はじめに

今回講演をいただく川島康夫さんとの出会いは、女浄瑠璃を後援する「瑠璃の会」会合であった。いろいろ気さくにお話しいただく中で、川島氏が松下電器産業に勤めていて創業者の松下幸之助とも関わりがあったことが分かった。川島氏は「創業者とは何回か話させていただきました。だから物の見方や考え方がよくわかる。貪るように教えを吸収しました。組合活動はいろいろな人がいるからそれは大変です。しかしひ弱な私をよくぞここまで鍛えてくれたと、感謝しています。」と語る。第9回のゼミは川島氏のご案内で門真市西三荘にあるパナソニックミュージアムを訪ねることになった。

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松下電器産業からパナソニックへ

1917年(大正6年)松下幸之助は大阪東成郡鶴橋町(現東成区玉津二丁目)の借家で電球ソケットの製造を始める。当時は妻むめのと妻の弟である井植歳男の3人での営業だった。1918年に大阪市北区西野田大開町に移転し松下電気器具製作所を創立した。ここ現パナソニックの原点である。1927年(昭和21年)自転車用角型ランプを販売、この商品からナショナル(National)の商標を使い始める。1931年(昭和6年)ラジオの生産を開始し、1932年に重要部の特許を買収し、同業メーカーに無償で公開し、戦前のエレクトロニクス業界の発展に寄与した。1935年(昭和10年)12月松下電器産業株式会社に改組し、松下電気、松下無線、松下乾電池、松下電熱、松下金属、松下電気直売など9分社を設立した。1937年(昭和12年)「ナショナル」のロゴ書体「ナショ文字」を制定した。1943年(昭和18年9に軍需産業に本格参入、1945年に日本敗戦により、存外資産のほとんどを失い、1946年にはGHQにより制限会社の指定を受けたが、当時の松下航空工業以外の分社を再統合して事業部制にお戻し、洗濯機などの製造を開始した。

松下電器産業からパナソニックへの社名変更は2008年10月1日である。元々「Panasonic」は海外、「松下」もしくは「National」が国内でと使い分けられてきたが1980年代後半からは国内でもPanasonicを使うようになっていた。白物家電では「National」の認知度が高かったからだ。

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パナソニック株式会社は大阪府門真市に拠点を置く世界的な電気メーカーで、国内では日立製作所、ソニーに次いで3位で、38の事業部からなる社内カンパニー制を採用している。アプライアンス社、ライフソリューションズ社、コネクティッドソリューションズ社、オートモーティブ社、インダストリアルソリューションズ社、中国・北東アジア社、US社の7カンパニーである。連結対象は592社、これら関連会社も含めて、家電の他にも産業機器・住宅設備・環境関連機器など電気機器を中心に多角的な事業を展開している。創業以来消費者向け製品・サービスに力を入れてきたが、2013年から企業向け製品(BtoB)の比率を上げていく方向へと舵を切っている。現在売り上げ全体に占める家電の割合は24%である。松下電工の合併および三洋電機を連結対象とする現在は、車載設備・住宅設備・エネルギーマネジメント機器などをコアとして成長戦略を加速させている。グローバル展開ではアビオニクス、カーナビなどのIVIシステム、車載用リチウム電池、換気扇、コードレス電話、業務用冷蔵庫で世界一位のシェアを誇る。国内では唯一全部門を網羅する総合家電メーカーで家電業界の多くの部門でトップシェアを有し、家電以外でも電池、住宅用太陽光発電機、照明器具、電設資材、ホームエレベーター、電動アシスト自転車で国内一位のシェアとなっている。また知財活動にも秀でており、パテント・リザルト社の「特許資産規模ランキング」で2017年は二位となっている。

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パナソニックミュージアムのこと

1918年(大正7年)松下電気器具製作所の創立以来100年。パナソニックは創業者・松下幸之助の経営理念「企業は社会の公器」を確立して、その事業を通じて社会に貢献することを実践してきた。企業活動の枠を超え、広く人類の繁栄と幸福を願いその実現に情熱を傾けてきた。そこには、より良い暮らし、よりよい社会を求め続けた松下幸之助の高い志、「生き方・考え方」を数多の後進が継承し、数々の製品・技術を生み出してきたパナソニックならではの企業文化が息づいている。「パナソニックミュージアム」は2018年3月に創業100周年の社会や消費者への感謝を表すとともに、松下幸之助の言葉や、歴代の製品に触れながら、その熱き思い、パナソニックの“心“を未来に伝承していくことを願って開設された。施設は大阪府門真市にある本社敷地内に建設された。京阪本線の西三荘駅から徒歩2分に位置する。施設の全体配置計画は、「松下幸之助歴史館」、「ものづくりイズム館」そして2006年にオープンした「さくら広場」で構成されている。創業50周年のとき「松下電気歴史館」が創設されていて、ほぼ50年ぶりのリニューアルである。「松下幸之助歴史館」の前には「創業者松下幸之助翁寿像」が立っている。建築は丸窓が特徴的な外観で1933年に門真に建てられた本店・工場をそのまま模したもので船舶を連想させる近代建築である。敷地も本店跡地そのままで、当時の意匠をより正確に再現している。屋根にある煙突や舵輪のオブジェも当時のままである。舵輪は松下電器の進路を定める本店の使命を象徴するものである。展示室は「松下幸之助に出会える場所」として「道」をコンセプトに幸之助94年の生涯をたどる展示計画となっている。時代軸と事業軸でその生涯を追っていくものである。写真パネルで幸之助が何を考え、どういう行動をしたのかを展示している。

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展示各所には幸之助の名言とそのもととなった文章を示した「松下幸之助のことば」カードが用意され見学者は自由に持ち帰ることができる。展示構成は1章1904年〜礎から7章1968年〜経世で構成されている2章1918年〜創業の展示空間に旧歴史館に在った「創業の家」のレプリカが移築されている。これはまだ松下幸之助が存命の頃に造られたものなので、細部まで往時の様子が再現されている。薄暗い展示は当時の家屋の照度を再現しているためである。家の中には”もう一人の創業者妻・むめの”とアタッチメントプラグの材料を混ぜて釜で煮ている“むめ”の弟 井植歳男(のちの三洋電機創業者)そして土間には松下幸之助が座っている、創業時のシーンがマネキンでディスプレイされていて、旧歴史館の頃から社員教育に使われていた。5章1961年〜飛躍の展示から高度成長期に製造されたテレビ、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が展示されている。6章1961年〜打開では1964年の「熱海会談」が展示され印象的である。7章1968年〜経世では晩年に至って「明日の指導者を育成する」を目指し、1978年に開塾した松下政経塾が展示されている。社会に様々な貢献を果たした松下幸之助は1989年、昭和が終わった年に94歳で亡くなった。この展示室に併設されたライブラリーでは、紙資料2万点、書籍1200冊、写真やネガ3万枚、音声2000本、映像5000本などパナソニックの100年にわたる歴史資産をデジタルデータ化し、閲覧が可能となっている。閲覧端末はスロットに「松下幸之助のことば」カードを差し込むとカードの言葉に関連した資料にスピーディにアクセスできるようになっている。壁面は松下幸之助の著書と関連する書籍がその解説とともに展示されている。

「ものづくりイズム館」は旧歴史館の建物そのものなので外観は同じである。展示テーマは「パナソニックの“ものづくりDNA”を探る」で、人々の100年の暮らしの変化とともに歩んだ歴代の製品約550点が展示される。エントランスにはナショナル坊やと歴代のロゴが彫られたレリーフパネルがあり、続くストレージギャラリー(収蔵庫)はそれぞれのジャンルの一号商品やデザイン家電がまとめられそれぞれのパッケージの連続で展示されている。川島氏がデザインした家具調テレビも展示されている。ストレージギャラリーの先にあるのはマスターピースギャラリー、「思いやり」「感動」「安心」「新定番」「家事楽」「自由」の6つのテーマで構成されていて、それぞれの分野の「マスターピース」が展示されている。デジタル・ムーバP201HYPERはデジタル方式携帯電話で初めて100gを切った、当時世界最小最軽量の携帯電話だった。モバイルノートPC「レッツノート」は今も改良を重ねながら発売されている。ロングセラーの「ハイ三角タップ」「ハイトリプルタップ」も展示されている。展示空間の最深部にあるのはヒストリーウォールで、横16m・縦2.2mの636インチスクリーンである。8K映像で100年間の製品を一望できる映像展示となっている。スクリーンの下には「宣伝・広告の100年」がパネルで展示され一覧できる。

「ものづくりイズム館」から道を挟んだ向かい側には今回見学できなかったが「さくら広場」がある。ソメイヨシノが190本植えられていて、地域貢献の一環として無料開放されている。広場の中の築堤には1933年に門真の地に本社・工場を移したときに新築された松下幸之助門真旧宅と大観堂がある。これは創業期から松下幸之助の良き心の支えとしてパナソニックの発展に寄与した真言宗醍醐寺派の僧侶加藤大観師の遺徳と功績を偲び、1956年に建立されたもので、いずれも限定公開である。

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川島さんのこと

今回のゼミを主導してご案内いただいた川島さんのことに触れてみたい。川島さんは1944年神戸市生まれである。大阪府立西野田工業高等学校・工業デザイン科を1962年に卒業している。大阪府立西野田工業高校は大阪府立の職工学校として1908年に現在の福島区大開にお開校した。大阪府内の工業高校としては大阪府立都島工業高等学校とともに一番古い歴史を持っている。1941年に大阪府立西野田工業高校へと改称し1948年に学制改革により、大阪府立西野田工業高等学校と改称し、現在に至っている。川島さんは卒業後、松下電器産業に入社した。1965年(昭和40年)10月当時一世を風靡した家具調テレビ「嵯峨」のデザインなどを担当した。「嵯峨」は北欧デザインに影響されたが、米国のテレビ受像機の模倣ではなかった。当時すでに松下電気デザイン部は、海外のデザイン情報を取り入れて、日本独自のデザイン開発を推進できる状況にあったのだ。「嵯峨」のデザインはステレオ「宴」に影響され、「宴」はステレオ「飛鳥」に影響された。余談だが「飛鳥」は「校倉造」のイメージがつけられているが日本調を狙ったわけではなく、宣伝によってつけられたイメージである。「ホワイトグッズ(白物家電)」に対して、木を用いたものは「ブラウングッズ」と呼ばれ、他社のデザインにも影響を与えた。その後周囲の強い要望により、若干20歳で労働組合に従事した。当時の労使関係は混迷を極めていた。その安定化と労働組合の近代化を目指して川島氏は寝食を忘れて取り組んだ。「賃金闘争だけではなく、一市民として地域社会を良くする義務がある。この時の川島氏はそういった労働組合を「目指して取り組んでいたのだ。専従を含む組合活動は28年に及んだ。その間の活動は、淀川の水質浄化、都市の緑化、電力不足、エアロビクス運動の提唱、関西国際空港建設の推進など市民生活に直接関係する課題を取り上げてきた。社会を構成する一因としての責任と自覚を持って組合活動を推進した。また民労協のヨーロッパ旅行がきっかけとなり、桜の並木道をヨーロッパにも作ろうと寄付を募り、パリ、ロンドン、ローマ市長に桜の苗木をプレゼントした。「これからの労働組合は、文化的な面での社会貢献も果たさなくてはならない。」という思いからであった。このような機運の中から出てきた課題が、大阪で廃れつつあった歌舞伎を復興させるという課題である。1977年(昭和52年)大阪歌舞伎座で澤村藤十郎襲名披露公演が開かれたが、入りが悪く大阪顔見世は9回で打ち切られた。澤村藤十郎がなんとか大阪で歌舞伎を復興させたいと頼ったのが当時川島氏の上司であった大阪労協代表(松下電器労組合長)の高畑敬一郎であった。高畑から上方歌舞伎の復興支援を依頼されたことが川島氏の歌舞伎との出会いであった。松下電器の創業者松下幸之助の言葉に「不況もまたよし」という言葉がある。不況の時こそ気持ちを引き締め、反省する。そこから新しい挑戦のチャンスが生まれる、ということだ。澤村藤十郎襲名披露公演の不入りが「関西で歌舞伎を育てる会」を誕生させ、川島氏との出会いも生んだわけだ。松下幸之助氏は川島氏にとって尊敬して止まない人生の師である。仕事や労使協議の場を通して、物の見方や考え方の多くを学んだ。「関西歌舞伎を愛する会」は1993年(平成4年)に「関西で歌舞伎を愛する会」に名称を変更した。川島氏は1994年からパナソニック映像の社長に就任した。赤字会社を三つ集めて作った会社を2年で黒字にし、8年8か月社長を務めた。「人生に無駄な経験などひとつもない。全ては次のことに生かされる。」この教えも創業者から学んだ。松下幸之助氏は父が米相場に失敗し、9歳で大阪に丁稚奉公に出た。父が米相場で失敗しなかったら松下電器は存在しかった。川島氏は三宮で生まれ、父は大きなクリーニング店を営んでいたが、戦争で全てを失い疎開した茨城では雨漏りしても受け皿がないほどの貧しさだった。そこから何をするにも必死で頑張ってきたわけである。創業者松下幸之助にオーバーラップする川島氏の原点である。

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松下デザインからパナソニックデザインへ、

日本の現代デザインは、第二次世界大戦後に開化したといえる。1946年から通産省(現、経済産業省)は工芸技術産業試験所の活動を機関誌「工芸ニュース」により広報し、海外市場調査(現、JETRO)を設立して、輸出振興の観点から海外デザイナーの招聘や海外へのデザイン留学生の派遣を積極的に行った。1952年には日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)が設立され、そのデザインコンペティションはインダストリアルデザイナーの登竜門となり、1954年発売の天童木工のバタフライ・スツールで知られる柳宗理やマツダ三輪自動車K360の小杉二郎などを輩出した。また東京芸大教授の小池岩太郎を中心として組織され、ヤマハのオートバイYD1型のデザインに参賀したGKインダストリアルデザイン研究所などのデザイン事務所もこの時期多く設立された。どGKの栄久庵憲司によるキッコーマン醤油の卓上瓶は今でも語り継がれている。「もはや戦後は終わった」と経済白書が宣言したこの時期、食事の所作を変えたこの卓上瓶は、デザインが新しいライフスタイルを提案したものと言える。

パナソニックデザインのルーツは1950年代までさかのぼる。1951年に初めてアメリカ市場視察を行い帰国した創業者の松下幸之助が飛行機のタラップを降りるや「これからはデザインの時代やで」と言った話は有名である。当時のアメリカで、ビジネスの決め手がデザインになっている現場を目の当たりにしてきたのだ。松下幸之助氏はすぐに、当時千葉大学工業意匠科講師であった真野善一氏を招聘し、松下電気に「宣伝部意匠課」を3名配属し設置した。それは日本で初めての企業内デザイン部門の誕生であった。真野は1916年(大正5年)生まれで、東京高等工芸学校工芸図案科を卒業、商工省陶磁器試験所、高島屋東京支店設計部などに勤め、昭和25年に千葉大学工学部教授となった後、昭和26年に松下電気工業デザイン部宣伝部意匠課長に迎えられたのだ。

扇風機20B1は、真野による初の「松下デザイン」であり、これ以降あらゆる製品のデザインが製品意匠課に持ち込まれるようになった。1953年にはラジオDX-350が新日本工業デザインコンペで特選2席を受賞し活躍した。当時はデザインプロセスへの理解の無さから、「その場ですぐやってくれ」という無理な依頼も少なくなかったが、しだいに製品開発段階からデザイナーが関わることを求められるようになり、デザインとは表面的なスタイリングのみを表現するのではなく、製品が使われる場所や使われ方も含めた設計思想であるということを理解してもらおうと努めて活動することになる。パナソニックデザインとなっても、この黎明期の活動、思いをDNAとして継承しながら、今日に至っている。

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結びとして、余話として、

今回のパナソニックミュージアムの見学を終えて、産業革命以来、近代から現代への160年にわたるデザイン、その中でもプロダクトデザインの歴史的変遷を追いかけ、製品デザインの基本ルールやデザインがどこに向かっていくのかを解き明かしてみたいと思った。

日本におけるデザイン草創期のエピソードを幾つか上げてみたい。エポックメイキングなデザイン製品、キッコーマン醤油の卓上瓶にもどる。当時、日本の一般家庭では、一升瓶入りの醤油を買ってきて保存し、食卓で醤油さしに移し替えて使っていたが、注ぐたびに口から垂れて食卓にシミを作ってしまうという問題があった。野口醤油醸造(現、キッコーマン)は「新しい醤油の形」を新進デザイナー栄久庵に依頼した。残量が分かる透明のガラスと醤油本来の色をイメージさせる赤いキャップを採用し、安定感と詰め替えを意識して底部口部は大きく、中間部は女性の持ちやすさと注ぐときの手の形の美しさを考慮して細くしたとされる。注ぎ口の下側を細くして液誰もなくなった。食事の所作を変えたこの卓上瓶は、新しいライフスタイルを提案したものと言える。その後神武景気に沸いた時期には、自動車の生産も再開され本格的なモデルが登場した。トヨタが「designの勝利」と広告したコロナ、日産のダットサン310(初代ブルーバード)、富士重工のスバル360などが上げられる。家電でもシンプルなモダンデザインとして、1955年発売の東芝の電気釜ER-4や東京通信工業(現ソニー)のトランジスタラジオTR-610などが注目された。東芝の電気釜はネーミングとして「電気炊飯器」ではなく「電気釜」とすることで「釜の過熱手段が燃料から電気に変わっただけ」という安心感を消費者に与え、従来のかまど口をイメージさせる黒い台形の操作部を採用し、デパートでの実演販売でおいしごはんが「科学的」に自動で炊き上がることをアピールした。東芝はネーミング(視覚・聴覚)、デザインモチーフ(視覚)、実演(味覚・聴覚・臭覚・触覚)など、消費者の五感を総動員させるマーケティング手法を駆動させたのだ。これも新しい経験とライフスタイルをデザインした事例である。本田のスーパーカブC100もこの時代の製品で、以後2008年までシリーズ全体で6000万台売り上げた。1957年には、通産省に意匠奨励審議会が設置され、グッドデザイン(Gマーク)商品の選定事業が開始され、翌年にはデザイン課が設置されて、デザインの奨励、振興の体制が国として整備された。1960年世界デザイン会議が日本で開催され、各分野のデザイナーや建築家が対等に議論を闘わした。その経験は1964年東京オリンピック、1970年日本万国博覧会に活かされていった。また1970年代、1980年代にかけては広告・デザインが大きく変わったことは他でも述べている。新聞広告をテレビ広告が追い抜いたのは1975年であった。その前年に日本広告審議機構が発足して、広告の社会的役割が問われると同時に、広告表現の芸術性の追求が盛んになった。消費者の価値観やライフスタイルに「焦点を「あてて、企業ポリシーへの共感を得ることに重心が移っていった。商品と直接関係無しない映像・音楽を流す「イメージ広告」が表現の主流となっていった。糸井重里や中畑貴志などのコピイライターが脚光を「浴びた時代であった。西武系のファッションビル「パルコ」は1974年渋谷店を開店し、大胆なビジュアルと印象的なコピーのポスターを中心に、渋谷の街全体を媒体とする広告展開をし、それと前後して西武劇場(現PARCO劇場)開設や「ビックリハウス」創刊などの文化事業を展開して企業イメージを高めていった。この総合的な戦略は80年代のCIブームとなって社会に広まっていった。ケンウッド、日本たばこ産業、アサヒビール、JRなどがその導入例である。

さらに海外のエピソードを追ってみたい。ドイツにBRAUNという家電ブランドがある。日本ではシェーバーや電気歯ブラシでおなじみであるが、ドイツでは幅広く家電製品を製造していてグローバルに展開しているメーカーである。ブラウンはデザイン性の高いプロダクトデザインで他の多くのメーカーから尊敬されていて、あのAPPLEもブラウンから影響を受けていると言われている。ブラウンは「家電デザインのルーツ」と呼ばれているのだ。その理由は創業からの歴史にある。1921年にマックス・ブラウンによって創業され、最初は工業用機械のベルトを固定する工具の販売から始まった。最初の自社製品はHi-Fiラジオである。1930年代に入るとドイツを代表するラジオメーカーへと成長する。第二次世界大戦の間は、家電機器が製造できなくなるがその間ブラウンは様々なアイディアを温めており、戦後はジューサーやクッキングミキサーなどのキッチン家電を相次いで生み出した。1951年マックス・ブラウンは急逝し、その経営は技術者のアルトゥール・ブラウンとビジネス学位を取得していたエルヴィン・ブラウンの二人の息子に引き継がれた。ブラウン兄弟は「人に対する尊厳」というビジョンを掲げ、高いデザイン性と機能性を持つ優れたプロダクトを生み出していく。

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川島さんのことにもどる。川島さんの名刺には、「関西歌舞伎を愛する会」事務局長という肩書の下に、こんな言葉が記されている。「他人のために生きた人生だけが、価値を持っている。」(アルバート・アインシュタイン)川島さんの半生はまさにこの言葉通り「ボランティア活動のために生きた人生」であったのではないか。「関西歌舞伎を愛する会」」大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」、「南米ペルーでの小学校の寄贈」この三つが活動の柱である。松下電器産業に入社後テレビなどの製品デザインを担当した後、若干20歳で乞われて労働組合活動に従事。当時混迷する労使関係の安定化と労働組合活動の近代化に寝食を忘れて取り組んだ。「賃金闘争だけでなく、一市民として地域社会を良くする義務がある。」そういった組合活動を続けたのだ。「これからの労働組合は、文化的な面での社会貢献も果たさなくてはならない。」松下幸之助から、松下のデザインから多くを学んだ川島さんの言葉である。今回のゼミナールも川島さんとのご縁から、多くの学びと気づきを頂いた。「温故知新」