理事長の橋詰です。第8回水口ゼミ(2018/09/26)のレポートです。

はじめに

9月水口ゼミナールは元アシックス植月正章氏の特別講演に続き、アシックスの企業博物館である<アシックススポーツミュージアム>を訪問することになった。我が自叙伝ともいうべき植月氏の熱のこもった特別講演に続いて、鬼塚喜八郎のオニツカとアスリートの「熱」と「魂」がこもったアシックススポーツミュージアムの空間展示体験、そしてOBである端氏によるスポーツメーカーによるマーケティング戦略の話である。

 

スポーツの進化を知る体感ミュージアム

神戸三宮から北埠頭行きのポートライナーに乗って、「中埠頭駅」にあるアシックススポーツミュージアムを訪れた。アシックススポーツミュージアムは、アシックスの企業史を学ぶとともにスポーツの進化を学び体感することができる企業ミュージアムである。施設は二層の展示構造で構成されている。まず順路としては二階から始まる。フロアテーマは「ヒストリーフィールド」で創業から現在までを商品を通してアシックスの企業理念や歴史と活動を感じるフロアである。構成の詳細を説明すると、<シアタールーム>ではアシックスの歴史を紹介した映像が流れゆったりとした空間で理解することができる。内容は「響きあう心」「ものづくりの心」「世界のアシックスへ」である。<コーポレートヒストリー>の展示コーナーではアシックスの創業から現在までの歴史とその時代を象徴する商品を紹介している。アスリートヒストリーの展示は、アシックスを使用している選手のサイン入りシューズなどが選手のプロフィールと共に展示されていて、スポーツ好きの人にとってはテンションの上がる展示エリアである。<プロダクトヒストリー>の展示はアシックスの活動・サポートを、オフィシャル商品などを通じて紹介している、あわせてカテゴリー別のシューズの紹介も展示されている。「一階のフロアテーマは「アスリートフィールド」で、アスリートの素晴らしいパフォーマンスを体感し、競技シューズやウエアを見て、触って、感じることでその凄さを理解するフロアである。陸上・テニス・野球の三種目が躍動感あふれるトップアスリートのパフォーマンスを138インチの<スーパービジョン>で見ることができる。<バーチャルビジョン>の展示では光を使ってアスリートが実際に100mを駆け抜けるスピードや野球でピッチャーが投げる球の速さ、テニスの真剣勝負などが目の前で繰り広げられる、約10分間の体験展示である。<走・跳・投>の展示では実際に使用する陸上競技用具に人体シルエットを重ね合わせ、世界記録によるトップアスリートの超人的な凄さを展示表現している。ちなみにウサイン・ボルトが100m走で世界記録を出したときの一歩の歩幅は2.9mで、床にはその時の足跡がマーキングされていた。同様に三段跳びの足跡の歩幅も驚くべきながさであった。また陸上競技や種目の歴史と豆知識も合わせて解説されていた。<触>の展示コーナーでは、様々な競技種目のシューズやウエア、用具が展示されていて、実際に触れてみて知る展示コーナーである。その他一階では「クラフトルーム」が設置されていて、イベントでミニシューズがその場で製作することができる。

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企業博物館とは

ここで企業博物館について述べておきたい。企業博物館は企業の歴史や事業展開や企業遺産、企業の近代化のプロセスを展示する空間・場として設立される。日本は長い歴史を持つ企業が多いこともあり世界的に見ても多くの企業博物館が開設されている。現代日本には約500以上(2013年時点)の施設が確認されている。施設の目的としては宣伝活動という意図だけではなく、企業理念やアイデンティテイの表明、社会貢献活動あるいはCSR活動の一環として位置づけられるなど、いくつかの目的を持って設立される。このように企業コミュニケーション活動として位置づけられた企業博物館は1970年代から80年代にかけて多く設立されていった。設立の経緯や展示方法には違いがあっても、いずれの博物館も一般市民や従業員、取引先とのコミュニケーション手段として使われてきた。いわゆる「企業CI」(企業は何者であって、いかなる業績を残し、これからどのような方向に向かうのか)を示す空間・場といえる。1995年頃から日本においても企業博物館の研究が行われるようになった。ものづくり企業へのアンケート調査から<史料館、歴史館、技術館、啓蒙刊、産業化館>の5種類の分類やその運営実態による分類として、美術館系・博物館係・企業文化広報館系・文化ホール系という分類もある。2000年頃からは国立民族学博物館関係の研究者による新たな視点からの提唱として「企業博物館は神聖化装置」といったユニークな主張もある。日本の企業博物館は日本企業に浸透している日本の文化的特徴の表出と解釈した考察である。一方海外のでは「博物館のような展示手法を通して、従業員や顧客、一般大衆に対して、企業の歴史や業務、関心事を伝えるための企業施設」といった定義があり、また組織論や心理学、歴史学、博物館学、社会学での記憶に関するレビューから組織記憶として機能する企業博物館という考察・研究もみられる。いずれにしても企業のコミュニケーションの大きな役割を担うのが企業博物館である。

 

語っていただいた、アシックスOB端氏の思い。

さて今回のゼミに戻りたい。施設見学後は先の植月氏の講演を受けて、OB端氏によるアシックスのマーケティング活動の歩みについてお話いただいた。

アシックスの創業理念は1945年創業者 鬼塚喜八郎が目撃した敗戦後の神戸で目撃した騒然とした光景である。「なんということだ。戦死した戦友たちは何のために死んでいったのか、平和な日本をつくるために、子供たちを守るために、死んでいったはずなのに、なんて有様だ。」日本の未来を担っていく日本の青年のために一生を尽くすこと。これが鬼塚喜八郎の「熱」の原点である。創業者の理念としてのスポーツマン精神五カ条はここから生み出された。 一、スポーツマンは礼儀を重んずる 一、スポーツマンはルールを厳守する 一、スポーツマンは闘えばベストを尽くす 一、スポーツマンはチームワークに徹する 一、スポーツマンは目標を求め絶えず鍛錬に励む <鬼塚喜八郎>

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創業からのマーケティング戦略は一点集中作戦(キリモミ作戦)で弱者の戦略ともいわれる。トップ戦略とシャワー効果によりマスメディアの露出を高め、製品の優秀性の訴求である。製品開発は現場のトップ選手から要望や意見を聞き改良を継続実現していった。全国の名だたる競技大会はくまなく営業をかけ、知名度を上げていった。アシックス時代になってからもこの創業理念、営業哲学をビジョンとしてかかげ、「スポーツで培った知的技術により、質の高いライフスタイルを創造する」そのためにアシックスブランドの構築と多ブランド戦略の見直しを進めていった。人材育成としては、マーケティングマインドの醸成とマーケッティング塾の開催を続けた。この頃MCEI創設理事の水口氏との出会いがあったのだ。

創業以来引き継ぐモノづくり

お客様起点であるがあくまでスポーツの現場で、アスリート自身からの意見・要望に耳を傾けることと競技の現場からの気づきである。「七転び八起き」、「失敗を恐れない」も鬼塚喜八郎から学んだことである。次にあげるのは、端氏が語る商品開発の五原則と附則である。 @スポーツ文化貢献の原則 A独走探究の原則 B機能優位性の原則 C接点価値の原則 D客観的検証の原則 附則 @マーケティングセオリーの原則 Aプロセス踏襲の原則 B商品鮮度管理の原則

客観的検証の十カ条 1.ターゲットは明確であるか 2.ターゲットのニーズを十分満たしているか 3.ターゲットへの訴求ポイントは明確化 4.独自技術に新規性、優位性はあるか5.商品品質は十分保持されているか 6.販売価格はユーザーに受容されるか 7.商品には店頭での視覚価値が備わっているか 8.卸店、販売店様のニーズを満たしているか 9.市場規模に魅力はあるか 10.市場の成長性は高いか  以上がお話の骨子で、熱く語っていただいた。

 

創業69年、アシックスのブランド戦略

現在アシックスは2020年に向けて中期経営計画「ASICS Growth Plan(AGP)2020」を推進している。アシックスはアシックスブランドで競技用シューズやスニカー、アスレッチクウェアなどを製造販売する。とりわけマラソン競技、バレーボールなどで高いブランド力を持つ、現在国内では同業界内で売上高一位を誇る。海外売上高は年々拡大して2015年には海外売上比率76%を達成し、グローバル企業としての知名度は高い。企業価値にして40億米ドルを超えるアシックスは、一貫したマーケティング戦略を持たずに来た企業としては、驚くべきスケールである。2020年東京オリンピック・パラリンピック大会のゴールドパートナーとなったアシックスは、現在ブランドの再構築という変革の真只中に在る。その切り札役を担うのがポール・マイルズ氏である。日産自動車では、アジア太平洋地域のマーケティングと広報を担当し、現在はアシックス初となるグローバルブランドマーケティング担当統括部長として「陣頭指揮をとる。日産以前はフランスでユニクロを立ち上げるなど国際経験豊富である。マイルズ氏が現在取り組んでいることが、「オニツカタイガー」と再スタートを切ったサブブランド「アシックスタイガー」のマーケティングで、これによってマーケティングに一貫性を持たせることが彼の重要なテーマだ。日本企業のブランドをよりグローバルな存在にするお手伝いがしたい。日本人とアメリカ人の血が半分ずつ流れるマイルズ氏は「熱」を持って語る。一方世界的にEコマースへの移行が進む中で、顧客との接点であった大手お小売店の淘汰が加速する中で、アシックスはロンドン・東京・ニューヨークといった世界の中心都市で旗艦店をオープンするとともに、自社のEコマースの拡充を進めている、いわば顧客接点の再構築である。顧客の思考もスポーツを様々なイベントと組み合わせて楽しむ傾向が強まっている。そのためにシューズの開発拠点を最先端のトレンド情報が集まる米国ボストンに設立し、開発体制の再編を実施した。この新しい体制で、ライフスタイルに融合したデザイン性と機能性を兼ね備えた新製品を生み出している。また顧客との情緒的なつながりを築くために、2017年8月より新ブランドメッセージ「I MOVE」(私を動かせ)によるキャンペーンをスタートさせている。アシックスは鬼塚喜八郎が創ったオニツカタイガーから、そしてその「熱」の居場所からずいぶん遠いところを歩み始めているのだ。

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オニツカタイガーとナイキの関係

先のゼミで<余話>としてしか触れられなかったが、ナイキとオニツカタイガーの知られざる関係について述べておきたい。ブランドには幾つかの秘められたストーリーがある。これは「ナイキとオニツカタイガーの知られざる因縁」についての物語である。

ナイキ創業者のフィル・ナイト氏は、オレゴン大学時代に陸上選手として活躍していた。後になってスポーツ界をある意味牛耳る男は根っからアスリートだったのだ。その後陸軍を経て退役した後名門スタンフォード大学ビジネススクールに進学して、自分が精通するスポーツ界でのビジネスプランを練るという課題において「日本のスポーツシューズは、カメラ分野と同じくドイツ勢に迫り勝てるのか?」というテーマで論文を書いた事が後に知られている。この時からナイトは日本の技術力の高さや製造コストの低さに注目し、日本のスポーツシューズが世界に通用すると信じていたのだ。大学院を修了したナイトは父親から借金をして世界を巡るバックパッカーの旅に出た。鬼塚喜八郎とナイトが出会うのは1962年11月その旅で神戸に立ち寄った時である。オニツカタイガーの低価格で高性能のシューズに感激していたナイトは、鬼塚喜八郎に面会し、米国西海岸での販売代理店契約をその場で決定した。旅の途中で「日本人と仕事をする方法」という本を丸暗記したナイトは、オニツカ本社で「アメリカのランニングシューズ市場は10億ドル規模になる」「自分はオレゴンにあるブルーリボンスポーツの代表だ。」とハッタリをかましたのだ!「ブルーリボン」は陸上競技で好成績を収めた選手に贈られる賞状のことだ。ちょうど米国進出を計画していたオニツカは信用して契約を結んだのだ。その後ナイトは公認会計士の資格を取り、プライスウォーターハウスで働きながらブルーリボン社を経営することになる。オニツカのランニングシューズは米国でも好評となった。当時世界のランニングシューズ市場はドイツのアディダスが圧倒的シエアを持っていたが、オニツカはアディダスに引けを取らない人気を獲得した。

鬼塚喜八郎はのちに語っている。「裸一貫で事業を始めたいという彼の心意気に、創業当時リュックをかついで全国を歩いて営業した自分の姿が重なり、この若者に思い切って販売代理店をやらせてみることにした。」(日経新聞「私の履歴書」より)当時、鬼塚44歳ナイト24歳であった。海外進出という合理的な理由よりも「勢いのある若者の可能異性を信じたい」という心意気で決断したのだ。それは「情熱」だった。いや単なる「熱」といってもいい。これは、現在もっとも忘れられているコトなのだと思う。BRS社と販売会社設立の計画を進めていたところ、日本の商社の勧誘で他のメーカーからの仕入れに切り替えてしまった。「驚いた私はすぐに別の販売店と契約したが、日本の商習慣になじまないこのドライな行動に裏切られた気がしたものだ。」(日経新聞「私の履歴書」より)まずいことにBRS社が使っていたニックネームを引き続き使用していたため、その使用権の帰属をめぐって両社は対立し、訴訟を起こされた。結局オニツカは、和解金一億数千万円を払うことになる。海外展開をするうえでの良い経験とはいえ、高い授業料となった。その後ナイトはパートナーを日本ゴム(現アサヒシューズ)に変え、自社ブランドのシューズ生産に乗り出した。この時事業資金を提供したのが日商岩井(現双日)ポートランド支店にいた営業担当の皇(すめらぎ)孝之だった。1970年ナイト32歳の時である。これが後に急成長したナイキとオニツカ(後のアシックス)の関係した「話」である。今や世界NO1スポーツブランドとして君臨するナイキと、アディダスに次ぐ世界NO3の座を狙えるまでのポジションにいるアシックスであるが、アディダスやプーマといったドイツの牙城を崩した両ブランドの創業者がその事業の黎明期に出会い、一時代を築き上げてきたという事実は興味がつきない。

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アシックスブランドと企業博物館の未来は(むすびにとして)

アシックスは日本の製造業の歴史や技術の上に成り立つ優れた企業でありながら、この業界で「揺るぎない第三位」のポジションではない。言いかえれば、まだ挑戦者の立場に在るブランドなのだ。アシックスにとっての喫緊の課題は至ってシンプルなのでは、それはスポーツアパレル業界の世界市場を独占するナイキとアディダスに続く、世界三番目の地位を確立することである。これは簡単なことではないが、適切な戦略を練れば決して不可能ではない目標である。皮肉にも、もともとナイキはオニツカタイガーが米国に進出した時の販売代理店であった。ことは、先にのべたところである。「日本のカメラがドイツのカメラを打ち負かせるのなら、日本のアスレチックシューズだって、ドイツのアディダスやプーマを打ち負かせるはずだ」というナイトの卒業論文での仮設提示は一部が正しく、一部は間違っていた。アディダスの牙城を崩したのはオニツカだったが、世界市場を席巻したのは米国ブランドのナイキである。アシックスの売上高は4000億円でナイキの3兆7700億円(343億米ドル)とは一桁違う。靴作りをオニツカから学んだナイトは、その後足を止めずに突き進みナイキという世界ブランドを築きあげた。オニツカは良い靴を作ることに専念しすぎたのか?しかしオニツカに飛び込みで訪問したときのナイトは「大学を出たばかりの私には、人生で何をしたいのか、まだはっきりしなかった。でもアスレチックシューズを売ってまともな暮らしができるなら、それが理想だと確信していた。だからそのビジネスを、自分や家族を支えられるところまで発展させたかったんだ。」フィル・ナイト

ナイキの起業の原動力はとても純粋なもので「熱」といってもいいものであった。アシックスも次のスッテプに向けて新しいマーケティング戦略を展開しているが、この局面だからこそ、マーケティング理論だけではなく、オニツカ伝統の「熱」というものを伝え続けてほしいものだ。歴史と伝統を誇るアシックスだが現在多くの日本人ですらいまだ日本発のブランドであることを知らず、あいまいに「国際ブランド」として認識しているのが実情である。だからこそ、日本に深く根付いた伝統的要素を伝えきれていない側面は否めない。今まで述べてきたように歴史に裏打ちされた優れた企業ブランドを次のステップに押し上げるために、アシックスのスポーツミュージアムの事例に限らず「企業博物館」は今後重要な位置を担っていくと思う。

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