理事長の橋詰です。2月度定例会(2019/2/14)のレポートです。

はじめに

大阪もあきらかに暖冬である。梅の花が咲き誇るなかで、MCEI大阪2月定例会は天満天神MAIDO屋代表 赤尾恵里子氏の登壇である。
天満天神MAIDO屋は天神橋筋商店街の二丁目にあり、大阪天満宮、天満天神繁盛亭の近くに位置する。天神橋商店街は一丁目から六丁目まで南北2.6qあり600店舗が軒を連ねる日本一長いアーケード商店街である。二丁目は南森町駅、四丁目が扇町駅、六丁目が天神橋筋六丁目駅と地下鉄2区間分の長さである。天神橋筋は1653年(承応2年)頃に青物市場が立ったことが起源で、大阪天満宮の門前町として発展してきた。大阪三大市場の一つ天満青物市場も近く、庶民の盛り場として賑わいを見せてきた。IMG_1929.JPG
MAIDO屋は2019年4月で開店し、今年4月で5年目を向かえる店舗である。赤尾氏は「大阪の ええもん を集めた みやげもん屋」と位置づける。天神橋商店街にある「観光案内所」だとも言う。大阪の商家に生まれた赤尾氏は経験的、実感的、実証的であり、目先がきき、その行動力はたくましく、体当たり主義で成功する、「カンと行動力」がある大坂人だ。一般に大阪の人は頭が低くて愛想がよく、飾りっ気がなく庶民的であり、商売のこととなると行動力が旺盛で「これは儲かる」となると一気に行動を起こす。この行動力とある意味ドロくささが、大阪商人の「ド根性」と言われるものかもしれない。そのネバリとどんな場面にも柔軟に適応できる順応性が大坂商人、赤尾氏の原動力になっている。大阪の商いの根本は「客の欲するものを欲するままに売る。」「お客が買わんものを買うように売る。」といわれている。MAIDO屋のコンセプトは、「商品といっしょに、こだわりや想いも届けます。」である。扱う商品のひとつひとつが持つ歴史や物語、作りつづけてきた方々の思いもいっしょにお客様に届けるということだ。

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大阪以前の大坂について

20世紀の中頃まで、大坂は経済規模で東京を上回っていた。戦後東京への一極集中が進み、大坂から多くの企業が東京に本社を移転した。大阪、大坂は日本第二の都市であり、西日本最大の都市である。大阪市域だけの狭義の大坂と広い意味で京阪神(近畿地方、大坂都市圏、京阪神大都市圏、近畿圏)などを大阪市を中心として漠然とした総称として使われることもある。「大坂」という地名は、もともと大和川と淀川(現在の大川)の間に南北に横たわる上町台地の北端を指し、古くは摂津国東成郡に属した。
1496年に浄土真宗中興の祖蓮如が現在の大阪城の位置に大阪御坊、いわゆる石山本願寺を建立してその勢力を伸ばしたところから「大坂」という呼称は定着した。蓮如は御文の中で「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」と記載している。上町台地の先端部には古代から生國魂神社が鎮座していて、1532年には証如が山科本願寺から大坂に移り寺内町として発展していった。大坂は宗教都市ともいえるのだ。古代の律令の時代に「戻してみると、大坂は摂津国の範囲であり、近畿の経済・文化の中心であり、古都・副都としての歴史を持っている。難波高津宮、大化の改新が行われた難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)、住吉津(すみのえの)、難波津(なにわのつ、なにわづ)を起源に持つ港湾都市であり、この頃から国内流通の中心であった。のちの「大坂」が位置する上町台地は、古代は「難波潟」と呼ばれる芦原の広がる湿地に突き出した半島で、浪速(なみはや、なにわ)、難波(なにわ),浪華(なにわ)などと表記された。大和王権は住吉津や難波津から遣隋使や遣唐使を送り出し、返答使いの迎接を行った。運河、難波の堀江が築かれ、仁徳天皇の時代には難波高津宮、孝徳天皇の時代は難波宮、聖武天皇の時代には難波宮が営まれ、律令制のもと京職に準じる摂津職によって管理されていた。このようの古代から奈良時代にかけて難波の地(後の大坂)が重要視されたのは、大阪湾が西日本の交通の要である瀬戸内海の東端に位置している上、難波京以降の飛鳥京・藤原京・平城京から最も近い港湾であることによる。住吉津を管理する住吉大社は大和朝廷直属の社であった。その後難波津は土砂の堆積により外港としての機能が衰え,河尻泊(現尼崎)に繁栄を譲るが、平安時代に淀川水系を利用して営まれた平安京が恒久的な都となったことで、源氏渡辺氏によって渡辺津と名称を変え瀬戸内海から淀川を通じて京都につながる水運の要衝として再び栄えることとなった。また北から淀川を渡り、南の四天王寺・住吉大社さらに熊野へと続く熊野街道の起点となった。天満の八軒屋浜がその場所であり、天満天神宮の対岸にある。

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近世の大坂について

近世大坂の都市としての基盤をつくったのは豊臣秀吉である。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利した秀吉は名実ともに織田信長の後継者となった。秀吉は天下統一の拠点を、石山本願寺の寺内町に置いた。先に述べたように、淀川で京に通じ、瀬戸内海で西国とつながる大坂に大坂城築城のために物資が大量の運ばれた。当時キリスト教布教のために日本を訪れていたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「千艘以上の船が、順序を正して入港するを家内より目撃せり」と記している。秀吉がつくった大坂は1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で灰燼に帰した。豊臣家の滅亡である。天下は豊臣から徳川の世と変わり、政治の中心は江戸へと移った。戦国時代以来の政治、経済・文化の中心は大坂であったが、大坂はその後大きく役割を変えることになる。西国大名の監視と経済の拠点になることである。江戸幕府は伏見城を廃城にして大坂を直轄地にし、大坂城を再建させた。町の復興の任に就いたのは、徳川家外孫にあたる伊勢亀山城主松平忠明であった。忠明は戦火を避けて疎開していた、東天満、船場、西船場の町人たちを呼び戻し、伏見にいた八十余町の商人らを大坂城旧三の丸跡地に集団移住させて、市街地化を図った。戦災復興が終わった1619年(元和5年)に幕府は大坂を直轄地としたのだ。翌年より西国大名を動員し大坂城再建工事に着手する。十年の歳月を要した天下普請に動員された大名の数は延べ163家、動員人員は延べ47万人、工事期間中は大坂に15万人前後の人が住んでいた。再建された城は軍事的な役割よりも西国大名の監視が大きな役割となり、城下町には堀川(運河)が巡らされ八百八橋の異名をとる「水の都」として大きく発展していった。全長16キロメートルといわれる堀川は、淀川舟運による物資輸送の水路として大きな役割を果たしていった。こうして成立した近世以降の大坂は武士の数1万人に対して、町人の数30万人といわれ、まさに町人の町として再生されたのだ。天下普請によって動いた巨大な物資と人員はその後の大坂の商業都市としてのダイナミックな商業活動を生み出していくことになる。

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天下の台所、商業都市としての大坂

近世、「水の都」として復興した大坂は日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、「天下の台所」と呼ばれて繁栄していった。こうした経済的な発展に伴って「元禄文化」が大坂を中心に花開いた。江戸時代の経済は米が基準で、大坂でも流通取引高の最も多い品目は米であった。大名は領内から取り立てた年貢米を大坂に積み出し、これを売って換金し、領内に必要な支出にあてていた。この米を保管して売買するところを蔵屋敷と呼び、大坂の繁栄はこの蔵屋敷の蔵物の売買によって支えられていた。また堂島米会所では世界で最初の先物取引が行われた。大坂に集まる物は米ばかりではなく、1714年(正徳4年)の資料によると「米・麦・塩・砂糖・油・木綿・薬・鉄・鋼・煙草・千解」など119品目にのぼり、大坂から出された品物は「書物・具足・刀・甲・硯・墨・金銀・箔・白木綿・障子・鍋釜・草履・碁盤」など武具から家財道具にまで至っている。

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中之島を中心に、土佐堀川、江戸堀川、などの川べりに設けられた西国大名の蔵屋敷には、瀬戸内海の航路より大量の物資が運び込まれた。蔵屋敷の周囲には問屋、仲買、両替などの商品流通と金融にかかわる特権商人達による経済活動が盛んになった。堂島の米市場は、淀屋の米市場に始まる。江戸や京都にも米市場はあったが、堂島の米市場を基準に相場が決定された。全国的な商品流通機構の中心であることから、取引手段は必然的に貨幣金融機関の発展を促したのだ。その中でも本両替商は金銭売買・貸付・為替・預金など現在の銀行業務と変わらない機能を持っていた。幕府は資金の豊富な鴻池屋、天王寺屋、助松屋、泉屋などに米の買い上げに参加させ、米相場の安定にも関わらせていた。大坂は「天下の台所」と呼ばれるようになった理由がここにある。諸藩の蔵屋敷が建ち並び、諸国の米や物資を江戸へ送る拠点となったが、当時1670年(寛文10年ごろ)京や江戸と比べて遅れていた重要産業があった。「出版業」である。現在の人が工業製品に対する感覚からすれば以外に思われるが、江戸時代の主要工業製品は織物と陶器と本であった。織物も陶器も大坂ではあまり生産されていなかった。当時大坂では地場産業が育っていなかったのだ。楮を主原料とした紙や文字や絵を彫る桜の板、これが本作りに最低限必要な物産である。特に紙は高価な工芸品で、現在と比べて流通商品としての重要性は格段に高かった。さらに出版業は、版下書き、絵師,摺り師、表紙屋など就業人口が多いのだ。大坂には井原西鶴というベストセラー作家が彗星のごとく登場し、後に近松門左衛門に続き、大坂の出版業が育っていくことになる。「天下の台所」の側面として押さえておきたい。

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大都会、大阪のことを結びとして。

江戸時代大坂は幕府の直轄領、すなわち天領であった。大坂城代以下お役人は数百人という簡素な司法、行政組織のもと町民は近代の市民に近い生活を享受できた。近世大坂はこの江戸幕府が派遣した大坂町奉行のもとに北組・南組・天満組の三組に分かれ、総称として大坂三郷と呼ばれた。北組・南組は現在の中央区の本町通りを境に分かれ、天満組は北区の大坂天満宮を中心とする一帯である。なお天満組は元和年間頃まで大坂とは別の町とみなされていた。17世紀後半から再度発展を始めた大坂は1699年(元禄12年)に36万4千人となり、人口増加は18世紀も緩やかに続き1765年(明和2年)に41万9863人となり近世最大の都市となった。明治になっても大阪の人口は江戸時代の40万人から増え続けて、市域も拡大した。近代の明治・大正時代でも川は重要な交通手段であった。昭和初期になっても自動車による大量輸送は戦後の1960年代のことで大阪市北部の工業地域における物資の輸送のため1935年(昭和10年)から15年かけて開削された。昭和20年から30年代にはこの運河は艀(はしけ)でにぎわった。

大坂は長らく日本文化の中心であった京都に近く、西日本最大の都市として発展していく中で独自の文化を築いてきた。大阪のことば「大坂弁」は東京方言や京言葉とともに日本で最も知られた方言の一つである。大坂弁の特徴は、テニオハを抜いていることと、長い助詞を用いていることだ。もともと大坂弁(上方弁)は女コトバが主流であり、角のとれた、まるい、ひらがなの感じで、ねっちりした感情や情緒を含んだ語彙が多く、大坂的気質にぴったりしたコトバなのだ。「ええかっこしい」「ゲンがええ」「けったいな」「まいどおおきに」「ええし」「がしんたれ」大坂弁は全般的に表現が感覚的で実感があり、かけ引き言葉に便利な面が多く商売にもつながっていった。

「大阪は都会なんです。昔から、退廃の域に達するほど洗練され、自堕落な都会人の感性が大阪に漂っている。」作家の田辺聖子は、パリの都会人がウイットに富んだ会話を交わすフランソワーズ・サガンの小説は、大坂弁でこそ表現できると語っていた。

大坂の食文化についてふれておきたい、全国からあらゆる食材が集まる大坂は、瀬戸内海の海産物や大阪近郊の野菜にも恵まれ日本料理の基礎となった食文化が栄えた。本格的な日本料理発祥の地であり、「粉もん」を中心とする庶民の味までそろっていて、特にネギは日本の青ネギの原種で、奈良時代にすでに記述がみられる品種である難波ネギの一大産地で、戦前まで栄えていた。難波=ネギと代名詞となり鴨南蛮の語源となったとされる。南河内では明治のころより葡萄の栽培が盛んで出荷量で全国上位の品種(9位のデラウェア)もある。MAIDO屋でも「カタシモワインまつり」などイベントを11月に催して、宅地化でブドウ畑が減るなか、大阪のワイナリーを盛り上げている。

大阪には美食家の都会人が多かった。大阪は17世紀から「食いだおれ」の街といわれてきた。この言葉の本来の意味は、大坂人は食道楽で食事にお金をかけすぎて、破産して倒れてしまうという意味で、おなかいっぱい食べすぎるという意味ではなく、食における都会的デカダンスなのだ。

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このまま私の楽しいをどんどんつないでいく

天満天神の「ええとこ」知ってもらいたい

もう一度原点へもどって、大阪のええもんを日本中・世界中の人に

ターゲットは大阪の人、大阪の人が大坂の「ええもん」・「ええとこ」を再発見

観光案内所としてこれからも探し続けていく

「天満天神MAIDO屋」の決意である。