年度の初めに

小売業で明暗が分かれている。2017年の全国スーパーマーケット既存店売上高はネット通販などとの競争激化で、2年連続で減った。コンビニエンスストアと百貨店も伸び悩む。一方でドラッグストアはスーパーなどが得意とする食料品や日用雑貨品を充実させ客を呼び込んでいる。株高などで富裕層の高額品が好調な一方で、消費者の節約志向も根強く業種間の競争が激化している。2018年度最初の定例会はこのスーパーマーケット業界で北の大地そして巨大な島である「北海道」にて気を吐く桐生宇優社長の登壇である。

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北雄ラッキーのことから始めたい。

1971年(昭和46年)食品の小売及び卸売を目的として、札幌市手稲西野に株式会社オレンジチェーンが設立された、1974年(昭和49年)に商号を山の手チェーンに変更し、本格的にスーパーマーケットチェーン展開を開始した。同年5月、山の手店をはじめ5店舗の営業を始め、これが北雄ラッキーの始まりである。現在札幌市を中心に北海道全域に展開しているスーパーマーケットである。
1982年5月 株式会社まるせんと合併し、北雄ラッキー株式会社に商号を変更し、同年株式会社札幌惣菜センターを設立し、惣菜・米飯・漬物類の製造販売を開始した。1977年EOS(補充発注システム)を導入し、1991年にPOS(販売時点情報管理システム)を導入した。1994年には 株式会社シティびほろ と合併し道東地区へ進出、1997年にインストアベーカリーをてがけ各店へ導入、1998年山の手店を増床のうえ大規模改装を実施し新しいプロトタイプ店舗づくりに着手した。2015年には山の手店を建て替えて新装オープンさせフラッグシップショップとしている。
以上が沿革の大筋である。
現社長の桐生宇優氏は2代目で、理工系大学の出身でシステムエンジニアリングから社会でのキャリアをスタートさせている。家業のスーパーマーケットの経営は門外漢であったが、事情により後を継ぐことになった。従業員は正社員487人パートナー社員1468人で、成長戦略は取らず、直近の5年間は430億円前後の年商である。スケールでは勝てないので、質で勝負している。企業理念は「北雄ラッキーは日本一質の高いスーパーマーケットをめざします。」
北雄ラッキーは以上の成り立ちを見ても、北海道という大きな島に根ざして広域に、けっして密ではなく道内に展開する。稚内は札幌から329㎞、網走は札幌から334㎞、桐生氏は長距離トラックのドライバー並みに道内を駆け回る。(ちなみに大阪から広島が331㎞である。)物流効率もよくない、競合状況をみても巨大なスケールのイオンや生協、セブン&アイ、アークスなどに寡占化が進んでいる。まさに2代目桐生氏は荒波の中の船出であった。

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スーパーマーケットのことを確認したい。

スーパーマーケットは高頻度に消費される食料品や日用品などをセルフサービスで短時間に買えるようにした小売業態である。その名称は「市場(いちば)」を意味する“マーケット”に、「超える」という意味の“スーパー”を合成し、「伝統的な市場を超えるほどの商店」の意で作られた造語であるが、スーパーマーケットの事業が拡大するうちに一つの名詞となった。
特定の品目を専門的に扱うのではなく、幅広い品目の商品を取りそろえることが通例である。余談ではあるがスーパーマーケットという言葉を日本で初めて店名として使ったのは、京阪電気鉄道株式会社が1952年(昭和27年)旧京橋駅構内に開店した「京阪スーパーストア」が最初であった。

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スーパーマーケットの歴史を振り返る。

欧米での小売店はかつて、客と店員がカウンターを挟んで対面し、客の注文に応じて店員が商品を取り出す対面販売方式が通常であった。また当時食品や商品は消費者が購入するサイズに分けて包装しているわけではなく、客の注文に応じて切り分けたり、計量して包装する必要があったので労働力への依存が大きく、コストも高くついた。購買にかかる時間もおのずと長くなり、一度に対応できる客の人数は店員の人数によって制限される。この形態の小売店は現在も精肉店・洋菓子店などの専門店で存在している。セルフサービスの食料雑貨店というコンセプトはアメリカの企業家クラレンス・ソーンダースが創業したPigglyWiggyが起源である。1916年9月テネシー州メンフィスに一号店がオープンした。この店舗は大成功でソーンダースは特許を取得してフランチャイズ展開を開始した。TheGreatAtlanticPacificTeaCompany(A&P)もカナダとアメリカで同じ方式で成功を収め、1920年代の北米の小売店を牽引した。夜間に商品陳列し、翌日顧客が棚から商品をカウンターに持って行って支払うというセルフ販売方式は時間短縮など大幅な合理化につながり、規模の経済効果の実現と労働力の不足を補った。生鮮食品を扱う食料雑貨店も1920年代に誕生している。

アメリカにおける現代的な、この一つの店舗でいろいろなモノが買えるという革命的な業態スーパーマーケットは元クローガー(グロサリーストア)の従業員だったマイケル・J・カレンが大恐慌の翌年、1930年8月にニューヨーククイーンズ区のジャマイカ地区に560㎡の空きガレージで始めた店舗King Kullenが最初だとされている。「高く積み上げ、安く売る」をスローガンとして経営した。1930年代は既存のクローガーやセイフウェイ食品雑貨チェーンも在り、カレンのアィディアに抵抗したが、世界恐慌で景気が落ち込み、消費者の価格志向が強まり、結局既存のチェーン店もス−パーマーケット方式へと転換していった。クローがーはさらに革新を重ね、四方を駐車場に囲まれたスーパーマーケットを初めて建設した。

第二次大戦後は、郊外の開発が進みカナダやアメリカではスーパーマーケットの展開が拡大していった。北米のスーパーマーケットの多くは郊外のショッピングセンターの中心となる店舗として建設されてた。スーパーマーケットチェーンの多くは地域的なもので全国的なブランドではなかった。クローガーはその中でもアメリカ全土に知られているが、傘下には多数の地域ブランドを抱えていた。また都市の郊外へのスプロールとともに、モータリゼーションによって自動車で買い物に行くという文化が生まれ、大規模な駐車場を備えたスーパーマーケットが確立していった。

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日本におけるスーパーマーケットの来歴は

セルフービスのスーパーマーケット業態が日本に導入されたのは、高度経済成長期を向かえつつあった、1953年に東京・青山にオープンした紀ノ国屋が最初である。高級青果店を営んでいた増井徳男が米軍の求めに応じて、生のままで食べられる清浄野菜を米軍用売店(PX)に納入するようになり、そこで得たアイデアであるショッピングカートやレジスターを店舗に導入し、ガラス張りの店舗ファサードとともに話題を呼んだ。当時の紀伊国屋は、高所得者や外国人向けの店舗で庶民にはまだまだ遠い世界であった。

日本の場合、売場面積300㎡から3000㎡以上までいくつかのタイプが認められる。大規模なものでは食料品・日用品といった消費財から、衣料品・家電までの耐久消費財までを扱う、ゼネラマーチャンダイズストア(GMS)が主に市街中心地に数多く出店された。
1990年代後半以降は、規制緩和によりタバコ・酒類などの免許品の取り扱い、長時間営業・売り場面積の拡大・新規出店の増加が進んだ。ここでスーパーマーケットを類型的に分類してみたい。

食品スーパーマーケット:食品の売上構成比が70%以上あり、業態の中では最も多い。住宅地に隣接した立地で、来店頻度は週に2.3回が想定される。生鮮食品を主力として日常生活を支えることを目標としている。郊外型の大規模な店舗はスーパースーパーマーケット(SSM)とも呼ばれ、インストアベーカリー・惣菜の調理場・イートインスペースなどを備え、最終加熱するだけの食品販売などミールソリューションを行うようになってきている。また1980年以降に急速に広がった大衆のグルメ志向もあり、一般では手に入らない食材なども揃えられる。

ミニスーパー:2000年代半ば以降、首都圏居住者の都心回帰や人口の高齢化が進み大規模な敷地の確保が困難な都心部ではコンビニ程度の店舗面積のスーパーが増え続け、ミニスーパーと呼ばれている。自宅周辺に立地し、コンビニほども高くなく、売れ筋商品中心に一般のスーパーに準ずる品揃えがあることが強みとなっている。厨房を持たないので、肉・魚・弁当・惣菜などの商品は工場から運ばれる。

衣料品スーパー:商品の大部分を衣料品で占め、その売上構成比が70%以上ある店舗。元々は衣類販売店が大型化していったものが多い。

総合スーパー:構成比が70%以上の部門がなく、3つ以上の部門にわたって品揃えしている店舗。GMSと呼ばれるがアメリカは食品を扱わないので日本と異なる。日本で初めてこの業態で営業を始めたのは、福岡市のユニードである。複層の建物で、敷地は広い。品ぞろえの幅も広く、日々の買い物よりも週末などのまとめ買いに向いている。

1990年以降は郊外型の大型店が多く立ち上がり、現在にいたっている。スーパーマーケット業界を牽引していたダイエーの業績が悪化し始め、総合スーパーの力は弱まっていった。その原因の一つとしては専門店の台頭とGMS自身の何でも扱っているという品揃えの薄さも上げられる。
インターネットを使った地域商圏内の消費者に直接商品を届けるサービスも始まり、もともと消費大国アメリカのチェーンストア(正式にはチェーンインダストリー)を忠実に実行することから始まった日本のスーパーマーケット、チェーンストアは大きな変化に直面している。今後何でもそろっている超大型店の時代から、食品と衣料・家電・ドラックスなどに特化した専門店チェーンの競争時代に入っているといえる。ことに、どんな不況の中でも人の生活に欠かせない食料品を扱うチェーン店舗が好調である。

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再び、北雄ラッキーのこと。

北雄ラッキーは4つの店舗フォーマットを持つ、大型店は500~600坪の食品と700~800坪の衣料品で構成されている。中型店は食品600坪を中心に1000坪程度のスケールで展開され、小型店はラッキーマートとして人口5000人~7000人程度の商圏に対応する。
山の手店は旗艦店舗として2015年より建て替えて営業している。北海道は札幌や函館など都心を含む商圏や稚内や網走など地域商圏ともいえるエリアなど広域で多様である。画一的な店舗フォーマットで大規模に展開するより多彩なパターンで質を重視して展開するほうが島では有利にはたらく。

北雄ラッキーの事業展開コンセプトは明快である。「料理をする人を応援する」をコンセプトに、その商品ラインアップは切れ味が鋭い。“商品力”としては「ラッキー100のアイテム」をかかげて、地域商品は店長の権限でバイイングできる。“マーケティング力”としてはお客様と商品の接点を作り出すこと。営業施策は常に点検し追加施策もタイムリーに実施する。
“現場力”としては店長を主役として決定権を持った個店経営である。店舗での成功例を増やすために現場のチーフ力も強化する。チーフが活性化すれば売上も向上する。スーパーマーケット業界にありがちなブラックな職場の対極にある現場である。
以上のうち特に商品力については時代背景に合わせた6つのMDを持つ。
パワープライス(スーパーマーケットにとって大切)
量のMD
即食、簡便(紅鮭の切り身をさらに半分に、小分けされた高級ブドウ、下ごしらえされた骨付きチキンなど
地元MD(大手にはできない、できても続かない、小樽の生シャコ、ワカサギの佃煮、協働学舎のラクレットなど)
ティスティラッキー(毎日食べるものだから本当のこだわりを食べ慣れてもらうことを大切に、金華豚、アサヒぽん酢、バゲットなど)
ナチュラルラッキー(おいしさと健康は我慢だ!有機野菜、オーガニックワイン限定されたターゲットにも集中して展開)
こうした料理をするという行為にこだわった特化カテゴリーを現場で決定し積極的に展開し料理における「専門性」を表現していく。
MDの水平展開におけるグレード合わせ、重複アイテムの整理統合など地道な努力も含めて、このように小回りが利くことは大手に対抗できるブランディングなのでは。桐生氏は「生き残る」ではなく「勝ち残る」のだと強調する。これも北海道という島であることから生まれた戦い方なのでは。

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結びとして、

島の規則

古生物学に関する「法則」がある。

島に住んでいる動物と大陸に住んでいる動物とでは、サイズに違いが見られる。典型的なものはゾウで、島に隔離されたゾウは、世代を重ねるうちにどんどん小型化していった。島というところは大陸に比べ食物量も少ないし、そもそもの面積も狭いのだから、動物の方もそれに合わせてミニサイズになっていくのは、なんとなく分かる気がするが、話はそう単純ではない。ネズミやウサギのようなサイズの小さいものを見てみると、これらは逆に、島では大きくなっていく。島に隔離されていると、サイズの大きな動物は小さくなり、サイズの小さな動物は大きくなる。これが古生物学で「島の規則」と呼ばれているものだ。・・・

動物には、その仲間の体のつくりや生活法から生じる制約がある。だからサイズにしても、むやみと変えられるものではなく、ある一定の適正範囲があるものと思われる。その適正範囲の両端のものは、何らかの無理がかかっていると見てよいのでは。北雄ラッキーの桐生社長の戦略は、北海道という島(いささか大きいが)においては示唆に富んだ戦略といえる。


ワールド・ワイド・ウエッブ(www)誕生から2018年3月で29年を向かえる、今や地球はどんどん狭くなり一つの島といえる状況に立ち至っている。産業革命から近代、これまでは「大陸の時代」だった。これからは好むと好まざるとにかかわらず「島の時代」になる。日本人は島に住んでいるのだから、自己のアィデンティティーを確立し強みを発揮するためにも、

「島とは何か」

を、まじめに考えるべきだと思う。



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