はじめに、本郷氏のことから


暖冬の2020年、年頭の定例会はMBSの本郷さんの話から始まる。
本郷義浩氏は1964年京都生まれである。1988年に毎日放送に入社し、一貫して制作局で番組の制作に関わってきた。チーフディレクターを務めた「あまからアベニュー」から引き継がれた「水野真紀の魔法のレストラン」で2001年からプロデユーサーを務め、10%以上の視聴率をとる人気番組となっている。2016年からは京都に関わる番組「京都知新」、「美の京都遺産」、「音舞台」シリーズ、「真実の料理人」などの番組を手掛けて京都のアート系と食関係の職人・アーティストを紹介している。


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ネットの存在が大きくなるにつれて、ネットの広告費が右肩上がりに増え続け、テレビの広告費が著しく減少するという傾向がしばらく続き、今は年間1兆7000億円ほどで下げ止まり均衡状態を保っているが、ネットの広告費は現在1兆円超の規模まで膨れ上がり、テレビの広告費に次ぐ規模になっている。「テレビ事業は広告だけではだめ。」MBSメディアホールディングスではこの危機感の中で社員600人に向けて「新規ビジネスコンテスト」を実施した。本郷氏は220件の応募を勝ち抜き、現在は番組制作を続けながら2019年9月よりMBSホールディングスの完全子会社であるMBSイノベーションドライブの中で、新たな「食」に関する事業をプロデュースする株式会TOROMI PRODUCEを立ち上げて事業展開を始めている。本郷氏は代表取締役として就任している。本郷氏は海外でのテレビ賞受賞も50を超え、「麻婆豆腐研究家」を自称し、年間120食以上食するほど偏愛している。
本郷氏は同社が目指すことは、飲食店・商業施設・ホテルなどの「レストランプロデュース」、食フェスやパーティ、セミナー企画等を手掛ける「イベントプロデュース」、TV番組・Webサイトなど「映像コンテンツ制作」食品・調味料やグッズの企画など「商品開発プロデュース」を四つのメイン事業とし、それぞれのシナジー効果によって価値あるサービスを提供することだと述べる。また同社が求める人材については、「自律して仕事に取組み続けられる事、自分なりの世界観を大切にする人材が必要。今まで学んだ経験、様々な芸術や映画などの作品に触れる事で醸成させた自分なりの世界観、世の中に新しい、面白い価値観を提供していきたい意欲などは全てが魅力的な人材の要素と言える。そして何よりも大事なのは「食」への飽くなき探求心。私たちが関わることで日本中の食文化をワンランク上に誘導することが同社の使命である。」と語る。


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毎日放送について
株式会社毎日放送、略称MBSは、近畿広域圏を放送対象とする特定地上基幹放送事業者である。大阪では唯一の同一法人によるAMラジオ放送とテレビジョン放送の兼営局で、ラジオはJRNおよびNRNとのクロスネット局で、テレビ放送はJNN系列の準キー局である。

設立は第二次世界大戦終戦の年1947年(昭和22年)、GHQが「放送基本法」と「伝播三法」の立法措置を指令し、1950年(昭和25年)に施行された。これ契機に「民間放送」設立が日本各地で相次ぎ、民間放送会社16社に予備免許が下りた。その中の一つが新日本放送株式会社で、関西政財界の支援の下、毎日新聞社と京阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)と日本電気(NEC)を中心に設立された。創立の中心となったのは、毎日新聞社を依願退職した高橋信三であった。高橋は民間放送の将来性と必要性を説き、毎日新聞社時代に培った人脈をフルに活用して出資者や番組のスポンサーを募った。

 

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設立途中で出遅れた朝日新聞社の机上案に過ぎなかった朝日放送との合併工作を頑として撥ね付け、公聴会の激しいやりとりの末、漸く新日本放送の開局に漕ぎつけた。毎日放送の前進である新日本放送は1956年12月に朝日放送・朝日新聞社・毎日新聞社と合併して大阪テレビ放送株式会社(OTB)を設立してテレビ放送に参入した。その後大阪ではもう一つテレビチャンネルが割り当てられ、ともに独自のテレビ局を持ちたかった朝日放送と新日本放送は、別々に免許を申請し、朝日放送は大阪テレビ放送と合併し、新日本放送は1958年6月毎日放送に改称した上で、大阪テレビ放送から資本と役員を引き揚げ、1959年3月に独自で準教育テレビ局として開局した。開局当初のテレビスタジオは、堂島の毎日大阪会館南館12階にあった。キー局は紆余曲折の末、日本教育テレビとなり、当時のNET系の純粋なフルネットはMBSだけであり、営業面や報道面で様々なハンディを背負いながらの発足であった。スタジオも小さく、使い勝手も悪かった。しかしMBSはこうしたスタジオ事情を逆手に取り、難波南会館からの「番頭はんと丁稚どん」や梅田花月劇場からの吉本新喜劇中継などの外部公開収録番組が生み出された。


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テレビとその歴史
テレビ、テレビジョンはフランス語televisionテレビシオンに由来し「TV」と略されることが多い。teleはギリシア語の「遠く離れた」、visionはラテン語で「視界」という意味である。テレビジョンは放送あるいは通信や遠隔監視に使用される遠方へ映像を送る技術で、テレビ放送は主として電波を使って不特定多数のために放送する仕組みで、動画に加えて音声や付加情報を送ることができる。電波を使わずに有線で送出するケーブルテレビ(CATV)もある。このテレビジョン放送で送られるコンテンツが番組(プログラム)である。日本の電波法での「テレビジョン」の定義は「電波を利用して、静止し、または移動する事物の瞬間的映像を送り、又は受けるための通信設備」となり、放送法ではテレビジョン放送は「静止し、又は移動する事物の瞬間的映像及びこれに伴う音声その他の音響を送る放送又は信号を併せ送るものを含む。」と定義している。中国では電信と電話を繋げて「電視」と呼ばれている。

「テレビジョン」の歴史は19世紀に始まる。1873年イギリスで明暗を電気の強弱に変えて遠方に伝えるテレビジョンの開発が始まる。1884年ドイツのポール・ニコプーが直列式の機械走査を実現し「ニコプー円板」を発明した。1897年イタリアのグリエル・マルコーニが電磁波を使って3キロメートル離れた地点間でのモールス信号の無線通信に成功している。1897年ドイツのフェルディナント・ブラウンが受像菅に用いるブラウン管を発明。20世紀に至ると1911年ロシアのボリス・ロージングが世界で初めてブラウン管テレビの送受信実験を公開し、簡単な図形の輪郭の受像に成功するが、実用レベルの受像に至るには映像を電気信号に変換する光電管とそれを増幅する真空管の発達を待たねばならなかった。1925年スコットランドのジョン・ロージ・ベアードが機械式テレビを開発。見分けられる程度の人間の顔の送受信に成功する。1926年に同じくジョン・ロージ・ベアードが王立研究所で動く物体の送受信に成功している。

 

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日本では同年12月に浜松高等工業高校の、高柳健次郎がブラウン管テレビの開発で「イ」の字を表示させた。1927年アメリカのフィロ・ファンズワースが電子テレビ撮像機の開発に成功し、撮像・受像の全電子化が達成された。1929年英国放送協会(BBC)がテレビ実験放送を開始。日本では1931年NHK技術研究所でテレビの研究が開始されたが、戦後の1945年から1946年までGHQにより日本のテレビの研究は禁止されていたが同年7月に禁止令が解除され、NHKにより研究が再開された。1952年松下電器産業(現パナソニック)が日本初の民生用テレビを発売した。1953年にシャープが国産第一号テレビTV3-14Tを175,000円で発売。同年、日本放送協会と民放としては初めて日本テレビがテレビ放送を開始した。当時の主な番組は大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継と記録映画であった。白米10㎏が680円、銭湯の入浴料が15円程度であった当時、テレビの受像機の価格は非常に高価で20万円から30万円程度で当然一般の人々にとっては手が届かなかった。多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビや、街の名士などの一部の富裕世帯宅、喫茶店、蕎麦屋などが客寄せに設置したテレビを視ていた。私もテレビが我が家に届いた日のコトを鮮明に記憶している。その頃テレビは特別な「電視装置」だったのだ。1958年12月23日東京タワーからのテレビ放送が開始され、テレビの時代は本郷氏の生まれた60年代に向かって行くことになる。


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次に何が起こるかワクワクして視るもの
テレビは見られているのか、いないのか、よく分からなくなってきた。テレビと視聴者の関係が変化したのだ。テレビとは何かという問いは以前からある。1960年代に出版された書籍「お前はただの現在にすぎない。」は当時のテレビ論の基本となっていて、歴史的名著とも言われている。この考え方を最も具体化したのは萩本欽一氏である。2013年2月1日、テレビ放送が始まって60年を迎えたこの日にNHKは記念番組として「テレビのチカラ」を放映した。その番組で萩本氏が最も影響を受けたテレビ番組として挙げたのは「あさま山荘事件」の中継映像であったと語っている。過激派が立てこもる山荘で何が起こるのか、中継の映像はぶっ続けで山荘を写し続ける。「窓ばかリ写すのね」と萩本氏は言っていた。コントの練習をしていたのに戻ってこない二郎さんが、テレビに写る山荘の窓をじっと見ていたのだ。この気づきから生まれたのが「欽ドン!良い子悪い子普通の子」であった。素人や新人ばかりを起用した番組で、出演者が素人なので次にどんな反応を示すのか分からない、だから面白かった。アドリブがエンターテイメント化するという発想の大転換であった。こうして萩本欽一は“視聴率100%男”と呼ばれ、テレビ史上類のないヒットメーカーになっていったのだ。

 

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その後各時代で一世風靡した「元気が出るテレビ」、「オレたちひょうきん族」、「進め電波少年」などは台本無視でドキュメンタリーの様な制作パターンで欽ちゃんの系譜を継いでいると言える。テレビはこの頃までずっと何かが起こりそうで、次に何が画面に出てくるのかワクワクする電視装置だったのだ。テレビ番組の制作側はまちがいなく「何かが起こりそう」を意識していた。クイズをよく出したり、クイズだけではなくテレビはよく“引っ張る”演出をするが、ふと気が付くと視聴者はもう待てなくなっていたのだ。視聴者としての私は、もう引っ張られなくなっていたのだ。少しでも引っ張れば私はスマホに向かってしまうのだ。現在起こっていることは急速に増大するネット環境であり、それに接触する時間なのだ。これは「モバイルシフト」と呼ばれ、メディア接触のスピード感覚が大きく変わり、接触時間の「緩急」の差が大きく開いていく。モバイルシフトが起こると、メディア接触のスピード感覚が大きく変わり、「緩急」の差がものすごく開く。日常的には“ファストな”メディア接触となり、スマートフォン上で次から次にメディアを渡り歩き、どん欲にコンテンツをむさぼる。ある瞬間にスイッチが入ると、急にコンテンツをじっくり視聴して堪能する。その後またスイッチが入るとファストな接触に戻り次々にメディアを渡り歩く。要するに自分でスピード調節して情報環境を最適化したいのだ。ここに「放送」のように定時にその場にいなくてはならないものとの乖離がある。テレビ離れではなく、放送離れなのだ。


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結びとして
ネットが人々の生活の隅々にまで浸透した結果、社会の動きとネット上で騒がれていることが一致する状況がかなり一般化している。社会で起きている事象が、ネット上で可視化される時代に入っている。テレビ番組制作の現場も、ネット上の「ネタ」を集めた番組が増加している。「テレビはすでに壮大なネット文化の中の一部として取り込まれてしまったのかもしれない。」慶応大学 夏野剛氏の意見もある。流行やファッションもインスタグラムなど会員制の交流サイト(SNS)から生まれて世界的なトレンドになる事例もある。レストランに行きたいと思えばネットを視れば実際に行った事のある人のリアルな行動に基づいた情報を得ることが可能だ。ネットが普及するまでは、こうした情報はテレビや雑誌が取材して、その情報をテレビ番組や雑誌の中で知るというのがサイクルであった。10年前までは、テレビと雑誌はとかく反目し合うライバルの様に言われてきたが、現在は共存関係になっている部分も多く見られる。2008年頃からフジテレビなど在京のキー局がネット上に番組公式サイトを作るようになった。潮目は明らかに変わったのだ。「モバイル・シフト」が進みテレビとネットが「敵対」から「共存」へ移行する最中に、本郷氏はTOROMI PRODUCEで64本のビジネスモデルを同時に進行させようとしている。その圧倒的な量の質を落とさせないのは、長年テレビの番組制作の現場で培われた「制作力」に在ると感じた。スタッフは5人だけ、人的ネットワークとアウトソーシングを駆動させながら、大風呂敷を拡げて上手くいくものに絞り込む。「やって失敗するほうが、やらないよりいい。とりあえずやってみる。」「映像」で切り取ると、見えないものが見える。ともいう、向かう視点を定める所に気付きが在ると語る。テレビ番組制作一筋の凄みがそこに在る。