6月定例会は、奈良を拠点に地域とそこに関わる個人の活性を目指して事業をプロデュースする、山本あつし氏の登壇である。その<方法>は多彩でありまさに思考の“ブリコラージュ”(後程解説]ともいえる。今回のお話は「余熱でプロデュースするカルボナーラ思考」である。あなたの身近にある「余熱」とは、それを「活性化して何をしますか、「○○をいかして□□をする!」が本日のテーマであり「余熱」はキーワードとなる。

山本氏は1971年生まれで、現在放映されているNHK朝ドラ「半分、青い。」の主人公、鈴愛さん律くんと同世代である。建築も学んだ山本氏は、大阪芸術大学でデザインプロデュースを教えている。またソーシャルビジネスを学ぶ場も主催しながら、各種事業プロデュースを手掛けている。

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1970年代のこと。「コトという幻想、もしくは虚構の時代」

山本氏が生まれ彼の幼少期を育んだ1970年代は過渡期であった。広告が商品の品質訴求から、イメージ訴求へと変わる時代であった。この年代以前の日本は、品質の向上を第一としてきた。国産品は安かろう悪かろうといわれていたのだった。品質訴求の時代は、「モノ」そのものの「良し悪し」をうまく伝えることを求められた。当時広告は新しい良きモノを語り、そこに新しい情報が在るから受けては待っていてくれた。メーカーにとって幸せな時代であった。しかし1980年代からメーカーの生み出す製品品質が上限に近くなっていった。

1970年代にもどると、この時代は現在のライフスタイルや文化の原型を形作った時代であった。その一部を素描してみたい。戦後から70年代半ばまでの間に首都圏に大量の人口が流入し、首都圏の人口集中が進んだ。この人口の急激な膨張で絶対的な住宅不足が明らかになり、住宅確保が喫緊の課題となる。これによって郊外の住宅開発が急速に推し進められ、多摩地域のニュータウンは1966年に着工し1971年から入居が始まった。このような郊外型の住宅地が定着したのが1970年代であった。当時はベビーブームによる子育て世代が多かったのである。


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ファーストフードの国内展開が始まったのも70年代である。1971年歩行者天国の銀座にマクドナルドの1号店が開店した、ファミリーレストランの「すかいらーく」も1970年に誕生している。当時は田圃や畑が目立つ甲州街道沿いに「レストランスカイラーク」のはでなビルボードとガラス張りのモダンな建築が駐車場を備えて出現した。郊外立地の店舗展開の始まりであった。これらのファーストフードやファミリーレストランという業態の上陸は日本人の食習慣を大きく変える転換期となった。それまでは食事は家でとるのが当たり前であり、このいわゆる「お袋の味」というものが幼い記憶に刻み込まれた最後の世代が山本氏の世代かもしれない。

暮らしに欠かせない大型総合スーパーは高度成長期から拡大し、1970年代に全国に広まった。1972年にダイエーが売上高で三越を上回り、小売業のリーダーの地位を百貨店から奪取した。ベビーブーム世代が子供時代を過ごした1970年代から1980年代にかけては家族で買い物に出かける人気のスポットであった。1974年日本でのセブンイレブン1号店が東京・江東区に開店し、1975年にローソン1号店が大阪。豊中に開店した。その後専門店の台頭やホームセンター、ドラッグストアが参入し現在の小売業態の状況を形成している。

マスメディアも1970年代に大きく変わっている。「女性誌」の誕生である。1970年創刊の「an.an」

はフランスの「ELLE」と提携し、誌名はモスクワのパンダの名前からとった。1971年創刊の「non.no」はアメリカのGLAMOURと提携し、誌名はアイヌ語で花という意味である。この2誌は高校生から20代前半をターゲットに、ファッションや旅行やグルメについて語り、「芸能情報は取り上げない「おしゃれな」雑誌であった。この2誌を片手に観光地を訪れる女性を「アンノン族」と呼び社会現象となった。新聞が国民皆読であった時代は終わり1975年頃から若者の新聞離れが深刻となり、誰もがNHKを見る時代の「終わりのはじまり」があったのも1970年代だった。ハリウッド映画の普及もこの頃からで、日本映画のシェアを洋画が上回るようになった。国際的な出来事を補足すると、1974年にウォーターゲート事件が起き、1975年サイゴン陥落でベトナム戦争が終結、1979年イラン革命によりホッラー・ホメイニによりイスラム共和国が成立した。第一次オイルショックは交通の停滞を巻き起こし、世界経済におおきな損害を与えた。1978年にキャンプデービッドの合意がなされ、1979年にはスリーマイル島の原子力発電所事故が起こり、アフガニスタンに旧ソ連が侵攻したのも1979年であった。

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人々の行動から建築や都市の在るべき姿を導き出す。

心が躍るあらゆる物事を作り出し、思い描いたビジョンを実現すること。大切なのは「余熱」=そこにあるものごとをうまく活かす「カルボナーラ思考」で、その思考は開示して広げることが大切であると言う。
便利に、効率的に進めるだけでは人は考えなくなる。少し不便でも、心に響くことに意識を向ける。そうすれば人はそのプロセスを楽しみ様々な可能性に気付く!この山本氏の思考の流れに繋がる先達の思考と行動が過去にあった。「考現学」である。

考現学は今和次郎らによって1920年代に実施された一連の社会調査を指す。人々の行動に関するものを対象とした徹底したフィールド調査により、不定形で変化の激しい都市の風俗を科学的に扱おうとする先駆的な試みであった。今はそれまで柳田國男らとともに農村における民家研究に取り組み成果を上げていたが、1923年(大正12年)の関東大震災の東京において「見つめねばならない事象」の多さに気付き、廃墟の中から立ち上がるバラック建築をはじめ日々移り変わる都市の風俗へと関心を寄せていった。本人の語るところによるとこの考現学の研究のため柳田に破門されたという。その後「東京銀座外風俗記録」「東京深川貧民靴風俗採集」などの調査に取り組み、1927年に新宿紀伊國屋書店でこれらの「しらべもの展覧会」開催に合わせて、考古学に対して、現在に対する科学的方法の確立をめざして、これらの調査を「考現学」(Modernology・正式にはエスペラント語のModernologio)と名付けた。

考現学で重要なことは、都市が国家や資本家によって計画され生産されるものだけではなく、人々の日常の暮らしの中にある消費行動や、モノと身体の相互作用によって生み出されているんものとして捉えた上で、そうした都市の変化を科学的に捉えた点である。「人がその居住している場所に無意識のうちに築いている跡、痕跡のことを「建築外の建築」と呼び、その中に「人間の動作の源泉と真理」を見出そうとした。言い換えれば都市をつくる側からだけではなく、使う側・生きる側の論理から捉える試みが「考現学」であった。不特定多数の人々の日常的な行動を動植物の採集手法に則った徹底した直接観察によって記録し定量化することで、その背後にある意味を掬いだそうとする、この点に「考現学」の画期があった。

この方法は当時の民俗学のように「多数のものの中から限定した数だけの研究対象を常につかまえるのではなく。特定の場所と場合における全ての要素を調べ上げる「一切しらべ」を基本とし、さらに機械的に対象を記録することで客観的なデータの採集が目指された。採集されたデータは統計的に分析され、他の場所・異なる時間と比較することで、人々の行動を観察し、変化し続ける都市の風俗に迫った。人々の行動が都市をつくるという現在のマーケテイングに近似する方法であった。大正時代は人力で実施せざるをえなかったので、考現学はその後十分に発展することはなかった。

「考現学」を継承する事象としては、「路上観察学会」がある。路上に隠れる建物(あるいはその一部)・看板・張り紙など通常あまり注目されないものを観察、鑑賞する団体である。1986年に実質的には筑摩書房の編集者松田哲也の規格による「路上観察学入門」の出版にあったての編集活動である。赤瀬川源平を中心に据えた、美術家・漫画家・特異な収集家が集まりその発売に合わせて、東京一ツ橋の学士会館で結成発表会を行った。このグループは4つに大別される。
1.超芸術トマソンで知られる赤瀬川原平グループ
2・東京建築探偵団として活動していた東京大学生産技術研究所助教授(当時)、建築史家の藤森照信グループ
3・マンホールの蓋の本で世に出た観察収集家林丈二、建築破片の収集家一木務など孤高の収集家、観察家グループ
4・博物学研究の荒又宏、評論家四方田犬彦、江戸風俗研究家杉浦日向子など有名作家グループである。
結成発表後は学士会館まえでモーニングを着用したメンバーの記念撮影が行われたが、全員集合したのはこの時だけだった。

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自分の言いたいことより、相手が聴きたいこと、そして継承するべきこととは・・

山本氏の思考の原点にあるのは、2011年3月11日東日本大震災に在る。当時強調された言葉に「生き残る。」Suryiveに違和感を感じたという。生き残るは必ず生き残れない人たちを内包する。そうではなくて、生かし・生かされ・生きる知恵を得るための思考とは何かを思考し始めた。
自分のまちを独自の視点で読み解き伝えていくことを始めた。「超珍」まちを照らす明かりをつくろう。「わたしのマチオモイ帖」は2011年から始まり6年間で1400帖になった。まちを思い歩きそして一冊の本にする、そして「わたしらしさ」に再会する。人の目線だけ「わたしのマチオモイ帖」がある。2017年東京丸の内のKITTEビル一階アトリウムで1日だけ特別展が開催され大きな反響を呼んだ。

私達の日常の身近な環境の中にある「余熱」に気付くためのいくつかの思考的アプローチがある。

セレンディピティ(serendipity)イギリスの政治家で小説家のホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語である。「セレンディピの三人の王子」というスリランカの童話にちなんだものである。「偶察力」と記されることもあるが、精神科医の中井久夫は「徴候・記憶・外傷」みすず書房2004年においては「徴候的知」と呼んでいる。セレンディピティは、失敗してもそこから見落とさずに学び取ることができれば成功に結び付くことがあるという文脈で語られることが多い。ルイ・パスツールの言葉から「構えのある心」がセレンディピティの本質だとされる。事例としては「スリーエムのポストイット」、「Twitter社のTwitter」、「コカ・コーラ社のコカ・コーラ」など変化に気付き、新しい価値観を受け入れる力があったからこそ成功に結びつけられたことを示している。

アナロジー(Analogy)は類推ともいい、特定の事物に基づく情報を、他の特定の事物へ、それらの間の何らかの類似に基づいて適用する認知過程である。これは問題解決、意思決定、記憶、説明、科学理論の形成、芸術の創造などで重要な働きをするが、論理的誤謬も多く含むので脆弱な論証方法でもあるが、意味を生成、創造する過程においては大きな働きを示す。言語表現においては表現される事物に対する類似に基づいた表現方法を比喩と呼ぶ。

ブリコラージュ(Bricolage)は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」こと。「器用仕事」とも訳される。元来はフランス語である。ブリコラージュは理論や設計図に基づいて物を作る「エンジニアリング」とは対照的なもので、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として試行錯誤し新しいものを生み出すことである。ブリコラージュする人を「ブリコルール」といい、創造性と機知が必要とされる。情報システムを組み立てる技術者、その場にある有り合わせのものでピンチを脱するフィクションや神話の登場人物まで、「ブルコルール」とされる人物像は幅広く、今回の山本氏も冒頭に紹介したがまさに「ブルコルール」である。フランスの文化人類学者のクロード・レヴィストロースは、「野生の思考」1962年の中で世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく当面必要で役立つ道具を作り出す事例を紹介し、「ブリコラージュ」と呼んだ。彼は人類が古くから持っていた知の在り方「野生の思考」はブリコラージュよるものとし、近代以降のエンジニアリングの思考を「栽培された思考」とよび、ブリコラージュを近代以降にも適用できる普遍的な知としている。

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日常性へのアプローチそしてロマンの復権へ

彼のいる場所「奈良はある意味歴史的重さというハンディがあるが、にも関わらず彼の仕事には楽観主義と軽さがある。限られた資源に対処し、様々な条件に挑戦する、ある気質がある。質素、単純性が創造性を導くように見える。小経の探検、サーキュレーションのリサーチ、場所の認識、展開すること、驚きの発見、日常の生活、公と私の境目を探る実験。それは私達の存在、周囲との関係を私達に気付かせる、空間の運動である。建築的な形態を超えた、場所の価値に気付く作業に参加することは、不確実さに覆われた私達の社会でのポテンシャルを拡げる道をつけることである。

この世界からロマンが失われつつある。文学も、音楽も、恋愛も、生活も、あらゆることが少しずつロマンティックでなくなってきている。同じ文学作品を読んでも、その解釈には人によって大きな違いがあるのは至極当然のことである。書かれた文字情報には限りがあるから、受ける方がその想像力を働かせて、ロマンを膨らませる。
ほとんどのロマンは見事な誤解の上になりたっている。誤解が大きいほど感動も大きい。崇高な音楽に涙するのは、自分の感情の記憶を刺激して、想像力を羽ばたかせるからである。そこに神の存在や介入が在るのではなく、在ると自分が想像するからである。たくさんの情報がそれぞれの本来の姿を映し出すようになると、思い込みと想像と誤解が減った分世界が必要以上に大きく見えることが少なくなった。ロマンが残っているとすればそれは人と人、人とモノ、人と雰囲気、人と場所、との化学作用もしく波長と言ってもいいかもしれない。

「人生は出会いが全てかもしれない。」


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