栃内三男氏のキリンでのキャリアは1979年営業企画課から始まる。キリンレモン、キリンオレンジ、長野トマト、レーズンバター、ロバートブラウンなど主力商品でない商品ラインを手掛けてきた。1981年(昭和56年)キリンライトビールが発売され、ここでも苦労された。1984年当時原宿にあった本社営業企画に配属された。Mets、紙パックジュースなど商品化して市場に定着できる製品は「千に三つの世界」であったと回想する。1988年キレインビバレッジの立ち上げにかかわり、1991年上場させた。苦労の連続であったことであろう。1992年よりワイン課に所属しソムリエの資格も取得された。DANCE(カリフォルニアワイン)などの売り込みで麻雀荘などを廻った。1998年MCEI[のキリンビールでの窓口を担当され、2001年よりキリンプラザ大阪広報部に着任された。そのころ私は栃内氏と出会ったわけである。キリンビールなのにワインのソムリエ、しかも現在アートにも関わっている、何か不思議な印象を記憶している。ここから今回の物語は始まった。

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突然舞い降りた光の塔

日本の繁華街は、屋号や企業の広告のサインが溢れそれぞれが光る記号として散乱している。その中でもその量において群を抜く道頓堀戎橋界隈に1987年11月4日キリンプラザ大阪が開館した。“現在芸術との出会い・・・芸術創造型の活動を目指して”「新たな可能性に挑戦する現代芸術を支援する」をコンセプトに、KPOキリンプラザ大阪を情報発信拠点として活動を開始した。大阪ミナミに舞い降りた光の塔(蛍光管が5000本内臓されている。)は道頓堀川の川面を照らし、建築家高松伸による、斬新なスタイルの建築の出現は大阪に大きな衝撃を与えた。この建築は、日本建築学会賞を受賞するなど、内外からの大きな評価を得た。

「その猥雑さに関する限り、日本においてこの建築の立地を凌ぐ場所はひとつとして無い。かかる立地における我々の使命は極めて明瞭であった。即ち企業を象徴するという使命である。ところで、ある特定の記号や指標でも用いない限り特定の企業をシンボライズすることなど不可能である。ましてや建築は記号や指標からは最も遠い存在である。従って残された解法は理論的にただひとつ。建築が建築自身を象徴しなければならないという処方である。即ち立地の特性はもとより、それ自身のコンテクストさえ無縁な孤立性を開発し、これを建築においてひたすらかつ圧倒的に高めなければならないというわけだ。おそらくその孤高の強度の析出こそが、猥雑なる意味の坩堝にまみれつつ、建築という意味の器を擁立する唯一の方途である。」<高松伸>

余談として、KPOは1989年公開の映画「ブラック・レイン」に「クラブみやこ」の外観として登場する。監督はリドリー・スコットで彼は「ブレードランナー」で描いたような猥雑なイメージを日本に求めたが、実際の日本はかなり清潔な街並みであったため驚いたという。タイトルの「ブラック・レイン」は原爆投下や空爆によって起こる煤混じりの雨を指している。アメリカが戦後日本にもたらした個人主義が、義理人情の価値観を喪失した松田優作演じる佐藤の様なアウトローを産んだと暗にアメリカを批判している。

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KPO、場所の起源は<敷地面積505㎡>

カフェテリア式の食堂が日本でいつ頃から始まったかは定かではないが、大正末期には東京・京橋の星製薬ビルで簡易食堂が営業されていた。1930年(昭和5年)に吉岡鳥平が「カフェテラス式食堂」を描いた漫画があり、大阪・戎橋にあった南海食堂が舞台となっている。昼食時であろうか、大店の番頭風の男性が、3品のおかずとビールをのせた盆を運んでいる。なかなか贅沢な食事である。メニューには、コロッケ、ロールキャベツ、ライスカレーなどがみられる。若旦那風の洋装の男性もきちんとした身なりをしているので、大衆食堂よりももう少し価格が上の食堂と思われる。<「哄笑極楽」より。>

また、同年大阪では「プロレタリア食堂」が開店した。プロ小鉢(刺身、焼き魚、煮しめなど)が付いた朝食が15銭、ビールが10銭、酒15銭であった。こうした簡易食堂で食事の時ビールを飲む人が現れたことは、日本人の食生活」が変化したことの表れである。大正時代以降、サラリーマンという「新中間層」が誕生し、このような人に受け入れられビールも大衆化していった。KPOが建っていた場所は1958年から1980年代中頃まで、緑色タイル張りのキリン会館があった。戎橋に面した壁面には巨大なビールの神ガンブリヌスが飾られていた。ガンブリヌスとはビールを創造したとされる神の名前で、ビール王やビールの守護神として色々伝説があるが、実在した人物「ヤン・プリムス(1371〜1419)が伝説のもとになった「ガンブリヌス」はそれが訛ったものと言われている。会館は映画館とビアホールなどが入居していた。KPOが在った「戎橋」は今宮戎神社の参道であった。江戸時代にはこの道西成郡難波村、今宮村を通って今宮戎神社に向かった。大阪ミナミの中心である。KPOが立地した北詰は心斎橋筋の南端で心斎橋筋商店街が長堀通まで、南詰は戎橋筋の北端で戎橋筋商店街が難波駅まで伸びている。とりわけ南西袂にあるグリコサインは有名で観光スポットとなっている。1925年(大正14年)竣工の鉄筋コンクリート製の橋が架かっていたが、2007年に現在の橋に架けかえられた。KPOが閉館した年である。KPOは一階に地ビール工場KPOブルワリーを設置し現在ブームのクラフトビールに繋がる質の高いビールを提供していた。3階にはKPOキッチンというレストランを営業し、キリン会館依頼のテナント南海食堂も入居していた。

KPOコンテンポラリー・アワードからキリンアートプロジェクトへ

キリンによる芸術文化支援活動のひとつ。芸術家の発掘と育成を目的とし、1990年に「キリンプラザ大阪コンテンポラリー・アワード」として創設された。1993年より「キリンコンテンポラリー・アワード」の名称で開催されたが2000年から2003年までは「キリンアートアワード」の名称で開催された。1998年KPOはメセナ大賞「普及賞」を受賞した。アーティストの登竜門として、多数の応募を集めた。ジャンル不問の公募コンクールで受賞者からは、世界レベルで活躍するアーティストが多数生まれた。ヤノベケンジ(1990年)・H・アール・カオス{1993年}・犬童一心{1993年度最優秀作品賞}・安田真奈{1996年}・束芋{1999年}・ヒユークリッド写真連盟(1999年)など多彩な芸術家を輩出してきたが、2003年の審査員特別優秀賞を受賞したビデオ作品全46分「ワラッテイイトモ」が著作権や肖像権にからみ、受賞展で公開されたのは修正版となった。この頃からKPOへの社内での風当りか風向きが変わりだした自主規制である。もちろん社会自体も変わりだしたのだが。14回目を迎えた「キリンアートアワード2003年」は応募作品が前年を大幅に上回る過去最高の1102点となったのだが。ここまでは公募形式だったが、2005年から「キリンアートプロジェクト」として、企画書を基に選出した「新鋭アーティスト」4組と「ゲストアーティスト」が同じテーマで新作を制作し展示会を開催した。一般来場者の投票で新鋭アーティストの中からグランプリを決定する形となった。プロジェクトは4人のキュレター(ヤノベケンジ、五十嵐太郎、椹木野衣、後藤繁雄)がテーマ設定から作品の選定、新鋭アーティストのサポート、展示会の企画構成まで統括した。運営においても風向きは変わっていった。

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忽然と消えた孤高の光

KPOキリンプラザ大阪は2007年10月31日閉館し、翌年2008年解体された。一人一人の人生に何らかの影響と意味を与えて、時代を席巻していった、マス広告とも一線をひきながら、ひたすら赤字を続けながらも、その文化活動は大阪人的発想と考え方に少なからず影響を与えながら光の建築と共に、その姿は道頓堀の川面から忽然と消えた。派手さが売りものの大阪・道頓堀の電飾看板にも負けない、ポストモダンのキッチュな建築は大阪発現在アート興隆の夢とともに泡と消えたのか。

当時キリンホールディングスは解体の理由として①ビルと敷地を所有する子会社との20年間の賃貸契約が10月で満了する。②建物内装の老朽化が進み、10億円以上の改修費が見込まれる。などの理由を設計者の高松氏に打診した。「朽ちていく姿をさらすより、解体のほうがよい。」と理解を得られたとし、解体を決定した。高松事務所の裏話として、建物として残してもその後の用途が設計コンセプトに合わなくなるという危惧も在ったらしい。企業メセナ全盛の頃にオープンしたKPOだが、多くの企業は現代アートには二の足を踏んだ、しかしKPOは大阪で果敢に現代アートと取り組んだ。経済に左右される商業建築であるが、日本のバブルの熱気を伝える建築が消えるのは残念なことであった。企業メセナとしての現在アートが時代にそぐわなくなってきたことも事実であるが、なぜ現在美術が最初に切られることになったのか?KPOの現在美術における貢献が大きかっただけに、アートマネジメントの面からアートの社会的効果を再度企業側に訴え、問いかけてもいいように思う。株主にしろ市民にしろステークホルダーの利益を阻害するから解体すべきだと判断されるならば、その阻害要因を取り除く可能性を示し、所有者の認識以上に「建築はその場所で価値を醸成する存在」であることを示す必要性を強く感じる。



MCEI大阪支部 橋詰 仁


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