はじめに

暖冬傾向で寒暖の差が急峻な2018年度12月、今年最後の定例会はがんこフードサービス株式会社 取締役副社長 新村猛氏に登壇いただいた。外食産業に関わりながら、立命館大学の客員教授で工学の研究者でもある。祖父も終戦まで理化学研究所で応用化学を専門とする学者だった。人間工学とAIを駆使した行動観察で労働集約型の典型である飲食業の現場での生産性向上に取り組んでいる。

多くの先進国では、1960年代から1970年代に家電製品などの工業品が普及し尽くしたことにより、工業化の時代は終わっている。全産業に占める工業の割合が減少しサービス業の割合が増大している。日本のGDPに占めるサービス業の割合は約7割で少なくともシェアの面では日本はサービス業中心の経済に転換している。工業では、ロボットなどの機械の導入でオートメーション化が早くから進み、サービス業は人を介した「労働集約型産業」であるがためほとんど生産性は上昇してこなかった。工業では技術進歩が速く、サービス業の技術進歩は遅いと言える。工業が占める雇用の割合は減り、サービス業の割合は増えた。1970年代以降は工業の相対的縮小期であったが、サービス業へ労働移動したため技術的失業が顕著になるのを回避してきた。したがって日本のようにサービス業の割合の大きい国で、マクロ経済全体での生産性上昇率を高くしようと思うなら、サービス業の生産性を向上させる必要がある。今回の話で、新村氏が取り組むテーマはここに在る。

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がんこフードサービス株式会社について

がんこフードサービス株式会社は1963年(昭和38年)に現会長の小嶋淳司会長が、大阪十三で4坪半の小さな寿司店を創業したことがはじまりである。「若くても、結果を出せば評価してもらえるのが商売の世界」、こう語る小嶋氏の原点は、病に倒れた母の代わりに実家のよろず屋を切り盛りした経験である。生まれは和歌山県の上富田町で当時は朝来(アッソ)村というのぞかな村で、6人兄弟の末っ子で育った。小嶋氏がよく語る言葉がある、経営の世界では「現場」「現物」「現実」の三つを良く見なければ本質は見えてこないという意味で「三現主義」という言葉を使う。これは商売の理屈が分からないまま、いきなり高校生で商売の現場に置かれた経験がその基底にある。すでに商売で身を立てていくことを決意していた小嶋氏は同時に限界も感じていた。一念発起し、同志社大学を受験し合格、起業するために大学に入ったのだ。一文無しからできる商売はないか、それが飲食業であった。飲食業は当時近代化が遅れている労働集約型の分野で、そこには成功できるチャンスがあるはずだという確信があった。業界の知識が無い小嶋氏は徹底的に現場を見て歩いた。小さくて繁盛している店は徹底して調べ、バケツの水を思いきりかけられたこともあった。
無手勝流で店舗の実態を調べるうちに、行き当たったのは寿司店であった。なにしろ単価が高い。時価と称して価格を表示していない店が多かった。価格の無いものを買ってくれというのは商売ではない。まずこの時価を止めようと思い価格変動の調査をして、その平均値で売価を決めった。当時この小嶋のやりかたは「常識外れだ」と言われたが、商圏の中で小嶋氏の店が残った。業界常識というには自己研鑽を怠り、限界を作る人たちが言う事なのだ、後に小嶋氏は語っている。この4坪半の店を小嶋氏は28歳で1号店として立ち上げた、店の名前は「がんこ寿司」。俳句をやっていた友人が俳画のたしなみで小嶋の顔をイラストにしてくれたのが、現在でも使われている看板のアイキャッチである。関西を中心に95店舗を展開する外食チェーンの原点がここにある。

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人工知能とは、そして人工知能の歴史は

人工知能というのは知的な作業をするソフトウェアのことで、コンピュータ上で作動する。最も身近な人工知能として、iPhoneなどで使われる音声操作アプリ「Siri」がある。AIと類似する用語で「ロボット」があるが、これは「人間と同じような振る舞いをする機械」あるいは「自律的に動く機械」を意味する。AIはパソコンやスマートフォン、ロボットの制御にも使われる。現在はAIに大きな関心が寄せられているがその概念自体は古くから有る。1956年計算機科学者がアメリカのダートマス大学で開いた会議「ダートマス会議」の提案書で「人口知能」という用語が初めて使われた。

会議に出席したハーバート・サイモンは、1957年に10年以内にコンピュータがチェスのチャンピオンを打ち負かすと予測したが、それが実現したのは40年後の1997年である。AIは20世紀には期待ばかり寄せられて実績がそれほど伴わない技術であった。現在の21世紀となると、幅広く役立つ技術へと転身を遂げ日の目を見るようになっている。このAI技術の21世紀は少し遡り1990年代後半からスタートしている。グーグルなどの「検索エンジン」やアマゾンなどのお薦め商品を提案する「レコメンド・システム」のサービス業が世に現れたのも1990年代後半で、これはキーワードに関するウェブページのリストの表示や書籍のレコメンド(推薦)といった作業を行う一種のAIであり、当時MCEI大阪定例会でもテーマとして取り上げたことを記憶している。

1997年コンピュータがチェスのチャンピオンを打ち破った。IBMの「ディープ・ブルー」が史上最強のチェスプレィヤー・ロシアのガルリ・カスパロフを打ち破った。2016年3月囲碁AI「アルファ碁」が、世界最強の韓国の棋士イ・セドル九段を打ち破った。AIは大方の予想を大きく覆すスピードで進化してきたのだ。「ロボット」もまた近年急速に進化、普及している。工場での「産業ロボット」だけではなく、今回の話に登場する「サービスロボット」もまた1990年代後半以降続々と登場している。1999年ソニー社の犬型ペットロボット「AIBO」,2002年にはiRobot社のお掃除ロボット「ルンバ」、2015年にはソフトバンク社の人型ロボット「Pepper」が発売された。

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技術的失業と技術的特異点

資本主義を定義するときに、「機械化経済」と読み替えて考えるマクロ経済学者がいる。資本主義は、イギリスで第一次産業革命(1760〜1830年)に初期を形成していった。もちろんもっと遡って資本主義の起源を唱える説もある。この期間に、紡績機(糸を紡ぐ機械)が広く導入され、一人の労働者が重さ1ポンドの綿花を紡ぐのにかかる時間を500時間から3時間に短縮した。この労働力を節約する事象は、労働者の「ラッダイト運動」(機械打ちこわし)を引き起こした。しかしこの時の技術的失業は一時的、局所的な問題にすぎなかった。むしろ生産性向上で安く供給された綿布は下着を身に着ける習慣を広め消費需要を拡大したからだ。イノベーションは新たな財やサービスを創出し、雇用を生み出すのだ。その後技術的失業問題は19世紀にシスモンティやマルサス、リカードによって俎上に載せられたが経済学の中心テーマとはならなかった。ケインズは1930年「われわれは一つの新しい病気に苦しめられつつある。一部の読者諸君は一度もその病名を聞いたことが無いかもしれないが、今後はおおいにしばしば聞くことだろう。それは技術的失業(technological  unemployment)である。その後世界大恐慌が多くの失業者を生みさらにそのあと勃発した第二次世界大戦は各国に完全雇用に近い状態をもたらし、戦後の1950年代〜60年代には資本主義の黄金時代を向かえ、この問題は忘れ去られた。技術的失業問題が再び蘇ったのは、1990年代になってからで、ノーベル経済学賞受賞者のデール・モーテンセンとクリストファー・ピサリデスなどの経済学者によって研究されるようになってからアメリカを中心にとりあげられた。

日本ではバブル崩壊以降一部の研究者が警鐘を鳴らす程度で、デフレ不況がもたらす失業が当面の問題であって、2013年にアメリカの経済学者エリック・ブリニュルクソンとアンドリュー・マカフィーの「機械と競争」が翻訳されるまではあまり問題として意識されてこなかった。「機械と競争」の原題は“Race Against The Machine”で”Rage against the Machine”というロックバンドのバンド名をもじっている。星条旗を逆さまに吊るしたり、革命家チェ・ゲバラの肖像画を掲げたりといった過激で反抗的なパフォーマンスで話題となったグループである。「機械と競争」によると技術的失業で被害をこうむっているのは中間所得層である。

コンピュータが全人類の知性を超える、この未来のある時点のことを「シンギュラリティ」(Singularity、特異点、技術的特異点)と言う。この概念は2005年にアメリカの著名な発明家レイ・カーツワイルが自著の「シンギュラリティは近いー人類が生命を超越するとき」で述べられて、世界的な話題となった。カーツワイルは2045年にシンギュラリティが到来すると予測している。物理学では、シンギュラリティは物理法則(一般相対性理論)が通用しない特異な点のことで、ブラックホールの中にあると考えられている。技術的特異点としてのシンギュラリティも既存の法則が成り立たない点と考えられている。コンピュータの処理速度の予測がある。2015年の時点で1000ドルのコンピュータの計算速度はネズミの脳と同程度であるが、2020年代には人間一人の脳に、2045年代には全人類の脳と同等の情報処理ができるという、驚愕すべき予測である。

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資本主義の発展段階とジョルジュ・バタイユの有用性について

汎用目的技術(General Purpose Technology)という概念は産業革命に影響を与えてきた、GPTは補完的な発明を連鎖的に生じさせるとともに、あらゆる産業に影響を及ぼす技術である。産業革命は、これまで一次から三次まで3回起こっていて、それぞれがGPTのよって主導されている。1760年〜1830年のイギリスで最初に起こった一次革命は蒸気機関によって生産性を劇的に上昇させた。生産性の上昇率に注目してみると、この産業革命が終わった後の1830年〜1870年がピークで年率0.8%程度の上昇であった。第一次産業革命は生産性が絶えず上昇し、経済が成長し続けるしくみを人類が初めて手に入れたともいえる。もう少し生産性上昇率について述べると、19世紀を通じて生産性上昇率は上がって下がっている。なぜなら生産性を向上させるイノベーションに関しては二つの相反する効果がある。「肩車効果」と「撮り尽くし効果」である。
ニュートンによって広められた言葉「巨人の肩に立つ」は技術のアーカイブ(蓄積)を参照することによって、新たな技術の発見が容易となることである。グーグル・スカラという学術論文サイトにも書かれている言葉である。「撮り尽くし効果」とは、簡単な発見はすぐに成し得るので、イノベーションが進むにつれ、新しいアイディアの発見が難しくなることである。この「撮り尽くし効果」が「肩車効果」を相殺して技術の蓄積量の推移はS字を引き延ばしたようなロジスティック曲線を描くことになる。一般的に技術の蓄積量に比例して生産性は高まるので、生産性上昇率の推移はGPTの出現を起点として時間の経過とともに一つの山形を作りことになる。

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第二次産業革命は1870年〜1914年の間に起こり、この革命はアメリカとドイツによって主導された。この革命は内燃機関と電気モーターなどのGPTが牽引した。内燃機関は自動車や飛行機などで使われ、電気モーターは主に家電製品に使われ、私達の現在に至る消費生活を切り開いてきた。とりわけ先進的なアメリカの生産性上昇率に注目してみると、1930年〜1950年の期間をピークとした山形を作っている。第二次産業革命は一世紀以上にわたって経済や生活に影響を及ぼしてきたことになる。イノベーションのディフュージョン(拡散・普及)には長い時間がかかるのだ。

第二次産業革命のインパクトが消え去りつつある1970年代から、新たなGPTであるコンピュータとインターネットによる次の革命が用意されていた。第三次産業革命で情報革命ともいわれる。コンピュータそのものは1940年代に発明されていたが、ディフュージョンに長時間かかったのだ。この革命の始まりはコンピュータによる生産性上昇がアメリカで見られる1990年代とされる。1995年は、初めて家庭にも広く普及したOS(基本ソフトウェア)Windows95が発売された象徴的な年で、このOSの普及でインターネットも普及したので、「インターネット元年」とも呼ばれている。日本はこの年から「失われた20年」という長い不況の時代を向かえ、建築・デザインの分野ではポストモダンという潮流が台頭した。予測によると2030年に「特化型AIの時代」から「汎用AIの時代」に入るとされる。汎用AIの出現は、第四次産業革命を引き起こすだろう、ドイツでは2011年に「インダストリー4.0」という政策ビジョンを掲げている。機械同士が会話する、言い換えれば機械と機械が情報交換して協調して動作する「スマートファクトリー」(考える工場)というコンセプトで、自律的に動作するインテリジェントな生産システムである。似たような取組にアメリカのゼネラル・エレクトリック社を中心として「インダストリアル・インターネット」がある。この開始時期が2030年頃といわれている。今まで人類が経験したことのない純粋機械による生産という大分岐点が迫っているのだ。

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むすびとして:
「有用性」という概念がある。20世紀前半のフランスの思想家で小説家のジョルジュ・バタイユが提示した概念で、「役に立つこと」を意味する。資本主義は生産物の全てを消費せず、その一部を投資に回して資本を増大させることによって拡大再生産する経済だ。この資本主義に覆われた世界に生きる我々の多くはこの「有用性」にとりつかれ、役に立つことばかり重要視する傾向が強い。これは未来の利益のために現在を犠牲にする営みで、現在という時が未来に「隷従」させられているということだ。役に立つが故に価値あるものは、役に立たなくなった時点で価値を失う。バタイユは「有用性」に「至高性」を対置させた。「至高性」は役に立つと否とに関わらず価値あるモノを意味する。例えば「至高の瞬間」とは未来に隷従することなく、それ自体が満ち足りた気持ちを抱かせるような瞬間である。私達、近代以降の人間は人間に対してですら有用性の観点でしか眺められなくなり、人間はすべからく社会の役に立つべきだなどという偏狭な考えに取りつかれている。私たちは自らについてその「有用性」にしか尊厳を見いだせない近代人であることが自らを社会に役立つ道具として従属せしめているのだ。そのことを批判してバタイユはこう語る「天の無数の星々は仕事などしない。利用に従属するようなことなど何もしない。」人間の価値は究極のところ「有用性」にはなくて、人の役に立っているか、社会貢献できているか、お金を稼いでいるかは結局どうでもよいことである。「有用性」という概念は普遍的な価値ではなく、波打ち際の砂地に描いた落書きが波に洗われるように、やがては消える運命にある。AIやロボットの発達は、人間にとって真に価値あるものを明らかにしてくれる。人間に究極的な価値があるとすれば、人間の生それ自体に価値があるという他ない。生産性向上を求めた機械の発達の果てに多くの人間が仕事を失う中で、役立つこと「有用性」が人間の価値の全てであるなら、ほとんどの人間はイノベーションの果てに存在価値を失っていく。「有用性」の有無にかかわらず、人間には価値があるとみなす価値観の転換が必要である。

長くなりました本年もMCEI大阪支部の活動にご理解・ご協力いただき有難うございました。

来年もさらなるご支援のほど、宜しくお願いします。