9月定例会は、立命館大学大学院経営管理研究科のご厚意で、大阪いばらきキャンパスでの共同開催となった。今月はご自身も立命館大学マネジメントプログラムでNBAを取得され2010年に卒業された「京山城屋」でおなじみの真田千奈美氏の講演である。テーマは「乾物の未来を拓く」~「きづく」ことからのイノベーションである。

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真田家と山城屋とは

乾物と向き合って百有余年。素材、産地、旬にこだわり続ける。創業は明治37年(1904年)四国の香川にて米問屋から転じて煮干し専門問屋「通町山城屋」として開業した。初代真田サダの経営理念は「商いの元は生産者に有り」である。当時煮干しを届けてくれる生産者である漁師を御殿にて上等な夜具で泊め、御馳走で接待したことから評判を呼び、瀬戸内海の煮干しが大量に山城屋に集まり財をなすことになった。真田家は大永元年(1500年初頭)に甲斐の国より讃岐の高松へ移り住み、江戸時代は米問屋を営んで来たわけだが、煮干し問屋に転じるという山人が海人へ変わる人と社会の流転するおかしみを感じる逸話である。

その後、昭和20年(1945年)7月4日の米軍の空襲により、高松市は市街地の80%を被災し、真田家も全戸消失し商売を中止したが、商売の継続をあきらめなかった。昭和21年(1946年)有限会社真田商店として乾物屋を再開した。香川県から30人の嫁候補の中から選ばれ、真田家に嫁いだ真田悦子の代である。二代目真田悦子は四国初出店のスーパーマーケット「主婦の店」の開店を目の当りにして、スーパーマーケットという新しい店舗形態に心動かされ吉田日出男に教え仰いだ。

余話として:「二代目真田悦子に影響を与えた吉田日出男のことに述べておきたい。日本のスーパーマーケットの西の端緒(東は紀伊国屋)である丸和フードセンター(現北九州市小倉北区丸和)の社長であった吉田日出男は、中小小売商の生協対策として1957年3月23日に設立したボラタリーチェーンで、「主婦の店運動」と銘打って全国を飛び回り提携を呼びかけた。この運動の中でレジスターが導入され、セルフサービスを採用したスーパーマーケットが全国に展開された。シンボルマークとしては風車が採用されていた。この主婦の店全国チェーンはテレビCMやプライベートブランドの展開などのスケールメリットを出すための施作に欠けていたため、徐々にダイエーやジャスコの様に独自で全国展開を図る企業やニチリウグループやCGCグループ、オール日本スーパーマーケット協会にも同時に加盟し地方展開を図る企業、先の大手流通企業の傘下に入る企業が増加したことと、出店エリア協定が無く、加盟店同士の出店競争が激化し自己矛盾の中で終焉をむかえた。主婦の店全国チェーンは1998年7月に解散した。四国では解散後も主婦の店鳴門東浜店が店舗ブランドを継続して使用している。」

当時大阪では毎月一店舗のペースでスーパーマーケットが開店していた。昭和33年(1958年)11月30日真田屋は四国より大阪に進出し、スーパー専門問屋となり20年後には30億円の売上高となった。昭和40年(1965年)大阪府守口市へ移転した、まさに京都の入口に拠点を構えたわけである。時代は本格的なスーパーマーケットの時代を向かえ、二代目真田悦子は店舗を訪れるお客様が喜ぶ乾物とは何かを突き詰め続けた。これが現在の産地と旬にこだわった山城屋ブランドの原点である。

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カンブツ(乾物・干物)そして保存食について。

こだわりの乾物を販売する京山城屋を理解するために、日本の食文化の基底を成すカンブツ(乾物・干物)から保存食までをくくって述べてみたい。

水分を抜いて乾燥させた食べ物「カンブツ」には、「乾物」と「干物」の二種類の文字が宛てられる。

「干物」の方は、「ひもの」と呼ばれ、魚介類を干したものである。カンブツ(乾物・干物)の「乾」は訓読みすると「かわかす」で、「干」は「ほす」で、どちらも素材から水分を取り除くということでは変わりはないが、一般的には、野菜や海草などの植物性食品を乾燥させたもので、このとき素材の水分を完全に抜いて常温保存できるものを「乾物」と呼び、魚介類を素材の味を引き出すために適度に水分を抜いて乾燥させたものを「干物」と呼んで区別している。

日本の乾物の歴史は古く万葉集にも登場する、源流をたどれば、縄文時代の人々が食べていた木の実かもしれない。もともと乾物なので放っておいても長く持つ、特に獲物や植物が採取できない冬季には貴重な食物となった。ただし木の実はアクが多いものがあり、アク抜きのため水で晒し粉状のでんぷんとして保存した、多くのアクが水溶性であることを経験上知っていたのだ。縄文時代は食料資源の範囲が狭かったので、食べられる状態にする工夫が発達したのだ。クルミやクリのようにそのまま食べられるものものよりトチの実のように何らかの知恵が必要なものが多かったのだ。こうした調理・保存法が縄文時代から現在に受け継がれる食文化の知恵なのだ。乾燥させればそのまま食べられるものに昆布やわかめなどの海藻類があり、平安時代の市場では今より多種類の海藻の乾物が売られていた。しかし、日本は高温多湿の国である。この湿度の高い環境で水分を抜くには工夫が必要である。例えば三代目が推奨する切干大根やかんぴょうの様に薄く細かく切る。古くは神饌として用いられた熨斗鮑も鮑をりんごの皮の様に細長く紐状にむいて乾燥させたものである。熨斗鮑のように、保存食は神に供えるささげものや縁起物として婚礼や祭礼の時に行事食としても重要な役割を果たしてきた。その他加熱してから乾燥させるアユの焼き干しや地域によっては凍結して乾燥させる凍み豆腐(高野豆腐)やジャガイモを凍らせて乾燥させた凍み芋や乾燥と並んで多くみられる保存方法は塩蔵と発酵で漬物やなれずしなどが上げられる。また何日もかけて徒歩で旅していた時代は携行食として用いた「干し飯」・「焼き米」なども保存食のひとつである。このように旬の時期にその食物の一番栄養価の高くて美味しいタイミングを逃さず、無駄にすることなく(例えば魚の骨や内臓・果実の皮など)保存しようという先人の知恵から生まれたものである。

かかる意味では乾物(カンブツ)は間違いなく保存食品の一つである。保存食の多くは、気候・風土との関係で冬季や乾期など、長期にわたり食品の確保に困難を抱える地方や遠洋航海や戦争などの食料の確保や輸送、あるいは貯蔵・調理に大きな制約を受ける状況下、もちろん最近の激甚な災害も含めて現代社会にとっても欠かすことのできない生活の知恵である。

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こだわりの乾物を販売するということ

三代目真田千奈美もまた香川県出身で実家は商売をしていた。1982年(昭和56年)山城屋ブランドで乾物を発売した。食品問屋から乾物メーカー「山城屋」への転身である。30億円の売り上げ規模から6億円規模のメーカーへの転身はまさにブランドの命懸けの跳躍である。スーパーマーケット専門の乾物問屋のときは競合他社の参入による激しい価格競争に巻き込まれ売上が毎年5%減じていく状況であった。私達の使命は「乾物を通じて、生産者とお客様の心をつなぐ結び目になること」と三代目千奈美氏は語る。これまでも、これからも「生産者の方々の熱意」と「料理をこしらえる人愛情」を大切につないでいくことを使命と考えている。およそ30年前スーパーマーケットが本格化する中で、お客様が喜ぶ乾物とは何かを追求し続けた結果、「産地と旬」にこだわった山城屋の乾物が生まれたのだ。2004年(平成15年)9月29日の山城屋百周年のとき、京都東山八坂の塔の地で京山城屋を開業した。三代目千奈美氏による本格的なブランディングがスタートした。以来日本各地の生産地に直接足を運び、生産者の方々の熱意に実際に触れながら、本当に良い食材だけを厳選したお客様に届けてきた。常に今の時代が求めることを取り入れた商品開発とは、その問いかけの中でお客様相談室の開設や、京都八坂本店での料理教室が開かれ、この料理の現場から寄せられる声にも耳を傾け続けている。大胆な組織改革として大阪支店と東京支店を京都に統合し、商品アイテムを500から300に削減した。商品製造の内省化と合理化の実行だ。乾物をオイシックスのサイトに入れてもらい売上は右肩上がりだ、本当に美味しいものを、チャネルを変えて導入していく。「思ったら行動が成功につながる。何もしなければ何もない。」30年後、100年後の「食にまつわる感動」をお手伝いできることを目指して!

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ロジスティック曲線とドラッカーの時代と思想

気候の変化で食材の収穫が減少する、この大きな気象変動は就農農家を減らしていく。この現実の中で、乾物もその種類を減らしていくことは宿命である。しかし残るものは残る、20人の正社員と共に育んでいく。三代目真田千奈美の取り組みである。この現実の構造を直視するとともに、三代目が影響を受けたドラッカーについて述べておく。

ロジスティック曲線というS字型の曲線とこれを導く方程式は1837年にベルギー人フェルフルフトがマルサスの人口論を批判するものとして、人間の人口理論として提案された。1919年アメリカ人パールによる再発見以降、一定の環境条件下での生物種の消長を示す理論式として広く知られるようになった。S字型を描くのは成功した生物種であり、ある種の生物種は繁栄の頂点の後、滅亡に至る。これを修正ロジスティック曲線と呼ぶ生物学者もいる。再生不可能な環境資源を過剰に消費してしまったおろかな生物種である。哺乳類などの大型動物はもっと複雑な経緯を辿るが基本原則を逃れることはできない。地球という有限な閉域の環境下にある人間という生物種も同じである。これは比喩ではなく現実の構造である。しかし人間についての適用は成立しても、長期的には検証されなかった。人間の地域や国家を範囲とすると人口の流出入は考慮できても、貿易による必要な環境資源の輸出入があり、有害廃棄物の域外や海洋、大気中への排出も可能であるからだ。人間にとってロジスティックス曲線が現実に成立するのは、20世紀末にグローバリゼーションが地球全域に現実に有限性なる「閉域」として立ち上がった後である。グローバリゼーションこそ人間のロジスティックス曲線貫徹の前提なのだ。

1970年代までの人々の歴史感覚は、歴史というものは「加速度的に進歩し発展する」という感覚であった。それはエネルギー消費量の加速度的な増大というデータの根拠によるものであった。しかし冷静に考えてみるとこのような加速度的な進展が、永久に続くものではないということは明らかである。1970年代ローマクラブの「成長の限界」以来多くの推計が示している通り、人類はいくつもの基本的な環境資源を今世紀前半の内につかい果たそうとしている。1960年代は「人口爆発」が主要な問題であった。しかし、前世期末には反転して西側先進国で「少子化」が深刻な問題となっている。「南の国々」を含む地球全体としては人口爆発が止まらないというイメージであるが、じつは地球全体の人口増加率は1970年を先鋭な折り返し点として、以降は急速にかつ一貫して増加率を低下させている。人類は理論よりも早く生命曲線の変曲点を通過しつつあるのだ。「近代」という壮大な人類の人口爆発器は「現代」という未来への安定平衡に至る変曲ゾーンに居るということだ。

そしてビジネススクール時代の真田千奈美氏に影響を与えた、ピーター・F・ドラッカーは1909年11月19日、オーストリア・ウイーンに生まれのユダヤ系オーストリア人経営学者で、「マネジメント」の発明者である。未来学者と呼ばれたこともあったが、自らは「社会生態学者」と名乗った。父アドルフはウィーン大学教授で裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭であった。1931年フランクフルト大学で法学博士号を取得、このころ国家社会主義ドイツ労働党のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッペルスからたびたびインタビューを許可された。しかしユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興に直面し、古い19世紀的ヨーロッパ社会の原理崩壊を目の当たりにし、身の危険を悟りイギリスを経て1939年アメリカに家族と共に逃れた。そこで目にしたのは20世紀の新しい社会原理として登場した組織と巨大企業であった。彼はその社会的使命を解明すべくゼネラルモータースから研究の許可を得、1946年政治学者の立場で「会社の概念」を書き上げた。その中で「分権化」など多くのコンセプトを考案した、その後興味の関心は企業にとどまらず社会一般に及んだ。「民営化」はサッチャーや国鉄の民営化に影響を与え、「知識労働者」も彼の造語である。特に非営利企業の経営にはエネルギーを費やし、1990年「非営利組織の経営」を著している。またティラーの「科学的管理法」やマズローの「欲求めの5段解説」にも多大な影響を与えた。彼の最も基本的な関心は「人を幸福にすること」にあった。そのために個人としての人間と社会(組織)の中の人間のどちらかからアプローチする必要があった。彼は多くの著書を後者でアプローチした。「マネジメント」の中では、古い全体主義的な組織の手法を改め、自律した組織運営を述べている。その前書きで、「成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」と述べている。ドラッカーの思想は、個人のプロフェッショナル成長の分野にも及ぶ。知識労働者が二十一世紀のビジネス環境で生き残り、成功するためには「自己の長所(強み)」や「自分がいつ変化すべきか」を知ること、そして「自分が成長できない環境から迅速に抜け出すこと」を勧めている。

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1968年断絶の時代「いま起こっていることの本質」

ドラッカーの著書「断絶の時代」は、1968年アメリカで大ベストセラーとなった。この当時の思潮や時代感覚を理解するための概念として的を得たこの本を、私は父の書棚に見つけ興味を惹かれたことを、50年たった今でも鮮明な記憶として残っている。ベトナム戦争や学生運動、公民権運動といった政治的な動向はいっさい無視しているにもかかわらず、真実は隠れたところに在るという信念が行間にあふれる、極めて60年代的な書物である。「断絶」と「変革」の違いとは何か!「変革」とは例えれば地震や火山の噴火であって、それは地殻変動によってもたらされるもので、この目に見えない事象がドラッカーの説く「断絶」である。ドラッカーは第二次世界大戦が新しい時代の始まりで一つの時代の終わりであったことを示し、マーガレット・サッチャーが推進した政府現業部門の民営化構想も本書で示されたものである。「断絶」を「不連続」と読み替えても良いが、ドラッカーは4つの分野の「断絶」を明らかにした。

新技術・新産業の出現。従来とは異種の知識技術が生み出す新産業が出現する。グローバル化と南北問題の顕在化。グローバル経済の出現で世界は地球規模のショッピングセンターとなる。政治と社会の多元化が組織を巨大化させ互いに依存しあう「組織社会」の出現知識社会の出現と社会的責任意識の高まり。知識が経済の基盤となり、知識の生産性が競争力の源泉となる。

最後にドラッカーを認める陽明学者・思想家 安岡正篤 <1898年(明治31年)2月生まれ、1904年(明治37年)山城屋創業の年、大阪市芝尋常小学校に入学し四書「大学」の素読を始める。>の言葉で終わりたい。

人間が親子・老少、先輩・後輩の連続、統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるか。国家や民族の進歩、発展も無くなってしまいます。「老」+「子」=「孝」ということだ、真田家は三代続いて四代目へと受け継がれていく。

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今回お世話になった立命館大学ビジネススクールの肥塚 浩先生の言葉

地球には今70億を超える人々が生活しています。人々をつなぐ様々なネットワークは著しい発展を遂げ、グローバル化が進展しています。しかし、同時に多くの亀裂と分断が見られ、グローバル化は岐路に立たされています。

この岐路を超えるための、一つの答えは今回の山城屋の足跡なのかもしれない。