2017年、本年最後の定例会は南海電気鉄道(株)和田真治氏の登壇である。氏は1963年姫路生まれで、1987年大阪市立大学商学部卒業ご同社に入社、経理部、経営企画部などを経て現在「なんば・まち創造部」を担っている。今回は電鉄会社のなんば・まち創造活動の話である。

南海電気鉄道のこと
南海電鉄は2015年に創業130年の歴史を持つ我が国最初の純民間資本による鉄道会社である。
社名の「南海」は、堺―和歌山間と紀伊国が属する律令制の南海道に因んで名づけられたことに由来し、のちに淡路・四国航路との連絡も果たした。大阪難波から関西国際空港、世界遺産の高野山、和歌山市を結ぶ鉄道会社で大阪府南部と和歌山県北部を基盤とするディベロッパーでもある。南海グループは運輸、不動産、流通、レジャー、サービス、建設など6セグメント84社で構成される。かつてはプロ野球球団(南海ホークス)や、野球場(大阪球場、中百舌鳥球場)を経営していたが、1988年に撤退した。
ブランドスローガンは「愛が、多すぎる。」
当初の社章は「羽車」と呼ばれ、車輪に翼が生えたものであった。南海がヨーロッパから車両を輸入した際この紋章が附けられていて、「車両に羽が生えれば速い」とい意味とともに車輪の向きを変えて社章に採用した。南海ホークスの球団名も、「羽=鳥」に因んだといわれる。現在でも難波駅の北側入り口に、羽車を意匠化したモニュメントが飾られている。1972年6月1日に制定された2代目社章も「羽車」の意匠を残しながらコーポ―レートカラーの緑を取り入れ、より直線的なデザインとなった。1993年のCI導入による「NANKAI」を表した3代目ロゴマーク制定後も正式な社章として使用が継続されている。このときコーポ―レートカラーもファインレッドとブライトオレンジの組み合わせに変更された。総合生活企業として未来に向けて力強く羽ばたいていく姿勢を表現している。

南海電気鉄道・歴史の道筋
1884年に関西財界の重鎮、松本重太郎・藤田伝三郎・田中市兵衛・外山修造らによって大阪堺間鉄道として設立され、1885年に難波―大和川間を開業した阪堺鉄道を始まりとしている。1898年に新設会社南海鉄道が阪堺鉄道の事業を譲り受け、ここに難波、和歌山をつなぐ鉄道が完成した。1909年浪速電車軌道、1915年には阪堺電気鉄道、1922年には大阪高野鉄道、1940年には阪和電気鉄道、1942年には加太電気鉄道を合併していった。1944年に、元阪和電気鉄道の路線を戦時買収で運輸通信省に譲渡、後に阪和線となる。戦時企業統合政策により関西急行鉄道と合併、近畿日本鉄道となる。しかしこの合併は、社風の全く異なる者同士のもので、当初から無理が生じていた。終戦後1947年分離運動が起こり、高野山鉄道へ旧・南海鉄道の路線を譲渡する形で、南海鉄道が発足した。
初代社長の松本重太郎氏は1844年11月14日(天保15年)に丹後国竹野郡間人村の代々庄屋を努める松岡亀衛門の次男として生まれる。10歳から京都で丁稚奉公にあがり、1868年(明治元年)24歳ごろ独立し、1870年「丹重」を屋号とする店舗を構え、西南戦争のとき軍用羅紗の買い占めで巨利を得た。銀行、紡績、鉄道、肥料など多くの企業の設立、経営に参画し西の松本、東の渋沢と呼ばれた。鉄道事業のことを付け加えると、1886年に重太郎が発起人となって成立した山陽鉄道は1892年に神戸、三原間の敷設を完了したが1890年不況のため工事が止まってしまった。1892年重太郎が社長に就任し、1894年までに三原、広島間の敷設を完成させ日清戦争の軍需輸送に貢献した。その後山陽鉄道は下関まで軌道を延ばし、関門連絡船を介して九州鉄道との連絡を実現した。その他浪速鉄道、阪鶴鉄道、七尾鉄道、豊州鉄道、讃岐鉄道などの鉄道にも関係し、西日本の鉄道網形成に大きく寄与した。
南海道への遥かなる遡上
南海から由来するコーポ―レートイメージは私が南紀新宮の出身でもあり、遥かなる古代の南海道までイメージを遡上させてくれる。南海道(みなみのみち)は、五畿七道の一つで、紀伊半島・淡路島・四国ならびにこれらの周辺諸島を含む古代の行政区分と同所を通る幹線道路(古代から中世)のことである。畿内より南の海域へ下る道であることから命名された。畿内の南西に位置し所属国の大部分が瀬戸内海に臨む地域であるため、内海交通の活発とあいまって大和朝廷の時代から重要な地域であった。685年(天武14)に南海使者を派遣のことが見えるので、成立時期は天武朝末年と考えられる。南海道の道筋は小路で、各駅には馬五疋を定置していた。四国と紀伊、淡路はそれぞれ異なる性格を持っていた。五畿七道(ごきしちどう)について述べておきたい。元々は中国で用いられていた行政区分「道」に倣ったものである。日本における「道」の成立は、古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道とも呼ばれた。難波宮にはじまる都周辺を畿内五国(大和、山城、摂津、河内、和泉)それ以外の地域を七道{東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道}に区分したものである。畿内から放射状に伸びていて所属する国の国府を結ぶ駅路の名称である。1869年(明治2年)に北海道が新設され五畿八道と呼ばれる。1871年の廃藩置県以降も残っていたが、1885年以降はすたれた。しかし、現在の日本各地の地名(東海、東山、山陽、山陰、北海道)や交通網などの名称にその名残を残している。

ミナミノ海のミチ、ミナミノミチ、から難波へ
まず難波(なにわ)から話始めたい。難波エリアが含まれる浪速区が1925年に区を新設する際に古代の博士、王仁(ワニ)が詠んだ和歌「難波津(なにわづ)に咲くやこの花冬ごもり今や春べと咲くやこの花」から区名を採ったという。ナニワの語源には波が速い意の「なみはや」、魚(ナ)が獲れる庭(ニワ)など諸説がある。難波(ナニワ)の名がついた最初の本格的な都市は7世紀に朝廷が置いた「難波の宮」だ。当時は今より海岸線が内陸に入り込み、大陸との交易に都合が良かったのだ。
中世以降難波の地名の由来となった西成郡難波村は、もともと南船場・島の内・下船場・堀江の一帯にあり、上難波村(南船場)と下難波村(その他)に分かれていた。江戸時代初期の大阪城拡張で上難波村はわずかに飛び地としてその姿を残すのみとなる。下難波村は寛永年間の新町遊郭の開発に伴い道頓堀以南に移転となり、1700年に上難波村飛地が下難波村に編入され、難波村と改称された。江戸時代の難波村は藍の産地で知られ、濃色に優れる阿波産の藍に対して薄い色に優れていて、難波水藍とも呼ばれた。江戸後期に最も早く市街化されて大阪三郷へくみこまれたのが、概ね現在の中央区難波にあたる難波新地である。1724年享保の大火の後の移転と1765年の三町開発によって難波新地一丁目から二丁目が形成された。明治前期1872年3町編入と翌年難波村で市街地化が見られた区域の編入と合わせて難波新地一番町から六番町に再編。この拡大された難波新地の範囲が現在の中央区難波の範囲となる。難波は大阪の二大繁華街の一つでありミナミに包含され、南海難波駅や大阪難波駅(近鉄、阪神難波駅)周辺の繁華街を指す。概ね道頓堀以南・千日前以西の地域を指す。ミナミの玄関口でもある難波は多種多様な店舗が混在する。
このように現在ではもと難波新地・河原町・新川・蔵前町といった繁華街だけを指すことが一般的であり、歴史的にも現在の地域区分としても繁華街以西の木津川付近までの地名であると言える。ミナミは島の内・道頓堀・千日前といった地域に広がる繁華街の総称で、大阪市の中心業務地区である船場の南側に位置することや、大半がかつての南区の区域にあたるのでミナミと呼ばれている。道頓堀を東西基軸、心斎橋筋を南北の基軸とし、北は長堀通、南は南海難波駅、西は西横堀川、東は堺筋までを指す。心斎橋はミナミと呼ばないが東心斎橋は例外で歓楽街を指してミナミと呼ぶ。近世初期、大阪城下の南端にある道頓堀に芝居小屋ができると、対岸の島の内内南部には遊里ができ、この遊里をミナミと呼んだ。その後城下各所に点在していた遊里は下船場の新町遊郭に統合された。しかし、以降も宗右衛門町、九郎衛門町、櫓町、坂町、難波新地など続々と遊郭ができ[南地花街]と称された。船場と道頓堀に挟まれた島の内は、北は職人町として城下の中枢を担ったが、色町となった南は船場の商いどころに対して粋どころと呼ばれた。心斎橋筋は新町遊郭と道頓堀を結ぶミチとして発展し、小売店が立ち並ぶようになった。近代以降刑場や墓地であった千日前にも繁華街が広がり、難波駅や湊町駅が開業すると一気に拡大した。
タブララサ(焦土)から難波開発の系譜
1935年(昭和10年)地下鉄御堂筋線が開通し同時に南海難波駅と接続した。拡大していく郊外から都心への流入増加、国土軸にある梅田との接続で難波の近代化が本格的に始まったわけだが、南海電車の直接のキタへの乗り入れは4度にわたり大阪市に却下され現在に至っている。昭和20年3月の大阪大空襲で難波は焦土と化したが、難波駅と路線は奇跡的に焼けずに残った。戦後開発の幕開けを担ったのは南海ホークスと大阪球場であった。鉄道会社でありながら路線の先に施設を作るのではなく都心の難波の中心に夢の球場を作り青少年の健全な育成を計ったことは現在の南海電鉄の開発姿勢に繋がっていく。
1983年(昭和53年)難波駅が地上三階に上がることにより下層階になんばCITYが開発された。コンセプトは①ミナミの復権②21世紀を指向するビジョン③郊外生活の拠点④ディベロッパー主導型の街づくり、である。南海サウスタワーホテルの開業は1994年(平成2年)である。難波のスカイラインが大きく変わったことは記憶に強く残っている。従来鉄道が地に沿って進む面から鉛直方向にも拡大する球体的開発である。球はその中心点をミナミへミナミへと移動させながら多層的な都市構造を産み出していく。

南海難波駅周辺は再開発地域となっており、2002年(平成14年)なんばパークス第一期が開業し屋上公園が話題となった。駅前の南街会館跡地にはなんばマルイがオープンし1932年(昭和7年)関西した南海ビルは難波駅と高島屋が入るテラコッタ貼りのコリント様式のビルであるが、その高島屋も本館の改修と新館の増床を2011年(平成23年3月)にオープンさせた。高島屋は2007年のなんばパークスの2期工事で専門店街のプロデュースも担い、ミナミの集客には大規模な投資と役割を果たしてきた。
南海ターミナルの開発コンセプトは「伝統と先進」である。昭和7年の南海ビルを残すことも保存再生という意味で意義がある。南海ビルにダイキンの冷房を取り入れたのも食堂車を導入したのも南海が初めてであり先進的気風はそのころから引き継がれている。長年親しまれたロッケト広場を改修しガラスの大屋根で覆われたガレリアが新設されインバウンド向け総合インフォメーションも開設され新しいターミナルの在り方を模索している。ここを起点に難波はミナミミナミへその拡大を続けている。平成19年にオープンした「なんばこめじるし」はスタッフがミナミの413店舗を食べ歩き厳選した13店舗が集結している。南海電車の高架は昭和13年に完成し75年にわたって南海電車を支えてきた。この周囲の記憶が重層した産業遺構ともいえる場に平成26年4月に人々が集まる商業空間EKIKANが
開店した。昭和初期から街と街を繋いできた鉄道高架は新しい役割を担っている。また南海第一ビルでは大阪府立大学と地域活性化連携協定を結び観光と文化と地域を結ぶ拠点づくりと人材育成を進めている。新会館ビル建替計画は「都市再生特別地区」の事業としてNANBA SKY,O 超高層ビル(84000㎡)で30年9月の開業を目指している。
オルタナティブな地ナンバからシビックプライドの醸成
なんば駅前広場 歩行者優先社会実験が実施された。官民協働の公共空間の活用である。道路にウッドデッキを張り、カフェによるにぎわいを創りだし、憩の空間演出を実現した。人は都心でのくつろぎ空間を求めている、実施後のアンケートでも確認された。公共性と事業性のバランスをとりながら、「上質な空間も合わせて整備し街の深みを増幅させていく。既成の市街地をリノーべーションしながらナンバのすそ野をミナミまで広げていく。御堂筋千日前以南モデル地区における社会実験は地区の整備を80周年を迎える御堂筋の周年事業として市民から発信していく。「歩いて楽しい大阪」への転機に歴史ある御堂筋を世界のメインストリートに伍する通りにしていくことを目指す。通行空間から滞在空間への転換である。南海電鉄は道頓堀遊歩道(とんぼりウォーク)の運営管理も受託しエリアの回遊性強化に一役買っている。2017年「行くべき世界の場所52」に大阪が選ばれた。和田氏が主導する南海電鉄の街づくりは「なんばの杜」を掲げている。まちを構成する個々の要素のハーモニーである。まち全体を杜になぞらえた概念で、高島屋、スイスホテル、なんばCITY,、なんばパークスはスカイラインを構成する高木、戎橋商店街、千日前商店街、法善寺横丁などの通りは歴史ある繁華街としての森であり植生(特性)を際立たせる、老舗名店や集客力のある個店は個性を主張しながらまち全体の価値を高める林床、そして有機物に富んだ土壌は沿線を含めたなんば全体の歴史風土である。エリアブランディングはこれらの個々の個性や特徴が全体として協調するハーモニーを醸し出しまちのブランドイメージを想起させる。個人それぞれがまちのビジョンを共有し、共通の方向性を認識し、まち全体の空気感を生みだす時シビックプライドを感じて「すでにその街にあるものをどう活かすか」という行動に現われ、エリアブランディングが成立する。梅田でもない首都圏でもない、なんば独自の新しい価値を創造し発信していくこと。二極性や対立物ではないオールタナティブ(対置物、選択性)としての なんばを目指す。そしてその背景となる大阪の歴史的背景を掘り起し、次世代の大阪文化をインキュベートすることが和田氏が主導する南海電鉄まちづくり創造事業のミッションである。

結びとして
都市の魅力とはストリート(通り・街路)やスクエアー(広場)の魅力であり、強制されず任意のアクティビティが許容される自由なオープンスペースである・訪れた街のイメージはSOLIDな「図」ではなくVOID「地」の部分である。歩行者空間が街の魅力の決め手である。デザインすべきものは建築の集合体でもなく道路でもない。「建物の間のアクティビティ」である・ <ヤン・ゲール>