はじめに

11月のMCEI大阪定例会は、先月に引き続きダイキン工業TICでの開催となった。
今月は日軽BP総研マーケティング戦略ラボ上席研究員 品田英雄氏の講演である。
「2018年ヒット商品の振り返りと2019年を予測する」がテーマである。品田氏は今回で4年連続の登壇であるが、今年は少し環境を変えての講演である。TICは「人の力を信じて世界へ」オムロンのイノベーションセンターから想を得て、10年かけて3か所に分かれていた研究所を一か所に統合し700人の技術者を集めてオープンイノベーションを行っている。施設はオープンン以来3年間で7万人が見学に訪れ、300件以上の共同研究がなされた。技術の伝承にも力を入れている。自ずとその空間は「熱」を醸成する場となっている。この環境でダイキン工業の多くの技術者と研修生を向かえてアクティブラーニング形式による「対話」を中心に据えた形式で、今年の定例会は始まった。TICの円形講義室は品出氏のソフィティケイトされた「挑発で、ある種の「熱」をおびた「対話の場」へと変換されていった。何か面白い「コト」が起きそう「な予感である。

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現在の状況は

品田氏が上げる現在の状況は
①モノ・サービスが有り余る
②次々と生まれる新技術
③世界との時差の縮小をあげられた。
ここで少し時代を遡って、モノと技術の変化という切り口で考えてみたい。

1989年1月8日平成時代が始まった。平成元年と平成30年の「世界時価総額ランキング」を比較すると、平成元年は上位50社のうち32社が日本企業であったが、平成30年は1社と激減したわけである。GDPをはじめとする各種経済指標も日本は世界のトップ水準にあり、日経平均株価は12月29日納会で3万8915円を付けた。地価の高騰も凄まじく、東京23区の地価が米国全体の地価を上回ると言われた。日本経済はまさに山の頂上に居たわけだ。
現在は上位50社のうちアメリカが31社、中国が7社である。一位がアップルでアマゾン、アルファベット、マイクロソフト、フェイスブックが上位に並びまさに激変の様相である。30年前一位は日本のNTTで地方銀行を含めて日本の銀行が上位を占めていたわけだ。技術の側面でみると人工知能・複合現実・量子コンピュータなどの焦点が当たり、多様な働き方がクラウド・モバイル・デジタルで加速される時代となっている。驚くべき話だが、「ニューヨークタイムズの一週間分のデータ量が18世紀に生きた人が一生の間に出会う情報量と同じ」となり、IoTの発達により、「現在世界に存在するデータ量の90%が直近の2年間で生み出されたものである。」

あらゆるものがデータ化される時代でもある。20世紀はコンピュータの時代(ハードの時代)であったがITの時代(ソフトの時代)を経て今やデジタルの時代となっている。世界に在る全てのものがデータとなる時代である。現実(リアル)に存在するものがデータ化されないとこの世に無いものとされる時代だ、データ化されないとその場に居る人しか分からないからだ。「データになっていなければこの世に存在しない」そういう世界に私達は棲んでいる。

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20世紀に造られた欲望の構造

実用性だけでは売れない・価格だけでは喜ばれない・今、必要ないモノは買わない、品田氏が指摘する消費者の商品に対する「欲望」である。
ここで20世紀、そしてそれよりも遡って造られてきた近代の欲望の構造を建築、庭園デザインの流れを軸に俯瞰してみたい。中心概念としてオブジェクトを置く。

オブジェクトとは、周囲の環境から切断された、物質の存在形式である。20世紀の環境を構成する大きな要素として西欧の伝統的建築がありその基本原理も建築をオブジェクト化することであった。そしてデザインの潮流を主導したモダニズムはオブジェクトという戦略によって世界制覇した。しかし、にもかかわらずオブジェクトとは別の形式がありえるのでは、例えばランドスケープ(景観)と呼ぶか庭園と呼ぶかそれらがメインストリームにも影響を与え始めていて、建築以外で21世紀の形式になろうとしている。

近代という時代は主観的なロマン主義、幻想主義と客観的な即物主義、技術主義の間で、自己が引き裂かれると捉える人が多く輩出した。哲学者カントや建築家ブルーノ・タウトなどであるが、この分裂の根底にあるのは主体(サブジェクト)と客体(オブジェクト)との決定的な分裂であり、特定の個人に課せられたものではなく、近代という時代全体に課せられたものであった。この分裂は近代に始まった分けではなく、遡って古典主義的な世界から建築様式の振幅運動として繰り返された。ルネサンスは客体へ、バロックは主体へ、新古典主義は客体へ、インテリアにおけるロココは平然と幾何学を放棄して装飾が集積する主体へと振れた。この新古典主義は単なる古典主義の再来ではなかった。新古典主義の建築は、自然の中に自立するオブジェクトであった。例えばベルサイユ宮殿の壮大な歪みに対する批判として庭園の中に立つプチ・トリアノンという純粋形態が建設された。「離れて立つ」立地を選択した建築を主体である人は距離を介在して眺める、主体と客体はすでに距離によって隔てられている。これが新古典主義の解決方法である。デカルトの物心二元論(物体と精神を分離し、物体が精神から独立した形で存在するという哲学的解決)と同形であった。この新古典主義に疑問を呈したのがヒューム、ロックに代表されるイギリス経験論であり、イギリス式風景庭園であった。それらは再び主体の側にたって分裂を解消しようとする方法論であった。風景式庭園はベルサイユなどの幾何学庭園に対する批判であった。そもそも庭園はオブジェクトとして設計するには無理がある。建築は一つのオブジェクトとしてグラウンドから切断され、自律して建設されてきたが、庭園はその本質においてグラウンドとは連続体であり、複数の異質な経験の時間的連続体として設計されてきた。そこにおいては経験相互の矛盾は問題にされなかった。一続きの園路を主体は回遊し、ある瞬間において一つしか経験できない。いかにその経験の断片が乱雑であっても何の矛盾も存在しない。これが経験主義である。

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その後カントの批判哲学が登場し、認識の普遍的形式性を唱え、その後ヘーゲルに代表されるドイツ観念論は19世紀を支配し、同時に19世紀は経験科学の時代となった。経験科学は物質世界に深く分け入り豊かな成果をあげ、物質世界をつぎつぎと解明していった。時代そのものが決定的に分裂していたのだ。哲学では新カント主義が起こり経験科学の手法をふまえた上で物質と意識の架橋を試みたが、テクノロジーと意識を接合する方法は喪失したまま時代を終えることになる。その後哲学で実存論と現象学が起こるなか、近代建築は二人の革命家であり巨匠と呼ばれる二人の建築家ル・コルビジェ(1887-1965)とミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)が登場し、極めてフォトジェニックな建築を設計した。建築全体のイメージを一瞬で認識できる、主体との距離を確保し建築側ではその距離と速さを前提とした形態とディテールが要請された。分かりやすい全体性の獲得のために周囲の環境と建築を切断する必要性があった。これがモダニズムのデザインである。マスメディアによる拡散に適したオブジェクトとしての近代建築は第一次世界大戦後インターナショナルスタイルとして大きな潮流となった。建築のインパクトをどのようにしたら大量の人々に伝達することが可能かマスメディアに向けてのオブジェクト=商品としての建築の探究であった。

結局、分裂はオブジェクトによって架橋された。物質と意識との分裂、世界と主観との分裂は、オブジェクトによって架橋されたのである。架橋の第一段階は、分裂の両サイドをそれぞれ粒子に粉砕すること、粒子へと還元してしまう事である。この粒子は単に小さいだけではなく、環境から切断され、突出し、自らの存在を強く主張する存在でなければならない。オブジェクトとはその様な性質を持った粒子の別名である。物質のサイドは、商品というオブジェクトにまで粉砕された。物質を粉砕すれば商品となるわけではない。商品とは、環境から突出し、自己主張し、主体を欲情させるオブジェクトの別名である。一方意識のサイドは実存というオブジェクトにまで粉砕された。実存は一切の群、共同体から切断されて孤独であり、それゆえに商品に欲情するのである。両サイドがオブジェクトにまで分解されてはじめてオブジェクト同士が求め合うのである。それが物質と意識の架橋、世界と主観の架橋という20世紀の欲望の構造である。

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未来のヒトの役割は

①現在の状況を冷静に見抜く(分析)②次はどうなるのか大胆に予想する(予想)③考えをとにかくカタチにする。(実践)いかに無駄なことをたくさん考えてその都度最善の策を作り、それを繰り返し継続する。心を折らないで継続することが大事。と品田氏は語る。技術革新が人知を超えた速度で進む中、主体となるヒトでなければできないことを探究することが大事なこととなってきた。

人工知能AIは1950年代に誕生し、脳をモデルとした機械学習の段階を経て2010年代ごろから深層学習を中心にした第3次AIブームとなっている。過去に起きたコトの情報処理はできるだけAIに委ね、人は未来を創りだすことに専念しなければならない。AIの特徴を上げれば過去の延長線上にしか将来を描けない。相関関係はわかるが因果関係は分からないのだ。哲学においてヨーロッパ流の原因と結果を言う。哲学者の中にはこの概念の使い方に制限を加える者もある。右手を上げようと思えば右手が上がるし、空腹になればいらいらすることが多い。このように精神の状態が原因となって身体の運動が結果し、また逆に身体の状態が原因となって精神の状態が結果することは普通あたりまえと考えられる。しかし古典物理学では、物体の運動を記述するときに精神に言及することはなく、すべて物質に関する概念だけで記述する。ここから、物体の一種である身体の運動もまったく物質的なものであり、心身の間に因果関係を認めるのは間違いであるという考えが生まれる。心身の相関を因果の概念を使わずに説明するにはどうしたらよいかという問題だ。日常生活で、二つの事象A,Bの間に因果関係を認めるようになるのは、Aが生じたのちにBが生じるということが繰り返し観察されたのちであることが多い。しかしこのような繰り返しがあったとしても、将来もあに続いてBが起きるとは限らない。ここから、現在確立されているように見える因果関係も、将来破られる恐れがあることが分かる。18世紀イギリスの哲学者ヒュームはこのことを指摘した。統計学はこのことを受け入れ、因果関係を相関関係に置き換えた上で、相関関係の推定も絶対正確だと無いとしている。このように因果関係を巡っては様々な立場で哲学的議論が行われている。

AIが人から仕事を奪う確立の事例をあげれば、経理担当者は97.6%であるが経理最高責任者は6.8%となる。人は担当者ではなく最高責任者の執行することをやらねばならない。ビジネスの因果関係を知り未来を創造することが人の役割である。そして時間が貴重な資源であることも認識すること、時間は人の主観の中で重要な位置を占める。客観としての空間価値から主観としての時間価値を生み出さなくてはならない。例えば 積み重なる時間・成熟していく時間・動かぬ時間・変化し続ける時間・ゆったりとした時間・巡りくる時間などデザインや設計に深くかかわる要素である。そして「××してから」思考を追い出すことが重要。理不尽な現実も受け止めて、高い目標を限られた時間でやりきること、無駄な経験など無いという了解、ピンチを克服し挑戦し続けること、そして機械ができない事が3つある。クリエイティブであること・リーダーシップを発揮すること・起業家精神を持つことである。

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結びとして

相対主義の背後には、安易で凡庸な全体性が、きまって忍び込んでいる。表層的な経験主義、相対主義の裏側には古典主義の安住が潜んでいること、主体と客体との分裂に対する無視と鈍感が潜んでいることをカントは批判した。カントは古典的世界観と経験的世界観をともに批判した。すなわち意識と物とは基本的に分烈していると考え、認識形式の普遍性がその分裂を繋ぎとめると考えた。「普遍的な認識形式とは存在するのか。」客観的存在(物自体、あるいはオブジェクト)は存在するが、主体はそれを正確には認識できないというのが、カントの基本的な考え方である。その時認識は各人各様、恣意的に行われるのではなく、認識にはもう一つの普遍的な形式があるとカントは考えた。この意識と物質の分裂、その分裂に架橋することが、商品としてのオブジェクトに溢れる現代の重要な問題として浮上している。

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意識を実存というオブジェクトに還元し、物質を商品というオブジェクトに還元するのが20世紀の接合法である。このオブジェクトを媒介として駆動する社会はすでに「大恐慌」によってその限界を露呈していた。商品=オブジェクトという自由で小さな粒子で主体と物質をスムーズに接続することは不可能であることを。

現在、世界はオブジェクトが支配する世界の限界と衰弱に直面している。個人とは自立した弧独なオブジェクトなどではなく、境界の曖昧な不確かな広がりである。オブジェクトに切り分けた途端に、物質はその魅力の大半を喪失する。その粘性、圧力、密度の全てが抹殺される。主体も物質も、ともにオブジェクトに切り分けられる事を拒絶していて、全ては接続され絡み合っているのだ。しかし、にも関わらず、我々は物質で構成されており、物質の中で生きている。必要なのは物質を分断することではなく、オブジェクト=商品に代わる物質の形式を模索することである。

カントの墓碑銘の一節「わたしの上なる星空と、わたしの内なる道徳律」は、認識の普遍形式(星空)が、それぞれの個人の中に、道徳律という形で内面化されている事に対する確信を語っている。