2019年はじめに

平成最後の年2019年が穏やかな天候の中で始まった。
MCEI大阪支部、最初の定例会は株式会社電通関西支社の日下慶太氏である。日下氏はソリューション・デザイン局とクリエーティブプランニング1部のコピーライターを兼ねている。今回のテーマは「アホがつくる街と広告<広告クリエィティブによる地方創生>」である。

いま流行りのAIやコンピュータの話ではなく、多分に人間らしい、文化人類学、神話学的話である。社会と文化には中心と周辺がある、われわれの概念は文化の中心に位置してきたし、それが我々に近い事象であればあるほど一元的であって、差異性の強調もなされてきた。それに対して、周縁的な事物<今回のテーマでは地方であるが>についての概念は、それが明確な意識から遠ざかっているゆえに、「曖昧性」をおびていて、それは多義的であるということに他ならない。多義性は周縁(地域)では分割するより綜合、いわゆる新しい結びつきを可能にする。一つの語(コピー)が多義的であるということは、潜在的にはさらに別の他の語(コピー)と結びついていることを意味する。ここに日下氏の周縁(地域)での活動の重心的テーマがあるが、往々にして人は中心で名を成し功を成そうとして中心に集まるが、日下さんは敢えて周辺としての地方や都市の周縁に目を向けて活動する仲介者でありトリックスターともいえる。

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電通のこと、旧電通本社ビルのこと。

電通は日本国内2位の博報堂DYホールディングズの売上高の約4倍ある日本最大の広告代理店である。1901年(明治34年)に光永星郎によって設立された「日本広告」を前身とする。1907年(明治40年)光永が通信社を設立して「日本広告」は吸収され、「日本電報通信社」(電通)となった。1932年満州国において新聞聯合社と電通の通信網を統合した国策会社国通が創立され、新京に本社を置き活動したが、1936年(昭和11年)に通信部門は譲渡され、電通は広告代理店専業となった。戦後の1947年(昭和22年)に吉田秀雄が第四代社長となり、広告取引の近代化に努めた。軍隊での規律を連想させる社則「鬼十則」を作り、電通発展の礎を築いた。

その後、電通は1984年(昭和59年)のロサンゼルスオリンピックからスポーツイベントに本格参入し、2000年にはイギリス大手広告会社コレット・ディケンソン・ピアーズを買収し2001年11月に株式を上場した。2012年にはイギリス大手広告代理店で世界第八位のAegis社を買収して、ロンドンに電通イージス・ネットワーク社を立ち上げ世界140か国に拡がる約10社の広告代理店を擁している。広告代理店として単体では世界最大の売り上げ規模で「広告界のガリバー」の異名を持つ。現在は汐留シオサイトに本社を据えている。その広告界の中心にある電通であるが、ここで時代を吉田秀雄社長の頃にもどして、旧電通本社ビルのことについて述べておきたい。この建築は丹下健三が設計し、1967年に竣工した築地の電通本社ビル(電通テックビル)は現在取り壊しが決まり解体を待っている。跡地は周辺を含めて住友不動産によって開発される予定だ。丹下健三は当時の電通社長吉田秀雄から本社ビルの設計を依頼された際、広く築地エリア全体を対象として「築地再開発計画」(1964年)をデザインした。電通本社ビルは、この計画の中で提案された全体の中の一つのピースとしての建築であった。「築地再開発計画」自体は1961年に発表された「東京計画1960」の続編ともいうべき構想だった。「東京計画1960」は、成長する国土の中心である東京を都心から東京湾にリニアに伸びる都市軸に沿って拡大させていくというメタボリズム運動の始まりともいえる計画である。この2本の交通網からなる都市軸の内部に業務ゾーンが配置されていて電通本社ビルもこの計画のコンセプトにそって忠実に設計されていた。丹下氏による設計は垂直な2つのコアヴォリュームで情報やエネルギーを垂直方向に導き、このコアの間を橋梁のようなトラス鉄骨で架け渡す構造で、オフィスは無柱空間となり、このコアで持ち上げられたピロティによって建物の地上部分は都市に開放される。この計画は着工寸前に吉田社長の死去したことと、大幅な工事予算超過となり、RC造ラーメン構造の現在の建築デザインとなっているが、これはこれでマッシブで魅力的な設計デザインである。「東京計画1960」において、丹下健三は、これからの都市の本質はネットワークとコミュニケーションであると喝破する。広義のコミュニケーションを担う人々を「オーガニゼーション・マン」と呼び、「ひとは孤独である」と書きつけた。50年以上前とは思えない洞察力である。実現しなかったこの計画は、コミュニケーションとネットワーク、そして成長する都市というコンセプトを具体的に空間化、建築化して可視化してみせたプロジェクトだった。「・・人々はメッセージを運搬し、機能相互を連絡しようとして流動する。この流動こそ、この組織を組織ならしめている靭帯である。1000万都市はこの流動的人口集団である。」丹下健三 50年以上経った今世界中で丹下健三が描いた都市が実現している。

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日下慶太さんのこと

日下さんは1976年大阪府吹田市に生まれた。神戸大学時代にユーラシア大陸を陸路で横断。チベット、カシミール、内戦中のアフガニスタンなど世界をフラフラと旅して電通に入社した。巨大な広告代理店に入社した日下氏は、東京コピーライターズクラブ最高新人賞や朝日広告賞入選などを果たして、広告業界の中心を花形コピーライターとして歩み出すが、東日本大震災があった2011年以降自らの病や母親の死を経験して、自身の生き様を大きく変えていった。現在コピーライターとして電通大阪支社に勤務しながら、写真家、セルフ祭り実行委員、UFOを呼ぶバンド「エンバーン」のリーダーとして活躍している。衰退する都市周縁に点在する商店街にある店舗のユニークなポスターを制作する「商店街ポスター展」を仕掛けて佐治敬三賞を受賞する。「ROADSIDERS’weekly」では写真家として執筆中。ツッコミたくなる風景ばかりを集めた「隙ある風景」は日々更新中である。「エンバーン」は2015年能勢妙見山頂にて結成、能勢妙見山、大坂なんば、淀川河川敷、西脇市のへそ公園などでUFOを呼ぶ奇跡を起こす。その成功率は約60%(2018年12月現在)ここで日下氏が語ったことを付け加える。自分の舞台は自分がつくる。あなたがまず「おもしろい人間である。」ということを仕事以外で示さなくてはならない。課外活動は自分にとっての投資だ!自由に表現できる場を積極的に生み出すこと。自分のフィールドをつくる。自分一人しかいないコトは代わりの人がいないのだから仕事が来る。どこに住んでいようと仕事がくるのだ。

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コピーライターのこと

コピーライター(copywriter)とは商品や企業を宣伝するためにポスター・雑誌・新聞などのグラフィック広告、テレビCM、ラジオCM、ウエッブサイトやバナー広告などに使用する文言(コピー)を書くことを職業とする人のことである。広告会社、広告制作会社、メーカーのインハウスに所属している。インハウスでは開口健氏や山口瞳さんなどが有名であるがもちろんフリーランスの人も多くいる。企業にとっては、コピーライターは会社の売り上げを左右する鍵となる人物で、コピーライターの作業そのものが企業秘密になるケースが多く、守秘義務契約で情報公開に制限をかけるケースが多い。

日下氏がコピーライターとしての自らの方向性に、大きな転機を迎えていた2012年東京コピーライターズクラブは50周年を向かえていた。コピーは「言葉の技術」であり、多くのコピーライターが過去を越えようと挑むことで進化してきたものであった。それぞれの時代を彩ってきた最高峰の言葉であり最先端の言葉であった。彼らも今いる場所を確認し次に向かうべき場所を見つけるための羅針盤を探していた。

コピーライターとは、「企業の課題を言葉という技術・アイディアによって解決する仕事。」と日下氏は定義する。働き出したころ、日下さんは先輩から教えられたことがある。「広告は永遠のジャマモノ」だという。だからいきなり自慢をぶつけないこと、人は誰でも自分を良く見せたいもので、そんな姿は誰も見たくない。だから見てもらうためには、いいコンテンツをつくるには、ここで日下氏がいう方法は①客観的に見る②サービス精神 が重要だという。どのように言うのか、・おもしろい・へん・かっこいい・かわいい・うつくしい・ためになる・などの客観的に見えた事象を短く、わかりやすい言葉で伝えること。このシンプルにワンビジュアル&ワンコピーのクリエィティブが広告表現として結晶化する。見て楽しんでもらうためのサービス精神である。日下氏がいうコピーライティングの技術である。

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日下さんの仕事のこと

地域の課題をアィデアによって言葉とビジュアルで具体化し、地域活性化を図る日下氏の仕事と方法を眺めてみたい。現地でトコトン考える、頭で考えない、デスクで考えない、現地を歩いて考えるのだ。

商店街ポスター展は日下氏が仕掛け人となって、大きな反響を呼んだ。2010年に新世界市場で初めて行われたこのイベントは、電通の若手クリエイターの有志達がボランティアで制作したポスターを商店街の店頭に展示するイベントだ。街起こしのために16店舗がエントリーし、電通社員32名が制作にかかわった。新世界市場に続いて阿倍野区の「文の里商店街」が選ばれた。商店街に隣接してライフ昭和町駅前店がオープンし、シャッターが上がらない店舗が目立つ寂れた商店街であったが、大坂商工会議所が文の里商店街のPRポスター約200点を電通関西支社に制作依頼した。2014年電通の若手クリエイターが核店舗に秀逸なキャッチコピーをつけポスターにして寂れた商店街を盛り上げた。例えば鮮魚はまぐちでは「これ、スズキ。僕、ハマグチ。」、下村電気「下村さん、テレビがつまらんのですけど。」鳥藤商店「いいムネあります。」 このポスター展は以下の方針のもとに制作された。
・おもしろいものを作ること 
・お店にきちんと向き合うこと。 
・制作はすべてクリエイターに任せること。 
・プレゼンはなし。できたものをそのまま納品。 
・何があっても必ず提出すること。
この二つの活動は電通関西支社のとっても良い影響を与えた。社外での活動が社内活動を活性化させたのだ。このポスターを創るという行為は、①自分が作る。②店のためになる。③残る。ということである。ファインアートと商業アートが混ざり合った面白さである。その行為は空き店舗をギャラリーに変えて残っていった。「プライベート周辺から始まる人間関係は醸成に時間がかからないが、仕事(ビジネス)から始まる人間関係は醸成に時間がかかるものである。」と日下氏は言う。「金は稼いでへん、でも人を稼いでいるんや。」 商店主・澤野由明

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もう一つ事例を紹介する。大野へかえろうプロジェクトは福井県大野市が抱える「若者の地元離れが進む」という課題に取り組んだものだ。それは地元の良さを知ってもらうことから始まった。第一弾は大野ポスター展で、商店街ポスター展と違うのは、地元の高校生にポスターを制作してもらうことである。このポスター展は3つの狙いがあった。・地元の魅力を再発見すること。 ・地元の面白い大人たちとつながること。 ・高校生たちに「自分には街を元気にする力がある」と気づいてもらうこと。1人1店舗を担当し、写真撮影とコピーを制作、36店舗のポスターができあがった。ポスターは街のあちこちに掲示され、大野市の内外で大きな反響を呼び、高校生自身も地元の良さを再確認することとなった。この手法を日下氏は<フォースを伝授する>と説明する。ポスターの制作の仕方を伝授、キャッチコピーを伝授、写真集づくりを伝授した地元の人々をプレイヤーにする、だから参加者は楽しくなり、面白がり地域が自走できるのだ。大阪検定ポスターの制作では駅員が問題を制作し、伊丹西台ポスター展でも店舗自身が面白がってポスターを制作し売上が1.5〜2倍もアップした。

そして大野市における、企画の第2弾は卒業式プロジェクトである。卒業式を迎える高校生達に親から子へのプレゼントとして「大野へかえろう」という楽曲が合唱された。親が子供に「地元に買ってきてほしい。」と伝えることは、子供の夢を遮るようでなかなか言えない、という声から日下氏はこの楽曲を制作したのだ。作詞は日下氏が行なったもので、卒業式ではこの気持ちのこもったプレゼントに感動する生徒も多く見うけられた。

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結びとして

時間的パースペクティブという概念がファッションビジネスに在る。繰り返される流行のトレンドを、50年程度の時間軸で引いてみてみることである。主体としての自分はもちろんのこと、他の世代がどう見えているのかも想像力を持ってみてみることである。今回は日下慶太さんのコトを50年程度遡って考えてみた。そこにはコピーライティングを軸とした広告業界の年縞が浮かび上がってきた。人間は今、情報の海におぼれて極度な近視眼になっている。だから在るときには、立ち止まって積み重なった時間の年縞に自らの感性を向けてみる必要があると思う。

それでは、 1963〜1969 青く、尖り、穴の中にいた。  

桜田通りからタクシーで銀座に向かう途中の夜景はニューヨークのように見えた。セントラルパークから見た5thアヴェニュー。当時はまだニューヨークに行ったことがないので、映画「バンドワゴン」の「ダンシングインザダーク」のセットのイメージだったのだろうと思う。1964年、28歳でライトパブリシティに入社した。メガ出版社から60人ほどの広告スタジオへ。銀座に通うことになった。CDが向井秀男。ADが細谷巌、和田誠。緊張の日々が途切れることなく続いた。コピーライターは企画部に所属し、向井秀男、土屋耕一、朝倉勇、伊藤喜直、梶原正弘、吉山晴康、大塚由紀、7名だった。向井秀男はストーリー性の強いコピーを書いた。「僕はひとり者なんだ。」ではじまり、ノーアイロンの合成せんいを語るような。土屋耕一はオープンな人でラフスケッチを机の上に置き外出した。掲載よりも先にそのコピーを見ることができわくわくした。朝倉勇は著名な詩人で、そのためだろう、淀みなくコピーを書いていた。3人は後にTCCのホール・フェイムに選ばれている。僕は部屋の中で孤立し、ひたすらコピーを書いていた。緊張が限界に達すると喫茶「ウエスト」(現存)に行き、仕事を続けた。コピーを書いていないときはアメリカの雑誌を見て過ごした。「ルック」「ライフ」はピークを迎えていた。マディソンアヴェニューのクリエイティブエージェンシーは全盛で僕たちは切り抜きをピックアップし、オックスフォードのBDシャツを着て、レジメンタルタイをした。・・・(中略)コピー十日会は東京コピーライターズクラブになり、十日会のメンバーはそのままTCCの会員になった。メーカーの宣伝部の人が多数いた。そいう時代だった。コピーについて言えば、文体にこだわっていた。主義を入れること。アップテンポであること。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」がバイブルだった。いつも穴の中にいた。空を見上げ、雲の速さを見た。そうして、時代は過ぎていった。(文中敬称略)

秋山晶

結びの結びとして。

われわれはもう一度手段より目的を高く評価し、効用よりも善を選ぶことになる。われわれはこの時間、この一日の高潔で上手な過ごし方を教示してくれることができる人、物事のなかに直接のよろこびを見出すことができる人、汗して働くことも紡ぐこともしない野の百合のような人を尊敬するようになる。

ジョン・メイナード・ケインズ「説得論集」東洋経済新聞社

躍る阿呆に見る阿呆同じ阿呆(アホ)なら踊らにゃ損損 (徳島 阿波踊りの歌い出し)

本稿は事情により講演録もある程度兼ねる意図もあり、長くなりました。本年も宜しくお願いいたします。