はじめに

MCEI大阪・10月定例会はダイキン工業のテクノロジー・イノベーションセンター(以降TIC)での野外研修会である。新大阪から専用バスで約25分、バスの車窓から淀川の本流から三国川(現:神崎川)が分岐するあたりに「江口」というバス亭が目にとまった。大阪市東淀川区の東端で、かつては交通の要衝で、平安京から山陽、南海、紀伊への重要起点であり朝廷の所領がこの地に設定されていた。「江口」は能の曲名・三番目物、観阿弥原作、世阿弥改作でも知られている。旅の僧と遊女江口の君の幽霊の話である。

TICの目の前を流れる淀川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。流路延長75.1㎞、流域面積8240キロ㎡、流路延長は琵琶湖南端からの距離である。河口から最も遠い地点は滋賀県と福井県の分水嶺である栃ノ木峠で、そこから河口までは直線距離で130キロある。流域人口は西日本で最も多く、琵琶湖に流入する河川や木津川を含めた淀川水系全体の支流は965本で日本一多い。この淀川を抱く様に建つ6層の建築の外観は9本の白い水平チューブで構成され、不思議なほど圧迫感がなく、周辺の流域の風景になじんでいる。所在地は大阪府摂津市の西部である。エントランスに入ると大きなガランドウともいえる三層吹き抜けの大きな空間である。このホールには受付カウンター以外はいっさい家具は置かれていない。目をひくのは3階にいたる大階段と敷地内の森から送られる外気を取り込む大きなガラスのパネル、内壁は大きく折られた折り紙のような壁で立体感と躍動感を表現している。天井は満天の星をちりばめたようにダウンライトがレイアウトされている。TIC、この建築は近代以降、特に産業革命以降追求され、具現化されてきた近代建築と一線を画した、ナニモノかであることを予感させられる。

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建築施設としてのTICとは

TICの「圧倒的省エネ性能」を上げてみると、標準のビルと比較してエネルギーの70%を削減しているが、そのなかでも空調・換気は80%の削減を達成している。まさにZEB(ゼロエネルギービルディング)の具現化である。そして空調の効率化をはじめ、快適性を維持する空間を実証し、「個人差」や建物内での「人の分布」を考慮した「室内環境の指標」を検証し、生産性向上を図る空調制御による「快適な室内環境」を実践している。自然エネルギーの有効活用のため、太陽光追尾架台を屋上に施設、熱の有効利用のために熱幹線、水熱源VRV、太陽光州熱、地熱、フリークーリングなどを活用している。建物の外皮性能は省エネ性向上のためゼッフル遮熱塗料(フッ素樹脂系)を塗布している。窓や開口部のガラスはLow−E複層ガラスで自動換気、自動採光である。空調の超高率化と最適制御のために、エネカット、TBAB、蓄熱、最適モード運転、多分割グリッド、VRV・DESICAなど様々な技術が導入されている。その他持続的な排水管理として中水処理システム活用、節水としては超節水器具採用と大規模な雨水利用を導入し、地域への環境対策としては敷地内に「自生植物の森」を創出している。この結果TICは、国内外の建築環境評価認証である、LEED認証で最高ランクのプラチナを、CASBEE認証では最高ランクのSクラスを取得している。

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建築のことに戻る、TICは2015年11月日建設計・NTTファシリティーズの設計・監理と竹中工務店の施工で竣工している。地下1階、地上6階、塔屋2階、延べ床面積は47911.86㎡の鉄骨造・鉄筋鉄骨コンクリート造の建築である。建築計画にふれておく、この建築は大きく「実験棟」と「オフィス棟」の二つのゾーンで構成されている。オフィス棟はエントランス空間から始まり建築空間を垂直に貫く光井戸(ライトウエル)に6階はフューチャーラボ、フェロー室が5階はワイガヤステージ、4階は集中ブース、集中ルーム、3階は知の森が連続して繋がっている。4階・5階がオフィス空間で先ほどのワイガヤステージがその真ん中に位置している。部門を越えたミーティングがすぐにでき、まさに700人の技術者が一つの空間に集結してダイキンが大事にしている経営理念の一つ「フラット&スピード」を実践し社内の共創を加速させている。TICを訪れた人々が自由に議論やコラボレーションを深め、未来を切り開くために専門家から一般ユーザーまで対話を引き出す場が、6階にあるフューチャーラボやフェロー室、そして3階にある知の森である。6階のデッキからは淀川流域の景観眺望が得られ、まさに10年、20年先のイノベーションテーマを引き出すにふさわしい建築空間である。実験棟は世界最高レベルの実験設備でイノベーションを具現化するために、社内だけではなく国内外の研究機関・企業と協創できる実験室を設置している。一階には10m電波暗室、5階には化学実験室も設置されていて、まさに「技術のダイキン」のコア拠点にふさわしい建築施設である。

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ダイキン工業について

ダイキン工業株式会社は1924年大阪で創業して以来、大阪市に本社を置き世界五大陸38か国に拠点を展開する空調機と化学製品の世界的メーカーである。1951年(昭和26年)日本初のエアコン開発に成功、ビルなどの業務用空調設備を特異とし、現在40%の圧倒的トップシェアを誇っている。同年に迫撃砲弾の生産も始めている。家庭用ルームエアコンではパナソニックについで2位、競合家電メーカーのように系列販売店を持たないが、大手家電量販店に積極的に販路を開拓し、「うるるとさらら」がヒットしたことが功を奏したものだ。1963年(昭和38年)商号を「大阪金属株式会社」から「ダイキン工業株式会社」に変更、1972年(昭和4年)「ダイキンヨーロッパ」設立、2008年(平成20年)には環境省からエコファースト企業として認定された。

ダイキンの現在を支える成長の三つの源泉は「人」・「環境」・「進取の精神」である。ここでグループの理念をあげておく。1.「次の欲しい」を先取りし、新たな価値を創造する。2.世界をリードする技術で、社会に貢献する。3.企業価値を高め、新たな夢を実現します。4.地球規模で考え行動する5・柔らかで活力に満ちたグループ6・環境社会をリードする7・社会との関係を見つめ、行動し、信頼される8・働くひとり一人の誇りと喜びがグループを動かす力9・世界に誇る「フラット&スピード」の人と組織の運営10・自由な雰囲気、野性味、ベストプラクティス、マイウェイ 以上である。

空調機事業では2010年に米国のキャリア社を抜き世界第一位となった。また化学製品でもデュポン社についで世界第二位である。そしてフィルターによる換気事業についても世界第一位である。ダイキンは約150か国で事業展開していて、海外売上比率は70%で従業員の80%が海外で働いている。現在2020年に向けて戦略経営計画「FUSION20」のもとグローバル社会の持続可能な発展のために新分野に取り組んでいる。

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ダイキン工業の創業者 山田晃氏のこと

山田晃は1924年(大正13年)、後にダイキン工業となる合資会社 大阪金属工業所を設立、初代社長を務めた。フロン冷凍機械技術とフッ素樹脂などを独自開発し後のダイキン工業の主力となるエアコン開発の礎を築いた。

生い立ちと経歴で創業者ともいえる松田晃氏の人物像を描いてみたい。1884年(明治17年)山口県厚狭郡船木村(現 宇部市)に厚狭毛利家の家臣であった松田隆三の二男として生まれるが、当時松田家は裕福ではなかった。尋常小学校高等科二年終了後、一時漢方医の書生となったが、小倉で紙箱製造販売をしていた兄の誘いで小倉に移る。二年間の受験勉強の後、福岡県立小倉工業学校・機械科に入学、当時クラスで最年長であったが翌年から特待生となった。技術者としての山田晃氏の誕生である。1907年(明治40年)卒業し、12月に山口歩兵第42連隊に志願兵で入営、その後少尉に任官後退役し、1909年(明治42年)大阪砲兵工廠に就職した。この頃の、エピソードがある。「陸軍では作戦遂行上装備の色を黒から褐色に変更したが、飯盒や水筒に塗布すると人体に有害であることが判明した。大阪砲兵工廠に無害な褐色塗料の開発が命じられたが工廠内の研究は難航していた。この問題を知った山田晃は、専門外の化学分野であったが、文献調査や道修町の薬問屋を回り褐色塗料の焼き付け塗装法やさらに漆と練り合わせる今混練機を考案し、人体に無害な褐色塗料を実現した。」1912年(大正元年)山田園冶の長女と結婚し山田性となる。その後、才能よりも学歴を重視する工廠の組織風土や過労による健康障害などで1919年(大正8年)8月大阪工廠を退職、退職にあたり工廠から神戸製鋼所門司工場の転職の斡旋を受ける。同年入社、山田晃は官棒工場に配属された。3年間の在職中に横型水圧機によるパイプの押し出しに成功している。1922年(大正11年9大阪砲兵工廠での上司であった松井栄三郎(当時東洋鑢伸銅取締役工務部長)の推薦により神戸製鋼所を円満退社し、東洋鑢伸銅に入社。同社は当時ヤスリと伸銅の二部門があり、山田氏は伸銅部門に配属された。ここで製造される型鍛造品は海軍の潜水艦の部品に採用された。山田氏は大阪砲兵工廠時代の人脈を生かして自身の信頼度を高めていったのだ。1923年(大正12年)中島飛行機製作所から「ニューポール」式飛行機の国産化に伴うエンジン冷却用ラジエーターチューブ製作の話が持ち込まれた。この時重役のほとんどが受注に反対したが、山田氏は強硬に受注を主張し、「欠損を出したら責任はすべて山田がとる。」との条件付きで受注した。難波新川に休業中の魔法瓶工場を借り、陸軍造兵廠工廠を退職した永田浅五郎を職長に迎えて受注した30万本を納期までに完納したが、製造コストが予定の2倍となり5000円もの大金を山田氏が負担した。1924年(大正13年)二回目の注文を機に独立を決意した。同年10月「合資会社大阪金属工業所」を設立した。山田氏39歳のときである。事業目的は飛行機部品で主として放熱管の製作販売、一般金属の圧搾および搾伸作業であった。川崎造船飛行機部からは「サルムソン飛行機」国産化のためのラジエーターチューブ、東洋紡績からは、糸を巻く木管に取り付けるリングを搾伸法を用いて量産した。これらが創業初期を支える商品となった。1928年(昭和3年)今宮工場操業開始、1929年(昭和4年 37ミリ速射砲の薬莢を受注、その後信管、弾丸も受注し工場の規模を拡大していった。

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フロン製造開発のことについて、1930年(昭和5年)米国GMはシクロジクルオロメタン(R−12)「フロン」には毒性、腐食性、引火性、爆発性がなく冷媒ガスとして優れていることを発表した。米国海軍はフロンを潜水艦の冷媒装置に採用した。この情報は日本海軍の少将で顧問の太田十三男から山田晃氏にもたらされた。この(情報を受けて1933年(昭和9年)今宮工場でフロンの研究が始められ、平行して冷凍機の開発も着手された。1934年(昭和9年)従来のメチルクロライド式の試作1号が完成し「ミジフレーター」の商標で市場へ送り出した。1936年(昭和11年)この「ミジフレーター」を南海電鉄の2001型電車に搭載し、日本初の冷房電車が実用化したことは、昨年のMCEI定例会で南海の和田氏のお話の中で出てきたことである。1935年(昭和10年)フロン合成に成功、1938年(昭和13年)にはフロン冷凍機が完成し、伊号171潜水艦に試験搭載し良好な結果を得たが、先発の米国GMがフロン関連の特許を所有していた。日米関係が悪化する中で、1941年(昭和16年)特許収用例を適用し、海軍艦政本部よりフロン生産命令が出され、1942年(昭和17年9大阪市西成で「大阪金属工業株式会社」を創立。代表取締役に山田晃氏が就任した。この時の資本金は25万円で同年7月に100万円に増資する際、住友伸銅鋼管(現新日鉄住友)が49万5000円出資して資本提携を結んだ。1935年(昭和16年)堺工場建設着手、1937年操業開始。1941年(昭和16年)神崎川が淀川から分流する「地」に淀川工場を航空機専門工場として開設した。山田晃氏は戦後、大阪金属工業の会長を務めた。山田氏自身は大阪砲兵工廠での修練が人間像を形作る基礎工事であった、と語っている。畑違いの科学分野に踏み込んだ飯盒の褐色塗料開発は後のフロン開発につながり、創業時に取り組んだベンチャーともいえる飛行機用ラジエーターチューブ製造やその後の注油器国産化で培った機械製作技術の融合が「ミフジレーター」から「ダイキンエアコン」へと発展する原動力となった。

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結びとして

ダイキン工業が目指すテクノロジーの未来に向けて、TICは淀川流域に舞い降りた。それ自体が「空間」・「環境」・「エネルギー」分野を調和させながら事業対象を拡大するための野心的な建築である。空間や空気環境では、空気の質に加えて、生体センシング生理学を絡めてストレスフリーな生活環境づくりを目指している。モノづくりとしての製造面では、ナノテクノロジー、表面改質や合成技術、先端機能材料などの融合で、素材から空調ハードなどを一段と進化させている。さらにAIやICT技術を空調技術と融合させ新たな価値やサービスの提供を実現させている。2017年にはエネルギー分野でマイクロ水力発電の新会社を設立している。これまで培ってきた空調の省エネ技術を生かして再生可能エネルギーによる創エネ事業への挑戦である。TICには700人の技術者が集っている。専門部分野の異なる技術者は日々侃侃諤々議論し、オープンイノベーションにより社外の知見を融合し、新しいモノづくり、コトづくり、生み出すべく日々切磋琢磨している。テクノロジーを駆使した人工物は経済活動の産物であり、経済成長の源である。日常生活は多くの人工物で溢れているが、技術革新と社会の文化的伝統は相互に影響しあし、それは軍事力を発展させる手段でもあるということはダイキン工業の歴史をたどってみても明らかなことである。しかしダイキン工業は、多様な自然と文化を抱く淀川の流域で先進的な建築と共に未来に向けての持続的なイノベーションを創出している。

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むすびの結びとして「公私一如」とは

創業者山田晃氏は自身が貧乏ゆえに上級学校の進学を断念したこともあり、昭和初年より返済不要の学士援助をはじめた。山田氏は「公私一如」という言葉を好んだ。山田氏にとっての公私は公を先に考え私は後からついてくるという精神だ「公は必ずしも国家に限らず、もっと広く解釈して、各人が所属する社会、地域,階層、会社、協会、組合などの利害を第一におもんばかることを公というと私は思っている。」「こうなると、会社は私のものであって実は私のものではない。社長である私を含めて、この会社で働いている全ての人達にとって、大坂金属という会社は一つの統合のシンボルである。」このシンボルを敬愛する精神が、創業者山田晃が求め続けた「公私一如」の精神であった。