2017年度末における所感

早いもので本年度も最終の定例研究会となった。
思い起こせば前期の野外研修は8月の暑い日、京阪奈に出かけて国立国会図書館とサントリーの研究所を訪ねた。確か都市の成り立ちとサントリーがこだわる「水」の話になったと記憶する。京阪奈の丘に埋め込まれた建築に存在する膨大な知の集積と土地の記憶、さらに「水」の物語である。今回の研修も古都京都の「水」にまつわる話になった。

私たちが日常感じている都市空間は目に見える物理的実体のみで成りたっている訳ではなくて、人をとりまきその五感のすべてに働きかけ、訴えかけ、または感じ取っているものこそが都市空間である。都市は近代以降に急速に表面をおおいだした広告記号や電脳的情報に覆われ埋め尽くされ窒息思しそうになっている。だからこそ、不可視の見えないもので充満していると考え直してみると、都市をもまたマーケティングの方法として再編成できるのでは・・・

MCEIが実務家の集まりとすれば、人と人・人とモノが切り結ぶ都市空間を経験的、感覚的にとらえることも重要になってくる、しかも動的にとらえることだ。都市もまた動的平衡の中に存在する。人を含むあらゆる生命体がそうであれば・・・まずは都市と水の関係そして水が育んだ「和菓子」と「日本酒」の物語から始めてみたい。

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京都水盆

遠い過去から、京都に暮らす人々は、豊かな地下水の恵みを受けてきた。
世界の中でも1200年の栄華を誇る都市は数少ない。京都乙訓山城地域の多くの自治体は、水道水源の大半を地下水に頼っている。一本の井戸で一日2000〜2500t揚水して、8000人〜10000人に生活用水を供給している。京都市内には河原町、白河、今出川、堀川、御池など水に関わる地名や通りがたくさん存在する。都市が安全に維持されるためには、生活に欠かせない良質の水を安定的に確保する必要がある。
京都盆地は南北33㎞、東西12㎞の縦に長い形状をしており、地下水は主に沖積層の砂礫層に多く包蔵されている。その砂礫層は最も厚いところで巨椋池あたりで800mある。そしてその地下水が流れ出す箇所は桂川、宇治川、木津川の三川が合流する天王山と石清水八幡宮が鎮座する男山の幅1㎞辺りのみである。天王山と男山は同じ古生層からなり、その下を流れる淀川と繋がっておりその深さは30mである。すなわち、幅約1㎞の天然の地下ダムができている。そのためほんの僅かしか地下水は流出せず、結果京都盆地には大量の地下水が貯留されている。その地下水量は驚くべきことに琵琶湖の水量に匹敵する211億トンにもなる。関西大学環境都市工学部の楠見教授はこれを京都水盆と名付けた。

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古代の果子から和菓子へ

食が充分ではなかった古代人は、空腹感を感じると野生の「古能美(木の実)」や「久多毛能(果物)」を採って食べていた。


この間食が「果子」と呼ばれるものになったと考えられている。食べ物を加工する技術が無かった太古には果物の甘味を特別な恵みと感じ、主食と区別したと考えられる。


日本最古の加工食品は農耕が始まった頃で、まだまだ食べ物は不足していて椚や楢などどんぐりを粉にして水に晒してアクを抜き、団子に丸めたものに熱を加えたものである。「団子」の始まりでやがて934年頃「餅」が誕生した。当時としては何よりも大切な米を用いたので神聖なものとして扱われた「豊後風土記」。


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遣唐使(630年〜894年)が唐朝から持ち帰った「唐菓子」は米・麦・大豆・小豆などをこねたり、油で揚げたもので祭祀用として用いられ後の和菓子に大きな影響を与えた。鎌倉時代初期(1119年頃)栄西によって伝えれた喫茶の流行は「茶の湯」につながり、室町時代の茶席の点心の中に、「羊羹」がみられる。


「羊羹」は羊の肉を使用するが当時獣食の習慣の無い日本では麦や小豆の粉で象ったもので代用した。後に1800年頃寒天が発見されて練羊羹に変化していった。このように茶の湯の菓子は和菓子の発展に影響を与えていった。


その後南蛮菓子の渡来があり、ボーロ、カスティラ、金平糖、ビスカウト、パン、有平糖など現在にも残る和菓子の原型となった。戦乱が止み江戸時代に入って、和菓子は大きく発展し、京都の和菓子と江戸の上菓子は競い合うように発展し菓銘や意匠に工夫を凝らした和菓子が次々に誕生していった。


現在の和菓子の多くは江戸時代に誕生した。当時は砂糖はまだまだ高価で「菓子見本帳」によって受注し製造していた。

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亀屋良長と醒ヶ井

亀屋良長は元々京菓子の名門と謳われ一時江戸にまで名を知られた菓子司の亀屋良安が火災にあい家業を続けられなくなり、暖簾分けするかたちで当時の番頭がその意思を継ぎ1803年に四条醒ヶ井の地に創業した。
当時大宮から西は壬生の辺りまで田畑が広がるだけであった。その様な商家には不向きな立地に創業したのは、“水”へのこだわりであった。
だから、四条醒ヶ井の地は亀屋良長にとって特別なこだわりを持っている土地である。地名の由来となる「佐女牛井」は、もとは源氏堀川邸にあった名水であり、足利義政や千利休も用いたと伝えられる。場所は少しはなれるが亀屋良長が掘った井戸から、良質の水が湧き出たことは醒ヶ井という地名と深い因縁を感じる。

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平成3年に社屋を新築し、昭和37年の阪急地下鉄工事で枯れていた井戸を80mの深さまで掘り直し、「醒ヶ井」と名付けて再び菓子作りに使用している。和菓子は米粉、豆、砂糖、水で成りたっていて、とりわけ水は大切であった。水は和菓子の味を決める重要な要素で、良質の水を使うと、小豆や餅米などの素材の香りが際立ち素直で洗練された味わいが立ち現れる。江戸時代から使われ始めた砂糖はことさら貴重で、各都市では銀の流出を防ぐために製菓業を組合によって制限することが常であった。京都市内では248店舗が御免となり製菓業を営んだ。

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研修でいただいた菓子について印象深ひと品を記述する。創業以来の銘菓である「烏羽玉」で、二百年近い年月を経て、今なお往時のままの姿を残している。茶花のヒオウギの実である「ぬばたま」を象った菓子で、黒砂糖とこし餡を練り固め、寒天でくるんで芥子粒を振り掛けたもの。漆黒の銘菓である。

家訓“懐澄”は二代目当主が定めたもの「懐が澄む」と訓む、いつ懐を見られてもよいように、適正な利潤を上げ、またそれを還元、循環させ、常に清らかにしておくようにという意味である。現当主八代目吉村良和氏は、「私は、菓子作り、あるいは経営において、京都に住む人や京都を訪れる人の期待に添える商売をしなければいけないと考えています。そのためにはやせ我慢も必要ですが、誇りを持って歩んでいれば、やせ我慢もまた美しく見えるものでありましょう。京都の文化を支えてきた「水」を大切にしながら、今後も精進していきたいと思います。」と語る。

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伏水と黄桜

京都は450年前から酒造りが盛んで、伏見地区には約30社の酒造会社があり、現在でも酒造りには地下水を使っている。黄桜株式会社は初代松本冶六郎が1925年(大正14年)に伏見の蔵元・澤屋(現松本酒造)の分家として創業した。

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近代的な工場を完成させ、首都圏を主力市場として全国に販路を広げていった。また進取の精神を持つ松本はいち早くマス媒体での広告を始めた。社名の由来は、社長が黄桜の花(淡く緑色がかった白い花を咲かせるサトザクラの一種)を好んだことから。

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漫画家清水昆が描く河童を長期にわたりマスコットとしており、1974年からは漫画家清水功がデザインを担当している。楠トシエが歌う「河童の歌」も数十年にわたって使用している。大塚製薬や日産自動車とともに讀賣グループとも関係が深い。伝統の日本酒文化を継承しつつ「品質本位の酒造り」をモットーに、酒それぞれの個性を主張する商品開発をこころがけ、ロングセラーの「金印黄桜」、「呑」、「山廃仕込」、「辛口一献」などを発売し、常に時代のニーズにきめ細かく対応した商品開発と販売戦略を展開している。

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また若年層や女性にも親しめる純米大吟醸やスパークリング清酒にも取り組み、地ビール業界へもいち早く参入し、記念館と地ビールレストランを併設する「キザクラカッパカントリー」や吟醸酒造りと地ビール造りを一度に見学できる「伏見蔵」を運営している。伏見蔵は日本酒造りの骨格となる、麹造りや立ての様子、仕込みなどの工程見学ができる。

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1995年誕生した京都初の地ビール「京都麦酒」は、仕込みタンクや醸造タンクが並ぶ醸造所、缶充填から箱詰めまでの工程を公開している。また酒造りのこだわりに関するパネル展示やイメージキャラクターの「河童」の紹介コーナーもある。


今回研修はこの施設の見学と懇親会をお世話いただいた。これらの地域活性化に貢献する活動と「品質本位」をモットーとした醸造技術を化粧品や食品などへも分野を拡げた事業展開は人々の豊かな生活へと繋がっていく。現松本真治社長は「売上が伸びている地ビールの生産量を拡大することで、多くの来日客に訪問してもらい、近年販売量が減少している日本酒の輸出をふやすことが目的」と語る。


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まとめとして

マーケティングは人と人、そして人とモノが切り結ぶ偶有性の中にある。ことに人の行動は常に、最初は衝動的で不正確であるが、安定と正確性はその後にくるものであり、人々を魅了することを学ぶ時間が必要なのである。

伝統という束縛が自由とか順応の可能性を妨げるのではなく、促進するようにするためには、伝統という時空間はいかに構成され得るのだろうか?つまり大切なのは、それを満たすことではなく、慣習を絶えず粉砕することによって、それを維持し奮起させることである。

その時に物事の全てを自分でコントロールしょうと思ってはいけない。不安定な状況の中に身を置く、その目標に向かって確固たる目標を持って邁進することが重要である。ことに人と人の偶然の出会いとそこにおける直観はマーケティングの現場においてダイナミックに作用することが在る。”科学”あるいは”アカデミック”が重要視されるが、“世界を観る独特の方法ではあるが唯一の方法ではない・・・われわれは科学的認識によって学ぶと同時に感情や生活によって学ぶ。
科学は真理への通路の一つであるが、通路は他にもある。ことに偶有性が大きく影響するマーケティング活動においては、未来を創るのは事実の蓄積だけではなくて、人類を愛する前向きな人の心、人の心の延長線上に未来があって、それらは創造される。未来はひとりでにやって来てはくれない。我々が正しい方向で仕事することこそが、未来へのよりよい出発点となる。

一年間有難うございました。”Marketing of the Future” そしてその次へ!


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