2018年はMCEI大阪が45周年を向かえます。今回の特別講演会は、水口ゼミとの同時開催で多くの皆様にご出席いただきました。このたびの記念講演には元アシックス専務取締役植月正明氏に登壇いただきました。植月氏は2003年に退任後も兵庫県陸上競技協会会長、近畿陸上競技協会副会長、神戸マラソン実行委員会会長など公職を歴任され2017年に勇退されました。今回の記念講演においては快諾のうえ登壇いただきまして、誠に感謝にたえません。

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アシックス世界ブランド構築への道のり

今や世界で誰もが知るブランド、と言えるであろうアシックス。シューズの機能性において右に出るブランドは無く、国内外を問わず多くのランナーに愛用されるアシックスブランド。欧米でのランニングブームではその牽引役となり、スポーツ業界においてシェアを拡大しつつある。企業価値にして40億米ドル、事業展開の75%は海外、一貫したマーケティング戦略をもたずに来た企業としては驚くべきスケールである。

鬼塚株式会社は1977年(昭和52年9月 株式会社ジィティオ、ジェレンク株式会社と合併し、アシックスが誕生した。アシックスの創業哲学は、古代ローマの作家ユウェナリスが唱えた「健全なる身体に健全な精神が宿れかし(Mens Sana in Corpore Sano)という言葉から着想を得ている。Mens(才知、精神)をAnima(生命)に置き換え(Anima Sana in Corpore Sano = ASound Mind a Sound Body)その頭文字を取った「ASICS」が社名となった。今回の講演の主題は、アシックスが創業者哲学を基に行ってきた「ブランドコンセプトと商品開発の一貫性」とは何か?である。

競合の二大グローバルブランドであるNIKIやアディダスは、世界のプロスポーツ界のスーパースターを起用した大規模な広告宣伝とプロモーションを積極的に行い、消費者にたいしてブランドイメージを醸成するという手法である。これには当然莫大な広告宣伝費が必要となる。この方法にたいしてアシックスは、トップアスリートの「足」に関わるデータをベースに地道な商品開発を積み重ね、一般の消費者には店舗にある測定器で科学的に分析し、最適なシューズの選択を可能にするなど、あくまでも「健全なる身体=シューズ利用者の快適さ」を主軸として取り組んできた。

これにより、履き心地や走りやすさを体感した、パフォーマンス向上や疲労感の軽減を経験したユーザーがリピーターとなっていくのである。あくまで商品(シューズ)を利用してはじめて感じられる価値、「体験価値」を高めることでブランド力の向上を図ってきた。他の大手競合社のように「ブランディング=広告宣伝活動」でイメージを作っていたならば現在の成長は見られなかったかもしれない。

アシックスはインターブランド社の世界のグローバルブランドトップ40にも名をつらねるグローバル企業である。しかしアシックス本社は世界各地のグループ企業の採用や人材育成を統括していない。販売やマーケティングが主体の海外ビジネスにおいては、現地の人材が中心となり組織を作り上げ、経営するという手法である。地域ごとの個別のマーケティング戦略は現地に任せるが、世界全体の戦略は日本の本社が統轄する、これがアシックスが考える管理体制である。世界全体におけるブランドの方向性、ブランドの立ち位置などの根幹にかかわる部分は日本の本社が統轄するが、人材は日本人にはこだわらない。

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植月氏と創業者鬼塚喜八郎の原点について

植月氏は1938年鳥取県智頭町に生まれた。氏が背中を追い続けた創業者の鬼塚喜八郎も同じく鳥取県気高群明治村(現鳥取市松上)で農業を営む坂口伝太郎の末っ子として生まれた。坂口家は元は小作人だったが、祖父伝十郎の代に地主となり農業の傍ら和紙、因幡紙の仲買人なども行っていた。ちなみに喜八郎の名は大倉財閥を興した大倉喜八郎にちなんでつけられた。商売の道との深いつながりを感じる。

1936年(昭和11年)鳥取一中(現鳥取西高校)を卒業、在学中は陸軍士官学校進学を目指したが肋膜炎になり療養生活を余儀なくされ断念する。1939年(昭和14年)徴兵検査で甲種合格、その三か月後に甲種幹部候補生試験に合格し見習い士官となる。同期から一年遅れで将校となった。見習士官時代に陸士出身の上田寛俊中尉と懇意となり、上田氏が養子縁組を結ぶ予定であった鬼塚清一夫妻とも知人となった。この縁が後の神戸三宮と繋がっていく。所属する連隊(姫路陸軍第10師団重兵第10連隊)はビルマ戦線に参加、喜八郎は留守部隊指導のため残留となったが戦地に赴いた上田中尉は戦死した。喜八郎は上田中尉から自分が帰るまで鬼塚夫妻の面倒を見ることを約束していた。「男の約束」であった。喜八郎は1945年内地で終戦を向かえ12月に鳥取に帰るが、神戸の鬼塚氏から上田中尉が亡くなったので面倒を見てもらえないか、と相談を受ける。喜八郎は上田氏の約束を果たすために、両親の反対を押し切って、神戸三宮に向かった。人と人、人と都市が不思議な縁で繋がっていく。

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1945年の神戸三宮は国際都市だった。
戦後の焼け跡には無秩序に外国人が入ってきて荒廃していた。治安も悪く、空襲の焼け跡には闇市が立ち、そこに流れ込んで住み始めた子供たちは非行に走っていく。アメリカの進駐軍も進駐してきて、日本の少女達がパンパンという売春婦となり彼らの手先となっていった。神戸の闇市は終戦直後、中国人が揚げ饅頭を一個5円で売り出したのが最初とされる。省線(現在のJR線)三宮から神戸の高架下、2㎞にわたりピーク時で1500軒の屋台がひしめいていた。高架南側の道路と緑地帯を不法占拠のバラックが埋め尽くした。1946年に兵庫県が実施した闇市の実態調査では、物資の入手経路は、産地への買い出しや、統制組合などからの横流れ品、生産工場の不正放出、盗賊品など多岐にわたる。敗戦後の騒然とした世相がうかがえる。闇市は「三宮自由市場」と名前を変えるが、全国的に闇市撲滅が叫ばれ、

1946年夏、国が取締を強化し、翌年2月バラック群は撤去された。このようなひどい有様を喜八郎は目の当りにし愕然とさせた。「なんということだ。戦死した戦友たちは何のために死んでいったのか、平和な日本をつくるために、子供たちを守るために、死んでいったはずなのに、なんて有様だ。」ここに喜八郎の原点が在る。(あるいはオニツカの事業展開の根幹)日本の将来を担っていく日本の青少年のために一生を尽くすこと。青少年を立派に育てて、健全な国民に育てていくことが、自分の使命である。」という考えに至った。

「次代を担う青少年の教育とは。」、「青少年を立派に育てるための仕事をしたい。」教師でもなく、軍人だったのでGHQにより教職にもつけなかった喜八郎の問いに答えたのが、戦友だった当時は兵庫県の教育委員会で体育保健課長だった堀公平だった。堀に青少年の教育について問うと「健全なる身体に健全なる精神が宿る。」との格言に在るように、教育の原点は心身共にバランスよく成長することだ。知育・徳育・体育を三位一体となって育成できるスポーツが最適である。スポーツマンシップを根幹にスポーツで鍛えることで青少年は育つ。だから君はスポーツの振興に役立つ仕事をしたらどうだ。」

この時のこの言葉が鬼塚喜八郎に一生の仕事と経営哲学の基礎を据えさせた。教職には就けない元軍人の喜八郎に、堀はスポーツ振興に役立つスポーツシューズを作ることを勧めた。神戸市にはシューズメーカーが集まる長田区がある。さっそく堀に紹介してもらった工場で働き始め、一年後の独立を目指して工場でシューズの製造方法を覚えていった。1949年(昭和24年9月)独立を果たし、スポーツシューズの専門メーカー「鬼塚株式会社」を創業させた。社員4人、資本金30万円であった。

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一点集中作戦と錐モミ作戦とは

ここで鬼塚株式会社(後にアシックス)が歩んだスポーツシューズ専門メーカーとしての歩みに植月氏の業績を重ねて振り返ってみたい。

鬼塚式シューズの製品開発はバスケットシューズからであった。当時兵庫県バスケットボール協会理事で神戸高等学校バスケットボール部監督の松本幸雄の勧めだった。「選手の足の動きをよく見ろ。」この松本の助言により、暇があるとコートに通い、選手達から要望を聞き製を改良していった。1951年(昭和26年)夏、キュウリの酢の物に入っていた蛸の吸盤に目が止まりソレをヒントにした全体が吸着盤のような凹型の靴底を考案し鬼塚式バスケットシューズとして販売した。その後全国の競技大会をくまなく営業して歩き知名度を上げていった。これが鬼塚式営業の始まりであった。このシューズブランドは、スポーツシューズにふさわしい強さと敏捷性を表す「虎印」とし鬼塚と組み合わせて「ONITUKA TIGER」印とした。

1953年(昭和28年)マラソンシューズの開発をめざし別府マラソンのゴールで選手を待ち構えて、足を調べた。トップ選手の寺沢徹はじめ選手達の助言や意見をあおぎ、空気が入れ替わる構造のシューズを考案し、特許を取得した。1956年(昭和31年)オニツカタイガーがメルボルン五輪日本選手団のトレーニングシューズとして正式採用された。

1961年(昭和36年)毎日マラソンで来日した、当時裸足のランナーで有名だったアベベ・ビキラ選手をホテルに表敬訪問し「裸足と同じくらい軽い靴を提供するからぜひ履いてくれ。」と説得し、シューズを提供。アベベはその大会で優勝した。

植月氏はこの時代に鬼塚株式会社に入社した。その経営方針は家族主義、スパルタ式、社員には見合いの世話、仲人をするなどした。また遼を設けて徹底した新人教育を施した。朝8時から夜の11時に及ぶこともあった。そのような鬼塚の背中をみながら植月はオニツカ株式会社のビジネス最前線に向かっていた。

1960年(昭和35年)ローマ五輪でメダルを目指す日本マラソン陣のサポートでは脚力をフルに生かすために軽く薄いスポンジ底の高機能性マラソンシューズを開発したがローマの硬い石畳に阻まれ、弾力性不足で惨敗の苦渋を味わう。この経験からマラソンコースの事前調査の大切さを学んだ。このときから植月氏には3つの目標が芽生えた。
一つは「いつかオニツカタイガーでオリンピックのメダルを獲得する。
二つ目は「金メダルを獲得する。」
三つ目は「メインポールに日の丸を揚げる。」
目標の期限は決めなかったがこの後の植月氏の道標となった。一つ目は1964年東京五輪で達成、銀・銅二つのメダルを獲得した。1968年メキシコでも銀・銅を獲得し二つ目の目標の金メダル獲得へと植月氏は心を高ぶらせた。1980年のモスクワ五輪はソ連軍のアフガニスタン侵攻でボイコット、1984年のロサンゼルス五輪は不振に終わり、1988年のソウル五輪ではとの思いで万全のサポート体勢を整えた。82年ヨーロッパ陸上競技選手権で優勝して以来快進撃を続けるロサ・モタ選手(ポルトガル)を擁しての大会で見事金メダルを獲得、同大会では男子金メダルのジュリンド・ボルティンカ(イタリア)もアシックスのマラソンシューズを履いていた。
残る三つ目の目標は高橋尚子選手によって2000年7月シドニー五輪で達成された。バレーボールでも1972年(昭和47年)ミュンヘン五輪は「オニツカ」にとって新しい歴史を刻む大会となった。8年計画で金メダルを目指していた日本男子バレーボールチームは、松平康隆監督のもと劇的優勝を飾ったのだ。結果は男子が金とソ連の銅、女子はソ連の金と日本の銀がオニツカタイガーのシューズを使用してのメダル獲得であった。
バレーボールシューズでは男子は実に83.2%の高い使用率であった。マラソンシューズでも地元アディダスを上回る41.1%のトップシェアだった。このミュンヘンの経験は1976年モントリオール五輪で大きく花開いた。この大会を植月氏は企画室長でむかえた。選手村にサービスブースを持つことができ、スタジアムまで5分の立地にアパートを借りて臨んだ。プレオリンピックからの2年間はモントリオール中心に年間300日家を空けるというハードな生活を続けた。年齢的にも仕事の上でも脂がのったときにむかえた五輪であった。

選手の立場からの製品づくりと、万全な状態でレースに臨めるようにするためのフォローアップ、そして何よりも信頼関係から築きあげられた絆によって成し遂げられたものである。

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アシックスの未来は、そのグローバル戦略

1977年(昭和52年)に株式会社アシックスとなり、日本の製造業の歴史や技術の上に成り立つ優れた企業でありながら、アシックスはこの業界で「揺るぎない第3位」のポジションではない。言わば、まだ挑戦者の立場にあるブランドである。アシックスの喫緊の課題は、至ってシンプルだ。スポーツアパレル業界の世界市場を独占するナイキとアディダスに続く、3番目の地位を確立することである。これは簡単なことではないが不可能な目標ではないだろう。

伝統と歴史を誇アシックスだが、多くの日本人ですらいまだに日本初のブランドであることを知らず、単に「国際的ブランド」として認識しているのが実情である。多くの日本人が子供のころからアシックスと共に暮らしてきたにもかかわらず、この歴史に裏打ちされた優れたブランドを次のステップに押し上げることが今後の課題である。2015年よりユニクロ、日産自動車に関わったポール・マイルズ氏がグローバルブランドマーケティング統括部長に就任している。正しい成長を成し遂げるために、ブランドポジショニングをはっきりと定位し、情報集約機能を強化するという。

余談として:(皮肉にも、もともとNIKEはオニツカタイガーが米国に進出した時の流通業者だった。NIKEの前身であるBRS社は、米国でのオニツカタイガーの販売代理店となっていた。スタンフォード大学で経済学を学んだ後、1963年卒業旅行で日本に立ち寄ったフィル・ナイトは、オニツカシューズの品質の高さと価格の安さに感銘を受けて、すぐさまオニツカ株式会社を訪ねて米国でのオニツカシューズの販売をやらせて欲しいと依頼したのだ。フィルはオレゴン大学の陸上コーチだったビル・バウワーマンと共同でブルーリボンスポーツを設立し、オニツカの輸入販売代理業務を開始したのだ。)

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結びとして、終わりなきオニツカタイガーの命懸けの跳躍

一つの統一性を持った宇宙を確立しながらもその外部(他者)に出会うたびになお変容する可能性を示す。「閉じつつ開いている」という不可思議なダイナミズムを持つ、単なる商品ではなく、時間と空間を超越し、しかも共同幻想にとどまらぬ価値を持ったブランド、創業者の鬼塚喜八郎の言葉と態度はブランドの命がけの跳躍を深く考えさせられるものであった。

ウィトゲンシュタインは、言葉にして「教える」という視点から考察しようとした。これははじめてではないとしても、画期的な態度の変更である。

「われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人」は、ウィトゲンシュタインにおいて、単に選ばれた多くの例の一つではない。それは「言語―聞く」というレベルで考えている哲学・理論を無効にするために、不可欠な他者をあらわしている。言葉を「教えるー学ぶ」という関係においてとらえるとき、はじめてそのような他者があらわれるのだ。私自身の“確実性“を失わせる他者。それはデカルトとは逆向きであるが、一種の方法的懐疑の極限においてあらわれる。

「教えるー学ぶ」という関係を権力関係と混同してはならない。「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。<探究Ⅰ 柄谷行人 1992年3月>

マルクスがいったように商品はもし売れなければ(交換されなければ)、価値ではないし、したがって使用価値ですらもない。そして、商品が売れるかどうかは、「命がけの飛躍」である。商品の価値は前もって内在するのではなく、交換された結果して与えられる。前もって内在する価値が交換によって実現されるのではまったくない。

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