はじめに、阪急百貨店と宇野氏のことから
8月定例会は阪急うめだ本店 趣味雑貨販売統括部 宇野新治氏に登壇いただいた。宇野氏が手掛ける「うめだスーク」という商業空間からは今までの百貨店ではない、かつて人々が体験した、1960〜70年代のカウンターカルチャーやサブカルチャーを基底にして80年代前半まで全国の都市に展開していった商業空間のことを連想させられた。

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宇野さんは阪急百貨店、現在エイチ・ツー・オー・リテイリング株式会社で主に販売促進を経験されてきた。阪急百貨店の創業者は小林一三で大阪梅田に本店を置いている。その起源は1920年(大正9年)に白木屋(東京日本橋の老舗呉服店系の百貨店)を招致し、阪神急行電鉄梅田駅構内の旧阪急ビルディングの一階に出張売店を出店し、ターミナルデパートの先駆けとなった。1925年(大正14年)に白木屋との賃貸契約が満了となり、梅田駅でのターミナルデパートの可能性を固く信じた小林一三は、その後継として阪急電鉄直営の阪急マーケットを開業した。その後、1929年(昭和4年)4月に改めて阪急百貨店として創業、世界初の鉄道会社直営のターミナルデパートが誕生した。開店時の新聞広告には「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」というコピーが入っていた。そのスタートは大衆路線にあったのだ。第二次世界大戦後は阪急電鉄から独立し、多店化を計り1953年に数寄屋橋阪急で首都圏に進出、1970年千里阪急、1976年四条河原町阪急、1982年10月ハーバーランドに神戸阪急、1993年に宝塚阪急と相次いで出店していった。宇野氏は神戸阪急でも販売促進を担当され、1995年の阪神淡路大震災の後地下1階から3階までをいち早く営業再開した。その時、店舗に訪れた人々からは「明日も生きて行く元気をもらった。」という感謝の言葉をいただき小売りの持つ力を確信している。その時は泣けてきたと語る宇野氏の体験は、その後の宇野氏の行動に強く影響を与えていった。「世界一売れない百貨店」と呼ばれた神戸阪急は2012年3月に閉店した。阪急うめだ本店がグランドオープンした年である。宇野氏は創業者小林一三の言葉「無ければ造ればよい」という言葉にも感銘を受けている。2012年の7月から「うめだスーク」は始動した。


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さらに百貨店のことを、
百貨店の名称の由来は数多い商品を取り扱うことに由来する。また英語における類義語を起源とするデパートメントストア、または省略したデパートとの呼称も用いられる。デパートメントストアには百貨店という意味はなく、直訳すれば部門別小売業となる。19世紀に登場した小売業態で、都市の中心市街地に垂直方向に複数のフロアーを持つ店舗構えを備えている。世界最初の百貨店は、1854年にパリで織物類を扱う店舗から発展したボンマルシェ百貨店だといわれている。19世紀中頃の欧米に百貨店が出現した原因は、18世紀にイギリスで起こった産業革命にあると考えられる。産業革命が起こると市場主義が発達し、商品が市中に大量に流通するようになり、様々な専門店が出現し、百貨店はそれらを一括に扱う業態として、大きな建物で様々な商品を陳列し、営業を開始したのだ。19世紀後半になると、1885年にパリに誕生したプランタンのように最初から百貨店として営業する店舗も現れた。当初百貨店は高級志向であった、それは産業革命で成功した資本家などの富裕層が顧客であったためで、百貨店は新しい小売業態として店舗数を増やし発展させていった。アメリカにおいては19世紀後半に伝統的な織物展の中で比較的規模の大きな小売店であったニューヨークのメイシーズが百貨店に転身していった。百貨店の主な成長要因は、都市への人口集中、中間所得層の成長、大量生産体制の進展による大量流通制度の確立などの経済的社会的変化が上げられる。こうした変化への対応として定価制度の導入、返品制度や払い戻し制度などが上げられる。第二次世界大戦後は、世界的に経済格差を是正する動きが高まり、旧家の勢力が衰えるとともに富裕層が減少し、このような方式に囚われた百貨店は一時衰退していくことになる。現在にいたっては、チェーンストアやスーパーマーケット、インターネットショッピングなどの新しい小売業態との競争が激化し、百貨店の衰退を進展させることになった。近年この競争に生き残るため、独立百貨店の合併、業務提携が進んでいる。2013年(平成25年)現在、日本の大手百貨店が運営する小売企業はJ・フロントリテイリング(大丸・松坂屋)、エイチ・ツー・オーリテイリング(阪急・阪神)、セブン&アイ・ホールディングス(そごう、IY)、高島屋、三越伊勢丹ホールディングス(伊勢丹・三越)の5つとなる。いずれも全国規模で運営している。この他の地方を拠点とする百貨店も入れると、2019年4月現在日本百貨店協会の加盟店は202店舗となる。

 

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流通とは、百貨店とは、ショッピングセンターとは
ここで、流通とは何か確認しておきたい。流通の役割は「生産と消費の間を埋めること。」生産と消費の間には自給自足でない限り、隔たりが存在する。それは、生産する場所と消費する場所の「場所的隔たり」、生産する時間と消費する時間の「時間的隔たり」、生産する人と消費する人の「人的隔たり」である。現在のような高度消費社会でグローバル経済においては、これらの隔たりを埋めるための経済的機能が必要となる。それが「流通」なのだ。場所的隔たりを埋めるために輸送を中心とした活動があり、時間的隔たりを埋めるために保管を中心とした活動があり、人的隔たりを埋めるために取引を中心とした活動がある。これらの活動を総称し「流通活動」と呼び、その活動の中に百貨店も在る。ここで百貨店という言葉に戻ると、言葉自体で判断すれば「百貨の店」となり、大手量販店のGMSも百貨店的な店舗を展開しているので、その境界は非常に曖昧である。GMSやテナントが集積する商業施設をショッピングセンター<以後SCと表記>というが百貨店とSCとはその成り立ちや出店条件で明確な違いがある。経済産業省の商業統計調査の基準によると、百貨店は次のように定義される。<衣食住の商品群の販売額がいずれも10%以上70%未満で、従業員が常時50人以上おり、かつ売場面積の50%以上において対面販売を行う業態>この基準に当てはめると、売上げのほとんどが衣料品である丸井、ルミネ、パルコといった商業施設は百貨店ではないことになる。


一方日本ショッピングセンター協会によるショッピングセンターの定義は、<一つの単位として計画、開発、所有、管理される商業・サービス施設の集合体で駐車場を備えるもの。さらに「SC取扱い基準」では、
①小売業の店舗面積は、1500㎡以上
②キーテナントを除くテナントが10店舗以上
③キーテナントがある場合、その面積がSC面積の80%を超えない
④テナント協会があり、広告宣伝、共同催事等の共同活動を行っている、
など条件だけ見ると百貨店にも当てはまる条件ばかりだが、「ディベロッパーにより計画・開発されるもの」という前提が百貨店とSCを分ける大きなポイントとなっている。ディベロッパーとは不動産ディベロッパーのことを指し、街全体の開発や整備を行う。商業施設単体だけではなく、商業施設が街全体に与える影響を包括的に考えながら、企画・開発されているのがSCなのだ。ルミネやラフォーレはSCの中でも衣料品の割合が大きいので「ファッションビル」とも呼ばれている。主に新聞、雑誌などで複合ショッピングセンターと区別されている。以上それぞれの定義を比較すると、百貨店は衣食住を総合的に提案する巨大なセレクトショップで、バイヤーが商品仕入れや展開、陳列に密接に関わり、自分たちで仕入れて売るという意識が強いのが特徴で、SCは不動産ディベロッパーが企画・運営するので、販売のための仕組みは百貨店ほど確立されていない。SC(ショッピングセンター)は不動産業として場所を貸すという意識が強いので、効率を強く求められる投資(ファイナンス)でありシステマティックに管理される性格が強くでてしまう。立地について付け加えれば、SCは郊外のニュータウンに在り、百貨店は旧市街の中心地かターミナルとなる。

 

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バランスを欠いた小売業への変態(Metamorphsis)
2012年阪急うめだ本店がグランドオープンした。百貨店は1990年代に10兆円あった売上を6兆円まで縮小させていた。近年の百貨店の販売額の動向を俯瞰すると、1997年以降2012年まで業界の市場規模は縮小し続けてきた。2013年に入ると、外国人のインバウンド効果やアベノミクス効果による景気回復への期待感から高額商品が売れ16年ぶりにプラスに転じたが、2016年の売上高は約5.98兆円で、1980年以来36年振りに6兆円を下回った。長期的にみると2010年代の売上高はほぼ横ばいで推移しており、百貨店業界が全盛時の1991年に総売上高9.7兆円であったことを考えると、近年は大幅に市場規模を縮小している。日本百貨店協会によると2018年の全国百貨店の売上高は、前年比0.8%減の5兆8870億円で2年振りにマイナスに転じている。

消費社会の成熟化が進み消費者のモノ離れが顕在化し人々はモノに興味を持たなくなった、モノに興味を持たなくなった人々にナニに興味を持ってもらい、店舗まで足を運んでもらうのか、阪急うめだ本店10階に生まれた「うめだスーク」に課せられた課題である。
「百貨店は終わっている。」もう百貨店はダメだというところで今一度踏みとどまって考えてみる。どうすればウインドウショッピングという行動を喚起し、人々に付加価値を提供できるのか、「驚き、喜び、学び」など毎日わくわくする体験を提供する「劇場型百貨店」を目指す梅田阪急本店は地下2階から最上階まで購買動機別フロアー構成になっている。購買動機としては①必要②お得③好み④流行⑤見栄⑥義理が上げられる。時代とともに表層は変化するが、本質は変化していない。各フロアーにはコトコトステージが配置され各フロアーでの素敵な買い物時間の過ごし方を提供し、暮らしの劇場としてそのストアコンセプトを具現化している。

その中で特に情報リテーラーの役割を担う「うめだスーク」はモノの文化的価値情報、具体的には作り手(クリエーター)の思い、歴史的情報、作り方、使い方、組み合わせ方を含めてその情報を物語化して伝えていく。出し物としてワクワクする、行きたくなる、楽しい買い物時間を劇場化した店舗空間で提供していく。散歩するようにぶらぶらと時を過ごす。「発見・学び・あこがれ」がキーワードである。人々の文化的気分に浸りたいという潜在願望に、9階の阪急うめだホールと吹き抜けの祝祭広場と共に届けることで、わずか3年で社内黒字化を達成した。このように阪急うめだ本店に在るエンターテインメント型ショッピング空間「うめだスーク」はどのように誕生したのか、それは百貨店の既存のしくみからの変態である。
宇野氏は「うめだスーク」はじめの一歩として、人々に直接会うことを上げる。その中で全国各地から独創的なクリエイターを発掘していくのだ。また人々が集まる場所や空間にも直接足を運ぶ。その体験から人々がなぜその場所に集まるのか、その理由を明らかにしていく。決して情報だけに頼らないのだ。新梅田食堂街、ハモニカ横丁、百万遍の手作り市、谷根千など直接足を運んで体験、体感した「場」は全て「うめだスーク」の店舗空間作りに活用されていく。買い物の楽しさとは?から始まる問いに答えていく店舗デザインは売り手と買い手の心と心が通じ合う、ライブ感溢れる場である。表層的なディスプレイではなく例えれば、内臓を見せるようなディスプレイ、ビジュアルプレゼンテーションである。従来の百貨店では決してできない、やらないことが具現化されていく。宇野氏自身やスタッフが経験、体感した様々な人が集まる「事象」を編集して売り場に導入しているのだ。この熱気とライブ感あふれる「事象」の調査は「マンダラマップ」としてその都度まとめられ継続して整理されている。また「うめだスーク」のフロアー構成は町並みが変化しながら構成去れていく様に、大きい区画と小さい区画がリズム感を持って組み合わさり、30m毎にくぼ地や泊まり木が設置され、照明も場面が転換されるがごとく微妙に変化させている。ランドスケープデザインの手法を取り入れているのだ。またプロパーのイベントだけでも1000回実施され、毎週20か所が変更され、じかんを決めずに30%は突然新しい場が出現する。まさに生態系の中にある超変態系フロアーとなっている。

 

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結びとして、百貨店衰退の原因とパルコという出来事
先に述べたように、ショッピングセンター(SC)が台頭していった背景には百貨店が衰退していったいくつかの要因がある。

①人口の空洞化による都市構造の変化だ、ニュータウン開発による郊外の登場である。
②大店法廃止などの規制緩和と多様な流通形態の登場だ。
③『消費者が求めるものしか売れない」という消費行動の変化。
④グローバル化やIT革命による消費者の流出などが上げられる。
1970年代から高度経済成長そして低成長時代に変化する中での変化である。高度経済成長は高度消費社会を生み出していった。この高度とは、一つは消費が商品の実質的な機能を買うのではなく、商品の記号性を買う時代に入ったということである。記号性とはブランドのことである。二つ目は水口健次MCEI創設理事長も述べられていたことだが、家事労働の外部化が進み、家庭が消費空間化したこと、食事がレトルト食品となり、洋服は既製品を買うようになり、ハウスクリーニングなどサービス業が登場するなど、大衆にとって家庭がおしゃれな消費空間となった。三つ目は「文化の消費」である。それは欧米の文化ではなくもっと別の、近・現代の主流にある文化を否定すること、あるいは相対化する価値観を感じさせる文化を消費することで、現代美術、現在音楽、現代演劇などで、1950〜60年代以降のカウンターカルチャー、やサブカルチャー、世界の民族文化など大衆に知られていないものが先端的文化として表象し消費された。これらがオーバーグラウンドに表出したのが70年代後半であった。この流れの中で1981年、セゾンが運営するパルコは日本文化フォーラムで企業文化デザイン賞を受賞している。「東京・渋谷に代表される、きわめて現在的で多彩な街づくり、文化活動、および大胆かつ斬新な表現による、一連のコミュニケーション活動に対して」1960〜70年代前半の時代にパルコは登場してきたのだが、百貨店の衰退から宇野氏のアクションまでを紐解くためには、きわめて重要な出来事であったと思う。


ここから都市―文化そして在るべき都市像へと考えを進めたい。80年代以降拡大していった都市文化とパルコ的かつフリマ的、露店的な都市文化を三浦展は「システム」対「反システム」と呼ぶ。システム的な都市文化とは、一点から大衆を監視するパノプティコン的管理社会型の文化である。近年都市空間はますます管理された閉鎖的な構造となっている。タワーマンションやIDカード無しでは入れないオフィスはアメリカのゲイテッドコミュニティを連想させる。このような都市のシステム化に対する違和感への反抗は1969年の新宿西口広場での反戦フォークゲリラが道路交通法の適用で機動隊に排除され、その後、その広場の先に高層ビル群が建ち始めることで、加速しながら始まった。1962年頃までの新宿は野坂昭如氏が言う“焼け跡”のイメージがまだなんとなく残っていた。紀伊国屋の本屋の跡ぐらいにはハモニカ横丁と呼ばれるバラックも残っていた。バラックでもその空間は素敵に人々を魅了し、そして妙な安心感もあった。ちょうどこの頃、東京はオリンピックの開催準備もあって大きく変わっていったのだ。都市を覆うものは「システム」だ。システムは権力の化身か、体制によるヘゲモニーの奪取ともいえる。現在の社会の軋轢、紛争はこのシステムの過多から生じるように思える。あるシステムとシステムを束ねることは、システムをより高度化、精緻化することはあってもトータリティを獲得することではない。システムを超えること・・・それは可能であろうか。宇野氏の行動はここからスタートしているのでは、都市には一見して表に出ないもの、そしてそれらを現象化する行動に気づくことが大切なのでは、この膠着した状況を活性化し、小売り(文化)が本来持つ創造力を回復するために。

 

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文化は様々の形で、周縁を生産・再生産・維持してきたということは、これら両義的な神と人間の共同体についての古代人の意識のありようからもうかがわれるところである。興味深いのは、我々の概念は、文化の中心に位置する。または近い事象であればあるほど一元的であって、差異性の強調がなされる。それに対して、周縁的な事物についての概念は、それが明確な意識から遠ざかっているゆえに、「曖昧性」を帯びている。曖昧というのは多義的であるということに他ならない。多義性は、そこで、分割するより綜合、新しい結びつきを可能とする。なぜならば一つの語が多義的であるということは、表層的な意味では、他の語との弁別性を前提として意味作用を行っても、潜在的にはさらに別の他の語と結びついているということを意味する。 山口昌男「文化と両義性」

両義的な神:「荒魂」と「和魂」は対をなしその分身でいられる。須佐之男命と八岐大蛇、など同じ神格の対の表現である。「祟る」という日常生活の均衡を破ることによってその存在を示す。