はじめに

激しい雨が屋久島に降り注ぐ、5月の幕開けである。今月のMCEI大阪定例会は、2014年にキリンビールが立ち上げたクラフトビール事業の話である。キリンビール、日本のビールの源流であるウィリアム・コープランドの業績と理念を引き継ぎ運営されている横浜工場内のパブブルワリー「スプリング・バレー」を母体にしてその運営会社「スプリング・バレー・ブルワリー」は、設立された。今回は京都の拠点を運営する岸原文顕氏の話である。

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岸原文顕氏のこと

岸原文顕氏は北九州市八幡の出身である。最初は野球を始めたが骨折のため練習を休む間、音楽に嗜好が向いた。その中でもお気に入りはリヴァプール出身のビートルズだった。大学時代は一年間休学し、カナダのバンクーバーで毛皮商に勤めた、その縁でいつかカナダに戻ろうという想いを胸に秘めた。大学を卒業し1988年にキリンビールに入社した、その動機の一つとしてキリンビールがカナダで現地生産を始めたことであった。いつかカナダでという想いである。岸原氏のキリン入社後のキャリアは海外事業との関わりがその中心を成している。1996年KIRIN Brewery香港Ltd.から始まり2005年キリンビール マーケティング部ではバドワイザーハイネケンのブランドマネージャーを務める。しかし海外では大きなブランドでも国内では苦戦した。2010年には中国の上海で現地ブランドの統括マネージャー、2013年にはキリン・ティアジオ(株)(イギリスの洋酒会社)との合併でギネスビールのブランドマネージャーを務めた。2017年から現職のスプリング・バレー・ブルワリー(株)クラフトビールの事業に関わっている。岸原氏のビジネスキャリアはその原点であるカナダのバンクーバーから始まり、世界の都市わたり歩きながらその軸足をクラフトビールに置いた。カナダのバンクーバーは遠くなったかもしれないが「たかがビール、されどビール」に自信のビジネススタイルを置いて日々格闘している。クラフトビールはそれぞれの街や都市に根差す個性的なビールであり日本ではかつて地ビールとしてブームを引き起こし事もある。いずれにしても育まれる土地とは切り離せない。その土地で育まれる麦・ホップ・水・酵母・空気で醸造されたビールはそれぞれの都市に棲む人々のライフスタイルを発酵させるという仮説も成り立つのでは。

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岸原氏の思考を発酵させる、様々な都市のこと

八幡市:岸原氏の生まれた八幡市は福岡県の北東部にかつってあった市である。市域は律令制下では筑前の国と豊前の国にまたがる地域で廃藩置県により福岡県に属した。鉄鋼業を中心に、北九州工業地帯における重工業の中心地として栄えた。1963年(昭和38年)に小倉市、門司市、戸畑市、若松市と合併し北九州市に編入された。1974年には八幡東区と西区に分割された。1901年(明治34年)にさかのぼる、1887年(明治20年)から操業を続ける釜石鉱山田中製鉄所に続き国内で二番目に操業された近代製鉄所である官営八幡製鉄所が建設され工業都市として「発展し「鉄の町」と呼ばれた。戦後1950年以降八幡製鉄所の後身 日本製鐵八幡製鐵所は解体され八幡製鐵所と黒崎窯業(現・黒崎播磨)、安川電気が地域経済をけん引した。1970年八幡製鐵所は合併して新日本製鐵となり、さらに2010年新日鉄住金(株)となっている。戦前から1950年代にかけて八幡市の中心は中央町で、西鉄北九州線の枝光線との分岐点となり大変栄えた。また八幡市に編入された黒崎・折尾地区は商業が発達した。特に黒崎は1970年代初頭より一大商業地となり、そごう百貨店やジャスコ(現イオン)なども出店した。折尾のかしわ飯も食通の間では有名である。北九州市を代表する観光スポット皿倉山からの夜景は新日本三大夜景に認定されている。

リヴァプール:岸原氏が影響を受けた世界的ロックバンド、ビートルズ出身地である。イギリス、イングランド北西部マージサイド州の中心地で人口はおよそ48万人である。街が最初に記録に現れるのは1195年“dirty pool”としてである。1207年ジョン王が都市建設を勅許し、村であったリヴァプールに自由都市の特権を与えた。17世紀末に近郊のチェスター港が泥の堆積によって衰退、チェスターに代わってイングランド北西部の商業都市の代表格となった。1715年イギリス初のドックが建設され、植民地との貿易が栄んとなった。18世紀のイギリスはヨーロッパ、アフリカ、新大陸のいわゆる「大西洋三角貿易」においてほぼ独占的な地位を築いており、リヴァプールはこの三角貿易の拠点として中心的な役割を果たしていた。イギリスはこの貿易を通じて資本の蓄積を成し遂げ産業革命を進展させた。リーズ・リヴァプール運河の本線は1816年に完成し、1830年には内陸のマンチェスターと結ぶ鉄道が開通した。1860年代には交通の要所となり、マンチェスターの綿織物はリヴァプール港から世界に向けて輸出された。19世紀にはロンドンに次ぐ「帝国第二の都市」となり、またシノワズリー(中国趣味)の陶器生産の拠点でもあった。多くの移民がアイルランドから流入し、アメリカとの貿易および客船業務でイギリス第一の港に成長した。第二次世界大戦後の1950年代以降はイギリス全体の長期不況により、急速に斜陽化が進んだ。1960年代から70年代に大規模なスラム浄化と再建計画を進め、現在は18世紀から19世紀の海港都市としての姿を残し「海商都市リヴァプール」の名で世界遺産に登録され、ビートルズゆかりの建物や街角に配置されたアートによってシビックプライドを取り戻している。


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上海:岸原氏が2010年からブランドマネージャーとして赴いた上海は、世界一人口の多い都市である。毎年多くの日本人観光客が訪れる観光都市としての顔を持つ。人口は2400万人を超え、首都北京を凌勢いで、しかも4割が外部からの居住者である「世界都市」である。上海は長江デルタの河口域の南端に位置し、海に面した都市である。市街地は海からほんの少し内陸、長江の支流、黄浦江を遡ったところで良質な港として栄えてきた。6000年ほど前にはすでに陸地で、古くから人が住んでいたと思われる。春秋戦国時代(紀元前770年〜721年)の長江は呉・越・楚といった大国が広い領地を治め、このころ上海周辺は楚によって治められ「申」と呼ばれていた。住民のほとんどは漁民であった。「上海」の文字が史上に現れるのは唐代(618年〜907年)に入ってから、宋の時代に入るころには上海鎮(防衛・経済面で重要な地)となり、商業港として栄えた。長江の河口は複数の川が流れ込むデルタ地帯で、外洋と行き来しやすい土地であり、代々統一王朝の都からは遠いが、重要な港として注目されてきた。近代に入ると、1849年から1946年まで、上海は租界という特異な歴史を歩んだ。租界とは外国人居留地のことで、“租”は借り受けるという意味で、中国政府もしくは個人からイギリスやフランス、ロシアなどが「永借」した土地である。清王朝がアヘン戦争で敗北し、1842年「南京条約」によって香港島の譲渡や賠償金の支払い、貿易の自由化と共に上海を始めとする5つの港の開港が言い渡された。外国人の居留地に中国人の立ち入りは許されず、中国政府が外国人を隔離、監視する意味合いが強かった。この租界は英米と日本の共同租界とフランス租界に再編され領事館や商業施設が立ち並び発展していった。黄浦江沿いは時代の最先端の建築様式が建ち並び、路面電車が走り、街灯が路面を照らす近代都市へと変貌していった。上海は「東洋のパリ」と呼ばれたが、第二次世界大戦後に全ての租界は中国に返還され現在に至っている。中国の歴史の中では上海の歴史はそれほど古くはないが、短期間で変化していった都市としては「特異点」といえる。

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ビールの源流へ

ビールの起源は諸説あるが、遥か昔の紀元前1万年ごろ(新石器時代)トルコ、イラン、イラクにまたがるメソポタミア地域とされている。この地域に住んでいたシュメール人が残した紀元前2050年の粘土板には数種類のビールの使い方が記録されている。有名なバビロニアの王ハンムラビ法典には20種類のビールが記されている。当時は大麦やエンマー小麦から作られ、黒ビール・褐色ビール・強請ビールなどがあり、神々に捧げられた他人々に分配された。ちなみにシュメール人はワインの製法も開発している。古代エジプトではそれよりも下がった紀元前3000年紀の資料からビールの痕跡が認められており、小麦の原産地が西アジアであることからメソポタミアからビールの製法が伝わったとされている。また中国では5000年前のビール製造の痕跡が見つかっている。メソポタミアやエジプトのビール製造法には2つの仮設がある。一つは麦芽を乾燥させて粉末にしたものを、水で練って焼き、一種のパンにしてからこれを水に浸してふやかし、麦芽の酵素で糖化を進行させてアルコール発酵させたもの。大麦はそのままでは小麦のように製粉が難しいが、いったん麦芽にしてから乾燥させると砕けやすく消化もよくなる。つまりビールは元来製粉が難しく消化の良くない大麦を麦芽パンにする技術から派生したものであるという製法だ。もう一つの製法は現在のビールに通じる製法で、エンマー小麦を原料に発酵させた麦芽と煮て柔らかくした麦を合わせて酵母を添加して発酵させたものである。どちらの製法も場合によっては糖分や風味を添加する目的でナツメヤシを加えることもあった。エジプトに伝来したビールは気候条件で腐りやすかったので、ルビナスを添加して保存加工された。バビロニアでも似たような事例があり薬草を加えることがあった。その中にはホップもふくまれていたと考えられている。一方、麦芽の酵素によって大麦のデンプンを糖化させ、その糖液をアルコール発酵させるというビール製造の核心技術は、北方のケルト人やゲルマン人にも伝わったが、彼らの間では大麦麦芽をいったんパンにしてから醸造する形式をとらず、大麦の粉末をそのまま水に浸して糖化、アルコール発酵させる醸造法が行われた。日常の食べ物のパンの派生形であった古代オリエントのビールと異なり、ヨーロッパ北方のビールは、穀物の収穫祭の際に飲まれるハレの日の特別な飲料として醸造された。古代ローマにはエジプトから伝えられたジトウム、北方のケルト人やゲルマン人から伝わったケルウィーシアなどのビールの一種があったが、ワインの醸造が盛んであったため、野蛮人の飲み物とされ、あまり流布しなかった。ローマ人や古代ギリシア人の間では大麦は粗挽きにしたものを粥にして食べるのが一般てきであった。やがてゲルマン人主導のフランク王国が成立すると、ヨーロッパ全土でビールは盛んに製造され、ビール文化はヨーロッパに根付いていった。

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SVBの起源からキリンビールへ

日本のビール醸造の始まりは1869年ローゼンフェルトとウィーガントが横浜山手46番に「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」を創設し居留地の外国人に向けてビールの醸造を開始したことからである。

1870年(明治3年)、ノルウエー系アメリカ人のウィリアム・コープランドが横浜山手123番(天沼)に、日本で初めて大衆向けビールを醸造・販売した会社「スプリング・バレー・ブルワリー」を起源とする。いわば日本のビール会社の草分けである。最新鋭のパストリゼーション(低温殺菌法)を取り入れ、大量醸造、大量販売を開始した。1875年コープランドは工事隣接の自宅を改装し日本初のビアガーデン、パブブルワリー「スプリング・バレー・ビヤガーデン」を開設。1876年コープランドはウィーガントの「ババリア・ブルワリー」を合併し、「コープランド・ウィーガント商会」を結成しコープランドが支配人となり、主たる醸造所を「スプリング・バレー・ブルワリー」として醸造を始めた。このころ、品質の良さが評判となり、販路は横浜のみならず東京・長崎・神戸・函館・上海・サイゴンと拡大していった。1880年コープランドとウィーガントの間で工場経営の主導権をめぐり対立、両者折り合わず裁判となり商事組合は解散、競売となった工場をコープランド自身が落札し継続するが、1884年この醸造所の落札時の謝金が原因で倒産となる。1885年トーマス・グラバーやイギリスのビール会社バターフィールド社のジェームス・トッズらに三菱財閥の岩崎弥之助らが発起人となり、外国資本による香港国籍の新会社「ジャパン・ブルワリー」(二代目)を設立。スプリング・バレー・ブルワリー」の醸造所を買収した。醸造所の技術者や従業員も新会社へ継承されるが、醸造設備は売却され、ドイツの最新鋭設備を導入して再建を計る。1907年(明治40年)三菱財閥と明治屋の出資による純粋日本国籍、日本資本の新会社「麒麟麦酒株式会社」を設立。ジャパン・ブルワリー社は解散した。現在に至るまで日本の大手ビール会社のビールは「ジャーマン・スタイル・ピルスナー」であり、世界においても90%はこのスタイルのビールで占められている。

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結び

酒類の飲まれ方が多様化し変化している中、日本のクラフトビール醸造所は1997年頃数年続いた「地ビールブーム」により、1999年に300か所越えのマイクロブルワリーが稼働していた。その後「地ビール」は「クラフトビール」と呼ばれるようになり、再び全国的なマイクロビールブルワリーの開業ラッシュとなり現在長崎県を除く全ての都道府県に314か所稼働している。先の地ビールブームを凌数である。岸原氏が運営するスプリング・バレー・ブルワリー SVBのブランドスローガンはBeer is made of Life  .Beer is free. Create and Fan 事業展開を進める3拠点はそれぞれ異なるコンセプトを持つ、東京:未来・先進・成長点 横浜:歴史的伝統 そして2017年9月7日開業の京都はクラフトマンシップ・食・日本の美意識である。間口25mの元木綿問屋の町屋をリノベーションして店舗としている。かつて京都でも1877年7月から京都醸造所が清水寺.音羽の滝東でビールの製造に取り組んでいた。京都にとってもクラフトビールは大切なもの。今、SVB京都は京都産の原料100%のビール、K100を目指すプロジェクトを進行中である。麦芽もホップも酵母も京都産だ。ビール酵母のサンプリングも進めていて134種類のサンプルを採取して現在一種類可能性がある。亀岡の大麦、与謝野町のホップ、など関係者の連携で2020年までにK100を目指している。醸造家の自由な感性と食文化、アートと和えること、喜びを取り入れる、クラフトビールは街を発酵させ、進化し、次世代の共同体を目指す。