気づきに気づくデザインの発想法

8月酷暑の大阪定例会にマジックインキで有名な内田洋行様に、大阪芸術大学 デザイン学科教授でグラフィックデザイナーの三木健氏に登壇いただいた。

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今世界が注目する、デザイン科の授業「APPLE」は、りんごをモチーフにして「デザインとは何かを問いかける授業である。気づきに気づくデザインの発想法とは、問題を正確に「理解」し「観察」しその関係性を探る。そして「思考」を立体的に組み立てる「想像」行為へつないでいく。そこで目的へと繋がる「必然性」が無ければ「分解」し[編集]する。独自の視点からコンセプトを導き、明確なカタチを導きだし「物語化」し理念として「可視化」していく。
これを三木氏はデザインと定義する。

なぜ「リンゴ」を研究するのか、自分の好きなものでないと授業で伝えられないから。アダムとイブ、ビートルズ、アイザックニュートン、ステーィブ・ジョブズなど世界を創るのはりんごであるという仮説に基づく。こんなポピュラリティーなりんごだから世界中が理解できる。そんなどこにでも在るりんごだから、実は本当の事を知らない。ソクラテスの「無知の知」だ。この授業で三木氏が伝えるデザインの楽しさや奥深さとは、あったらいいな、こんなデザインの学校 <学び方のデザインりんご、体で理解する(りんごの周囲の長さを計り可視化してみると)、自分のものさしをつくる、一つのことから世界を見つめる、自然の摂理に学ぶ(一見赤いりんごにも無数の色が在る)、人は何かしら形に意味をさがす、不自由さが気づかせてくれる、手で考える、話すデザイン・聞くデザイン、喜びをリレーする、つながる・ひろげる・みつかる、感じる言葉、気づきに気づく、絵に命を吹き込む、プロセスを振り返る、>

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ここで三木氏のデザイン手法を並べてみると、<話すようにデザインする「話すデザイン」とは話し手と聞き手の双方向の働きかけ[聞くデザイン]で、モノやコトの根源を探り物語性のあるデザインを展開する。デザインは寄り道、道草で進めていく、その過程でアイディアのジャンプがある。書籍や資料は本箱に整理、分類しないで広げておく。

その中の一つの言葉でイメージが触発されアィディアがジャンプすることがある。偶然何かに遭遇する機会が増え、発見や発明に繋がっていく。暮らしの中に数多のデザインが存在する。使いやすくて、気持ち良いものが見えないところにたくさん存在する。料理だって掃除だってデザインだ。デザインに領域なんか作らない、だから暮らしの全てを見つめていく。その観察がデザインのヒントと種になっていく。デザインは領域を横断していく。デザインは考え方をつくること。作り方をつくること。本当に大事なことを見極めること。「借脳」は三木氏オリジナルの概念で借景とも繋がり、いろいろな人の意見を取り入れデザインの起点とする。ルールを知り回答へのプロセスを考えることも大事。句点の位置で文章の意味が変わる松岡正剛の「編集」の概念も大事である。>

デザインの今をその発生過程からとらえる

我が国日本というのは、明治時代に欧米からいろいろな考え方や社会的な仕組み、文化も含めて大幅に輸入したということが在る、「文明開化」である。


その輸入産物の中に西欧的なデザインが物と技術に乗じて諸外国から入ってきた。これは入れざるを得なかったわけである。問題は輸入した西欧型デザインが、時代によって変化するべきなのにしなかったということだ。ここで我が国が初めて取り入れた19世紀のデザインというのは、西欧を中心に18世紀末から起こってきた産業革命によって生み出されたものの一つだった。当時は新しい美術や技術的な産物が建築に至るまで世の中に出回り、それが大量生産時代の幕開けを作り出していった。産業革命は技術の発明だけではなく、企業という社会的な装置を発明した。これが非常に重要で、職人というポストが衰退していき、大量の勤め人が企業で働き、企業は消費財を大量に製造していった。そして消費者というものを作り出し“豊かな社会”の基本的社会構造を作り出していった。



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ここで製品が社会にあふれだすことによって、ある矛盾が生じることになった。機械である、これは長い歴史を経た“人間対自然”の関係とは全く違う存在物だった。過去の人間と自然との関係には大きな矛盾はなかった。しかし産業革命以降の大衆消費社会には“人間対機械”という対立的な状況を生じさせた。(現在地質学では“新人世”といわれ“人間対AI”の関係に踏み込んでいる。)この対立構造から生じてきたのがデザインではないか。すなわち頭の中で概念的に考えたものを存在様式として可視化して存在させていく。新しい存在物である諸機械や製品と人間との間のインターフェースを考えなくてはならなくなったのだ。

また知識の専門化の限界という事もある。
視点を定め、領域に分けて知識が体系化されるのはなぜか。西欧の学問は知識を領域に分け、専門家を生み出すこと、これも産業革命の発明であった。視点を定めた領域に対応した専門職が仕事の構造をつくったのも産業革命からである。このことが現在、デザイン、そして物を作るということに大きな障害を作ってしまった。効率的に社会的分業を行うという方法である。分業化への反省は20世紀の初めにもあったが、特に文学の世界で「分析の時代は終わった、これからは総合の時代」と高らかにうたわれたが、20世紀は何をやってきたかというと、分析ばかりであった。

デザインを新しく定義する必要性

人間にとって決して快適とはいえない人工的な物や環境、諸機械を目の前にして生まれたのがデザインであるならば、それはもう陳腐化しているのでは、少なくとも限界に来てしまっているのでは。
確かに人間に富みをもたらす大発明であった産業革命は、ずっと今まで駆動してきて、地球上の多くの地域を豊かにしてきたが、一方で5分の3から4分の3と言われる多くの地域を豊かにすることができなかった。現在までのやり方で豊かになろうとすると、地球環境破壊という新しい問題に直面し前進できない。先進国で言われる「欲しいモノが無くなった。」という話も現在の特徴である。
それなら現在のデザインとは何なのか。これを今定義することが必要だと考える。これはすなわち、デザインを駆動する、あるいはデザイナーの心を駆動する要因は一体何なのかということだ。地球上の積み残した地域をいかに豊かにするか、人々が本当に欲しいと思うような製品をいかに作り出すのかということなのでは。明治の時代に我が国が文明開化とともに西欧型デザインを輸入したときと全く違う状況の中で、人工的なるものとしての仕組みや装置が現在うまくいかなくなってきている、デザイナーは現在の敵といえる、行動そのものの内なる矛盾というものを見つめることによって、自分の行動のモチベーションを作っていく事が必要なのではと考える。

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設計学から導くデザインの方法論

何か物を作るというとこには、どういう知識をもっているかということが大切になる。
知識の無い人には物は作れない。
製品に関わるデザインのことを考える場合、あるいは製品そのものを設計する時にも当然知識が必要となる。問題はその知識をどう使うかにある。“仮説提示力(アブダクション)”としてのデザインが重要になる。知識が現実の行動にどのように役立っているのだろうか。それについて我々は実は何も知らない、知識を持っていても何もできないとさえ、言えるのではないか。一般に知識を体系化するときに必要な事は、現象を“視点に分ける”ということです。視点を定め、それにしたがって領域を分け、その領域を理論的につくる、まことに華麗な一つの理論体系が作り上げられる。
問題は、この様な領域的な知識の集合を使って、現実的な行動規範を生み出す事ができるのかいう事です。これができない、知識があればできるということではない。ということは、我々の知識の体系には失われた環が在るのではないかと考えられる。これを繋ぐことがデザイナーの仕事なのではないかと考えられる。この失われた環のことを知っている人がいる。理論的には解明されていないのに、日常的に行動している場合なども、やはり何か失われた環を使っているはずだ。これが何かと問うことがデザインを踏み込んで考える上で非常に重要な事である。

三木氏のリンゴ繋がりで科学的な発展の過程におけるアブダクションの事例としてニュートンの万有引力発見を取り上げる。
「諸物体は支えられていないときには落下する」という事実から「質量は互いに引力を及ぼし合う」という法則を発見した。この発見は、我々が直接観察した事実(諸物体は支えられていないときには落下するという事実)からその事実とは違う種類の、しかも直接には観察不可能な「引力」という作用を想定する仮説的な思惟による発見」であると指摘する。つまりこうした理論的対象の発見は観察データから直接的な帰納的一般化によって導かれるものではなく、それは諸物体の落下の現象を説明するために考え出された「仮説」による発見なのである。だからアブダクションによる推論が不可欠なのである。(米盛祐二[アブダクション:仮説と発見の論理])アブダクションは観察された結果や既知の規則から仮説を生み出すため、拡張的(発見的な機能を持つ推論である。だから説明仮説を形成する方法(Process)なのだ。しかし可謬性(かびゅうせい)の高い推論でもある。

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知識を生みだす仮説提示力

知識の使い方という問題が在る。
知識の使い方というのは知識の作られ方と深い関係がある。どこに視点を定めるか、どのような領域に分けるか。ニュートンは物体の運動に焦点を絞り、理論化した。それがニュートンの力学の3法則であって、物体の運動をきれいに体系的に記述した「プリンキピア」である。物理学理論は、簡単な法則と演繹体系でできている。それを我々は知識と呼んでいる。問題は、ニュートンの3法則をどうやって見つけたかである。「プリンキピア」にはどうやって見つけたかということは1ページも記述されていない。実はそこには、人間固有の能力、アブダクションがあった。アブダクションとは論理の一つの形で、「人間が死ぬ」という大前提と、「あるものが死んだ」という事実があった時に、「それは人間だ」と仮説を立てることをいう。ニュートンが3法則を見つけ出すのも、デザイナーがいいデザインをするのも、実はそれはアブダクションという推論でやっているのである。
一般には、現象の集合Aがあったときに「BならばA」を成立させる“B”という原則を思いつくのが「仮説生成」すなわちアブダクションになる。そこでこの理論をデザインと対応させてみる。例えば建物を設計デザインするとき観察される現象を全て集めるように、施主の要求全てに対応する。要求を全て満たす設計デザインが正しいというわけである。デザイナーは、世の中にはこういうことが要求されているに違いないというのを出来る限りたくさん考えて、それを全て満たすようなデザインとは何かと考える。しかしそれが唯一の解だとは永久に証明できない。これはニュートンの3法則がこれだけと永久に証明できないのと同じ意味である。だからデザインが絶対に真であることが証明できないことは誇っていいことである。デザイナーは毎日ニュートンみたいなことをやっていることになる。
ただしニュートンがいずれアインシュタインに敗れたように、デザインもいずれ敗れることがある。それはマーケットと世界が判断してくれる。ニュートンも物理学のソサエティーの中で激しい議論をしながら、時には修正しながら自分の理論を磨いた。決してりんごを見ながら、ぼやっとして理論を作ったわけではない。デザインは時代の変遷と共に新しい要求のもとに切り替わっていく。デザインは常に動揺している。その時代のデザインを提案するのはデザイナーしかいない。あたかも仮説を提示するように。

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仮設提示力をいかに向上させるのか

アブダクションとは極めて不思議な人間の能力で、それでいて知識をつくるという非常に重要な仕事である。
良い仮説を生み出すにはパースによると最終的には人間の美的な感覚によるという。ニュートンが3法則を見つけたのは、美的な感覚によるという話。こだわったのは常識主義、常識こそすべて。それから経済的思考。効率よく考えるための知識を持っているか。さらに人間の美的感覚、ヒューマンタクト。結局アブダクションとは、非常に不思議な能力だということである。そこでデザイナーに課せられるのは、アブダクションの能力、アブダクションスキルをどうやって向上させるのかということである。
例えば家を設計するときには、耐震、防水、保温、など複数の知識が必要になりそれぞれに体系化された知識が対応する。体系化された知識は概ね数式の知識なのでそのままでは使い物にならない。そこで常識的な知識というか目的に合った形にコード化し直す。目的別に知識が再編成されるわけだ。そして違う領域の知識を同時に集めて、もう一度アブダクションを行う。このどういう目的を設定したら、どういうコードが生まれるのかという法則性を探っていくのが実は設計の手法なのだ。集めた現象や知識を全部集めておいて、それを再編成していく仕事は多分デザイナーは無意識のうちにやっていることである。パースの言うアブダクションスキルである。そこでアブダクションを容易にするために、知識の体系のあり方を客観的に選び出す方法を考えることが有効ではないかという一つの仮設に立つことができる。デザインの対象を調べ、それについてどういう知識体系を持っているかを調べ、それ向きのコード化のルールがあるならば、われわれは上手にコード化できる。実は我々の知識体系というのはトポロジー、すなわち位相空間なのだ。視点を定めて領域に分けて分類し抽象概念の操作を加えると人工物はこの概念操作でどんどん生み出される。このような知識の再編成能力がアブダクションを可能にしている。どんな時代においてもデザイナーの基本的な力というのは、アブダクションによって作られてきたのではないか。知識の操作能力があるとするならば、その部分を強化していくことが、時代に即応しながら、正しいデザインをしていくことの基本ではと考える。

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「経験をいくら集めても理論は生まれない」アインシュタイン

静かな表現の中にエモーショナルなコミュニケーションを潜ませる三木健氏のプレゼンテーションに設計デザインの方法を対応させながら、今月も白熱した定例会でした。

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