を自由にお生活に取り込んで楽しむ。)5ソーシャル・キャピタル志向である。

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1970年は日本万国博覧会が大阪で開催された。この年を基点に高度経済成長期が大きく転換していき、消費経済は成熟化し現在に至るわけである。1980年から2000年まではある意味、時代が尖っていて、この時代の商品も個々に際立ち、尖鋭化して見えたと思う。今、消費社会を主導する世代は1980年から2000年の間に生まれたミレニアル世代である。あらためて今思うことは、実務者は現実の現場に出て定点観測を怠らず、その時々の時代の年縞を明らかにして次の時代に備えることが大事であるということ・・・。

はじめに、川端組長と頼りになる添え木の榊原氏のこと。 

2019年10月定例会講師は京都一ファンキーな不動産屋を自称する1977年生まれの株式会社川端組。代表取締役組長 川端寛之氏である。
川端組長は2000年に大学を卒業後、技術専門学校で宅地建物取引士の資格を取得し、その後自由な職場環境に恵まれて不動産業の経験を重ねた後、2014年に起業している。取り扱う物件のユニークなリノベーションを企画提案しながら、感度の高い人やマイノリティの人にも選択肢の幅を広げながら日夜奮闘している。そのリノベーションはシンプルでユニークである。輸送用コンテナや建設現場に使われる単管足場などを、普通は建築設計には取り入れられないデザイン要素を大胆に企画し実現していく。それらはニッチな要望に突き刺さり、余白とブラックな部分に満ち満ちて、建築と街づくりの可能性を広げているように思う。店舗付き住宅が慢性的に不足する中で既存の街を活性化させるために「あきらめたくない、あきらめない。」不動産物件を生み出している。2018年1月より南吹田ファンキーステーションを立ち上げて南吹田琥珀街の街づくりを手掛けている。

今回の定例会は初めての試みとして、榊原允大氏が聞き手に加わっていただき進行した。榊原氏は1984年愛知県生まれで、2007年に神戸大学文学部を卒業している。芸術学部の研修では建築を選択し、2008年に建築リサーチ組織RADを立ち上げて活動を開始している。プロモーションディレクターとして地域の街づくりNPOなどを手助けしている。リサーチの新解釈を提案し、周辺、地域との関わりを重視したユニークなプロジェクトを複数進行させている。2016年から愛知県岡崎市で「おとがわプロジェクト」、兵庫県明石市では明石市立図書館の「ほんのまち明石」の取り組みなどワークショップキットなどを提案しながら進めている。いずれ機会があれば是非聞いてみたい話である。

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南吹田琥珀街にもどる。
ことの始まりは2018年に南吹田駅が開業するにあたって、2016年より周辺街区の開発に向けて、設計を担当していた角直弘氏が川端氏に設計図面を見せたことから始まる。多くの開発は最低限の都市計画規制に準拠した上で、住民や近隣の意見をあまり入れずに進めてしまう。南吹田も同じ状況であったが、川端氏がこの業界の定められた流れに異を唱えた。そこで角氏がこれを聞き入れて、企画に川端氏が参加することから始まる。「街をこうしたい、こういう人に来てもらいたい」が描かれないうちに設計図が出来上がっていることへの違和感を川端氏は感じたわけである。成熟社会を向かえても開発の波をかぶっていない街区は貴重で、そこには未来に残したい風景がある。日本の中でも沖縄のはまだその空間が色濃く残ると、川端氏は語る。

東京を代表とする日本の都市は、太平洋戦争直後の焼け野原から、復興期、開発期を経てやがてグローバルな資本、欲望、情報、権力の集中する拠点となり、半世紀を超える。このような時間の中で物的、社会的変化を続け、今日本は21世紀を迎え、成熟期と言われて久しい。これから、どのような都市計画が日本に必要なのか<もう少し規模を縮小して街づくりと言ってもいいが>、どう見ても魅力に欠ける日本の都市や街の景観をどうしていくのか、それを考えていくことが今回の中心テーマだと考える。

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高度成長期から成熟期への転換は急激過ぎた転換であったため、今日の日本社会は混乱していると言える。年金や福祉問題、外国人の受け入れを含む人口問題、文化や芸能、<都市や街に伝承されてきた祭りや神事とそれが行われる場所はその多くが無くなっている。>に至るまで関連しながら都市をめぐり、深刻な混乱を引き起こしている。巨大開発やマンション開発、それをめぐる近隣とのトラブル、その調停手法の未熟さ、加えて都市景観の醜悪さも指摘されている。高度産業社会が産んだ<もの>の中にすでに建築も繰り込まれているのだ。このリスクに満ちた都市や街をどのように未来につないでいくのかが問題なのだ。ここで少し時間を巻き戻して、都市計画を考えてみたい。

街づくりの都市計画的処方箋とは 

都市計画の処方箋はいくつかに分類される。オーバーオール型は巨大で派手な都市計画の極致である。1960年にブラジルの首都となった、オスカー・ニーマイヤーがデザインしたブラジリアの様に、野原の上に一から都市全体をデザインし実現するのが「オーバーオール型」都市計画だ。高度経済成長期には可能であった、日本では規模ははるかに小さいが郊外型ニュータウンがこの都市計画手法に当てはまる。しかし中国ですら近い将来、いやもうすでに人口の伸びが止まると予想され、世界スケールで進む「成熟期」にこんな大袈裟な都市計画を本気で試みる人もいないし、それを可能とする土地も、もはや地球上には残されていない。

もう少し現実的な処方箋として「再開発型」がある。既存の都市の一部分をごっそりと立て直すのがこの方法である。単体の建築の立て直しではなくて集団的、連続体として変えていくので、広場の施設だったり、道路の引き直しも可能であり、大胆に荒業を使って変更できるのだ。1939年にニューヨークでコロンビア大学の所有地に完成した十四のビルからなるロックフェラーセンターがこのタイプでは世界初といわれている。その後20世紀において世界の各都市でコピーが濫造されてきた。20世紀半ば以降の「成長」の時代にピッタリはまった処方箋だったのだ。都市が高密度化の圧力にさらされたとき、幾つかの敷地を統合して広場も緑地も文化施設もある理想的都市環境を作るということが狙いであった。日本では六本木ヒルズや梅田のグランフロントなどが事例として上げられる。

もっと地味な処方箋としては、「規制型」が上げられる。これは特定の地域、地区にある規制を定めることで、このルールにより統一された都市景観を作っていこうとするものである。実際には既存建築物が建て替わるときに、この規制を適用して建築デザインを実現していくもので、恐ろしく気の長い都市計画だともいえる。こんな気の長い方法ではグローバルな都市間競争に勝てないと否定する人と、そもそも都市とは時間をじっくり掛けて整備していくものだという肯定派に分かれるが。実際は20世紀初頭以降、世界のほとんどの都市にこの「規制型」の都市計画の網がかけられることになった。行政当局にとってはそれしか選択肢がなく、結局20世紀の都市における権力と市民との関係を成り立たせる現実となった。外壁はレンガにすることなど、材料から色まで厳しく規制が適用されているヨーロッパの都市から、高さや容積率だけを定める緩いルールで規制する都市まで現在規制の無い事由放任の都市は地球上にはほとんど存在しない。日本においても例外ではないが、にもかかわらず、そこに住む人々が満足できるレベルかというと、ほど遠いのが現状である。

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なぜ「規制型」の都市計画は人々の満足を得られないのか 

規制という方法で魅力的な都市や街が形成されるには二つの条件が必要である。

一つは、その都市を構成する建築デザイン(意匠)と素材の選択の幅が狭いことである。歴史を遡って、これらの選択の幅が狭い時代は、日本でも見事に統一感のある街並みが形成されてきた。しかし今日では建築デザインの選択の幅は、ほぼ無限であり行政がどんな規制を定めようとも、コスト抑制の為に規制を出し抜いたり、他の建物より少しでも目立つために規制の裏をかいたりする。設計者やデザイナーは規制を徹底して骨抜きにしていく。土地の細分化や行政の強制力が低下している現在において、これらの規制は無力に等しくなっている。

二つ目は時間である。都市がゆっくりとしか更新されない成熟した時代では、この手法はほとんど実効性を持たない。100年経過してもやっと数軒のビルしか立て替えられない状況では、住む人々が規制に対してポジティブな情熱を持つとは考えにくい。高度成長期では更新のテンポが速く、まだ規制が有効であったという見方もあるが、現実の日本の高度成長期における地主や建築主は自分の商売のことが優先され、都市全体の魅力創出といった価値の醸成に無関心な人が多かったのだ。さらに日本は以上のような一般論に加えて、独特な理由を持っている。先に述べたがパリ、ロンドンをはじめとする世界の優れた都市景観を有する都市は19世紀までの「成長」の時代を経験し都市の骨格を形成していた。

19世紀と20世紀以降では建築意匠(デザイン)の環境は一変する。この境界線は1940年の大恐慌前後のニューヨークまで引っ張ってくることが可能だ。エンパイヤステートビルやクライスラービルが建設された時である。この時点に間に合った都市は、都市の骨格を形成できたと言え、日本は遅れてしまったのだ。19世紀の建築は「建築様式」(ルネッサンス様式、バロック様式、テューダー様式など)によってコントロールされていた。この様式は時代と共に移り変わるが、おおむね一時代一様式でコントロールされていた。20世紀になり、この様式によるコントロール機能はモダニズムの台頭によって失効し、その後建てられる建築はアンコントロールの時代に突入しポストモダンを経て混乱していく。とりわけ欧米の後を追う日本は都市の骨格を形成できないまま、その後の都市を建設しなければならなかった。日本の都市は二重の困難が課せられていく、遅れてきた近代という歴史的与件と可燃の木造都市を不燃都市に作り替えなければならないという物理的与件である。

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二重の困難を抱えた20世紀の日本人は海外旅行とテーマパークに惹きつけられていく。海外に行けば様式的にコントロールされた連続体としての都市景観に出会うことができる。もしそれを近隣で体験したければ入場料を払って入るゲートの中の虚構の街、すなわちテーマパークで体験できる。そこで人々はマーケティングのプロトコルが選択したテーマに従って、自動的に生成された「魅力ある都市」に身を浸すことができる。同じような構図は大型のショッピングモールにも読み取れる。特にアメリカはデモクラシーの国であり、資本には全ての経済行為が許され、アメリカの都市は「連続体」からモノとしての「粒子」へと徹底的に変質させられた。これは自由・平等という近代社会の原理が内包する矛盾を都市という空間で顕著な形として露呈したといえる。

日本はこのアメリカを後追いしてきたのだ。
ニューヨークは1910年代にこの都市の危機に気付き、「高さ制限」「斜線制限」「容積制限」など良好な都市環境を確保するための規制を実現させた。1916年に世界で初めて施行されたゾーニング(建物の携帯と用途を規制すること)に関する法律である。ニューヨークはその都市の形成が時代の境界線上に位置していたので、19世紀的建築様式による統制はまだ残存させることができたが、その他のアメリカにおける都市は20世紀の混乱と空虚の中で都市の骨格を形成せざるをえなかった。この時点でアメリカは「テーマパーク」という虚構の街を発明したのだ。1955年にアメリカの都市の中でも最も「粒子化」の進展したロサンゼルスに登場したディズニーランドであるのも、偶然ではない。

粒子化する都市の背後にあるモノ 

20世紀の都市は、粒子化されモノ化して魅力を欠いた現実の都市があり、その外部にはテーマパーク化した、フェィクな連続体がある。これは新しい不毛な分断ともいえる。この都市の外部、周縁にある「テーマパーク」による華やかな視覚体験は、一時の慰めにはなるが、現実の都市の救いにはならなかった。ここで資本が考えることは、現実の都市もまたテーマパークの手法で武装すればいいという思考である。福岡市のキャナルシティ博多、カレッタ汐留、六本木ヒルズなどは現実の都市のコピーであったはずのテーマパークを、いつの間にか現実の都市がコピーし始めている事例である。この新しく出現した都市再開発による巨大な塊、ビッグネスは当然環境にも大きなダメージを与える。巨大な敷地を買収するための膨大なコスト、環境負荷の保証に投入される資金、その開発コスト回収のために行政へは規制緩和を求めプロジェクト全体の規模は、累乗的に肥大していく。
悪夢のような循環である。この都市におけるビッグネスは資金調達のテクノロジーを1980年代以降飛躍的に発展させていった。都市開発の巨大化は資金調達テクノロジーの進化そのものだったのだ。この悪夢から逃れるには、社会の上から下へというベクトルではなく、下から上へというベクトルの可能性を探ることが有効であると思う。この規制型都市再開発の最大の欠陥は、都市に対する具体的でポジティブなヴィジョンを描けないことである。描かないかもしれないが、規制はできても夢は描かない。この規制自体も資本に出し抜かれ、いかに金を儲けるかという不毛のゲームが都市に展開している。

結びとして 

先に述べたように、19世紀以降の近代産業社会における文化領域を推進してきた原動力は広義のモダニズムに他ならない。ポスト産業社会がその前身である産業社会の批判となり、文化の質的変換を迫った。この時点でポストモダニズムが現れたが、ポストモダニズムも文化を支え、表出すべきものの不在によって、単なる消費社会におけるイメージの個性化、差異化によって自らを消費し尽してしまう運命にあった。と佐伯啓思氏は指摘する。20世紀は大衆社会とモダニズムは退屈な、均質的な都市空間を形成してきた。しかし建築には消費し尽しえない領域が存在する。それが空間、都市というものではないだろうか。社会と都市の生きる意志の反映としての空間は、消費され尽くされない強さと高貴さを有しているという事実は厳然と存在している。


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「リアリティ」が都市形成の目標となる計画である。その場所に暮らす住民自身の「リアリティ」が主役となるべきである。まず住民を尊重し、その街が受け継いできた私的な記憶を学ぶこと。これからの川端組。はこれまで18年間積み上げてきた不動産業からは離れていくことだろう。「一周遅れてそこに在る街」をモチーフにしたKawabata-channelを広げていく。場所、空間を育てていきながら、意識を共有できる人達を醸成できるフラットな空間を立ち上げていく。不動産の紹介も強度を持って絞った内容で紹介し本当に意識を共有できる人と出会っていく。5年後、10年後に互いに価値を分かち合うために。しかしあくまでもオーナーの資産を預かる訳なので、これがオーナーの資産の価値の最大化であるという信念がある。物件の輪郭を縁取るように紹介していく、「そこには住む人が幸せにならなければ売り手も幸せにならないという強い思いが込められている。だから川端組。のリノベーションは遠い処からソートされる。それは今までの不動産業が決して見なかった、見えなかった領域である。

川端氏は昨年5月「イマジン」を自費出版した。

私たちの世代(1950年代生まれ)にとって、ジョン・レノンの「イマジン」のビデオ・クリップでオノ・ヨーコが見せるパフォーマンスは印象的だった。窓という窓が閉ざされた暗い部屋で白いピアノに向かって歌うジョン。床に座っていたヨーコは立ち上がり窓を次々に開けていく。こうして部屋は少しずつ明るくなっていく。心在る人に今も歌い継がれているこの「イマジン」はヨーコも「グレープ・フルーツ」という本にインスパイアされたものだと、ジョン自身が語っている。ヨーコがジョンに与えた世界を変えるためのキーワードだった。
 

地下水の流れる音を聴きなさい。
心臓のビートを聴きなさい。
地球の回る音を聴きなさい。
想像しなさい。
千の太陽が
いっぺんに空にあるところを。
一時間かがやかせなさい。
それから少しずつ太陽たちを
空へ溶けこませなさい。
ツナ・サンドウィッチをひとつ作り
食べなさい。

石を空に投げなさい。
戻ってこないくらい高く。

 

呼吸しなさい。

 

グレープフルーツ・ジュース(1970年)

オノ・ヨーコ 南風 椎訳 より。

はじめに
9月になっても暑さが続く中、関東千葉では台風15号の上陸で停電が続いているエリアがある。この台風による暴風雨、とくに風による被害は予測を超えているようだ。このような状況にもかかわらず、今回は千葉県に在住されているパワープレイス社長前田氏に登壇いただいた。

前田氏は私の記憶によると鹿児島県の出身で、明治大学OBである。1981年に内田洋行入社、1997年エンジニアリングセンター長、2002年事業法人営業部部長、2006年九州支店・支店長、2010年執行役員オフィス環境本部事業部長を経て、2013年よりパワープレイス株式会社副社長、2017年同社代表取締役社長を務めている。
エンジニアリングセンターは前田氏が新規で立ち上げ、事業法人営業部と九州支店では市場活動を推進し、マーケットを拡大してきた。パワープレイス(株)は内田洋行グループで、ファシリティマネジメント、空間デザイン、ICTソリューションを事業内容として、17年前に内田洋行のデザイン部門が独立して出発した。エンパワーメントをテーマとしてパワーが溢れる空間を提案し続けている。前田氏は設立7年後から社長に就任され現在に至っている。

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今月のテーマは「繋がるデザイン」街・人・チームを元気にするリレーションデザインである。ここに集まるデザイナーを前田氏は「拘る 変態デザイナー」と呼ぶ、今回の話はその変態デザイナー達の物語である。パワープレイスはチームが共感する場を多く設けている、チームの発表会も全員参加型で新人は運営でデビューし、共感できる時間を体験しながらそのノリの中でチームの空気に感染していく。ノリが大事だと前田氏は言う、そこにはリレーションという考え方が在りチームの視点として固定され、空間が意味を成し、モノが物語となり社会と繋がっていく。これがパワープレイスのデザインであり、方法である。繋がりが次の繋がりを生み、街やチームや人、そして自分自身が楽しみ元気になっていく。
特に林業における国産材を活用して地域が元気になる活動の輪「日本全国スギダラケ倶楽部」は注目される。

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エンパワーについて
今月のテーマ、リレーションデザインを実現するために、パワープレイスは5つのコトを実践している。「POWER」の実践である。この言葉を紐解いてみる、
P(Professional)専門集団としての活動
O(Originality)豊かな創造性による価値ある場の実現
W(Work Place)「働く」「学ぶ」「集う」場の構築
E(Engineering)トータルエンジニアリングでファシリティ構築と運用を推進
R(Relation)リレーションデザイン
で「エンパワー」を実現する。

ここで今回のテーマで最も関係あるエンパワーについて述べておきたい。
エンパワーは能力開化や権限付与ということで、個人もしくは集団が自らの生活への統御感を獲得し、組織や社会の構造に外殻的な影響を与えるようになることと定義される。この考え方は現在大きな広がりを見せていて、保健医療福祉、教育、企業などの分野で取り入れられていて、そこに関わる人々に夢や希望を与え、勇気づけ、人間が本来持っている生きる力を湧き出させる、湧活という広義の働きを持っている。エンパワーメントはもともと20世紀を代表するブラジルの教育思想家パウロ・フレイルの提唱により社会学的な意味で用いられるようになり、ラテンアメリカを始めとした世界の先住民運動や女性運動さらには広義の市民運動などの場面で実践されるようになった。エンパワーメントの概念における焦点は人間の潜在能力の発揮を可能とし、平等で公平な社会を実現することである。

単に個人や集団の自立を促すだけではないのだ。この概念の基礎を築いた人はジョン・フリードマン〈カリフォルニア大学(UCLA)名誉教授・ブリティッシュコロンビア大学(UBC)名誉教授。世界各国の都市、地域開発の関わる実務家や研究者に、理論と実践の両面で、大きな影響を及ぼしてきたプランニングの巨匠。近年はエンパワーメント、市民社会、世界都市などをめぐる論考で先進国及び途上国の都市・地域開発に新たな視座を開く。〉でエンパワーメントを育む資源として、生活空間、余暇時間、知識と技能、適切な情報、社会組織、社会ネットワーク、労働と生計を立てるための手段、資金、を挙げている。それぞれの要素は相互依存関係にあり、地方自治や弱者の地位向上など下から上へのボトムアップしていく課題克服する中で育まれ、活動のネットワークを生み出し、信頼、自信、責任などの資本を育てていく、これがエンパワーメントの鍵である。

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「場所」の力について
パワープレイスがエネルギーに満ち溢れた活動を展開するのは「場所」である。「場所」には力がある。この場所の力を喚起するものは沢山ある、人間の記憶に働きかける身近にあるささいなモノであったり、環境に関わる温度や湿度や風であったり、建築やインテリアを構成する素材とそれを構成する色彩や調度、いわゆる意匠と呼ぶものである。それらはその場所に関与する人間の受容する力に大きく左右されて「場所」として立ち現れる。どんな記憶(歴史と言ってもよい)を持って、どこに座って、どんな会話を交わすのかによって「場所」はゆらぎ、変化していく。このように「場所」は人間に大きな力を及ぼし、人間もまた「場所」に大きな環境的インパクトを与えているといえる。

私の専門のスペースデザインについて触れてみたい。「デザインとは、見えない力を、見える形にすること」とするならば、「場所」をデザインすることは、人間が潜在的に持っている力をデザインすることに繋がっていく。地表を真っすぐに歩いていくと、もとの地点に戻るはずである。地球は丸く面として閉じているからである。また地表には凹凸があり様々な地形として表れている。人間は農耕を始めて以来、開墾や灌漑で、そして現在に至るまでの都市化でその地表という「場所」に大きな影響を与え続けてきた。また地表に凹凸があるように、空間にも歪みがある。一般相対性理論では、重力は時空の歪みのことである。重力が大きい場所は、空間が大きく歪んでいる場所といえる。この重力の濃い場所が物質であり、電子も太陽も人間も濃厚な「場所」なのだ。DNAが生物の形を決めると言われるが、レシピや設計図だけで料理や機械や建築が再現できないように、そこには職人やシェフや建築家が不可欠のように、<建築こそ唯一技術の進歩とは相関することのない表現領域なのではー坂茂>同じDNAで全く同じ生物が成長するとは限らない。ほとんど全てがクローンである桜の品種、染井吉野でさえ、一本一本の個性や赴きが異なる。それを決めるのは気候や土壌、周辺の植生や環境である。

つまり「場所」の力に他ならない。近代が建築や都市で展開して実現させてきた、隅から隅まで均質である意味開放的で無駄のない、闇のない「場所」は、ともすると退屈な場所となってしまっている。便利になりすぎることが、不便に感じる逆説に転じているとも思われる。かつての日本空間は、踏んではいけない畳の縁や茶室の躙り口、神社の結界、さらには開かずの間など、それが在ることで場所に奥行きや物語を与えてきた。そして力をも与えてきたのだ。
「悪所」にこそ力があったのだ。

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「場所」の力を生み出す「空」と「間」
日本人は漢字の「空」に、「うつ」や「から」などの音を当てた。「うつ」は「空」であると同時に「全」であり、空っぽだからこそ、そこにエネルギーを込めて充実させることができる。
「うつ」からは「うつつ」という言葉が生まれる。うつ=現であり、現実はうつろいゆくものであり、うつろな空間、うつろな時間から日本の場所は捉えどころがなく多様でダイナミックに動くものである。「うつ」から時の変化を意味する「うつろい」が派生したように日本の場所は時間と空間が混然となって未分化である。ここで「間」が重要な概念として浮上する。また「から」は「空」であり「殻」のことである。そこに「ち」、すなわち魂が宿ると「ちから」になる。人が火事場のバカ力のように、完全な力を発揮することはめったにないが、この「ちから」を引き出す場の代表が、相撲の土俵である。天円地方の古代中国の宇宙観(天は丸く、地は方形)や赤房、青房などの陰陽五行のシンボルによって力士の気力と体力が横溢する十五日間の「場所」を出現させる。

また大乗仏教によると「空」の原語はシューニャ、もともとは「からっぽ」という意味である。中が空っぽなまま風船のように「膨れる」という意味を持っている。「空」と「無」の違いはどうかというと、「無」は「何かが無い」ことを意味し、「空」は「有るべきものが無い」もしくは「有るはずのものが無い」ことを意味する。さらに中身だけではなく、容器そのものが有るのか無いのか、はっきりしない場合も「空」という言葉が使われる。人はみな、この世の神羅万象は確実に有って、中身もしっかり入っていると信じてやまない。これが迷いの根源であるとブッダは見抜いたのだ。

そしてこの世のそういう在り方を、大乗仏教は「空」という言葉で表現した。「空」には様々な面が秘められている。その中で最も大切な性質は無限のエネルギーである。人はともすると中身が入っているほどエネルギーが高いと考えがちだが、満員電車のように中身が入っているほど固着して身動きが取れなくなる。中身が少ないほどエネルギーは自由自在に活動できる。すなわち「空」であってこそエネルギーは最高度に活動できるわけだ。「空」はベクトルを持たないエネルギーが充満して状態なのだ。

「間」という概念に戻る。明治大学の神代雄一郎氏の建築意匠論によると、九間(ココノマ)が全盛を極めた時代があったという事実を指摘している。足利義政の東山殿にあった会所の主座敷、嵯峨之間がその代表としてあげられている。会所とは、ミーティングのために特別に設けられた座敷で、室町時代に連歌会や茶寄合など寄合性を特徴とする文芸や芸術と密接に関わりながら本格的に日本建築の中にあらわれた。足利義教の室町殿の寝殿にも仁和寺にも九間があり、中世の住宅の中の寝殿、会所には傑作が多い。主座敷の典型としての三間四方の正方形という形式が持つ中新世・四方性は能舞台や鞠懸(マリガカリ)、さらには城郭の天主や軍船にまで現れている。神代氏がもっとも好きな日本の部屋は二畳上段わきに付け書院のある残月亭であり、飛雲閣の柳の間である。

「昔の人たちが六間(十二帖)に感じた空間意識と現在の日本人が六帖に持つ空間意識はほぼ同じ、九間(十八帖)の空間意識と十帖の空間意識もほぼ同じ」時代とともに何時しか日本人の空間意識は半分に切り詰められたのだ。神代氏はこの切り下げに抵抗し「間」の復活を主張してきた。神代氏の九間論は史的考証ではなく、現代にも応用がきく意匠論であった。その論の射程ははるか古代の農耕集落の中核における、柱と柱の間から派生した「間」という感覚、観念そして無意識の生成の始原へと向かう創造力であったのだ。

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むすびとして
パワープレイスは「場所」を動かすスイッチとして、
かたる(物語を生み出す場所を醸成する)
もてなす(金銭沙汰ではなく相手の為に手間暇かける)
ひろげる(違いを認め、違いを理解し多様性を知る)
あそぶ(自由であることは夢中になれること)
のる(状況に応じて醸成されるグルーブ感とドライブ感)
まなぶ(学習は「まねび」、物真似から始まる)
つくる(「協創」は発送を自由にし、共有・共鳴する)
の7つをあげている。そして、このスイッチを押すのは人である。

今回の最後に、個人と集団の精神構造について触れておきたい。個人にはすでに矛盾があり、超自我、自我、エズに分けられる。超自我からの命令―これは道徳的規範ということになっていて、簡単に言えば善悪である、そして自我は損得で、エスというのは快不快である。端折って単純化して言えばこうなる。だから善悪と、快不快というのはしばしば矛盾する。これは悪であるけれど快感であるとか、快感であるけど損であるとか、だから個人というのはこれらの葛藤や矛盾を常に抱え込んでいる。そういう葛藤の構造が社会の中でも葛藤の行動と同じになるわけだ。

ここで抑圧というものの起源を考えると、初めは自己抑圧で、人間が自分の欲望を抑圧するのは、他から禁止されたり押し付けられたりするからではなく自己抑圧である。人間は本質的に自ら自分の欲望を抑圧し自分を正当化する存在である。人間は自分の欲望を全て満足させることができない、だから自分で自分の欲望を抑圧する、「自分はそれをしてもいいんだ」というジャスティフィケーションとして、他の権威を持ってくるに過ぎない。そうすることによって、自分の無力と直面せずに済み、自尊心を守っているわけである。自分が現実とずれているとか、欲望に対する限度がないことを知らないということに、加えて人間の欲望は相矛盾している。

一つの欲望を満足させることが他の欲望を挫折させることになる。だからそういう欲望を整理する規範というものが必要となってくるわけで、その規範のために外的権威を必要とする。だから権力というのは自己疎外で、抑圧的な権力と見えるものは、人間の自己抑圧の外在化なのだ。抑圧的な権力を、人間の内なるものが支えている。これを自覚すれば、そこに在る自己疎外を克服する可能性が生まれてくるのではないかと思う。

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社会というのはどうやって変わっていくのか、集団の精神構造と、個人の精神構造は同じなのだ。個人というのはそれぞれに歴史を背負った存在で、集団にも歴史があり、同じく歴史を背負った存在なわけである。集団というものは共同幻想で支えられていて、ここでいう共同幻想は集団を構成している各々の個人の持つ私的幻想を共同化したものである。個人の持つ私的幻想には共同化された部分と共同化されていない部分がある。共同幻想というのは集団を構成するメンバー全員の私的幻想の一部分でしかなくて、あくまで一部分の共同化でしかないわけで、共同化されないで私的な幻想にとどまっている部分のほうがはるかに多いわけだ。どのような集団に属していようと個人は社会と自分との間にどうしてもしっくり行かない、場違いな感じがある。共同幻想というのは、一旦成立すれば固定化し、硬直化し、私的幻想を吸い上げていく機能がだんだん弱まっていく。

だから既成の集団に対して人間は常に不満であるが、この共同化されないで私的なものにとどまっている幻想も常に表現を求めるので既成の集団の中で共同化されない私的な幻想は、それが共同化できるような集団を作ろうとする力になるわけだ。そういう力で社会は変わっていくのでは・・・あるいは社会がまるごと変わらなくても、少数の私的幻想を吸い上げるサブカルチャーのようなものが沢山出てきてもいい時代になったと思う。

今月もいい「気づき」を頂きました。

はじめに、阪急百貨店と宇野氏のことから
8月定例会は阪急うめだ本店 趣味雑貨販売統括部 宇野新治氏に登壇いただいた。宇野氏が手掛ける「うめだスーク」という商業空間からは今までの百貨店ではない、かつて人々が体験した、1960〜70年代のカウンターカルチャーやサブカルチャーを基底にして80年代前半まで全国の都市に展開していった商業空間のことを連想させられた。

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宇野さんは阪急百貨店、現在エイチ・ツー・オー・リテイリング株式会社で主に販売促進を経験されてきた。阪急百貨店の創業者は小林一三で大阪梅田に本店を置いている。その起源は1920年(大正9年)に白木屋(東京日本橋の老舗呉服店系の百貨店)を招致し、阪神急行電鉄梅田駅構内の旧阪急ビルディングの一階に出張売店を出店し、ターミナルデパートの先駆けとなった。1925年(大正14年)に白木屋との賃貸契約が満了となり、梅田駅でのターミナルデパートの可能性を固く信じた小林一三は、その後継として阪急電鉄直営の阪急マーケットを開業した。その後、1929年(昭和4年)4月に改めて阪急百貨店として創業、世界初の鉄道会社直営のターミナルデパートが誕生した。開店時の新聞広告には「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」というコピーが入っていた。そのスタートは大衆路線にあったのだ。第二次世界大戦後は阪急電鉄から独立し、多店化を計り1953年に数寄屋橋阪急で首都圏に進出、1970年千里阪急、1976年四条河原町阪急、1982年10月ハーバーランドに神戸阪急、1993年に宝塚阪急と相次いで出店していった。宇野氏は神戸阪急でも販売促進を担当され、1995年の阪神淡路大震災の後地下1階から3階までをいち早く営業再開した。その時、店舗に訪れた人々からは「明日も生きて行く元気をもらった。」という感謝の言葉をいただき小売りの持つ力を確信している。その時は泣けてきたと語る宇野氏の体験は、その後の宇野氏の行動に強く影響を与えていった。「世界一売れない百貨店」と呼ばれた神戸阪急は2012年3月に閉店した。阪急うめだ本店がグランドオープンした年である。宇野氏は創業者小林一三の言葉「無ければ造ればよい」という言葉にも感銘を受けている。2012年の7月から「うめだスーク」は始動した。


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さらに百貨店のことを、
百貨店の名称の由来は数多い商品を取り扱うことに由来する。また英語における類義語を起源とするデパートメントストア、または省略したデパートとの呼称も用いられる。デパートメントストアには百貨店という意味はなく、直訳すれば部門別小売業となる。19世紀に登場した小売業態で、都市の中心市街地に垂直方向に複数のフロアーを持つ店舗構えを備えている。世界最初の百貨店は、1854年にパリで織物類を扱う店舗から発展したボンマルシェ百貨店だといわれている。19世紀中頃の欧米に百貨店が出現した原因は、18世紀にイギリスで起こった産業革命にあると考えられる。産業革命が起こると市場主義が発達し、商品が市中に大量に流通するようになり、様々な専門店が出現し、百貨店はそれらを一括に扱う業態として、大きな建物で様々な商品を陳列し、営業を開始したのだ。19世紀後半になると、1885年にパリに誕生したプランタンのように最初から百貨店として営業する店舗も現れた。当初百貨店は高級志向であった、それは産業革命で成功した資本家などの富裕層が顧客であったためで、百貨店は新しい小売業態として店舗数を増やし発展させていった。アメリカにおいては19世紀後半に伝統的な織物展の中で比較的規模の大きな小売店であったニューヨークのメイシーズが百貨店に転身していった。百貨店の主な成長要因は、都市への人口集中、中間所得層の成長、大量生産体制の進展による大量流通制度の確立などの経済的社会的変化が上げられる。こうした変化への対応として定価制度の導入、返品制度や払い戻し制度などが上げられる。第二次世界大戦後は、世界的に経済格差を是正する動きが高まり、旧家の勢力が衰えるとともに富裕層が減少し、このような方式に囚われた百貨店は一時衰退していくことになる。現在にいたっては、チェーンストアやスーパーマーケット、インターネットショッピングなどの新しい小売業態との競争が激化し、百貨店の衰退を進展させることになった。近年この競争に生き残るため、独立百貨店の合併、業務提携が進んでいる。2013年(平成25年)現在、日本の大手百貨店が運営する小売企業はJ・フロントリテイリング(大丸・松坂屋)、エイチ・ツー・オーリテイリング(阪急・阪神)、セブン&アイ・ホールディングス(そごう、IY)、高島屋、三越伊勢丹ホールディングス(伊勢丹・三越)の5つとなる。いずれも全国規模で運営している。この他の地方を拠点とする百貨店も入れると、2019年4月現在日本百貨店協会の加盟店は202店舗となる。

 

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流通とは、百貨店とは、ショッピングセンターとは
ここで、流通とは何か確認しておきたい。流通の役割は「生産と消費の間を埋めること。」生産と消費の間には自給自足でない限り、隔たりが存在する。それは、生産する場所と消費する場所の「場所的隔たり」、生産する時間と消費する時間の「時間的隔たり」、生産する人と消費する人の「人的隔たり」である。現在のような高度消費社会でグローバル経済においては、これらの隔たりを埋めるための経済的機能が必要となる。それが「流通」なのだ。場所的隔たりを埋めるために輸送を中心とした活動があり、時間的隔たりを埋めるために保管を中心とした活動があり、人的隔たりを埋めるために取引を中心とした活動がある。これらの活動を総称し「流通活動」と呼び、その活動の中に百貨店も在る。ここで百貨店という言葉に戻ると、言葉自体で判断すれば「百貨の店」となり、大手量販店のGMSも百貨店的な店舗を展開しているので、その境界は非常に曖昧である。GMSやテナントが集積する商業施設をショッピングセンター<以後SCと表記>というが百貨店とSCとはその成り立ちや出店条件で明確な違いがある。経済産業省の商業統計調査の基準によると、百貨店は次のように定義される。<衣食住の商品群の販売額がいずれも10%以上70%未満で、従業員が常時50人以上おり、かつ売場面積の50%以上において対面販売を行う業態>この基準に当てはめると、売上げのほとんどが衣料品である丸井、ルミネ、パルコといった商業施設は百貨店ではないことになる。


一方日本ショッピングセンター協会によるショッピングセンターの定義は、<一つの単位として計画、開発、所有、管理される商業・サービス施設の集合体で駐車場を備えるもの。さらに「SC取扱い基準」では、
①小売業の店舗面積は、1500㎡以上
②キーテナントを除くテナントが10店舗以上
③キーテナントがある場合、その面積がSC面積の80%を超えない
④テナント協会があり、広告宣伝、共同催事等の共同活動を行っている、
など条件だけ見ると百貨店にも当てはまる条件ばかりだが、「ディベロッパーにより計画・開発されるもの」という前提が百貨店とSCを分ける大きなポイントとなっている。ディベロッパーとは不動産ディベロッパーのことを指し、街全体の開発や整備を行う。商業施設単体だけではなく、商業施設が街全体に与える影響を包括的に考えながら、企画・開発されているのがSCなのだ。ルミネやラフォーレはSCの中でも衣料品の割合が大きいので「ファッションビル」とも呼ばれている。主に新聞、雑誌などで複合ショッピングセンターと区別されている。以上それぞれの定義を比較すると、百貨店は衣食住を総合的に提案する巨大なセレクトショップで、バイヤーが商品仕入れや展開、陳列に密接に関わり、自分たちで仕入れて売るという意識が強いのが特徴で、SCは不動産ディベロッパーが企画・運営するので、販売のための仕組みは百貨店ほど確立されていない。SC(ショッピングセンター)は不動産業として場所を貸すという意識が強いので、効率を強く求められる投資(ファイナンス)でありシステマティックに管理される性格が強くでてしまう。立地について付け加えれば、SCは郊外のニュータウンに在り、百貨店は旧市街の中心地かターミナルとなる。

 

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バランスを欠いた小売業への変態(Metamorphsis)
2012年阪急うめだ本店がグランドオープンした。百貨店は1990年代に10兆円あった売上を6兆円まで縮小させていた。近年の百貨店の販売額の動向を俯瞰すると、1997年以降2012年まで業界の市場規模は縮小し続けてきた。2013年に入ると、外国人のインバウンド効果やアベノミクス効果による景気回復への期待感から高額商品が売れ16年ぶりにプラスに転じたが、2016年の売上高は約5.98兆円で、1980年以来36年振りに6兆円を下回った。長期的にみると2010年代の売上高はほぼ横ばいで推移しており、百貨店業界が全盛時の1991年に総売上高9.7兆円であったことを考えると、近年は大幅に市場規模を縮小している。日本百貨店協会によると2018年の全国百貨店の売上高は、前年比0.8%減の5兆8870億円で2年振りにマイナスに転じている。

消費社会の成熟化が進み消費者のモノ離れが顕在化し人々はモノに興味を持たなくなった、モノに興味を持たなくなった人々にナニに興味を持ってもらい、店舗まで足を運んでもらうのか、阪急うめだ本店10階に生まれた「うめだスーク」に課せられた課題である。
「百貨店は終わっている。」もう百貨店はダメだというところで今一度踏みとどまって考えてみる。どうすればウインドウショッピングという行動を喚起し、人々に付加価値を提供できるのか、「驚き、喜び、学び」など毎日わくわくする体験を提供する「劇場型百貨店」を目指す梅田阪急本店は地下2階から最上階まで購買動機別フロアー構成になっている。購買動機としては①必要②お得③好み④流行⑤見栄⑥義理が上げられる。時代とともに表層は変化するが、本質は変化していない。各フロアーにはコトコトステージが配置され各フロアーでの素敵な買い物時間の過ごし方を提供し、暮らしの劇場としてそのストアコンセプトを具現化している。

その中で特に情報リテーラーの役割を担う「うめだスーク」はモノの文化的価値情報、具体的には作り手(クリエーター)の思い、歴史的情報、作り方、使い方、組み合わせ方を含めてその情報を物語化して伝えていく。出し物としてワクワクする、行きたくなる、楽しい買い物時間を劇場化した店舗空間で提供していく。散歩するようにぶらぶらと時を過ごす。「発見・学び・あこがれ」がキーワードである。人々の文化的気分に浸りたいという潜在願望に、9階の阪急うめだホールと吹き抜けの祝祭広場と共に届けることで、わずか3年で社内黒字化を達成した。このように阪急うめだ本店に在るエンターテインメント型ショッピング空間「うめだスーク」はどのように誕生したのか、それは百貨店の既存のしくみからの変態である。
宇野氏は「うめだスーク」はじめの一歩として、人々に直接会うことを上げる。その中で全国各地から独創的なクリエイターを発掘していくのだ。また人々が集まる場所や空間にも直接足を運ぶ。その体験から人々がなぜその場所に集まるのか、その理由を明らかにしていく。決して情報だけに頼らないのだ。新梅田食堂街、ハモニカ横丁、百万遍の手作り市、谷根千など直接足を運んで体験、体感した「場」は全て「うめだスーク」の店舗空間作りに活用されていく。買い物の楽しさとは?から始まる問いに答えていく店舗デザインは売り手と買い手の心と心が通じ合う、ライブ感溢れる場である。表層的なディスプレイではなく例えれば、内臓を見せるようなディスプレイ、ビジュアルプレゼンテーションである。従来の百貨店では決してできない、やらないことが具現化されていく。宇野氏自身やスタッフが経験、体感した様々な人が集まる「事象」を編集して売り場に導入しているのだ。この熱気とライブ感あふれる「事象」の調査は「マンダラマップ」としてその都度まとめられ継続して整理されている。また「うめだスーク」のフロアー構成は町並みが変化しながら構成去れていく様に、大きい区画と小さい区画がリズム感を持って組み合わさり、30m毎にくぼ地や泊まり木が設置され、照明も場面が転換されるがごとく微妙に変化させている。ランドスケープデザインの手法を取り入れているのだ。またプロパーのイベントだけでも1000回実施され、毎週20か所が変更され、じかんを決めずに30%は突然新しい場が出現する。まさに生態系の中にある超変態系フロアーとなっている。

 

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結びとして、百貨店衰退の原因とパルコという出来事
先に述べたように、ショッピングセンター(SC)が台頭していった背景には百貨店が衰退していったいくつかの要因がある。

①人口の空洞化による都市構造の変化だ、ニュータウン開発による郊外の登場である。
②大店法廃止などの規制緩和と多様な流通形態の登場だ。
③『消費者が求めるものしか売れない」という消費行動の変化。
④グローバル化やIT革命による消費者の流出などが上げられる。
1970年代から高度経済成長そして低成長時代に変化する中での変化である。高度経済成長は高度消費社会を生み出していった。この高度とは、一つは消費が商品の実質的な機能を買うのではなく、商品の記号性を買う時代に入ったということである。記号性とはブランドのことである。二つ目は水口健次MCEI創設理事長も述べられていたことだが、家事労働の外部化が進み、家庭が消費空間化したこと、食事がレトルト食品となり、洋服は既製品を買うようになり、ハウスクリーニングなどサービス業が登場するなど、大衆にとって家庭がおしゃれな消費空間となった。三つ目は「文化の消費」である。それは欧米の文化ではなくもっと別の、近・現代の主流にある文化を否定すること、あるいは相対化する価値観を感じさせる文化を消費することで、現代美術、現在音楽、現代演劇などで、1950〜60年代以降のカウンターカルチャー、やサブカルチャー、世界の民族文化など大衆に知られていないものが先端的文化として表象し消費された。これらがオーバーグラウンドに表出したのが70年代後半であった。この流れの中で1981年、セゾンが運営するパルコは日本文化フォーラムで企業文化デザイン賞を受賞している。「東京・渋谷に代表される、きわめて現在的で多彩な街づくり、文化活動、および大胆かつ斬新な表現による、一連のコミュニケーション活動に対して」1960〜70年代前半の時代にパルコは登場してきたのだが、百貨店の衰退から宇野氏のアクションまでを紐解くためには、きわめて重要な出来事であったと思う。


ここから都市―文化そして在るべき都市像へと考えを進めたい。80年代以降拡大していった都市文化とパルコ的かつフリマ的、露店的な都市文化を三浦展は「システム」対「反システム」と呼ぶ。システム的な都市文化とは、一点から大衆を監視するパノプティコン的管理社会型の文化である。近年都市空間はますます管理された閉鎖的な構造となっている。タワーマンションやIDカード無しでは入れないオフィスはアメリカのゲイテッドコミュニティを連想させる。このような都市のシステム化に対する違和感への反抗は1969年の新宿西口広場での反戦フォークゲリラが道路交通法の適用で機動隊に排除され、その後、その広場の先に高層ビル群が建ち始めることで、加速しながら始まった。1962年頃までの新宿は野坂昭如氏が言う“焼け跡”のイメージがまだなんとなく残っていた。紀伊国屋の本屋の跡ぐらいにはハモニカ横丁と呼ばれるバラックも残っていた。バラックでもその空間は素敵に人々を魅了し、そして妙な安心感もあった。ちょうどこの頃、東京はオリンピックの開催準備もあって大きく変わっていったのだ。都市を覆うものは「システム」だ。システムは権力の化身か、体制によるヘゲモニーの奪取ともいえる。現在の社会の軋轢、紛争はこのシステムの過多から生じるように思える。あるシステムとシステムを束ねることは、システムをより高度化、精緻化することはあってもトータリティを獲得することではない。システムを超えること・・・それは可能であろうか。宇野氏の行動はここからスタートしているのでは、都市には一見して表に出ないもの、そしてそれらを現象化する行動に気づくことが大切なのでは、この膠着した状況を活性化し、小売り(文化)が本来持つ創造力を回復するために。

 

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文化は様々の形で、周縁を生産・再生産・維持してきたということは、これら両義的な神と人間の共同体についての古代人の意識のありようからもうかがわれるところである。興味深いのは、我々の概念は、文化の中心に位置する。または近い事象であればあるほど一元的であって、差異性の強調がなされる。それに対して、周縁的な事物についての概念は、それが明確な意識から遠ざかっているゆえに、「曖昧性」を帯びている。曖昧というのは多義的であるということに他ならない。多義性は、そこで、分割するより綜合、新しい結びつきを可能とする。なぜならば一つの語が多義的であるということは、表層的な意味では、他の語との弁別性を前提として意味作用を行っても、潜在的にはさらに別の他の語と結びついているということを意味する。 山口昌男「文化と両義性」

両義的な神:「荒魂」と「和魂」は対をなしその分身でいられる。須佐之男命と八岐大蛇、など同じ神格の対の表現である。「祟る」という日常生活の均衡を破ることによってその存在を示す。

はじめに
2019年7月は梅雨が明けていない。西日本や対馬、五島列島では台風の影響で線状降水帯が断続的にかかり、かなりな雨量となっている。今月のテーマは「スポーツ来し方行く末」である。

講師は神野元宏氏、ミズノ株式会社ライフ&ヘルス事業部所属である。神野氏は1975年神戸市生まれで1998年にミズノ株式会社に入社している。2002年より国内営業、2016年商品企画、2018年経営企画を経て2019年前半までスポーツ庁に出向していた。現在は事業企画でマーケティングに関わっている。
スポーツ業界には20年間在籍していて、その間神戸大学社会人大学院でMBAを取得している。<余談であるが神野氏は卒業論文でワコールのCWXをテーマとして取り上げていただいた。>神野氏はこのスポーツ業界にいながら、トップアスリートをシンボリックにイメージした、(例えば野球のイチロー選手や、サッカーの本田選手だが)スポーツビジネスはこれから、あまり拡大しないという個人的見解を持っている。

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これが今回のテーマに繋がっている。神野氏の国内営業のキャリアの大半は“シューズ”を手掛けてきた。ランニングやウォーキングが社会の健康志向の拡大とともに普通の日常に浸透していく中で、多くの市民ランナーやウォーキング愛好者と接するなかで、スポーツは特別なアスリートを中心とするものではなく、「日常生活をより快適にするもの」という見解を持つにいたった。「上手な人でないとそのスポーツに取り組む価値はない。」ではなく普通の人でもそのスポーツに取り組む価値を感じられる様に、そして競技から離れた日常や家庭でも楽しむものへとスポーツの価値観を転換していく必要性があるという。スポーツへの一般消費者の意識も変化していく中で、一流のアスリートの在り方も変わってきた。一般の人々に近いところでより自分事としてみてもらい、そのなかですごいと思ってもらう、いわゆるアスリートの人となりのほうが注目されるようになってきた。アスリートの在り方も明らかに変化し、イチロー選手は多くの人々にとって生き方のお手本となっている。

スポーツ庁
スポーツ庁(JSA)は、文部科学省の外局として2015年10月1日に設置された行政機関で、複数の省庁にまたがっていたスポーツ行政を一本化し、文部科学省のスポーツ・青少年局を母体に設置された。初代長官は鈴木大地氏で、長官の下に次長及び審議官が配され、競技力向上化、スポーツ国際課など5つの課が配置されている。スポーツの振興その他のスポーツに関する施策の総合的な推進を図ることを任務としている。同時に障碍者スポーツの管轄が厚生労働省の管轄から移管され、福祉ではなく競技としてとらえ、パラリンピックに向けて2019年度は20億円が選手強化に充てられる。

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スポーツ庁創設の大きな動機になったのは、いうまでもなく2020年のオリンピック・パラリンピックの東京開催決定であるが、もう一つ大きな動機として上げられるのは「健康増進に向けたスポーツ機械の確保」が上げられる。加速度的に進行する高齢化で社会保障負担の増加が現実となり、この問題の深刻化が予測される中、スポーツには「健康寿命増進」の役割が期待されている。

また関連して「健康経営」は生産性向上とコンプライアンスの機運が高まるなか、この概念が生まれてきた。経済産業省が定める顕彰制度により、企業の構成員の健康増進・維持に積極的な企業を可視化することにより株価にも影響すると言われる。健康経営優良企業は積極的にスポーツと関わっていく分けだ。

<2040年度の社会保障費は対GDP比で24%に上昇する、2015年度は15%である。>

スポーツ庁は「スポーツSDCs宣言」もだしている。これは国連の「持続可能な開発」のための2030アジェンダ」においてスポーツは社会の持続的な発展に寄与するという認識を示し、これにスポーツ庁が呼応したものである。

スポーツ庁とその取り組みについて述べたい。スポーツ庁は「未来投資戦略2018」での答申で2015年に5.5兆円のスポーツ市場規模を2020年までに10兆円、2025年までに15兆円に拡大することを目指している。施策として「ゴールデンスポーツッヤーズ」を契機とした成長戦略が上げられる。2019年ラグピーワールドカップ日本大会、2020年オリンピック・パラリンピック東京大会、2021年ワールドマスターズゲーム関西と大きな催しが続く。

国は「コストセンターからプロフィットセンターへ」を掲げてスポーツ産業を経済活性化施策の一翼に位置付けている。日本においてスポーツは「体育」として翻訳されて以来、体育=コストセンターとしての位置づけが文化的側面において定着してきた。「体育」は教育において青少年の健全な精神と肉体を育むものとして神聖視されてきた。スポーツ庁が2018年3月に出した「新たなスポーツビジネス等の創出に向けた市場動向でも学校教育とその対極にある公営事業は除外されているが、2025年度に目指す規模、その内訳をみてみるとスタジアム・パラリンピックアリーナ改革は3.8兆円(2015年度は2.1兆円)、コンテンツ&新規ビジネス1.4兆円(2015年度0.3兆円)、スポーツ用品産業改革3.9兆円(2015年度1.7兆円)、IOT改革&スポーツ周辺産業改革6.0兆円(2015年度4.2兆円)となっている。

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マクロ環境変化におけるスポーツ
スポーツを社会のマクロ環境変化において眺めてみると、いくつかの事象に気づく。

一つは「体験」できる環境、いわゆるモノからコトへという傾向である。例えば野球の競技者が減少し、競技者も減少する中で、テレビの視聴率も低下しているにもかかわらず、プロ野球の球場への観客動員数は増加している。カープ女子などに見られる様に、野球のルールを知らない人でも、球場に出かけてスタジアムでの一体感ある応援を楽しんでいる。甲子園でもしかり、都市対抗野球では競技者にも増して練習を積んだ応援団が互いにエールを交わし、球場での一体感を味わい、それぞれの街の活性化にも繋がっている。この流れの中で運営側、提供する側もイベント性のある試合、イニングの間のイベント、スタジアムの仕掛けや応援スタイルに競技を観戦するだけではない、ただ見るだけ以上の「体験価値」が得られる、顧客参加型のサービスを考えて提供している。このように野球場は観客動員を増加させているが、J1のサッカー場の観客動員数は現時点で横ばいである。各地では多目的アリーナが計画され整備されている。

沖縄市多目的アリーナ:沖縄市が計画する1万人規模を収容する、米国型多目的アリーナ。政府がスポーツ産業成長の目玉として推進する「スタジアム・アリーナ改革」のモデルケースで、2020年開業を目指す。

ザビオアリーナ:「あすと長町1街区13画地プロジェクト」のアリーナ棟として2012年に開業。収容人員スポーツ時4000人、イベント時6000人、長町副都心に位置する。

北海道ボールパーク:建築面積5万平方メートル、収容人員3万5千人、地下一階の掘り込み式フィールドを基点に地上4階まで観客エリアが広がる。屋根は二枚構造で一枚は可動する。周辺環境との調和を第一に考えた地域に溶け込んだデザインである。2023年開業のライブエンターテイメント空間である。

マクロ環境変化の二つ目は体験拡張と身体格差縮小である。すでにVR(バーチャルリアリティ)とAR(オーギュメントリアリティ)の進化と普及である。バーチャルリアリティーはコンピューターによって作り出された世界である。人口環境を現実として知覚させる技術で時空を超える環境技術であり、人の認知を拡張する。コンピュータグラフィックスで提示するものと、現実の世界を取得し、ユーザーに提示するものとに大別される。

後者のユーザーが直接知覚できる現実世界の対象物に対して、コンピューターがさらに情報を付加する場合を拡張現実(AR)や複合現実(MR)と呼ぶ。現在のバーチャルリアリティーは3次元の空間性、実時間の相互作用性、自己投射性の三要素を伴う。

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エンターティメントだけでなく、トレーニング用とでVRを活用する仕組みも提案されており、この技術的な進化に伴い、スポーツ業界にとって強力なコンテンツのシーズとなっている。義肢・装具の発達も進んでいる。義足の走り幅跳びの選手マルクス・レーム(ドイツ)が持つ障碍者(T44クラス)世界記録の8m47はロンドン五輪・北京五輪優勝記録を上回り、義肢・装具の性能向上とパラスポーツのトレーニング技術の向上を示した。再生医療技術も急速に進歩しており、2019年にも実用化されると言われている。

「悪いところは取り替える」という時代が見え始めている。マクロ環境変化の三つ目はエレクトロニック・スポーツ(e-SPORTS)の台頭である。コンピュータゲーム(ビデオゲーム)をスポーツ競技として捉える際の名称で、e-SPORTSはLANパーティーの中から生まれたとされ、欧米では1990年代後半から高額な賞金がかけられた世界規模の大会も開催され、参加者はアマチュアから年収1億円を超えるプロゲーマーまでいる。

2018年頃より、複数のプレーヤーが競う通信対戦型コンピュータゲームをスポーツと捉える考え方が急速に広まり認知度を上げている。e-SPORTSが「スポーツ」であるという理由については、議論のただ中であり、定義は定まっていない。共通のルールの元、人間同士が競い合う緊張感とスピード感を競技スポーツの魅力の源泉とするなら、e-SPORTSはスポーツと言える。

スポーツが遊びを起源に発展したように、新しいエンターティメントとして根付く可能性も大きい。先に述べた、VR・AR技術の進化によりスポーツとゲームの境界がますます曖昧となり、融合が進めば身体活動を伴う次世代のe-SPORTSが登場する可能性も大きい。世界市場規模は700億円、視聴者数は2017年に3億8500万人と言われており、興業としての可能性に注目が集まっている。2018年ジャカルタでのアジア大会、2018年茨城県の国体では、正式種目ではないがe-SPORTSの競技が開催された。

スポーツの起源と語源
人間が動物と分化した後、狩猟採取の手段として槍や石などの道具を使い始め、次第に生きるために必要な活動から解放されていく過程で舞踏などの身体文化やスポーツが生まれたという説がある。文字での記録がなされる以前の未開社会でスポーツが行われた直接的な証拠は乏しいが、フランスにあるラスコー洞窟やアフリカ、オーストラリアなどにある3万年以上前の先史時代の洞口壁画に描かれている内容からスポーツに類似した何らかの活動が推定される。

当時採集活動に費やす時間は一日平均3時間で、残りの時間を余暇の時間に当てていた、彼らは人類の歴史の中で最も余暇に恵まれた人たちである。経済生態学者サーリンズは「最初の豊かな社会」と呼んだ。

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Sports(スポーツ)の語源はラテン語のdeportare(デポルターレ)この語は、日々の生活から離れること、すなわち気晴らしをする、休養する、楽しむ、遊ぶ、などを意味した。もともとは「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という語感の語である。これが中世フランス語のdesporter「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり英語のsportsになったと考えられる。

この語源としての意味は今でも保持されているが、意味するものは時代とともに多様化してきた。17世紀から18世紀の西欧におけるSPORTSは伝統的貴族や新興階級のジェントリーの特権的な遊びである狐狩りや競馬、そしてディベート(弁論)歌劇や合奏の競演、カードゲームや盤ゲームなど多岐にわたっている。しかし19世紀に入ると権威主義に対抗した筋肉的キリスト教(Mascular Christianity)運動や、運動競技による人格形成論が台頭し、貴族階級から解放された労働階級によるスポーツの大衆化が進んだ。近代になると統括組織(競技連盟など)によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、娯楽性よりも記録の更新をよしとする競技第一を意味するようになった。日本でも国民の身体的健康を目的として運動競技=体育=スポーツを推奨し、現在にいたっている。

結びとして
神野氏によれば、近代以降社会に定位されてきた近代スポーツ(競技スポーツ)のスポーツパフォーマンス重視という価値が相対的に低下していると言う。「上手になりたいとか上手い人に憧れる。」ではなくスポーツがもたらす価値を享受したいという願望に変わってきた。自身の健康長寿であるとか身の回りの身近なコミュニティを形成ということであるとかに。そして「高い技術を見たいとか感動のシーンが見たい」からスポーツのその場の雰囲気を楽しみたいとか一体感を味わいたいという衝動が強くなってきている。また「勝負に勝てるように応援したい」から甲子園や都市対抗野球のように地域の一員として応援したい、ビジネスとして支えたい、など動機が明らかに変化してきている。

この様に社会の成熟と技術の進歩は、スポーツの今までのネガティブな動機「やらないと〇〇になってしまう」からポジティブな動機「やれば〇〇になれる」という創出することに変わってきたのだ。
最後に人類学の観点から、加藤周一「私にとっての20世紀」から引用したい。

現在人類学が知っている社会というのは、大体、新石器時代の水準の社会です。オーストラリアにもアフリカにもある。人類学者はそういう所を観察して分析して、研究している。そこで、古典的な人類学者の一人、マリノウスキーは、そういう新石器時代の社会では、いろいろな社会組織があったり、いろいろな神話が作り出されている。そういう人間の活動をどういう力が動かしているのか、何のためにそういう行動に出るのかということを考えた。

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どういう言葉を使うにしても、その根本的衝動は、食べることである。個体維持のために絶対必要である。もう一つは、種族維持のため。個体は死んでも、その種族が伸びていくためには子供をつくらなければならないから、性的な欲望というのは、食べ物の欲望と同時に、二つの基本的な動機だと考えた。マリノウスキーの考えは、ずいぶん長く受け入れられていた。

ところが「それだけではない」という考え方を出したのが、レヴィストロースです。レヴィストロースは、食欲とも性欲とも全然関係なくて、やはりそれと並ぶような、つまり個体維持本能や種族維持本能と並ぶぐらい強いもう一つの欲求があって、人間はそのために行動するといった。その欲求というのは、環境を理解したいという要求です。環境というのは、縮小、伸縮する。ある人にとっては、世界の全体が環境だし、ある人にとっては、自分の家族だけがその環境だということもある。人間の文化活動には、自分の身の周りの小さな環境だけではなくて、それを超えてもっと大きく理解しようとする要求がある。それが文化的衝動です。

スポーツも人間の環境における「文化的衝動」なのだ。

はじめに
6月のテーマは「編集」である。
毎年6月はMCEIの年次総会がある。今年の定例会を運営するために、テーマを提示した。昨年に引き続き「気づく」をテーマとしたが、「機械(AI)にはできない目に見えないものへの気づき」を付け加えた。おそらく今回の藤本氏の「編集」の話はこの年間テーマと強く繋がると思う。はたして「編集」とは何なのか、どこで私たちが提示した年間テーマとつながるのか、興味深々である。

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藤本氏のことから

藤本氏が主催する有限会社りすはRe:s(りす)からきている。この不思議な社名の由来はRe standard で「新しいふつう」を提案するという意味である。

藤本氏はバブル経済が崩壊した後に社会に出た世代で、ジェネレーションYもしくはミレニアル世代の少し手前である。大手企業やメディアが東京に一極集中する中で、12年も前から雑誌の編集にかかわることで「地方がいい」を特集し続けている。

地域の活動や人にかかわりながらの活動である。藤本氏の世代は右肩上がりの経済を知らないし、そのことを信用しない。人口減少に歯止めがきかず、日本全体が縮小していく中で、目先の利益を追い求めて成果という数字を上昇させる活動は不毛であると言い切る。

フリーペーパー「のんびり秋田」の編集長は4年務めている。少子高齢化世代のトップランナーとしてローカルに関わっているのだ。
なぜ東京のメディアが発信する情報が大量に全国に伝えられるのか、例えばオホーツク地方に東京のことばかりが伝えられても、いかがなものなのか素朴な疑問を発する。このような流れの中で関西に拠点を置く自分が「のんびり秋田」というフリーペーパーの編集を手掛けている。地方と地方が相互に行き来して、次の世代に必要なビジョンは時間をかけて発酵させておく。おりしも47都道府県の発酵文化の展覧会が渋谷のヒカリエで開催された。これも藤本氏が手掛けた仕事である。藤本氏の取材スタイルはアポを取らない。現場は常に自分が想定していたものと違うのだ。クライアントがいて、内容があらかじめある方向に決められている、そのような方法を藤本氏は取らない。自分が作る雑誌は100%自分の思いを繁栄させたいからだ。ダイワリ(台割:設計図)なし、行ってみなければ分からない、藤本氏の編集の流儀である。

「のんびり秋田」は年4回発行される、“行ってみないと分からない“取材に出かける中で秋田は食材を何でも寒天で固めることに気づく。

 

現在の寒天は粉寒天が主流だが秋田のお母さんは棒寒天にこだわる。昔ながらの棒寒天は長野県が生産量日本一だ、12月中旬から2月初旬まで諏訪湖の周りには棒寒天が並び、日差しを受けてガラス棒の様にキラキラ光り、美しい風景を現出させる。

しかし、寒天作りは重労働である、真冬の極寒の季節の手作業である。全国的に棒寒天の消費量が減る中で、消費量は仙台に次ぎ秋田が多い。生産地は疑問を抱いたが”のんびり秋田“の誌面を3分の1占めた長野県茅野市の棒寒天づくりの特集が藤本氏によって編集され、何でも寒天で固める食文化を持つ秋田と寒天の一大生産地の長野が結びつくことでその疑問は解消された。「うちもいいけどきみもいい」競争ではなく、互いの相対価値を認め合うことの大切さを「編集力」は示したといえる。”なぜ秋田のお母さんは寒天を作るのか“この疑問は雑誌の特集を作ることから始まり、生産者と消費者をつなぎ”秋田名物天使の寒天“グランプリというイベントに展開した。秋田のお母さん、りっちゃんは「おしん」がコメディと思えるぐらいつらい嫁であったという。姑の味を粛々と作る中で寒天だけは自分の自由に作れたのだ。秋田の嫁のクリエイティビティだ。究極のローカルメディアは自分自身、様々な影響を受けて自分がある。この「原点」を取材することによりマスメディアから距離をとることが必要だと藤本氏は語る。

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もう一つ藤本氏の話で“すいとう帖”がある。
30代のとき西天満に事務所を構えていたが、その事務所は路面に面していて、近くの西天満小学校の通学路にあたっていた。ある日、下校時に興味シンシン事務所に入ってきた女の子がいた。その女の子は水筒を持っていて、事務所の椅子に腰かけて飲み始めた。そのお茶を藤本氏に勧めたのだが、お茶はキンキンに冷えていて、藤本氏の直感を強く刺激し記憶に残った。この体験が“原点”となって“すいとう帖”ができたのだ。偶然にも西天満界隈は大阪ガラス発祥の地でガラス職人がたくさん住んでいた。魔法瓶はもともとガラス製の真空のガラス瓶でつくっていた。

全日本魔法瓶工業組合もその辺りの雑居ビルに存在していた。そこで知り合った理事が理事会に“すいとう帖”を紹介した。これが象印マホービンとのご縁となった。象印マホービンにしてみれば、創業の原点にかかわる編集内容を藤本氏が作っていたことに強く心を打った分けだ。藤本氏は“すいとう帖”がゴールなのではなく使い捨て文化に疑問を持ち、皆が自分の水筒を持てば良い、このビジョンの実現がゴールなのだ。

「マイボトル」は東急ハンズで販売され定着した。象印とは12年かけて商品化にこぎつけた。コップ付き水筒は売れないという社内near既成概念のためである。時代は資源も経済も限られ、閉じられる中で共有(シェア)の社会となった。西天満小学校の女の子の一言「お茶飲む」から始まった。観察するためには仮説⇔アブダクション≫が必要になる。だからあらゆる発見の前にもう考えている状態がある。「編集」が仮説的な何かをつくらなくてはならないとすると、編集者は仮説提示できる状態を手に入れておかなくてはならないのだ。

 

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編集と情報

ここで、編集と情報について、陳べておきたい。

一般的に「編集」という語を英訳すると、editとなる。この編集は、著作物の修正・注記・改変・削除などの権限を伴う。編集者が行う業務である。編集実務が職業として独立するのは日本においては、明治以降である。それ以前は著作家と編集実務を担当する「編集者」は未分化であった。現在では職務の幅も広がり、出版会の編集者は、単に原稿のやりとりや印刷、製本の支持だけではなく、企画立案から、著作者に資料提供や助言を行うプロデユーサー的な役割も担っていることが多い。だから、Editingな編集作業の本質は、純粋に編集者の脳内に存在する。他の分野の編集でもその側面は在り、「手元になにもなくてもできる」という強い傾向を示す。

編集は、あらゆる場面に潜んでいる。生活や仕事を駆動させているのは編集の力である。記憶と想起、選択と行動、認識と表現といった情報のIN/OUTの間に潜む営みを「編集」と捉えることもできる。編集は、情報に関わる創造的行為であり、コミュニケーションの奥で駆動するエンジンである。

次に情報である。情報という用語は、対応する英語がinformation,名詞形はinformで心においてform(形)を与える、といった意味があり、語源としてはラテン語のinformationem=心・精神に形を与えるである。ギリシア語のeidosという語もプラトンのidea論にも遡ることができる。このように歴史的に哲学的な意味を継承しているが、近代ではあるものごとの内容や事情についての知らせのこと、意味の事象、事物、過程、事実などの対象について知りえたこと、つまり「知らせ」の意味として広く使われてきた。

20世紀において、1940年代までの日常語としては、諜報と近い意味とみなされなんらかの価値あることを知ったとき「情報を得た」といったように用いられてきた。<価値>特に短期的なものと結びつけられて<情報>としていた。この概念は文字、数字などの記号やシンボルの媒体によって伝達され、受けての状況に対する知識をもたらし、適切な判断を助けるものとして周知のようにコンピューターの発明以降「情報社会」「情報時代」として膨らみ続けている。また、生体が働くために用いられている指令や信号のことも意味する。生体の神経系のそれや、内分泌系のホルモン情報などの生態シグナルの他にも、遺伝子に保持されているもの、あるいは生命が生きる過程で遺伝子や細胞内に新たに書き加えられたり、書き換えられたりするもの、他にも環境内での音や光、生命に与えうるあらゆるものを「情報」とみなすことができる。この「ゆらぎ」ともいえる生命体が発する情報も「編集」を考察するにあったてヒントとなる。

 

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身体知(ソマティック・センシング)と「見立て」
編集に関連付けて有効な方法を二つあげてみたい。身体知と「見立て」で、これは私の専門である空間デザイン、設計でも導入する方法でもある。

私たちが好むと好まざるとにかかわらず現在大量にインストールされている知識の中には、かなり片寄りがある。多矛盾性や二律背反するもの、「それではないもの」というような「余分」が入っていない。それが私たちのインストールを固定化している理由である。「何かでありながら、そうではない」という状態を嫌う傾向が強い。

一つの大きな防波堤として身体を使うしかない、身体知(ソマティック・センシング)の状態をいつも自分に横溢させておく。身体知は定位性をもたず、つねに「ゆらぎ」の中にある。無意識にいろいろな情報を漬け込んでおくことが大事になる。ありきたりな情報の摂取だけではなく、直感的に「これとこれはつながっているだろう」と選び取ったものを仕入れて、自分なりの表現としてミックスしてみる行為が重要となっていく。

既存のシステムへの闘い、「作ることは抗いである」ドウールズ

「楽園には花が咲いている」と一義的に思ってしまって、「廃墟にも花は咲く」ということに思い至らなくなってしまう。世界には分からないこと、到達不可能な事がある。この世界が働きかけ可能であって可塑的であることに気づくことに繋げていきたい。世界はどこまでも可塑的で相対的である。「世界というのはそれぞれの主観の中で立ち現れていて、であるがゆえに、コミュニケーションにおいては、相互理解というのは厳密に言えば錯覚にすぎない。しかしその中で奇跡的にお互いの解釈がオーバーラップする領域があるから、コミュニケーションは成立するのだ。

 

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次に「見立て」である。経過的な状態を何かの現象、対象に仮託して説明することを「見立て」と呼ぶ。Potential(潜在)、Virtual,(仮想)、Entity(実体)これらバーチャルもリアルも平行して動いていく。日本、日本人はスーパーフラットな状態、絵巻物のようにフラットに平行移動しながら全てを解釈する傾向が強い。この日本的な編集方法は緩やかに分断を埋めていくことにある。どこもかもフラットなので始まりも終わりも曖昧である。

「見立て」というのは、分析対象としての情報が推論の中で多少ずれていても、そこにある本来の印象をずっと保持していくことである。「見立て」は比喩から始まる。地方に在るヴァナキュラーであり、かつひょっとしたらグローバルなものに転換していくかもしれない対象への眼差し、そこに必要なのは「見立て」である。社会の「見立て」力が低下すると、印象を紋切り型でばかりやりとりする。日本は万葉、古今、新古今の時代にこの見立てる力を縁語や歌枕や本歌取りを総動員してかなり充実させた。見立てを成り立たせているのは「寄物沈思」という手法である。これは「物に寄せて思いを陳べる」という、万葉以来の日本人のリプレゼンタティブな方法である。「物」を前にしてしか、「思い」を陳べない。「おもふ」と「おもほゆ」は古今集でたくさん出てくる。日本人は本来「ものおもひ」なのだ。


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結びとして
大人になればなるほどそれは良くも悪くも、注意が一点に狭まっていく。一方で子供の場合は四方八方に注意が拡散していて、あたかも聖徳太子のようになっている。注意をあちらこちらに振り向けられる天才なのだ。

ある文化論では砂漠の民をハイスピードで圧縮すると、西洋的な遠近法に行き着く、一方でインドの森林と水源の風土の中で、四方八方に注意を張りめぐらす感覚が育まれたという話もある。人は誰でもが日常的にアブダクティブな編集状態になっているとも言える。通りを歩くときは人や車の流れを感知し、本を読むときは次の展開を予測する。だれもが昨日は雨だったけど今日は降らないかなと、ゆらぎ(フラクチュエイト)の間でアブダクティブな浮き沈みをしているのである。仮説的な状態を認識して、それをうまく取り出すことができれば「編集力」は高まっていく。

「編集」といういのは、このアブダクションを行う媒介的存在のことを意味するのではないか。一種の「酵素」みたいな、スーパーアクセレレーターなのではないか。カタリスト(触媒)ともいえる、それはいわゆる職能としての編集者だけではなく、メンターやコーチという言葉、あるいは「先達」と呼ばれる人も含めて編集的存在を藤本氏は実践しているのでは。

藤本氏は、風の人である。土の人と切り結ぶ風の人だ。よそ者が力を発揮する時代、マーケティングはその素地を耕しておかないと効かない時代。「革命はいつもたった一人から始まる」

はじめに

激しい雨が屋久島に降り注ぐ、5月の幕開けである。今月のMCEI大阪定例会は、2014年にキリンビールが立ち上げたクラフトビール事業の話である。キリンビール、日本のビールの源流であるウィリアム・コープランドの業績と理念を引き継ぎ運営されている横浜工場内のパブブルワリー「スプリング・バレー」を母体にしてその運営会社「スプリング・バレー・ブルワリー」は、設立された。今回は京都の拠点を運営する岸原文顕氏の話である。

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岸原文顕氏のこと

岸原文顕氏は北九州市八幡の出身である。最初は野球を始めたが骨折のため練習を休む間、音楽に嗜好が向いた。その中でもお気に入りはリヴァプール出身のビートルズだった。大学時代は一年間休学し、カナダのバンクーバーで毛皮商に勤めた、その縁でいつかカナダに戻ろうという想いを胸に秘めた。大学を卒業し1988年にキリンビールに入社した、その動機の一つとしてキリンビールがカナダで現地生産を始めたことであった。いつかカナダでという想いである。岸原氏のキリン入社後のキャリアは海外事業との関わりがその中心を成している。1996年KIRIN Brewery香港Ltd.から始まり2005年キリンビール マーケティング部ではバドワイザーハイネケンのブランドマネージャーを務める。しかし海外では大きなブランドでも国内では苦戦した。2010年には中国の上海で現地ブランドの統括マネージャー、2013年にはキリン・ティアジオ(株)(イギリスの洋酒会社)との合併でギネスビールのブランドマネージャーを務めた。2017年から現職のスプリング・バレー・ブルワリー(株)クラフトビールの事業に関わっている。岸原氏のビジネスキャリアはその原点であるカナダのバンクーバーから始まり、世界の都市わたり歩きながらその軸足をクラフトビールに置いた。カナダのバンクーバーは遠くなったかもしれないが「たかがビール、されどビール」に自信のビジネススタイルを置いて日々格闘している。クラフトビールはそれぞれの街や都市に根差す個性的なビールであり日本ではかつて地ビールとしてブームを引き起こし事もある。いずれにしても育まれる土地とは切り離せない。その土地で育まれる麦・ホップ・水・酵母・空気で醸造されたビールはそれぞれの都市に棲む人々のライフスタイルを発酵させるという仮説も成り立つのでは。

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岸原氏の思考を発酵させる、様々な都市のこと

八幡市:岸原氏の生まれた八幡市は福岡県の北東部にかつってあった市である。市域は律令制下では筑前の国と豊前の国にまたがる地域で廃藩置県により福岡県に属した。鉄鋼業を中心に、北九州工業地帯における重工業の中心地として栄えた。1963年(昭和38年)に小倉市、門司市、戸畑市、若松市と合併し北九州市に編入された。1974年には八幡東区と西区に分割された。1901年(明治34年)にさかのぼる、1887年(明治20年)から操業を続ける釜石鉱山田中製鉄所に続き国内で二番目に操業された近代製鉄所である官営八幡製鉄所が建設され工業都市として「発展し「鉄の町」と呼ばれた。戦後1950年以降八幡製鉄所の後身 日本製鐵八幡製鐵所は解体され八幡製鐵所と黒崎窯業(現・黒崎播磨)、安川電気が地域経済をけん引した。1970年八幡製鐵所は合併して新日本製鐵となり、さらに2010年新日鉄住金(株)となっている。戦前から1950年代にかけて八幡市の中心は中央町で、西鉄北九州線の枝光線との分岐点となり大変栄えた。また八幡市に編入された黒崎・折尾地区は商業が発達した。特に黒崎は1970年代初頭より一大商業地となり、そごう百貨店やジャスコ(現イオン)なども出店した。折尾のかしわ飯も食通の間では有名である。北九州市を代表する観光スポット皿倉山からの夜景は新日本三大夜景に認定されている。

リヴァプール:岸原氏が影響を受けた世界的ロックバンド、ビートルズ出身地である。イギリス、イングランド北西部マージサイド州の中心地で人口はおよそ48万人である。街が最初に記録に現れるのは1195年“dirty pool”としてである。1207年ジョン王が都市建設を勅許し、村であったリヴァプールに自由都市の特権を与えた。17世紀末に近郊のチェスター港が泥の堆積によって衰退、チェスターに代わってイングランド北西部の商業都市の代表格となった。1715年イギリス初のドックが建設され、植民地との貿易が栄んとなった。18世紀のイギリスはヨーロッパ、アフリカ、新大陸のいわゆる「大西洋三角貿易」においてほぼ独占的な地位を築いており、リヴァプールはこの三角貿易の拠点として中心的な役割を果たしていた。イギリスはこの貿易を通じて資本の蓄積を成し遂げ産業革命を進展させた。リーズ・リヴァプール運河の本線は1816年に完成し、1830年には内陸のマンチェスターと結ぶ鉄道が開通した。1860年代には交通の要所となり、マンチェスターの綿織物はリヴァプール港から世界に向けて輸出された。19世紀にはロンドンに次ぐ「帝国第二の都市」となり、またシノワズリー(中国趣味)の陶器生産の拠点でもあった。多くの移民がアイルランドから流入し、アメリカとの貿易および客船業務でイギリス第一の港に成長した。第二次世界大戦後の1950年代以降はイギリス全体の長期不況により、急速に斜陽化が進んだ。1960年代から70年代に大規模なスラム浄化と再建計画を進め、現在は18世紀から19世紀の海港都市としての姿を残し「海商都市リヴァプール」の名で世界遺産に登録され、ビートルズゆかりの建物や街角に配置されたアートによってシビックプライドを取り戻している。


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上海:岸原氏が2010年からブランドマネージャーとして赴いた上海は、世界一人口の多い都市である。毎年多くの日本人観光客が訪れる観光都市としての顔を持つ。人口は2400万人を超え、首都北京を凌勢いで、しかも4割が外部からの居住者である「世界都市」である。上海は長江デルタの河口域の南端に位置し、海に面した都市である。市街地は海からほんの少し内陸、長江の支流、黄浦江を遡ったところで良質な港として栄えてきた。6000年ほど前にはすでに陸地で、古くから人が住んでいたと思われる。春秋戦国時代(紀元前770年〜721年)の長江は呉・越・楚といった大国が広い領地を治め、このころ上海周辺は楚によって治められ「申」と呼ばれていた。住民のほとんどは漁民であった。「上海」の文字が史上に現れるのは唐代(618年〜907年)に入ってから、宋の時代に入るころには上海鎮(防衛・経済面で重要な地)となり、商業港として栄えた。長江の河口は複数の川が流れ込むデルタ地帯で、外洋と行き来しやすい土地であり、代々統一王朝の都からは遠いが、重要な港として注目されてきた。近代に入ると、1849年から1946年まで、上海は租界という特異な歴史を歩んだ。租界とは外国人居留地のことで、“租”は借り受けるという意味で、中国政府もしくは個人からイギリスやフランス、ロシアなどが「永借」した土地である。清王朝がアヘン戦争で敗北し、1842年「南京条約」によって香港島の譲渡や賠償金の支払い、貿易の自由化と共に上海を始めとする5つの港の開港が言い渡された。外国人の居留地に中国人の立ち入りは許されず、中国政府が外国人を隔離、監視する意味合いが強かった。この租界は英米と日本の共同租界とフランス租界に再編され領事館や商業施設が立ち並び発展していった。黄浦江沿いは時代の最先端の建築様式が建ち並び、路面電車が走り、街灯が路面を照らす近代都市へと変貌していった。上海は「東洋のパリ」と呼ばれたが、第二次世界大戦後に全ての租界は中国に返還され現在に至っている。中国の歴史の中では上海の歴史はそれほど古くはないが、短期間で変化していった都市としては「特異点」といえる。

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ビールの源流へ

ビールの起源は諸説あるが、遥か昔の紀元前1万年ごろ(新石器時代)トルコ、イラン、イラクにまたがるメソポタミア地域とされている。この地域に住んでいたシュメール人が残した紀元前2050年の粘土板には数種類のビールの使い方が記録されている。有名なバビロニアの王ハンムラビ法典には20種類のビールが記されている。当時は大麦やエンマー小麦から作られ、黒ビール・褐色ビール・強請ビールなどがあり、神々に捧げられた他人々に分配された。ちなみにシュメール人はワインの製法も開発している。古代エジプトではそれよりも下がった紀元前3000年紀の資料からビールの痕跡が認められており、小麦の原産地が西アジアであることからメソポタミアからビールの製法が伝わったとされている。また中国では5000年前のビール製造の痕跡が見つかっている。メソポタミアやエジプトのビール製造法には2つの仮設がある。一つは麦芽を乾燥させて粉末にしたものを、水で練って焼き、一種のパンにしてからこれを水に浸してふやかし、麦芽の酵素で糖化を進行させてアルコール発酵させたもの。大麦はそのままでは小麦のように製粉が難しいが、いったん麦芽にしてから乾燥させると砕けやすく消化もよくなる。つまりビールは元来製粉が難しく消化の良くない大麦を麦芽パンにする技術から派生したものであるという製法だ。もう一つの製法は現在のビールに通じる製法で、エンマー小麦を原料に発酵させた麦芽と煮て柔らかくした麦を合わせて酵母を添加して発酵させたものである。どちらの製法も場合によっては糖分や風味を添加する目的でナツメヤシを加えることもあった。エジプトに伝来したビールは気候条件で腐りやすかったので、ルビナスを添加して保存加工された。バビロニアでも似たような事例があり薬草を加えることがあった。その中にはホップもふくまれていたと考えられている。一方、麦芽の酵素によって大麦のデンプンを糖化させ、その糖液をアルコール発酵させるというビール製造の核心技術は、北方のケルト人やゲルマン人にも伝わったが、彼らの間では大麦麦芽をいったんパンにしてから醸造する形式をとらず、大麦の粉末をそのまま水に浸して糖化、アルコール発酵させる醸造法が行われた。日常の食べ物のパンの派生形であった古代オリエントのビールと異なり、ヨーロッパ北方のビールは、穀物の収穫祭の際に飲まれるハレの日の特別な飲料として醸造された。古代ローマにはエジプトから伝えられたジトウム、北方のケルト人やゲルマン人から伝わったケルウィーシアなどのビールの一種があったが、ワインの醸造が盛んであったため、野蛮人の飲み物とされ、あまり流布しなかった。ローマ人や古代ギリシア人の間では大麦は粗挽きにしたものを粥にして食べるのが一般てきであった。やがてゲルマン人主導のフランク王国が成立すると、ヨーロッパ全土でビールは盛んに製造され、ビール文化はヨーロッパに根付いていった。

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SVBの起源からキリンビールへ

日本のビール醸造の始まりは1869年ローゼンフェルトとウィーガントが横浜山手46番に「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」を創設し居留地の外国人に向けてビールの醸造を開始したことからである。

1870年(明治3年)、ノルウエー系アメリカ人のウィリアム・コープランドが横浜山手123番(天沼)に、日本で初めて大衆向けビールを醸造・販売した会社「スプリング・バレー・ブルワリー」を起源とする。いわば日本のビール会社の草分けである。最新鋭のパストリゼーション(低温殺菌法)を取り入れ、大量醸造、大量販売を開始した。1875年コープランドは工事隣接の自宅を改装し日本初のビアガーデン、パブブルワリー「スプリング・バレー・ビヤガーデン」を開設。1876年コープランドはウィーガントの「ババリア・ブルワリー」を合併し、「コープランド・ウィーガント商会」を結成しコープランドが支配人となり、主たる醸造所を「スプリング・バレー・ブルワリー」として醸造を始めた。このころ、品質の良さが評判となり、販路は横浜のみならず東京・長崎・神戸・函館・上海・サイゴンと拡大していった。1880年コープランドとウィーガントの間で工場経営の主導権をめぐり対立、両者折り合わず裁判となり商事組合は解散、競売となった工場をコープランド自身が落札し継続するが、1884年この醸造所の落札時の謝金が原因で倒産となる。1885年トーマス・グラバーやイギリスのビール会社バターフィールド社のジェームス・トッズらに三菱財閥の岩崎弥之助らが発起人となり、外国資本による香港国籍の新会社「ジャパン・ブルワリー」(二代目)を設立。スプリング・バレー・ブルワリー」の醸造所を買収した。醸造所の技術者や従業員も新会社へ継承されるが、醸造設備は売却され、ドイツの最新鋭設備を導入して再建を計る。1907年(明治40年)三菱財閥と明治屋の出資による純粋日本国籍、日本資本の新会社「麒麟麦酒株式会社」を設立。ジャパン・ブルワリー社は解散した。現在に至るまで日本の大手ビール会社のビールは「ジャーマン・スタイル・ピルスナー」であり、世界においても90%はこのスタイルのビールで占められている。

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結び

酒類の飲まれ方が多様化し変化している中、日本のクラフトビール醸造所は1997年頃数年続いた「地ビールブーム」により、1999年に300か所越えのマイクロブルワリーが稼働していた。その後「地ビール」は「クラフトビール」と呼ばれるようになり、再び全国的なマイクロビールブルワリーの開業ラッシュとなり現在長崎県を除く全ての都道府県に314か所稼働している。先の地ビールブームを凌数である。岸原氏が運営するスプリング・バレー・ブルワリー SVBのブランドスローガンはBeer is made of Life  .Beer is free. Create and Fan 事業展開を進める3拠点はそれぞれ異なるコンセプトを持つ、東京:未来・先進・成長点 横浜:歴史的伝統 そして2017年9月7日開業の京都はクラフトマンシップ・食・日本の美意識である。間口25mの元木綿問屋の町屋をリノベーションして店舗としている。かつて京都でも1877年7月から京都醸造所が清水寺.音羽の滝東でビールの製造に取り組んでいた。京都にとってもクラフトビールは大切なもの。今、SVB京都は京都産の原料100%のビール、K100を目指すプロジェクトを進行中である。麦芽もホップも酵母も京都産だ。ビール酵母のサンプリングも進めていて134種類のサンプルを採取して現在一種類可能性がある。亀岡の大麦、与謝野町のホップ、など関係者の連携で2020年までにK100を目指している。醸造家の自由な感性と食文化、アートと和えること、喜びを取り入れる、クラフトビールは街を発酵させ、進化し、次世代の共同体を目指す。

はじめに

2019年度始めの定例会が開催された。おりしも造幣局の桜の通り抜けが始まっており天満橋のターミナル周辺はかなりな人で混雑していた。今年は花冷えというにはあまりにも寒い日が多く、桜も長く楽しめるそうだ。関東から東北、北陸、北海道は四月の積雪となった。気候変動を昨年よりも現実感をもって感じながら、今年もMCEI大阪の新しい年度がスタートした。テーマは昨年に続く「気づき」だが押し寄せる巨大な情報の海に流されず、五感を研ぎ澄まして目に見えない“兆し”に気付いていきたい。

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木田さんのコト。

大阪出身の木田さんは東京でキャリアのスタートを切った。最初はテキスタイルデザイン事務所での仕事で、あまりマーケティングとは関係が無かったと語る。仕事を続ける中で「クリエィテイブだけではモノは売れない、売ることが大事」だと気付く。その後商業コンサルティング会社で全国各地のショッピングセンターや専門店の開発・診断・指導に関わったのち、広告代理店を経て、再び大阪に戻り女性マーケティング専門会社のチーフプロデューサーを務めた。2007年より「女性マーケター養成講座」を始め、2008年のリーマンショックで経済環境や市場が大きく変化する中で出産を経験し、出産を通して女性がどう変わるかを自らの体験で実感した。2009年11月より(株)レスコフォーメイションの常務取締役に就任する。「大坂でマーケティングができるの・・・?」(本人談)その頃MCEI大阪支部で講演していただいたと記憶する。2013年より独立して株式会社女ゴコロマーケティング研究所を設立、ご自身が企画、講師を務める「女性マーケター養成講座」では女性ならではの発想力や企画力、プレゼンテーション能力を高め、企業の業績に貢献できる人材育成を行い、現在790人を超える受講生を数えている。10年前は女性のマーケターはほとんどいなかった。最初は男性のための講座であったし、今でも依頼者の90%は男性である。まだまだ企業で決裁権を持っているのは男性なのだ。

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人口が減るなかで経済を回していくために女性就労や外国人の就労促進そして高齢者雇用促進など国が主導する動きは働く環境を大きく変えている。女性のライフスタイルは労働・消費・出産という構造を基本とするならば、仕事と育児という重い役割を担うことになる。経済優先で効率的に社会を回していく自由主義経済社会において、言い換えれば男性的論理が優先される社会においての子育ては楽ではない。木田氏は語る、「今大変な処にフィットするビジネスが必要とされている。ビジネスの本質は人間が生きていく中での負の解消である。」女性の社会進出が増え、所得が増加し、時間のやり繰りに困り、ストレスが増している。「ここで女性の本当の幸せとは何か?何に困っているのか?」を問いかけるところにビジネスの機会が隠れているという。女性視点のマーケティングは女性活躍推進と併せて進めていくことが必要である。企業は女性に対する「放任」や「過干渉」を軽減し、男女の関係性をかえていくことが大事、女性は表面的な事象を見抜く、女性視点で問題点は何か、ゴールはどこかを問うことにより「女性活躍社会」への道程のマイルストーンが明瞭になる。

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男性脳と女性脳のこと

男性脳はシステム脳といわれ左脳思考で、女性脳は共感脳といわれ右脳思考である。左脳と右脳をつなぐ脳梁が女性のほうが大きく、脳全体を同時に使うので事象にたいして共感力が強く表面的な事象を見抜く人が多い。会話をするときもそうであるが男性は言語中枢がある左脳だけを使って会話をしていて、理論立てて必要事項を話すが、女性は無駄な話も会話に入ってくる傾向がある。マーケティングに照らし合わせてみると、男性は商品の良し悪しを理性的に考えて商品・サービスを評価するが、女性は無意識に感じる快・不快で好き嫌いを感じ取った上で評価する。この快・不快の正体を知り、適切に対処することが女性へのマーケティングでは重要であると木田氏は語る。インターネットが爆発的に普及する1990年代中旬以前はこの“なんとなく”が商品の価値判断に大きな影響を与えていて、マーケティング戦略や広告表現の方向性を決定していた。コマーシャル表現は女性的・感性的な判断が優位を占めていたのだ。スペックにこだわる男性脳、イメージにこだわる女性脳に働きかけていた時代でありモノがモノとして神話性をおびていた時代である。しかし、インターネット普及後はこのような「衝動」は力を失っていった。情報の刷り込みが過剰に増加しAIが主導する男性脳型の価値判断が主流となっているからだ。世界24ヶ国でNo.1ベストセラーになった「話を聞かない男、地図を読めない女」という本がある。日本で累計350万部、全世界で600万部のミリオンセラーである。男女の考え方や行動の違いは、脳が使われていたり反応する場所や、分泌されるホルモンの違いによって引き起こされると言われている。この男女の認識領域のカタチを重ねるとL字型になり、男女の認識領域の重なるのは直角の部分になる。この様に認識領域が食い違っている人達がコミュニケーションをとると「あ、この人分かっていない」「バカなんじゃない?」となってしまう。また男性と女性の違いでよく言われるのが空間認識の違いである。地図を見たとき方角や何メートル進むかを示されると理解できる男性と目印になる建物などランドマークを示されると理解できる女性とかの事例である。男性と女性に建築の設計図を見せたとき男性は脳のある決まった場所が集中して働いているのに対して、女性の脳は働いている場所がこれといって決まっていなかったという話もある。とはいえ男性でも方向音痴の人はいる、男女の違いは確かにあるが、誰しも男性性と女性性の両方を持っているわけで、どの部分が女性よりで男性よりかを把握すると自分自身をもっとよく理解できる。脳にかかわる世間の関心は強く、様々な事が語られている。科学的な根拠がなかったり、あったとしても曲解、拡大解釈して、結果誤った理解を広めてしまうことも絶えない。2009年にOECD(経済開発機構)が公表して話題となった「神経神話」”Neuromyths”には「人間の脳は全体の10%しか使っていない。」「右脳人間・左脳人間が存在する」「脳に重要な全ては3歳までに決定される」「男性の脳と女性の脳は違う」などが上げられている。「時間の知覚」や「多感覚統合」含めて脳はミステリアスかつスリリングなのだ。

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ジェネレーションYとミレニアル世代

時代を30年もさかのぼる1980年代は、女性像も固定化されていて女性の社会的イメージもステレオタイプでひとくくりにされていた時代であった。

現在の消費をひっぱる20代から30代の主婦層は消費にシビアで、身の丈を楽しみ、男女平等を唱えるデジタルネィティブである。このミレニアム世帯は2025年に日本の家族世帯の30%を占めることになる。幼少期からデジタル化された生活に慣れ親しみ、ほとんどの人が日常的にインターネットを使いこなしている。新千年紀が到来した2000年前後以降に社会進出した世代という意味でMillennial Generationと呼ばれる。このミレニアル世代を包含する世代表現としてジェネレーションYが在る。ジェネレーションYは、アメリカにおける1980年代から1990年代に生まれた世代である。ベトナム戦争終結後からベルリンの壁崩壊による冷戦終結という歴史的転換点を経て、アメリカ同時多発テロ事件までを経験した、両親が第二次世界大戦後生まれの子供たちである。彼らの生い立ちと照らし合わせてみると、幼少期に冷戦の終結と社会主義の凋落に遭遇し、思春期のティンエイジャーの頃インターネットの爆発的普及を経験し、そのためインターネットを駆使して活躍する人が多い。<アメリカ国家安全保障局(NSA)が秘密裏に行ってきた個人情報収集の手口を告発したエドワード・スノーデンもこの世代である。>成人を迎えるころに同時多発テロ事件が起こり、そのため政府の経済や社会政策への介在を肯定的に見る傾向が強く、バラク・オバマの大統領当選に強い影響を与えたと言われている。1990年代にはインターネットの普及に呼応するように、高校生や大学生の間で麻薬などのドラッグが広まった。それにより犯した犯罪で刑務所から出所後も就職できず、再びドラッグの乱用や犯罪を繰り返す若者が急増し、彼らは「新失われた世代」と呼ばれるようになった。ほとんどの人がインターネットを使いこなすため、それまでの世代とは価値観やライフスタイルが大きな隔たりがあるとされる。アメリカのジェネレーションYは10代でソ連崩壊とグローバル資本主義に遭遇したため、プレカリアート(非正規雇用労働者)の多い世代である。日本におけるジェネレーションYは「氷河期世代」と呼ばれているが「ロストジェネーレーション」(アメリカではジェネレーションYの僧祖父母世代を指す言葉)と呼ばれることも多い。ロシアのジェネレーションYはソ連崩壊後にグローバル資本主義による不況(ロシア財政危機)に巻き込まれたことでプーチン大統領の反米・大国路線を支持するものが多い。韓国のジェネレーションYは「88万ウォン世代」と呼ばれ、10代でアジア通貨危機に遭遇したため、ここでもプレカリアートが多く「新自由主義」に反発するものが多い。こうした時代背景は、この世代の政治・経済への意識に大きな影響を与えている。

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ミレニアル世代の特徴を一般論として触れておきたい。

・デジタルネィティブ世代である。

・個人主義を重視する一方でSNSでのつながりも求める。

・所有よりも共有に価値を見出す新しい消費スタイルを持つ。

・本質的に良いものを求める(非ブランド志向)

・倹約(節約)を好む。

・商品をインターネットで購入することを好む

・仕事には個人の成長や向上を求めている

・会社への帰属意識が低い

・仕事に個人の成長や向上が無ければ早期に転職を考える。

・権威主義的な指導よりも、コーチング的な指導を好む。

ジェネレーションZからαへ

1990年代以降2010年頃に生まれた世代を指す、ジェネレーションZは現在10代で購買力も持っていて、社会全体で存在感を増してきた世代である。ミレニアル世代の集中力持続時間は12秒、それに続くジェネレーションZのそれは8秒である。生まれたときにすでにインターネットもパソコンも普及していて、2017年アメリカのMND研究所の調査では中高生の9割が学習にスマートフォンを使用し、2割以上がスマートフォンの利用時間6時間以上である。日本では1996年前後生まれの世代を96世代と呼ぶこともある。96世代は日本の先進的なモバイルブロードバンド環境を背景に、様々な携帯通信機器を利用して動画コンテンツを視聴するとともに、クラウド環境での集合知(衆合知)を活用する世代であり、「ネオ・デジタルネイティブ」とも呼ばれている。FacebookやTwitterなど、革新的ビジネスの創業者の存在や身近なユーチューバーなどの活躍により「いい大学に入って、いい企業に勤める」以外にも優れた教育が受けられ、いくつもの道があり、成功方法があることを知っている。ジェネレーションZは野心的で、目的意識が強いイノベーターなのだ。幼い頃から世界中の情報を得ることができたこの世代は、海外のコンテンツにも馴染んでいて、様々な事象をグローバルな視点でとらえることができる。その消費感としては、他の世代のように所有している商品が自分を表現する「物質主義」ではなく、消費行動自体が自分を表現するものと考え、「影響力」を重視する独特の消費感を持っている。「インスタ映え」など、仲間と話題を楽しむために消費を行う。政治感においては、人種やLGBTなどの「性」の問題に関して議論が高まる中で成長しているので、人種や性別、性的指向において偏見がなく平等な考えを持っている。世界経済フォーラムの調査によるとZ世代の87%が社会や環境問題に関心を持っている。多様性を受け入れ社会の問題には穏健なリベラルであるが、財政・安全保障問題には穏健な保守的見方をするという。ミレニアル世代の前半と後半で特徴に違いがあるので、ジェネレーションZとして区別されるようになったが、真のデジタル世代といえるZ世代は学校教育にこだわらず、「影響力」を重視する消費行動は、ミレニアル世代前半までの世代を超えて共通していた価値観を大きく変え始めている。その「拡散力」を持って。さらにジェネレーションZの次の世代として、今ジェネレーションαが考案されている。

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新しい世代に向けて、非ず、非ず、結びに非ず、

ステレオタイプは元々印刷技術のステロ版(鉛板)が語源となっている社会学の用語で、事象の見え方、捉え方を示し、印刷物の様に「型を用いて作られたかのように全く同じもの」「すでに完成されたものとして扱われているもの」という意味で多くの人に浸透している認識の固定観念、特に先入観、思い込みを指す。身の周りには世代の区分けや社会規範、常識など判で押したような、紋切型の考えが定着していることも多い。物語やフィクションなどで造形される人物像などはその典型的なカタチで、これらは神話類型に通じ、物語の基本的な類型構造であり、人間心理の普遍的・先天的な在りようと考えられる。近代において大衆社会とマスコミュニケーションが成立すると、政治・経済・社会的な目的において、過剰に単純化され類型化されたイメージが広く一般の人に流布するようになり、文字通り紋切型な把握や観念や思考となって定着するようになって、客観的根拠もなく鵜呑みにするこのことで様々な問題を引き起こしていることも事実である。

今回の講演テーマは男性のココロと女性のココロの違いを分析しマーケティング戦略につなげることである。確かに脳や体には男女の性差が存在し、地図を読めない人は男性より女性に多いのもまた確かである。だが生物種として人間を捉えればその特徴は「道具の作成とその使用」であり、道具を使って種が持つ生来の不利を補うことで「万物の霊長」となり産業革命を数次にわたって成し遂げてきた。しかし1990年代以降インターネットなどテクノロジーの進歩が爆発的に進む中、多国籍企業が世界的分業体制をつくりあげ、「グローバルバリューチェーン」と呼ばれる複雑な供給網が張り巡らされる時代に脱中心化が進み、主役がモノからデータへ移行する。

カリフォルニア大学生物工学教授 下条信輔氏によると、<現在社会は「ブラックボックス化」と「近視眼化」「健忘症化」という2つの特徴を挙げられる。「近視眼化」は目先の利益ばかり追いかける習性で、未来に向けての視野の狭さである。これと対になる過去に向けての視野の狭さが「健忘症化」だ。他方世界中の因果的なしくみが複雑なネットの網の目でその仕組みが分からなくなり、あるいは政治的な理由やマーケティング上の理由で企業が意図的な隠蔽をすること「ブラックボックス化」と呼ぶ。いうまでもなく近視眼化、健忘症化の結果であるとともに原因である。科学技術、特に情報技術が進展するとともにこれらが互いに助長しあって、坂道を転がり落ちるように進む。」ブラックボックス化は現在の潜在認知を大きく変容させているのだ。>

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この局面では、男だろうと女だろうと「人とは何か」を問いかけることが重要なのでは。木田氏の個人の潜在的なココロ<潜在意識><深層心理>掘り下げるアプローチは極めて有効であろう。

はじめに、松坂健さんとその周辺 

マイナス30度の寒気が流れ込み、大阪はまさに寒の戻りである。寒暖の差に戸惑いながら、本年度も最後の定例会となった。今月は跡見学園女子大学観光コミュニティ学部教授の松坂健氏に登壇いただいた。日本のミステリー研究者でもある松坂氏は、1949年生まれで今年70歳となる。今年3月で大学を退任される松坂氏から、幸運にも最終講義をいただくことになり、MCEI 大阪支部として感謝を申し上げたい次第である。

浅草生まれの松坂氏は多彩な経歴と経験を持つ。1971年慶応義塾大学法学部を卒業、1974年同大学文学部英文学科を卒業している。足かけ7年かけて大学を卒業し、フリージャーナリストとして7年のキャリアを経て、1974年に出版社柴田書店に入社し「月刊食堂」編集部に配属される。1984年には「月刊ホテル旅館」編集長に就任。世界の繁盛している食堂を取材するなどサービス産業の取材を20年間務めることになる。1992に独立し、2000年から大学で教鞭をとり始めている。2001年長崎国際大学人間社会学部国際観光学科教授となり宿泊業論、外食産業論を講じる。その後跡見学園では観光コミュニティ学部の教授を定年まで勤めることになった。

関西ではあまりなじみのない跡見学園は、開学150周年を迎える学校である。1875年、跡見花溪が京都、大阪での私塾運営の後、東京神田猿楽町に「私立跡見学校」として開校し、その後跡見女学校と名称を改めたのが始めで、東京で最初の私立女学校であり、日本人が設立した私立女学校としても設立が最も早い。生徒は4歳から18歳までの皇族、家族、軍人の良家の子女が通う学校であった。「ごきげんよう」の挨拶の発祥とされ、大和和紀の漫画「はいからさんが通る」のモデルともなった。1908年頃に流行した「ハイカラ節」では目白の女学校や上野の音楽学校と並ぶハイカラな女学生として、

歩みゆかしく行き交うは その名も君を恋し川 跡見女学校の女学生 背なに垂れたる黒髪に 挿したるリボンがヒラヒラ 紫袴がサラサラ 春の胡蝶の戯れか  と歌われている。「恋し川」は「小石川」にかけたもの。戦後の学制改革後の1950年に短期大学を開学し、1965年に女子大学となった。松坂氏が退官を迎えた大学の新座キャンパスは桜の名所としても知られている。

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次に70年代初め松坂氏が入社し、20年間務めることになった出版社柴田書店のことについてふれておきたい。柴田書店は1950年に九州・小倉で書店の次男として生まれた柴田良太によって創業された。「食を通じて食とサービスのプロに貢献する。」が創業者の理念である。当時としては先進的な料理書や経営書の数々を出版してきた。1953年に「調理のための食品成分表」を出版し生活科学、食品関係の専門出版社としてスタートした。1955年には出版まで3年を要した日本で最初の西洋料理の大著「西洋料理」を刊行して喝采をあびた。1959年欧米を視察し、外食産業の成長性を確信し、この分野での専門図書出版の道を歩むことを決意する。1961年に外食産業の経営、設備、調理の指針となる雑誌「月刊食堂」を創刊、1963年には宿泊産業の近代化に貢献するべく「月刊ホテル旅館」を創刊、「喫茶店経営」もこの年に創刊している。1966年に「月刊専門料理」が創刊されて、柴田書店は外食産業、ホテル業、喫茶行、そして調理技術すべてを網羅する出版社となった。しかしこの年、柴田良太は飛行機事故によって志半ばで41歳の生涯を閉じることになる。創業者である柴田良太の死後、社員が彼の遺志を受け継ぎ、多彩な出版活動を通じて、食の業界と共に発展してきた。松坂氏も20年間世界を歩いて集めたサービス業の取材で貢献してきたわけだ。

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観光とは、ツーリズムとは 

日本においてはインバウンドが増加する中、近年はツーリズムという言葉が主流である。英語では観光する(sightseeing)と、観光させる(tourism)で言葉としての概念が分かれている。これには宗教行為の対象者としての観光客(大衆)と仕掛け人としての観光業者の立場が現れている。日本では古代から神社仏閣への参詣が行われていて、近世においては社会が安定した江戸時代中期以降、伊勢神宮へのおかげ参りなど、名所巡りや飲食を楽しむ旅が庶民である大衆に拡がって行った。この行為を「旅」「行旅」「遊山」と呼び、寺社や景勝地を紹介した各地の「名所図会」や「東海道中膝栗毛」などの旅行文学も出版された。「観光」の語源をたどると、古代中国の「易経」に求められる。「観光之光利用賓干王」とは<国の光を観る、用いて王に賓たるに利し>の一節による。この句を略した「観光」の日本での早い時代での用例としては、幕末にオランダから江戸幕府に贈られた軍艦「観光丸」があり、さらに時代が進み明治の初めに米欧使節団を率いた岩倉具視が、報告書である「米欧回覧実記」冒頭に「観」、「光」と揮毫した。「外国をよく観察して、日本に役立てる」という意味である。当時岩倉は東京遷都で衰退した京都経済を再生させるために外国人による京都観光を政府に献策している。また明治時代は鉄道敷設による近代化を進めたので、日本人の国内旅行も盛んとなり、明治時代の後半には遊覧旅行の意味で「観光」という言葉が使われるようになったが、大正時代以降、「観光」は「tourism」の訳語としての意味が定着した。「観光」は明治時代からの言葉であるが、きわめて限定的な用例しかなく、外国人誘致(インバウンド)といった意味合いが強くなっていった。今日でいう国内旅行に「観光」という言葉が定着したのは1960年代以降とされ、1964年に東海道新幹線を完成させ、1968年10月1日のダイヤ改正で在来線の輸送力強化を完成させた国鉄は個人旅行拡大を狙って「ディスカバージャパン」キャンペーンを開始した。それは70年代のアンノン族へと繋がっていく。

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近年再び國の光を観るという「易経」の解釈が引用されることが多くなり、「光」という比喩的表現で旅の対象が幅広くなり、「旅」自体が多様な解釈が可能となってきている。易経は儒教の基本書籍で、五経の筆頭に挙げられる経典であり、「周易」または単に「易」とも呼ぶ。「易経」は宋以降の名称で、儒教の経書に選ばれたためこう呼ばれる。なぜ「易」という名称なのか、古来より様々な説が唱えられてきたが、「易」という言葉がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとするものであることから、ある時点、空間での「変化」と関連するものと考える人が多い。古代より占いの知恵を体系化・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。古代における占いは現代と違って、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題解決法であり、占師は政治の舞台で命がけの責任を負わされることもあった。

大衆に「観光」という概念が流行しだした当初は、観光に行くこと自体に価値があったが、次第に観光に行くこと自体は当たり前となり、何処に行くのかという「場所」がステータスとなっていった。広告表現でも観光地を大きく見出しにしたポスターやパンフレットが流行した。しかしその時代は長く続かなかった。「観光」は次第にステータスではなく個人の純粋な楽しみとしての「観光」として捉えられていった。「場所」ではなく「目的」が求められることになる。いわゆる「体験型観光」である。現在はまさにこの時代だといえる。ここに松坂氏が唱える「ホスピタリティ」の概念が求められることになる。具体的には楽しい気分になりたい。癒されたい。ゆったりとした時間を過ごしたい。など個人の「感情」が「観光」を引っ張る時代となっている。近年は「観光」という用語に物見遊山的、ビジネス的なニュアンスが生じる場合はあえて「観光」を用いず「ツーリズム」という用語を充てるケースが増えている。「ツーリズム」という言葉は観光業者の間では特別なものとして認識されているのだ。ツーリズムはまさに体験型観光と位置づけられていて、ツーリズム自体もその特性に様々な言葉が付加されている。例を上げれば環境に配慮したエコツーリズム、自然、特に山や森への旅をグリーンツーリズム、自然の特に海を扱う旅をブルーツーリズムなどと呼んでいる。

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ホスピタリティと一期一会について

ホスピタリティは資源ではなく資産である。資源は減るが資産は大切にすれば増やすことができる。瞬間を大切にする時間概念でもある。松坂氏が語るこの部分が「一期一会」の概念と繋がる部分である。資産として時間、瞬間をとらえることとしての「一期一会」とは、茶道に由来する。語源をたどると、千利休が残した言葉といわれるが、利休は自著を残していない。弟子の山上宗二の著書「山上宗二記」の中にある「茶湯者覚悟十躰」に利休の言葉として「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏(かしこまる)ベシ」という一文が在る。「一期」は仏教語で、人が生まれてから死ぬまでの間、すなわち一生を指す。

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茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する。茶会に限らず日常の中で人と出会っているこの瞬間は二度と巡っては来ないたった一度きりのものであるという時間概念である。この一瞬を大切に思い、「今できる最高のおもてなしをしましょう。」という含意が在り、この人とはこれからも何度も会うことはあるだろうが、もしかしたら二度と会えないかもしれない。人と接することは一瞬ごとに覚悟がいるということだ。さらに仏教では「諸行無常」という教えがある。「諸行」とはすべてのもの、「無常」とは常がないことで、森羅万象すべてのものは変わり続けるという意味である。人間はこの世界で、いつどこで何が起きるか分からない、まさに偶有性の世界、空間に生きているといえる。これを「火宅無常の世界」と表現する。「火宅」は火のついた家で、不安を表徴している。いつ何が起きるか分からない不安定な世界のことである。仏教では「無常感」といって、無常の現実をありのままに観つめることを勧める。いたずらに不安にならずに、今の出会い、今日の一日を大切にしましょうという言葉である。「一期一会」は一生に一度だけ、この諸行無常の世界は今日という日も一期一会、今の出会いも一期一会なのだ。

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むすび

一座一會ノ心、只コノ火相・湯相ノミナリ

利休のわび茶において、茶事の進行に火の強さと湯の煮え具合が相応し、自然な茶事の流れにより亭主と客の息遣いの調和が重要視された。「南方録」

抑(そもそも)茶湯の交會は一期一會といひて、たとへば、幾度おなじ主客交會するとも、今日の會にふたたびかへらざる事を思えば、実に我一世一度の會なり。さるにより、主人は萬事に心を配り、聊かも麁末なきやう、深切實意をつくし、客にも此會に又逢いがたき事を弁え、亭主の趣向何一つもおろかならぬを感心し、實意を以て交わるべきなり。是を一期一會といふ。

大老・伊井直助「茶湯一會集」

はじめに

大阪もあきらかに暖冬である。梅の花が咲き誇るなかで、MCEI大阪2月定例会は天満天神MAIDO屋代表 赤尾恵里子氏の登壇である。天満天神MAIDO屋は天神橋筋商店街の二丁目にあり、大阪天満宮、天満天神繁盛亭の近くに位置する。天神橋商店街は一丁目から六丁目まで南北2.6㎞あり600店舗が軒を連ねる日本一長いアーケード商店街である。二丁目は南森町駅、四丁目が扇町駅、六丁目が天神橋筋六丁目駅と地下鉄2区間分の長さである。天神橋筋は1653年(承応2年)頃に青物市場が立ったことが起源で、大阪天満宮の門前町として発展してきた。大阪三大市場の一つ天満青物市場も近く、庶民の盛り場として賑わいを見せてきた。
MAIDO屋は2019年4月で開店し、今年4月で5年目を向かえる店舗である。赤尾氏は「大阪の ええもん を集めた みやげもん屋」と位置づける。天神橋商店街にある「観光案内所」だとも言う。大阪の商家に生まれた赤尾氏は経験的、実感的、実証的であり、目先がきき、その行動力はたくましく、体当たり主義で成功する、「カンと行動力」がある大坂人だ。一般に大阪の人は頭が低くて愛想がよく、飾りっ気がなく庶民的であり、商売のこととなると行動力が旺盛で「これは儲かる」となると一気に行動を起こす。この行動力とある意味ドロくささが、大阪商人の「ド根性」と言われるものかもしれない。そのネバリとどんな場面にも柔軟に適応できる順応性が大坂商人、赤尾氏の原動力になっている。大阪の商いの根本は「客の欲するものを欲するままに売る。」「お客が買わんものを買うように売る。」といわれている。MAIDO屋のコンセプトは、「商品といっしょに、こだわりや想いも届けます。」である。扱う商品のひとつひとつが持つ歴史や物語、作りつづけてきた方々の思いもいっしょにお客様に届けるということだ。

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大阪以前の大坂について

20世紀の中頃まで、大坂は経済規模で東京を上回っていた。戦後東京への一極集中が進み、大坂から多くの企業が東京に本社を移転した。大阪、大坂は日本第二の都市であり、西日本最大の都市である。大阪市域だけの狭義の大坂と広い意味で京阪神(近畿地方、大坂都市圏、京阪神大都市圏、近畿圏)などを大阪市を中心として漠然とした総称として使われることもある。「大坂」という地名は、もともと大和川と淀川(現在の大川)の間に南北に横たわる上町台地の北端を指し、古くは摂津国東成郡に属した。
1496年に浄土真宗中興の祖蓮如が現在の大阪城の位置に大阪御坊、いわゆる石山本願寺を建立してその勢力を伸ばしたところから「大坂」という呼称は定着した。蓮如は御文の中で「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」と記載している。上町台地の先端部には古代から生國魂神社が鎮座していて、1532年には証如が山科本願寺から大坂に移り寺内町として発展していった。大坂は宗教都市ともいえるのだ。古代の律令の時代に「戻してみると、大坂は摂津国の範囲であり、近畿の経済・文化の中心であり、古都・副都としての歴史を持っている。難波高津宮、大化の改新が行われた難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)、住吉津(すみのえの)、難波津(なにわのつ、なにわづ)を起源に持つ港湾都市であり、この頃から国内流通の中心であった。のちの「大坂」が位置する上町台地は、古代は「難波潟」と呼ばれる芦原の広がる湿地に突き出した半島で、浪速(なみはや、なにわ)、難波(なにわ),浪華(なにわ)などと表記された。大和王権は住吉津や難波津から遣隋使や遣唐使を送り出し、返答使いの迎接を行った。運河、難波の堀江が築かれ、仁徳天皇の時代には難波高津宮、孝徳天皇の時代は難波宮、聖武天皇の時代には難波宮が営まれ、律令制のもと京職に準じる摂津職によって管理されていた。このようの古代から奈良時代にかけて難波の地(後の大坂)が重要視されたのは、大阪湾が西日本の交通の要である瀬戸内海の東端に位置している上、難波京以降の飛鳥京・藤原京・平城京から最も近い港湾であることによる。住吉津を管理する住吉大社は大和朝廷直属の社であった。その後難波津は土砂の堆積により外港としての機能が衰え,河尻泊(現尼崎)に繁栄を譲るが、平安時代に淀川水系を利用して営まれた平安京が恒久的な都となったことで、源氏渡辺氏によって渡辺津と名称を変え瀬戸内海から淀川を通じて京都につながる水運の要衝として再び栄えることとなった。また北から淀川を渡り、南の四天王寺・住吉大社さらに熊野へと続く熊野街道の起点となった。天満の八軒屋浜がその場所であり、天満天神宮の対岸にある。

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近世の大坂について

近世大坂の都市としての基盤をつくったのは豊臣秀吉である。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利した秀吉は名実ともに織田信長の後継者となった。秀吉は天下統一の拠点を、石山本願寺の寺内町に置いた。先に述べたように、淀川で京に通じ、瀬戸内海で西国とつながる大坂に大坂城築城のために物資が大量の運ばれた。当時キリスト教布教のために日本を訪れていたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「千艘以上の船が、順序を正して入港するを家内より目撃せり」と記している。秀吉がつくった大坂は1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で灰燼に帰した。豊臣家の滅亡である。天下は豊臣から徳川の世と変わり、政治の中心は江戸へと移った。戦国時代以来の政治、経済・文化の中心は大坂であったが、大坂はその後大きく役割を変えることになる。西国大名の監視と経済の拠点になることである。江戸幕府は伏見城を廃城にして大坂を直轄地にし、大坂城を再建させた。町の復興の任に就いたのは、徳川家外孫にあたる伊勢亀山城主松平忠明であった。忠明は戦火を避けて疎開していた、東天満、船場、西船場の町人たちを呼び戻し、伏見にいた八十余町の商人らを大坂城旧三の丸跡地に集団移住させて、市街地化を図った。戦災復興が終わった1619年(元和5年)に幕府は大坂を直轄地としたのだ。翌年より西国大名を動員し大坂城再建工事に着手する。十年の歳月を要した天下普請に動員された大名の数は延べ163家、動員人員は延べ47万人、工事期間中は大坂に15万人前後の人が住んでいた。再建された城は軍事的な役割よりも西国大名の監視が大きな役割となり、城下町には堀川(運河)が巡らされ八百八橋の異名をとる「水の都」として大きく発展していった。全長16キロメートルといわれる堀川は、淀川舟運による物資輸送の水路として大きな役割を果たしていった。こうして成立した近世以降の大坂は武士の数1万人に対して、町人の数30万人といわれ、まさに町人の町として再生されたのだ。天下普請によって動いた巨大な物資と人員はその後の大坂の商業都市としてのダイナミックな商業活動を生み出していくことになる。

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天下の台所、商業都市としての大坂

近世、「水の都」として復興した大坂は日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、「天下の台所」と呼ばれて繁栄していった。こうした経済的な発展に伴って「元禄文化」が大坂を中心に花開いた。江戸時代の経済は米が基準で、大坂でも流通取引高の最も多い品目は米であった。大名は領内から取り立てた年貢米を大坂に積み出し、これを売って換金し、領内に必要な支出にあてていた。この米を保管して売買するところを蔵屋敷と呼び、大坂の繁栄はこの蔵屋敷の蔵物の売買によって支えられていた。また堂島米会所では世界で最初の先物取引が行われた。大坂に集まる物は米ばかりではなく、1714年(正徳4年)の資料によると「米・麦・塩・砂糖・油・木綿・薬・鉄・鋼・煙草・千解」など119品目にのぼり、大坂から出された品物は「書物・具足・刀・甲・硯・墨・金銀・箔・白木綿・障子・鍋釜・草履・碁盤」など武具から家財道具にまで至っている。

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中之島を中心に、土佐堀川、江戸堀川、などの川べりに設けられた西国大名の蔵屋敷には、瀬戸内海の航路より大量の物資が運び込まれた。蔵屋敷の周囲には問屋、仲買、両替などの商品流通と金融にかかわる特権商人達による経済活動が盛んになった。堂島の米市場は、淀屋の米市場に始まる。江戸や京都にも米市場はあったが、堂島の米市場を基準に相場が決定された。全国的な商品流通機構の中心であることから、取引手段は必然的に貨幣金融機関の発展を促したのだ。その中でも本両替商は金銭売買・貸付・為替・預金など現在の銀行業務と変わらない機能を持っていた。幕府は資金の豊富な鴻池屋、天王寺屋、助松屋、泉屋などに米の買い上げに参加させ、米相場の安定にも関わらせていた。大坂は「天下の台所」と呼ばれるようになった理由がここにある。諸藩の蔵屋敷が建ち並び、諸国の米や物資を江戸へ送る拠点となったが、当時1670年(寛文10年ごろ)京や江戸と比べて遅れていた重要産業があった。「出版業」である。現在の人が工業製品に対する感覚からすれば以外に思われるが、江戸時代の主要工業製品は織物と陶器と本であった。織物も陶器も大坂ではあまり生産されていなかった。当時大坂では地場産業が育っていなかったのだ。楮を主原料とした紙や文字や絵を彫る桜の板、これが本作りに最低限必要な物産である。特に紙は高価な工芸品で、現在と比べて流通商品としての重要性は格段に高かった。さらに出版業は、版下書き、絵師,摺り師、表紙屋など就業人口が多いのだ。大坂には井原西鶴というベストセラー作家が彗星のごとく登場し、後に近松門左衛門に続き、大坂の出版業が育っていくことになる。「天下の台所」の側面として押さえておきたい。

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大都会、大阪のことを結びとして。

江戸時代大坂は幕府の直轄領、すなわち天領であった。大坂城代以下お役人は数百人という簡素な司法、行政組織のもと町民は近代の市民に近い生活を享受できた。近世大坂はこの江戸幕府が派遣した大坂町奉行のもとに北組・南組・天満組の三組に分かれ、総称として大坂三郷と呼ばれた。北組・南組は現在の中央区の本町通りを境に分かれ、天満組は北区の大坂天満宮を中心とする一帯である。なお天満組は元和年間頃まで大坂とは別の町とみなされていた。17世紀後半から再度発展を始めた大坂は1699年(元禄12年)に36万4千人となり、人口増加は18世紀も緩やかに続き1765年(明和2年)に41万9863人となり近世最大の都市となった。明治になっても大阪の人口は江戸時代の40万人から増え続けて、市域も拡大した。近代の明治・大正時代でも川は重要な交通手段であった。昭和初期になっても自動車による大量輸送は戦後の1960年代のことで大阪市北部の工業地域における物資の輸送のため1935年(昭和10年)から15年かけて開削された。昭和20年から30年代にはこの運河は艀(はしけ)でにぎわった。

大坂は長らく日本文化の中心であった京都に近く、西日本最大の都市として発展していく中で独自の文化を築いてきた。大阪のことば「大坂弁」は東京方言や京言葉とともに日本で最も知られた方言の一つである。大坂弁の特徴は、テニオハを抜いていることと、長い助詞を用いていることだ。もともと大坂弁(上方弁)は女コトバが主流であり、角のとれた、まるい、ひらがなの感じで、ねっちりした感情や情緒を含んだ語彙が多く、大坂的気質にぴったりしたコトバなのだ。「ええかっこしい」「ゲンがええ」「けったいな」「まいどおおきに」「ええし」「がしんたれ」大坂弁は全般的に表現が感覚的で実感があり、かけ引き言葉に便利な面が多く商売にもつながっていった。

「大阪は都会なんです。昔から、退廃の域に達するほど洗練され、自堕落な都会人の感性が大阪に漂っている。」作家の田辺聖子は、パリの都会人がウイットに富んだ会話を交わすフランソワーズ・サガンの小説は、大坂弁でこそ表現できると語っていた。

大坂の食文化についてふれておきたい、全国からあらゆる食材が集まる大坂は、瀬戸内海の海産物や大阪近郊の野菜にも恵まれ日本料理の基礎となった食文化が栄えた。本格的な日本料理発祥の地であり、「粉もん」を中心とする庶民の味までそろっていて、特にネギは日本の青ネギの原種で、奈良時代にすでに記述がみられる品種である難波ネギの一大産地で、戦前まで栄えていた。難波=ネギと代名詞となり鴨南蛮の語源となったとされる。南河内では明治のころより葡萄の栽培が盛んで出荷量で全国上位の品種(9位のデラウェア)もある。MAIDO屋でも「カタシモワインまつり」などイベントを11月に催して、宅地化でブドウ畑が減るなか、大阪のワイナリーを盛り上げている。

大阪には美食家の都会人が多かった。大阪は17世紀から「食いだおれ」の街といわれてきた。この言葉の本来の意味は、大坂人は食道楽で食事にお金をかけすぎて、破産して倒れてしまうという意味で、おなかいっぱい食べすぎるという意味ではなく、食における都会的デカダンスなのだ。

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このまま私の楽しいをどんどんつないでいく

天満天神の「ええとこ」知ってもらいたい

もう一度原点へもどって、大阪のええもんを日本中・世界中の人に

ターゲットは大阪の人、大阪の人が大坂の「ええもん」・「ええとこ」を再発見

観光案内所としてこれからも探し続けていく

「天満天神MAIDO屋」の決意である。

2019年はじめに

平成最後の年2019年が穏やかな天候の中で始まった。
MCEI大阪支部、最初の定例会は株式会社電通関西支社の日下慶太氏である。日下氏はソリューション・デザイン局とクリエーティブプランニング1部のコピーライターを兼ねている。今回のテーマは「アホがつくる街と広告<広告クリエィティブによる地方創生>」である。

いま流行りのAIやコンピュータの話ではなく、多分に人間らしい、文化人類学、神話学的話である。社会と文化には中心と周辺がある、われわれの概念は文化の中心に位置してきたし、それが我々に近い事象であればあるほど一元的であって、差異性の強調もなされてきた。それに対して、周縁的な事物<今回のテーマでは地方であるが>についての概念は、それが明確な意識から遠ざかっているゆえに、「曖昧性」をおびていて、それは多義的であるということに他ならない。多義性は周縁(地域)では分割するより綜合、いわゆる新しい結びつきを可能にする。一つの語(コピー)が多義的であるということは、潜在的にはさらに別の他の語(コピー)と結びついていることを意味する。ここに日下氏の周縁(地域)での活動の重心的テーマがあるが、往々にして人は中心で名を成し功を成そうとして中心に集まるが、日下さんは敢えて周辺としての地方や都市の周縁に目を向けて活動する仲介者でありトリックスターともいえる。

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電通のこと、旧電通本社ビルのこと。

電通は日本国内2位の博報堂DYホールディングズの売上高の約4倍ある日本最大の広告代理店である。1901年(明治34年)に光永星郎によって設立された「日本広告」を前身とする。1907年(明治40年)光永が通信社を設立して「日本広告」は吸収され、「日本電報通信社」(電通)となった。1932年満州国において新聞聯合社と電通の通信網を統合した国策会社国通が創立され、新京に本社を置き活動したが、1936年(昭和11年)に通信部門は譲渡され、電通は広告代理店専業となった。戦後の1947年(昭和22年)に吉田秀雄が第四代社長となり、広告取引の近代化に努めた。軍隊での規律を連想させる社則「鬼十則」を作り、電通発展の礎を築いた。

その後、電通は1984年(昭和59年)のロサンゼルスオリンピックからスポーツイベントに本格参入し、2000年にはイギリス大手広告会社コレット・ディケンソン・ピアーズを買収し2001年11月に株式を上場した。2012年にはイギリス大手広告代理店で世界第八位のAegis社を買収して、ロンドンに電通イージス・ネットワーク社を立ち上げ世界140か国に拡がる約10社の広告代理店を擁している。広告代理店として単体では世界最大の売り上げ規模で「広告界のガリバー」の異名を持つ。現在は汐留シオサイトに本社を据えている。その広告界の中心にある電通であるが、ここで時代を吉田秀雄社長の頃にもどして、旧電通本社ビルのことについて述べておきたい。この建築は丹下健三が設計し、1967年に竣工した築地の電通本社ビル(電通テックビル)は現在取り壊しが決まり解体を待っている。跡地は周辺を含めて住友不動産によって開発される予定だ。丹下健三は当時の電通社長吉田秀雄から本社ビルの設計を依頼された際、広く築地エリア全体を対象として「築地再開発計画」(1964年)をデザインした。電通本社ビルは、この計画の中で提案された全体の中の一つのピースとしての建築であった。「築地再開発計画」自体は1961年に発表された「東京計画1960」の続編ともいうべき構想だった。「東京計画1960」は、成長する国土の中心である東京を都心から東京湾にリニアに伸びる都市軸に沿って拡大させていくというメタボリズム運動の始まりともいえる計画である。この2本の交通網からなる都市軸の内部に業務ゾーンが配置されていて電通本社ビルもこの計画のコンセプトにそって忠実に設計されていた。丹下氏による設計は垂直な2つのコアヴォリュームで情報やエネルギーを垂直方向に導き、このコアの間を橋梁のようなトラス鉄骨で架け渡す構造で、オフィスは無柱空間となり、このコアで持ち上げられたピロティによって建物の地上部分は都市に開放される。この計画は着工寸前に吉田社長の死去したことと、大幅な工事予算超過となり、RC造ラーメン構造の現在の建築デザインとなっているが、これはこれでマッシブで魅力的な設計デザインである。「東京計画1960」において、丹下健三は、これからの都市の本質はネットワークとコミュニケーションであると喝破する。広義のコミュニケーションを担う人々を「オーガニゼーション・マン」と呼び、「ひとは孤独である」と書きつけた。50年以上前とは思えない洞察力である。実現しなかったこの計画は、コミュニケーションとネットワーク、そして成長する都市というコンセプトを具体的に空間化、建築化して可視化してみせたプロジェクトだった。「・・人々はメッセージを運搬し、機能相互を連絡しようとして流動する。この流動こそ、この組織を組織ならしめている靭帯である。1000万都市はこの流動的人口集団である。」丹下健三 50年以上経った今世界中で丹下健三が描いた都市が実現している。

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日下慶太さんのこと

日下さんは1976年大阪府吹田市に生まれた。神戸大学時代にユーラシア大陸を陸路で横断。チベット、カシミール、内戦中のアフガニスタンなど世界をフラフラと旅して電通に入社した。巨大な広告代理店に入社した日下氏は、東京コピーライターズクラブ最高新人賞や朝日広告賞入選などを果たして、広告業界の中心を花形コピーライターとして歩み出すが、東日本大震災があった2011年以降自らの病や母親の死を経験して、自身の生き様を大きく変えていった。現在コピーライターとして電通大阪支社に勤務しながら、写真家、セルフ祭り実行委員、UFOを呼ぶバンド「エンバーン」のリーダーとして活躍している。衰退する都市周縁に点在する商店街にある店舗のユニークなポスターを制作する「商店街ポスター展」を仕掛けて佐治敬三賞を受賞する。「ROADSIDERS’weekly」では写真家として執筆中。ツッコミたくなる風景ばかりを集めた「隙ある風景」は日々更新中である。「エンバーン」は2015年能勢妙見山頂にて結成、能勢妙見山、大坂なんば、淀川河川敷、西脇市のへそ公園などでUFOを呼ぶ奇跡を起こす。その成功率は約60%(2018年12月現在)ここで日下氏が語ったことを付け加える。自分の舞台は自分がつくる。あなたがまず「おもしろい人間である。」ということを仕事以外で示さなくてはならない。課外活動は自分にとっての投資だ!自由に表現できる場を積極的に生み出すこと。自分のフィールドをつくる。自分一人しかいないコトは代わりの人がいないのだから仕事が来る。どこに住んでいようと仕事がくるのだ。

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コピーライターのこと

コピーライター(copywriter)とは商品や企業を宣伝するためにポスター・雑誌・新聞などのグラフィック広告、テレビCM、ラジオCM、ウエッブサイトやバナー広告などに使用する文言(コピー)を書くことを職業とする人のことである。広告会社、広告制作会社、メーカーのインハウスに所属している。インハウスでは開口健氏や山口瞳さんなどが有名であるがもちろんフリーランスの人も多くいる。企業にとっては、コピーライターは会社の売り上げを左右する鍵となる人物で、コピーライターの作業そのものが企業秘密になるケースが多く、守秘義務契約で情報公開に制限をかけるケースが多い。

日下氏がコピーライターとしての自らの方向性に、大きな転機を迎えていた2012年東京コピーライターズクラブは50周年を向かえていた。コピーは「言葉の技術」であり、多くのコピーライターが過去を越えようと挑むことで進化してきたものであった。それぞれの時代を彩ってきた最高峰の言葉であり最先端の言葉であった。彼らも今いる場所を確認し次に向かうべき場所を見つけるための羅針盤を探していた。

コピーライターとは、「企業の課題を言葉という技術・アイディアによって解決する仕事。」と日下氏は定義する。働き出したころ、日下さんは先輩から教えられたことがある。「広告は永遠のジャマモノ」だという。だからいきなり自慢をぶつけないこと、人は誰でも自分を良く見せたいもので、そんな姿は誰も見たくない。だから見てもらうためには、いいコンテンツをつくるには、ここで日下氏がいう方法は①客観的に見る②サービス精神 が重要だという。どのように言うのか、・おもしろい・へん・かっこいい・かわいい・うつくしい・ためになる・などの客観的に見えた事象を短く、わかりやすい言葉で伝えること。このシンプルにワンビジュアル&ワンコピーのクリエィティブが広告表現として結晶化する。見て楽しんでもらうためのサービス精神である。日下氏がいうコピーライティングの技術である。

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日下さんの仕事のこと

地域の課題をアィデアによって言葉とビジュアルで具体化し、地域活性化を図る日下氏の仕事と方法を眺めてみたい。現地でトコトン考える、頭で考えない、デスクで考えない、現地を歩いて考えるのだ。

商店街ポスター展は日下氏が仕掛け人となって、大きな反響を呼んだ。2010年に新世界市場で初めて行われたこのイベントは、電通の若手クリエイターの有志達がボランティアで制作したポスターを商店街の店頭に展示するイベントだ。街起こしのために16店舗がエントリーし、電通社員32名が制作にかかわった。新世界市場に続いて阿倍野区の「文の里商店街」が選ばれた。商店街に隣接してライフ昭和町駅前店がオープンし、シャッターが上がらない店舗が目立つ寂れた商店街であったが、大坂商工会議所が文の里商店街のPRポスター約200点を電通関西支社に制作依頼した。2014年電通の若手クリエイターが核店舗に秀逸なキャッチコピーをつけポスターにして寂れた商店街を盛り上げた。例えば鮮魚はまぐちでは「これ、スズキ。僕、ハマグチ。」、下村電気「下村さん、テレビがつまらんのですけど。」鳥藤商店「いいムネあります。」 このポスター展は以下の方針のもとに制作された。
・おもしろいものを作ること 
・お店にきちんと向き合うこと。 
・制作はすべてクリエイターに任せること。 
・プレゼンはなし。できたものをそのまま納品。 
・何があっても必ず提出すること。
この二つの活動は電通関西支社のとっても良い影響を与えた。社外での活動が社内活動を活性化させたのだ。このポスターを創るという行為は、①自分が作る。②店のためになる。③残る。ということである。ファインアートと商業アートが混ざり合った面白さである。その行為は空き店舗をギャラリーに変えて残っていった。「プライベート周辺から始まる人間関係は醸成に時間がかからないが、仕事(ビジネス)から始まる人間関係は醸成に時間がかかるものである。」と日下氏は言う。「金は稼いでへん、でも人を稼いでいるんや。」 商店主・澤野由明

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もう一つ事例を紹介する。大野へかえろうプロジェクトは福井県大野市が抱える「若者の地元離れが進む」という課題に取り組んだものだ。それは地元の良さを知ってもらうことから始まった。第一弾は大野ポスター展で、商店街ポスター展と違うのは、地元の高校生にポスターを制作してもらうことである。このポスター展は3つの狙いがあった。・地元の魅力を再発見すること。 ・地元の面白い大人たちとつながること。 ・高校生たちに「自分には街を元気にする力がある」と気づいてもらうこと。1人1店舗を担当し、写真撮影とコピーを制作、36店舗のポスターができあがった。ポスターは街のあちこちに掲示され、大野市の内外で大きな反響を呼び、高校生自身も地元の良さを再確認することとなった。この手法を日下氏は<フォースを伝授する>と説明する。ポスターの制作の仕方を伝授、キャッチコピーを伝授、写真集づくりを伝授した地元の人々をプレイヤーにする、だから参加者は楽しくなり、面白がり地域が自走できるのだ。大阪検定ポスターの制作では駅員が問題を制作し、伊丹西台ポスター展でも店舗自身が面白がってポスターを制作し売上が1.5〜2倍もアップした。

そして大野市における、企画の第2弾は卒業式プロジェクトである。卒業式を迎える高校生達に親から子へのプレゼントとして「大野へかえろう」という楽曲が合唱された。親が子供に「地元に買ってきてほしい。」と伝えることは、子供の夢を遮るようでなかなか言えない、という声から日下氏はこの楽曲を制作したのだ。作詞は日下氏が行なったもので、卒業式ではこの気持ちのこもったプレゼントに感動する生徒も多く見うけられた。

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結びとして

時間的パースペクティブという概念がファッションビジネスに在る。繰り返される流行のトレンドを、50年程度の時間軸で引いてみてみることである。主体としての自分はもちろんのこと、他の世代がどう見えているのかも想像力を持ってみてみることである。今回は日下慶太さんのコトを50年程度遡って考えてみた。そこにはコピーライティングを軸とした広告業界の年縞が浮かび上がってきた。人間は今、情報の海におぼれて極度な近視眼になっている。だから在るときには、立ち止まって積み重なった時間の年縞に自らの感性を向けてみる必要があると思う。

それでは、 1963〜1969 青く、尖り、穴の中にいた。  

桜田通りからタクシーで銀座に向かう途中の夜景はニューヨークのように見えた。セントラルパークから見た5thアヴェニュー。当時はまだニューヨークに行ったことがないので、映画「バンドワゴン」の「ダンシングインザダーク」のセットのイメージだったのだろうと思う。1964年、28歳でライトパブリシティに入社した。メガ出版社から60人ほどの広告スタジオへ。銀座に通うことになった。CDが向井秀男。ADが細谷巌、和田誠。緊張の日々が途切れることなく続いた。コピーライターは企画部に所属し、向井秀男、土屋耕一、朝倉勇、伊藤喜直、梶原正弘、吉山晴康、大塚由紀、7名だった。向井秀男はストーリー性の強いコピーを書いた。「僕はひとり者なんだ。」ではじまり、ノーアイロンの合成せんいを語るような。土屋耕一はオープンな人でラフスケッチを机の上に置き外出した。掲載よりも先にそのコピーを見ることができわくわくした。朝倉勇は著名な詩人で、そのためだろう、淀みなくコピーを書いていた。3人は後にTCCのホール・フェイムに選ばれている。僕は部屋の中で孤立し、ひたすらコピーを書いていた。緊張が限界に達すると喫茶「ウエスト」(現存)に行き、仕事を続けた。コピーを書いていないときはアメリカの雑誌を見て過ごした。「ルック」「ライフ」はピークを迎えていた。マディソンアヴェニューのクリエイティブエージェンシーは全盛で僕たちは切り抜きをピックアップし、オックスフォードのBDシャツを着て、レジメンタルタイをした。・・・(中略)コピー十日会は東京コピーライターズクラブになり、十日会のメンバーはそのままTCCの会員になった。メーカーの宣伝部の人が多数いた。そいう時代だった。コピーについて言えば、文体にこだわっていた。主義を入れること。アップテンポであること。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」がバイブルだった。いつも穴の中にいた。空を見上げ、雲の速さを見た。そうして、時代は過ぎていった。(文中敬称略)

秋山晶

結びの結びとして。

われわれはもう一度手段より目的を高く評価し、効用よりも善を選ぶことになる。われわれはこの時間、この一日の高潔で上手な過ごし方を教示してくれることができる人、物事のなかに直接のよろこびを見出すことができる人、汗して働くことも紡ぐこともしない野の百合のような人を尊敬するようになる。

ジョン・メイナード・ケインズ「説得論集」東洋経済新聞社

躍る阿呆に見る阿呆同じ阿呆(アホ)なら踊らにゃ損損 (徳島 阿波踊りの歌い出し)

本稿は事情により講演録もある程度兼ねる意図もあり、長くなりました。本年も宜しくお願いいたします。

はじめに

暖冬傾向で寒暖の差が急峻な2018年度12月、今年最後の定例会はがんこフードサービス株式会社 取締役副社長 新村猛氏に登壇いただいた。外食産業に関わりながら、立命館大学の客員教授で工学の研究者でもある。祖父も終戦まで理化学研究所で応用化学を専門とする学者だった。人間工学とAIを駆使した行動観察で労働集約型の典型である飲食業の現場での生産性向上に取り組んでいる。

多くの先進国では、1960年代から1970年代に家電製品などの工業品が普及し尽くしたことにより、工業化の時代は終わっている。全産業に占める工業の割合が減少しサービス業の割合が増大している。日本のGDPに占めるサービス業の割合は約7割で少なくともシェアの面では日本はサービス業中心の経済に転換している。工業では、ロボットなどの機械の導入でオートメーション化が早くから進み、サービス業は人を介した「労働集約型産業」であるがためほとんど生産性は上昇してこなかった。工業では技術進歩が速く、サービス業の技術進歩は遅いと言える。工業が占める雇用の割合は減り、サービス業の割合は増えた。1970年代以降は工業の相対的縮小期であったが、サービス業へ労働移動したため技術的失業が顕著になるのを回避してきた。したがって日本のようにサービス業の割合の大きい国で、マクロ経済全体での生産性上昇率を高くしようと思うなら、サービス業の生産性を向上させる必要がある。今回の話で、新村氏が取り組むテーマはここに在る。

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がんこフードサービス株式会社について

がんこフードサービス株式会社は1963年(昭和38年)に現会長の小嶋淳司会長が、大阪十三で4坪半の小さな寿司店を創業したことがはじまりである。「若くても、結果を出せば評価してもらえるのが商売の世界」、こう語る小嶋氏の原点は、病に倒れた母の代わりに実家のよろず屋を切り盛りした経験である。生まれは和歌山県の上富田町で当時は朝来(アッソ)村というのぞかな村で、6人兄弟の末っ子で育った。小嶋氏がよく語る言葉がある、経営の世界では「現場」「現物」「現実」の三つを良く見なければ本質は見えてこないという意味で「三現主義」という言葉を使う。これは商売の理屈が分からないまま、いきなり高校生で商売の現場に置かれた経験がその基底にある。すでに商売で身を立てていくことを決意していた小嶋氏は同時に限界も感じていた。一念発起し、同志社大学を受験し合格、起業するために大学に入ったのだ。一文無しからできる商売はないか、それが飲食業であった。飲食業は当時近代化が遅れている労働集約型の分野で、そこには成功できるチャンスがあるはずだという確信があった。業界の知識が無い小嶋氏は徹底的に現場を見て歩いた。小さくて繁盛している店は徹底して調べ、バケツの水を思いきりかけられたこともあった。
無手勝流で店舗の実態を調べるうちに、行き当たったのは寿司店であった。なにしろ単価が高い。時価と称して価格を表示していない店が多かった。価格の無いものを買ってくれというのは商売ではない。まずこの時価を止めようと思い価格変動の調査をして、その平均値で売価を決めった。当時この小嶋のやりかたは「常識外れだ」と言われたが、商圏の中で小嶋氏の店が残った。業界常識というには自己研鑽を怠り、限界を作る人たちが言う事なのだ、後に小嶋氏は語っている。この4坪半の店を小嶋氏は28歳で1号店として立ち上げた、店の名前は「がんこ寿司」。俳句をやっていた友人が俳画のたしなみで小嶋の顔をイラストにしてくれたのが、現在でも使われている看板のアイキャッチである。関西を中心に95店舗を展開する外食チェーンの原点がここにある。

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人工知能とは、そして人工知能の歴史は

人工知能というのは知的な作業をするソフトウェアのことで、コンピュータ上で作動する。最も身近な人工知能として、iPhoneなどで使われる音声操作アプリ「Siri」がある。AIと類似する用語で「ロボット」があるが、これは「人間と同じような振る舞いをする機械」あるいは「自律的に動く機械」を意味する。AIはパソコンやスマートフォン、ロボットの制御にも使われる。現在はAIに大きな関心が寄せられているがその概念自体は古くから有る。1956年計算機科学者がアメリカのダートマス大学で開いた会議「ダートマス会議」の提案書で「人口知能」という用語が初めて使われた。

会議に出席したハーバート・サイモンは、1957年に10年以内にコンピュータがチェスのチャンピオンを打ち負かすと予測したが、それが実現したのは40年後の1997年である。AIは20世紀には期待ばかり寄せられて実績がそれほど伴わない技術であった。現在の21世紀となると、幅広く役立つ技術へと転身を遂げ日の目を見るようになっている。このAI技術の21世紀は少し遡り1990年代後半からスタートしている。グーグルなどの「検索エンジン」やアマゾンなどのお薦め商品を提案する「レコメンド・システム」のサービス業が世に現れたのも1990年代後半で、これはキーワードに関するウェブページのリストの表示や書籍のレコメンド(推薦)といった作業を行う一種のAIであり、当時MCEI大阪定例会でもテーマとして取り上げたことを記憶している。

1997年コンピュータがチェスのチャンピオンを打ち破った。IBMの「ディープ・ブルー」が史上最強のチェスプレィヤー・ロシアのガルリ・カスパロフを打ち破った。2016年3月囲碁AI「アルファ碁」が、世界最強の韓国の棋士イ・セドル九段を打ち破った。AIは大方の予想を大きく覆すスピードで進化してきたのだ。「ロボット」もまた近年急速に進化、普及している。工場での「産業ロボット」だけではなく、今回の話に登場する「サービスロボット」もまた1990年代後半以降続々と登場している。1999年ソニー社の犬型ペットロボット「AIBO」,2002年にはiRobot社のお掃除ロボット「ルンバ」、2015年にはソフトバンク社の人型ロボット「Pepper」が発売された。

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技術的失業と技術的特異点

資本主義を定義するときに、「機械化経済」と読み替えて考えるマクロ経済学者がいる。資本主義は、イギリスで第一次産業革命(1760〜1830年)に初期を形成していった。もちろんもっと遡って資本主義の起源を唱える説もある。この期間に、紡績機(糸を紡ぐ機械)が広く導入され、一人の労働者が重さ1ポンドの綿花を紡ぐのにかかる時間を500時間から3時間に短縮した。この労働力を節約する事象は、労働者の「ラッダイト運動」(機械打ちこわし)を引き起こした。しかしこの時の技術的失業は一時的、局所的な問題にすぎなかった。むしろ生産性向上で安く供給された綿布は下着を身に着ける習慣を広め消費需要を拡大したからだ。イノベーションは新たな財やサービスを創出し、雇用を生み出すのだ。その後技術的失業問題は19世紀にシスモンティやマルサス、リカードによって俎上に載せられたが経済学の中心テーマとはならなかった。ケインズは1930年「われわれは一つの新しい病気に苦しめられつつある。一部の読者諸君は一度もその病名を聞いたことが無いかもしれないが、今後はおおいにしばしば聞くことだろう。それは技術的失業(technological  unemployment)である。その後世界大恐慌が多くの失業者を生みさらにそのあと勃発した第二次世界大戦は各国に完全雇用に近い状態をもたらし、戦後の1950年代〜60年代には資本主義の黄金時代を向かえ、この問題は忘れ去られた。技術的失業問題が再び蘇ったのは、1990年代になってからで、ノーベル経済学賞受賞者のデール・モーテンセンとクリストファー・ピサリデスなどの経済学者によって研究されるようになってからアメリカを中心にとりあげられた。

日本ではバブル崩壊以降一部の研究者が警鐘を鳴らす程度で、デフレ不況がもたらす失業が当面の問題であって、2013年にアメリカの経済学者エリック・ブリニュルクソンとアンドリュー・マカフィーの「機械と競争」が翻訳されるまではあまり問題として意識されてこなかった。「機械と競争」の原題は“Race Against The Machine”で”Rage against the Machine”というロックバンドのバンド名をもじっている。星条旗を逆さまに吊るしたり、革命家チェ・ゲバラの肖像画を掲げたりといった過激で反抗的なパフォーマンスで話題となったグループである。「機械と競争」によると技術的失業で被害をこうむっているのは中間所得層である。

コンピュータが全人類の知性を超える、この未来のある時点のことを「シンギュラリティ」(Singularity、特異点、技術的特異点)と言う。この概念は2005年にアメリカの著名な発明家レイ・カーツワイルが自著の「シンギュラリティは近いー人類が生命を超越するとき」で述べられて、世界的な話題となった。カーツワイルは2045年にシンギュラリティが到来すると予測している。物理学では、シンギュラリティは物理法則(一般相対性理論)が通用しない特異な点のことで、ブラックホールの中にあると考えられている。技術的特異点としてのシンギュラリティも既存の法則が成り立たない点と考えられている。コンピュータの処理速度の予測がある。2015年の時点で1000ドルのコンピュータの計算速度はネズミの脳と同程度であるが、2020年代には人間一人の脳に、2045年代には全人類の脳と同等の情報処理ができるという、驚愕すべき予測である。

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資本主義の発展段階とジョルジュ・バタイユの有用性について

汎用目的技術(General Purpose Technology)という概念は産業革命に影響を与えてきた、GPTは補完的な発明を連鎖的に生じさせるとともに、あらゆる産業に影響を及ぼす技術である。産業革命は、これまで一次から三次まで3回起こっていて、それぞれがGPTのよって主導されている。1760年〜1830年のイギリスで最初に起こった一次革命は蒸気機関によって生産性を劇的に上昇させた。生産性の上昇率に注目してみると、この産業革命が終わった後の1830年〜1870年がピークで年率0.8%程度の上昇であった。第一次産業革命は生産性が絶えず上昇し、経済が成長し続けるしくみを人類が初めて手に入れたともいえる。もう少し生産性上昇率について述べると、19世紀を通じて生産性上昇率は上がって下がっている。なぜなら生産性を向上させるイノベーションに関しては二つの相反する効果がある。「肩車効果」と「撮り尽くし効果」である。
ニュートンによって広められた言葉「巨人の肩に立つ」は技術のアーカイブ(蓄積)を参照することによって、新たな技術の発見が容易となることである。グーグル・スカラという学術論文サイトにも書かれている言葉である。「撮り尽くし効果」とは、簡単な発見はすぐに成し得るので、イノベーションが進むにつれ、新しいアイディアの発見が難しくなることである。この「撮り尽くし効果」が「肩車効果」を相殺して技術の蓄積量の推移はS字を引き延ばしたようなロジスティック曲線を描くことになる。一般的に技術の蓄積量に比例して生産性は高まるので、生産性上昇率の推移はGPTの出現を起点として時間の経過とともに一つの山形を作りことになる。

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第二次産業革命は1870年〜1914年の間に起こり、この革命はアメリカとドイツによって主導された。この革命は内燃機関と電気モーターなどのGPTが牽引した。内燃機関は自動車や飛行機などで使われ、電気モーターは主に家電製品に使われ、私達の現在に至る消費生活を切り開いてきた。とりわけ先進的なアメリカの生産性上昇率に注目してみると、1930年〜1950年の期間をピークとした山形を作っている。第二次産業革命は一世紀以上にわたって経済や生活に影響を及ぼしてきたことになる。イノベーションのディフュージョン(拡散・普及)には長い時間がかかるのだ。

第二次産業革命のインパクトが消え去りつつある1970年代から、新たなGPTであるコンピュータとインターネットによる次の革命が用意されていた。第三次産業革命で情報革命ともいわれる。コンピュータそのものは1940年代に発明されていたが、ディフュージョンに長時間かかったのだ。この革命の始まりはコンピュータによる生産性上昇がアメリカで見られる1990年代とされる。1995年は、初めて家庭にも広く普及したOS(基本ソフトウェア)Windows95が発売された象徴的な年で、このOSの普及でインターネットも普及したので、「インターネット元年」とも呼ばれている。日本はこの年から「失われた20年」という長い不況の時代を向かえ、建築・デザインの分野ではポストモダンという潮流が台頭した。予測によると2030年に「特化型AIの時代」から「汎用AIの時代」に入るとされる。汎用AIの出現は、第四次産業革命を引き起こすだろう、ドイツでは2011年に「インダストリー4.0」という政策ビジョンを掲げている。機械同士が会話する、言い換えれば機械と機械が情報交換して協調して動作する「スマートファクトリー」(考える工場)というコンセプトで、自律的に動作するインテリジェントな生産システムである。似たような取組にアメリカのゼネラル・エレクトリック社を中心として「インダストリアル・インターネット」がある。この開始時期が2030年頃といわれている。今まで人類が経験したことのない純粋機械による生産という大分岐点が迫っているのだ。

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むすびとして:
「有用性」という概念がある。20世紀前半のフランスの思想家で小説家のジョルジュ・バタイユが提示した概念で、「役に立つこと」を意味する。資本主義は生産物の全てを消費せず、その一部を投資に回して資本を増大させることによって拡大再生産する経済だ。この資本主義に覆われた世界に生きる我々の多くはこの「有用性」にとりつかれ、役に立つことばかり重要視する傾向が強い。これは未来の利益のために現在を犠牲にする営みで、現在という時が未来に「隷従」させられているということだ。役に立つが故に価値あるものは、役に立たなくなった時点で価値を失う。バタイユは「有用性」に「至高性」を対置させた。「至高性」は役に立つと否とに関わらず価値あるモノを意味する。例えば「至高の瞬間」とは未来に隷従することなく、それ自体が満ち足りた気持ちを抱かせるような瞬間である。私達、近代以降の人間は人間に対してですら有用性の観点でしか眺められなくなり、人間はすべからく社会の役に立つべきだなどという偏狭な考えに取りつかれている。私たちは自らについてその「有用性」にしか尊厳を見いだせない近代人であることが自らを社会に役立つ道具として従属せしめているのだ。そのことを批判してバタイユはこう語る「天の無数の星々は仕事などしない。利用に従属するようなことなど何もしない。」人間の価値は究極のところ「有用性」にはなくて、人の役に立っているか、社会貢献できているか、お金を稼いでいるかは結局どうでもよいことである。「有用性」という概念は普遍的な価値ではなく、波打ち際の砂地に描いた落書きが波に洗われるように、やがては消える運命にある。AIやロボットの発達は、人間にとって真に価値あるものを明らかにしてくれる。人間に究極的な価値があるとすれば、人間の生それ自体に価値があるという他ない。生産性向上を求めた機械の発達の果てに多くの人間が仕事を失う中で、役立つこと「有用性」が人間の価値の全てであるなら、ほとんどの人間はイノベーションの果てに存在価値を失っていく。「有用性」の有無にかかわらず、人間には価値があるとみなす価値観の転換が必要である。

長くなりました本年もMCEI大阪支部の活動にご理解・ご協力いただき有難うございました。

来年もさらなるご支援のほど、宜しくお願いします。

はじめに

11月のMCEI大阪定例会は、先月に引き続きダイキン工業TICでの開催となった。
今月は日軽BP総研マーケティング戦略ラボ上席研究員 品田英雄氏の講演である。
「2018年ヒット商品の振り返りと2019年を予測する」がテーマである。品田氏は今回で4年連続の登壇であるが、今年は少し環境を変えての講演である。TICは「人の力を信じて世界へ」オムロンのイノベーションセンターから想を得て、10年かけて3か所に分かれていた研究所を一か所に統合し700人の技術者を集めてオープンイノベーションを行っている。施設はオープンン以来3年間で7万人が見学に訪れ、300件以上の共同研究がなされた。技術の伝承にも力を入れている。自ずとその空間は「熱」を醸成する場となっている。この環境でダイキン工業の多くの技術者と研修生を向かえてアクティブラーニング形式による「対話」を中心に据えた形式で、今年の定例会は始まった。TICの円形講義室は品出氏のソフィティケイトされた「挑発で、ある種の「熱」をおびた「対話の場」へと変換されていった。何か面白い「コト」が起きそう「な予感である。

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現在の状況は

品田氏が上げる現在の状況は
①モノ・サービスが有り余る
②次々と生まれる新技術
③世界との時差の縮小をあげられた。
ここで少し時代を遡って、モノと技術の変化という切り口で考えてみたい。

1989年1月8日平成時代が始まった。平成元年と平成30年の「世界時価総額ランキング」を比較すると、平成元年は上位50社のうち32社が日本企業であったが、平成30年は1社と激減したわけである。GDPをはじめとする各種経済指標も日本は世界のトップ水準にあり、日経平均株価は12月29日納会で3万8915円を付けた。地価の高騰も凄まじく、東京23区の地価が米国全体の地価を上回ると言われた。日本経済はまさに山の頂上に居たわけだ。
現在は上位50社のうちアメリカが31社、中国が7社である。一位がアップルでアマゾン、アルファベット、マイクロソフト、フェイスブックが上位に並びまさに激変の様相である。30年前一位は日本のNTTで地方銀行を含めて日本の銀行が上位を占めていたわけだ。技術の側面でみると人工知能・複合現実・量子コンピュータなどの焦点が当たり、多様な働き方がクラウド・モバイル・デジタルで加速される時代となっている。驚くべき話だが、「ニューヨークタイムズの一週間分のデータ量が18世紀に生きた人が一生の間に出会う情報量と同じ」となり、IoTの発達により、「現在世界に存在するデータ量の90%が直近の2年間で生み出されたものである。」

あらゆるものがデータ化される時代でもある。20世紀はコンピュータの時代(ハードの時代)であったがITの時代(ソフトの時代)を経て今やデジタルの時代となっている。世界に在る全てのものがデータとなる時代である。現実(リアル)に存在するものがデータ化されないとこの世に無いものとされる時代だ、データ化されないとその場に居る人しか分からないからだ。「データになっていなければこの世に存在しない」そういう世界に私達は棲んでいる。

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20世紀に造られた欲望の構造

実用性だけでは売れない・価格だけでは喜ばれない・今、必要ないモノは買わない、品田氏が指摘する消費者の商品に対する「欲望」である。
ここで20世紀、そしてそれよりも遡って造られてきた近代の欲望の構造を建築、庭園デザインの流れを軸に俯瞰してみたい。中心概念としてオブジェクトを置く。

オブジェクトとは、周囲の環境から切断された、物質の存在形式である。20世紀の環境を構成する大きな要素として西欧の伝統的建築がありその基本原理も建築をオブジェクト化することであった。そしてデザインの潮流を主導したモダニズムはオブジェクトという戦略によって世界制覇した。しかし、にもかかわらずオブジェクトとは別の形式がありえるのでは、例えばランドスケープ(景観)と呼ぶか庭園と呼ぶかそれらがメインストリームにも影響を与え始めていて、建築以外で21世紀の形式になろうとしている。

近代という時代は主観的なロマン主義、幻想主義と客観的な即物主義、技術主義の間で、自己が引き裂かれると捉える人が多く輩出した。哲学者カントや建築家ブルーノ・タウトなどであるが、この分裂の根底にあるのは主体(サブジェクト)と客体(オブジェクト)との決定的な分裂であり、特定の個人に課せられたものではなく、近代という時代全体に課せられたものであった。この分裂は近代に始まった分けではなく、遡って古典主義的な世界から建築様式の振幅運動として繰り返された。ルネサンスは客体へ、バロックは主体へ、新古典主義は客体へ、インテリアにおけるロココは平然と幾何学を放棄して装飾が集積する主体へと振れた。この新古典主義は単なる古典主義の再来ではなかった。新古典主義の建築は、自然の中に自立するオブジェクトであった。例えばベルサイユ宮殿の壮大な歪みに対する批判として庭園の中に立つプチ・トリアノンという純粋形態が建設された。「離れて立つ」立地を選択した建築を主体である人は距離を介在して眺める、主体と客体はすでに距離によって隔てられている。これが新古典主義の解決方法である。デカルトの物心二元論(物体と精神を分離し、物体が精神から独立した形で存在するという哲学的解決)と同形であった。この新古典主義に疑問を呈したのがヒューム、ロックに代表されるイギリス経験論であり、イギリス式風景庭園であった。それらは再び主体の側にたって分裂を解消しようとする方法論であった。風景式庭園はベルサイユなどの幾何学庭園に対する批判であった。そもそも庭園はオブジェクトとして設計するには無理がある。建築は一つのオブジェクトとしてグラウンドから切断され、自律して建設されてきたが、庭園はその本質においてグラウンドとは連続体であり、複数の異質な経験の時間的連続体として設計されてきた。そこにおいては経験相互の矛盾は問題にされなかった。一続きの園路を主体は回遊し、ある瞬間において一つしか経験できない。いかにその経験の断片が乱雑であっても何の矛盾も存在しない。これが経験主義である。

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その後カントの批判哲学が登場し、認識の普遍的形式性を唱え、その後ヘーゲルに代表されるドイツ観念論は19世紀を支配し、同時に19世紀は経験科学の時代となった。経験科学は物質世界に深く分け入り豊かな成果をあげ、物質世界をつぎつぎと解明していった。時代そのものが決定的に分裂していたのだ。哲学では新カント主義が起こり経験科学の手法をふまえた上で物質と意識の架橋を試みたが、テクノロジーと意識を接合する方法は喪失したまま時代を終えることになる。その後哲学で実存論と現象学が起こるなか、近代建築は二人の革命家であり巨匠と呼ばれる二人の建築家ル・コルビジェ(1887-1965)とミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)が登場し、極めてフォトジェニックな建築を設計した。建築全体のイメージを一瞬で認識できる、主体との距離を確保し建築側ではその距離と速さを前提とした形態とディテールが要請された。分かりやすい全体性の獲得のために周囲の環境と建築を切断する必要性があった。これがモダニズムのデザインである。マスメディアによる拡散に適したオブジェクトとしての近代建築は第一次世界大戦後インターナショナルスタイルとして大きな潮流となった。建築のインパクトをどのようにしたら大量の人々に伝達することが可能かマスメディアに向けてのオブジェクト=商品としての建築の探究であった。

結局、分裂はオブジェクトによって架橋された。物質と意識との分裂、世界と主観との分裂は、オブジェクトによって架橋されたのである。架橋の第一段階は、分裂の両サイドをそれぞれ粒子に粉砕すること、粒子へと還元してしまう事である。この粒子は単に小さいだけではなく、環境から切断され、突出し、自らの存在を強く主張する存在でなければならない。オブジェクトとはその様な性質を持った粒子の別名である。物質のサイドは、商品というオブジェクトにまで粉砕された。物質を粉砕すれば商品となるわけではない。商品とは、環境から突出し、自己主張し、主体を欲情させるオブジェクトの別名である。一方意識のサイドは実存というオブジェクトにまで粉砕された。実存は一切の群、共同体から切断されて孤独であり、それゆえに商品に欲情するのである。両サイドがオブジェクトにまで分解されてはじめてオブジェクト同士が求め合うのである。それが物質と意識の架橋、世界と主観の架橋という20世紀の欲望の構造である。

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未来のヒトの役割は

①現在の状況を冷静に見抜く(分析)②次はどうなるのか大胆に予想する(予想)③考えをとにかくカタチにする。(実践)いかに無駄なことをたくさん考えてその都度最善の策を作り、それを繰り返し継続する。心を折らないで継続することが大事。と品田氏は語る。技術革新が人知を超えた速度で進む中、主体となるヒトでなければできないことを探究することが大事なこととなってきた。

人工知能AIは1950年代に誕生し、脳をモデルとした機械学習の段階を経て2010年代ごろから深層学習を中心にした第3次AIブームとなっている。過去に起きたコトの情報処理はできるだけAIに委ね、人は未来を創りだすことに専念しなければならない。AIの特徴を上げれば過去の延長線上にしか将来を描けない。相関関係はわかるが因果関係は分からないのだ。哲学においてヨーロッパ流の原因と結果を言う。哲学者の中にはこの概念の使い方に制限を加える者もある。右手を上げようと思えば右手が上がるし、空腹になればいらいらすることが多い。このように精神の状態が原因となって身体の運動が結果し、また逆に身体の状態が原因となって精神の状態が結果することは普通あたりまえと考えられる。しかし古典物理学では、物体の運動を記述するときに精神に言及することはなく、すべて物質に関する概念だけで記述する。ここから、物体の一種である身体の運動もまったく物質的なものであり、心身の間に因果関係を認めるのは間違いであるという考えが生まれる。心身の相関を因果の概念を使わずに説明するにはどうしたらよいかという問題だ。日常生活で、二つの事象A,Bの間に因果関係を認めるようになるのは、Aが生じたのちにBが生じるということが繰り返し観察されたのちであることが多い。しかしこのような繰り返しがあったとしても、将来もあに続いてBが起きるとは限らない。ここから、現在確立されているように見える因果関係も、将来破られる恐れがあることが分かる。18世紀イギリスの哲学者ヒュームはこのことを指摘した。統計学はこのことを受け入れ、因果関係を相関関係に置き換えた上で、相関関係の推定も絶対正確だと無いとしている。このように因果関係を巡っては様々な立場で哲学的議論が行われている。

AIが人から仕事を奪う確立の事例をあげれば、経理担当者は97.6%であるが経理最高責任者は6.8%となる。人は担当者ではなく最高責任者の執行することをやらねばならない。ビジネスの因果関係を知り未来を創造することが人の役割である。そして時間が貴重な資源であることも認識すること、時間は人の主観の中で重要な位置を占める。客観としての空間価値から主観としての時間価値を生み出さなくてはならない。例えば 積み重なる時間・成熟していく時間・動かぬ時間・変化し続ける時間・ゆったりとした時間・巡りくる時間などデザインや設計に深くかかわる要素である。そして「××してから」思考を追い出すことが重要。理不尽な現実も受け止めて、高い目標を限られた時間でやりきること、無駄な経験など無いという了解、ピンチを克服し挑戦し続けること、そして機械ができない事が3つある。クリエイティブであること・リーダーシップを発揮すること・起業家精神を持つことである。

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結びとして

相対主義の背後には、安易で凡庸な全体性が、きまって忍び込んでいる。表層的な経験主義、相対主義の裏側には古典主義の安住が潜んでいること、主体と客体との分裂に対する無視と鈍感が潜んでいることをカントは批判した。カントは古典的世界観と経験的世界観をともに批判した。すなわち意識と物とは基本的に分烈していると考え、認識形式の普遍性がその分裂を繋ぎとめると考えた。「普遍的な認識形式とは存在するのか。」客観的存在(物自体、あるいはオブジェクト)は存在するが、主体はそれを正確には認識できないというのが、カントの基本的な考え方である。その時認識は各人各様、恣意的に行われるのではなく、認識にはもう一つの普遍的な形式があるとカントは考えた。この意識と物質の分裂、その分裂に架橋することが、商品としてのオブジェクトに溢れる現代の重要な問題として浮上している。

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意識を実存というオブジェクトに還元し、物質を商品というオブジェクトに還元するのが20世紀の接合法である。このオブジェクトを媒介として駆動する社会はすでに「大恐慌」によってその限界を露呈していた。商品=オブジェクトという自由で小さな粒子で主体と物質をスムーズに接続することは不可能であることを。

現在、世界はオブジェクトが支配する世界の限界と衰弱に直面している。個人とは自立した弧独なオブジェクトなどではなく、境界の曖昧な不確かな広がりである。オブジェクトに切り分けた途端に、物質はその魅力の大半を喪失する。その粘性、圧力、密度の全てが抹殺される。主体も物質も、ともにオブジェクトに切り分けられる事を拒絶していて、全ては接続され絡み合っているのだ。しかし、にも関わらず、我々は物質で構成されており、物質の中で生きている。必要なのは物質を分断することではなく、オブジェクト=商品に代わる物質の形式を模索することである。

カントの墓碑銘の一節「わたしの上なる星空と、わたしの内なる道徳律」は、認識の普遍形式(星空)が、それぞれの個人の中に、道徳律という形で内面化されている事に対する確信を語っている。