ハナムラチカヒロさんのこと

今年の7月は九州・中国・四国・近畿にわたる広域の大雨から始まった、前月の6月は大阪府北部地震であった。そんなうち続く災害は私達の未来に向ける眼差しに不安で、不穏な気配を感じさせる。うだるような蒸し暑さの中、7月のMCEI大阪支部定例会は講師としてハナムラチカヒロ氏に登壇いただいた。ハナムラ氏はランドスケープアーティストであり学者であり役者である。大阪府立大学21世紀科学研究機構准教授。一般社団法人ブリコラージュファウンデーション代表理事。研究領域は「まなざしのデザイン」という表現方法と「風景異化論」という理論で、芸術から学術まで領域横断的に多様な活動を行っている。風景をつくる、風景をかんがえる、風景になるという三つの視点から、ランドスケープアートという表現を生み出している。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための蛇の彫刻堤防などを制作、世界各地の聖地におけるランドスケープのフィールドワーク、街頭でのパフォーマンス、映画や舞台にも俳優として立つ。


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ランドスケープ・デザインについて

ランドスケープは「風景」「景観」という意味である。もとは風景「画」を意味していてこれは画家が風景、景観をつくるという意味ではなく、ある視点を画家が主観で選んで空間を解釈するという意味である。オランダ語の風景画を描かせる際に契約書の用語として使用されたlantschappenという言葉が英語でlandscape等に派生していった。ただしフランス語では農風景から派生したpaysageという言葉があてられた様に国によって用いられ方は異なる。英語、ドイツ語のLAND・・・はどちらも土地をつくるという意味の他、共同体という言葉と同一の語源である。狭義には「眺め」そのもの、あるいはそれを通して捉えられる土地の広がりをさすが、広義には「自然」と「人間」の関わりの様態であると考えられる。ある土地における、資源、環境、歴史などの要素が構築する政治的、経済的、社会的シンボルや空間または、そのシンボル群や空間が作る都市そのものと捉える考え方もある。風景や景観のような感覚的、審美的な側面だけではなく、土地や自然を基盤とする生物学的な性状や秩序を含めた概念として認識される。

ランドスケープ・デザインはランドスケープ・アーキテクトなどと同様に、庭園の計画・設計分野で用いられた呼称である。近年様々な都市開発事業が行われ、様々なランドスケープ・デザインの事例が身近で見られる。都市計画とランドスケープの繋がりは古くから存在する。古代より、東西を問わず、山や川など人々の周りの風景や自然の創造物を元に人々の生活は展開してきた。高台の神社、大きな寺院、高い塔を持つ協会などシンボルとなる人口の構造物をランドマークとして多くの都市設計が行われてきた。広場など人が集まる場所の構築もよく使われた設計手法である。古代ギリシャのフォルム、帝政ローマのフォロロマーノ、など公共施設に囲まれた都市の中心となってきた。

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近代的な職能としてのランドスケープ・デザインはアメリカで確立した。18世紀のイギリスで発達した風景式庭園(ランドスケープ・ガーデン)の影響を受けながら、ニューヨークのセントラルパークを設計した、フレデリック・オルムステッド(1822年〜1903年)が自らの職能をランドスケープ・アーキテクトと提唱して多くの都市計画、公園計画に関わり、この分野の礎を築いた。1899年にアメリカ・ランドスケープ・アーキテクト協会が設立され、1900年にはハーバード大学に教育コースが設置された。20世紀、都市の拡大とともにランドスケープ・デザインの領域も拡大した。その20世紀半ばには建築の分野でモダニズム運動に同調するように、ダン・カイリー(1912−2004)、ガレット・エクボ(1910−2000)、ローレンス・ハルプリン(1916−2009)らによりランドスケープのモダニズム運動が展開し、住宅庭園から、都市におけるアクティビティを支える公共空間のデザインまで実に様々な試みが行われた。1970年代に至ると、環境問題への市民意識が高まり、ランドスケープ・デザインは社会的意義として環境エンジニアリング的側面が喧伝されていった。1980年代から1990年代には、ピーター・ウォーカーらによりランドスケープ・デザインの芸術的側面の「復権」が提唱され実践された。

日本におけるランドスケープ・アーキテクチュアは明治期に「造園学」と翻訳され、伝統的庭園の作庭技法を継承しながら、主に公園や公共緑地などの整備を中心に展開した。社団法人日本造園学会は1925年(大正14年)に設立された。この時期の造園に明治神宮内苑(1920年)、明治神宮外苑(1926年)がある。第二次世界大戦後は、高度経済成長による急速な都市化と開発による自然環境破壊に対する理論的・物理的な抑止と補償の役割が強調された、1990年代には建築・土木に隣接する分野として注目され、多くのコラボレーションによるプロジェクトが実施された。

近年のヨーロッパの動向として、古典的庭園様式の現代的解釈を都市公園に応用するフランスや、広域的な自然生態系の保全・風景化を進めるドイツ、人工的な国土で人為と自然の干渉をダイナミックに表現するオランダなど、意欲的な試みがみられる。「自然」と「人間」が結ぶ「像」が地域や時代によって異なるものであるならば、ランドスケープも多様に捉えられるものであり、それを対象とするデザインも地域、文化に固有の方法論がありうる。

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異化と異化効果について

ハナムラ氏が表現の中心に据える概念である「異化」とは、慣れ親しんだ日常的な事物を非日常的な事物として表現する手法のこと。知覚の自動化を回避するため、ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーによって概念化された。いいかえれば日常言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで生の感覚をとりもどす芸術の一つの手法であるといえる。理解のしやすさ、平易さが前提となった日常言語とは異なり、芸術に求められる詩的言語は、その知覚を困難にしてその認識の過程を長引かせることを目的としている。「芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的」である。

異化効果、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト<(1898−1956)、ドイツの劇作家、詩人、演出家。1922年に上演された「夜打つ太鼓」で一躍脚光を浴びる。>が1920年代に考えた概念である。日常性を異常化、非日常化させて、芝居を脱習慣化させる方法である。文学作品における異化効果は、ロシア・フォルマリズムの作家シクロスキーによって考察されたが、同時期にブレヒトは演劇に「おける異化効果の可能性について考えていた。ブレヒトは政治やマルクス主義との関わりから、演劇における役者への感情移入を基礎とする従来の演劇を否定し、出来事を客観的・批判的に見ることを観客に促した。ブレヒトは自身の演劇を「叙事的演劇」と呼び、従来の演劇「劇的演劇」と区別した。ブレヒトによれば「劇的演劇」は、観客を役に感情移入させつつ出来事を舞台上で再現することによって観客に様々な感情を呼び起こすものであり、それにたいして「叙事的演劇」は役者が舞台を通して出来事を説明し、観客に批判的な思考を促して事件の本質に迫らせようとするものである。ブレヒトはこのような「叙事的演劇」を、悲劇を観客にカタルシスを起こさせるものとして定義したアリストテレスに対して「非アリストテレス的」と呼び、このような「劇的演劇」を現実から目を背ける「美食的」なものとして批判した。このブレヒトの「叙事的演劇論」としてよく知られているものが「異化効果」(Verfremdungs)である。これは日常において当たり前だと思っていたものに、ある手続きを施して違和感を起こさせることによって、対象に対する新しい見方・考え方を観客に提示する方法を指している。この「異化効果」はハナムラ氏が「まなざしのデザイン」で提示する風景に補助線を加えてモノの見方を変える、風景の異化に通じる。ハナムラ氏は日本の造園手法である「見立て」を使って見立てワークショップを各地で開催し、人々に新しい風景の発見を促している。

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ランドスケープに向けられた2つの眼差し、そしてもう一つの目とは。

我々はランドスケープに向けて2つの眼差しを持つ。1つは客観的で、主観を排除した眼差しである。我々は1968年アポロ宇宙船によって宇宙から地球に向けての眼差しを手に入れた。その時目にした地球の姿は「神の眼差し」を思わせるものがあった。2つ目は我々の主観的な眼差しである。この2つの眼差しを受け入れ我々はランドスケープを理解し認識している。

しかし風景とは、地(ランド)に足をつけて立つ人の視点から眺めた土地の姿であるともいえる。地上からの眺めは、視点の位置によって変幻自在、不安定ではあるが味わい深い。つまり空中の視点は、普遍的な神の眼差し(世界像)を与え、地上の視点は、その場所限りのそれぞれの人間の眼差しが、まさに人間の風景が立ち上がる。ルネサンス期に、人間の視点から見た通りに空間を描く透視図法がもてはやされたのも人間復興の理念に沿って人間の眼差しを取りもどそうとしたからであろう。地形の客観的な形状よりも主観的透視像を重要視するところに地形学と風景学の違いが現れてきたともいえる。この風景においてひとたび安定した集団表象が成立すると、それによる風景体験は広く伝えられ、時代をこえて変化しながら継承される。仮に実景が消えても文学(言葉)や絵画に造形された表象が残り、継承されていく。「実に、名所は名所よりも長持ちする。」(小林秀雄)ここに風景巡礼ともいえる実景訪問による名所体験が表れる。写しと見立てという造園に関係する手法がある。教典の仏国土の写しとされる浄瑠璃寺や平等院や平泉の浄土庭園、ヨーロッパ各国の王侯・貴族のヴェルサイユ宮殿の写し、日本の「名所縮景」などがあげられる。平清盛による厳島神社造営にともなう風景構想は、内海そのものを一つの泉水に見立てる庭園形態である。これは実景を「逆見立て」する庭園設計の大飛躍であった。風景の見立ては各地に「何々富士」「浄土ヶ浜」の類として現在でも残っている。まさのハナムラ氏が指摘するように、風景の半分は想像力でできているが、またそれは様式化、固定化されるものでもある。

ランドスケープに向けられる目として、もう一つ付け加えたい。つかんで出ていく(grab and go)、アマゾン・ドット・コムが2018年1月から始めた食品スーパー「アマゾン・ゴー(Amazon Go)」のことだ。店内にはレジがなく、その代わりに130台のカメラ、つまり「目」が天井に設置してある。「目」は四六時中人の動きを観察し、買うもの、戻したものを性格に見極めスマートフォンで決済処理する。アマゾンはこの米国で始めた店舗の仕組みを世界に広げる計画である。

生物の歴史上、最も重要な節目を提供したのは実は「目」だった。「カンブリア爆発」という出来事が5億年前のカンブリア紀に起こった。カンブリア紀を境に「門」などの生物の属性が爆発的に増加したという説である。それ以前から生物は多様な生態系を持っていたが、やはり「カンブリア紀」は大きな節目であった。地表に届く太陽光が増え、生物が「目」を獲得したからだ。イギリスの生物学者アンドリュー・パーカーの「眼の誕生」によれば、カンブリア紀に増えたのは化石だ。目を獲得した生物は、目を持たない生物を捕食し始めた。捕食される生物は自分も目を持とうとする一方で、捕食されにくい硬い殻を身にまとう方向に進化し始めたという。弱肉強食が加速した時代であったのだ。アマゾンの話に戻ると、同社は「目」を獲得しインターネットだけではなく「残りの9割の経済」といわれるリアルな世界に本格的に飛び出したのが「アマゾン・ゴー」である。同社が進める産業のdestruction(破壊)という名の捕食はこれまでよりも一段と広く、深く進行する可能性をはらんでいる。後世に「デジタル・カンブリア紀」と呼ばれるような時代がもう始まっているのかもしれない。われわれはハナムラ氏が指摘するように、固定化した眼差しを解体し新しい「目」を獲得しなければならない・・・

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結びとして、フラーとランド・アートのこと

ハナムラ氏の思考に大きく影響を与えた人物は、バックミンスター・フラー(1895−1983)である。フラーはその生涯を通して、人類の生存を持続可能なものとする方法を提案し続けた。全28冊の著作によって、「宇宙船地球号」、「エフェメラリゼーション」「シナジェティクス」などの言葉を広めた。彼の思考は独特であった。バックミンスター・フラーが公言した富の概念とは、我々の大部分が当然の様に認めている「貨幣」ではなく、人間の生命を維持・保護・成長させるものとした。それらを達成するための衣・食・住・エネルギーを効率的に成し遂げるための形而上的なノウハウの体系としてのテクノロジーである。そしてそれ自体を未来に向けて発展し続けること。デザイン建築の分野ではジオデシック・ドーム(フラードーム)やダイマクション・ハウスなど数多くの発明をした。ハナムラ氏に影響を与えた人物としてもう一人紹介したい。イサム・ノグチである。現代的な意味でのランド・アートを構想した最初の作家としてイサム・ノグチの名が挙げられる。1933年の段階で、古墳や古代遺跡、日本庭園から着想を得て、地球を素材とすることを提案したのだ。ニューヨークのイサム・ノグチ美術館には「火星から見える彫刻」の模型(1947年)が残されている。これが実現していればノグチは最初のランド・アート製作者となっていた。彼が1930年代から建築家ルイス・カーンと共に提案し続けた「プレイ・マウンテン」は彼の死後、モエレ沼公園で実現している。その後ランド・アートは1960年代後半にアメリカの彫刻家たちによって、確立される。1968年ニューヨークのドゥワン・ギャラリーで開かれた“Earthworks”展はその潮流を加速させた。この企画をリードしたロバート・スミッソンは1970年、ユタ州の湖沼に岩石や土で螺旋形の突堤を造った。ランド・アートの記念碑的作品「スパイラル・ジェッティ」である。制作時グレート・ソルト湖の水位が記録的に低かったため、数年に一度しか湖面に表れない。

我々は今困難な世界・環境に在る。自然の大変動による災害の拡大。「デジタル・カンブリア紀」ともいえる、第三の目による圧力とで「宇宙船地球号」の操縦は困難な状況にある。ハナムラ氏が提唱する「まなざし」を取り戻し立ち向かわなければならない。その「まなざし」を獲得するためにフラーの言葉で結びたい。「誰もが生まれたときは天才であるが、生きる過程でそれを失ってしまう。」


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