月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也

九州を売る“JR九州の挑戦がテーマの今月の定例会は九州旅客鉄道株式会社 常務取締役 事業開発本部 副本部長 津高 守氏に登壇いただいた。

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氏は1961年大阪堺市出身で1979年私立清風南海高校を卒業、1985年九州大学工学研究科修士課程修了、1987年に日本国有鉄道入社、同年国鉄分割民営化により九州旅客鉄道(株)入社、以来40年以上関西の地を離れている。
共同体の拘束を超えた、根っからの旅人で異端の人といった強い印象を受けた。一人の人間の最初のアイデンティティは、ある特定の空間と時間に属することによって得られる。血縁、地縁、学歴、文化といった人間生活の条件は、一人の人間をある空間、時間に繋ぎとめて置く装置でもあるが、しかしながら人間はついに一定の空間に拘束される存在ではない。異なった現実に身を置いて自己の真髄を試してみたいという欲求は、安定した生活を営みたいという欲求と同じくらいに強い。そこで人間は境界を出ていくことになる。

国鉄で入社された津高氏にも強く「旅」のイメージが付きまとう。私達の世代は国鉄と言えば電通によるキャンペーン「ディスカバー・ジャッパン」を思い浮かべる。
1970年の大阪万博では国鉄輸送網が活躍し大量の乗客を輸送した。大阪万博までは団体旅行が主流であったが、万博以降個人旅行に国民の目を向けさせるきっかけとなったキャンペーンである。コンセプトとしては「ディスカバー・マイセルフ」で日本を発見し、自分自身を発見するで「マイセルフ」の部分表現として「美しい日本と私」という副題ができた。このフレーズが、川端康成のノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本と私」に似ていることから、川端康成氏にこのフレーズを使うことを打診したところ、快諾された。そのうえポスターに使う揮毫までしてもらったというエピソードがある。
キャンペーン開始と同時に国鉄提供のテレビ番組「遠くへ行きたい」が始まった。永六輔が日本全国を旅して、各土地の名所紹介と住民とのふれあいがテーマであった。永六輔が作詞した同名の主題曲とともに当時の国民の旅への憧憬を誘った。

また1970年は女性雑誌「an.an」が、1971年に「non-no」が創刊され「アンオン族」を生み出し、若い女性の旅のスタイルを広めていった。余談ではあるが1970年と言えば、富士ゼロックスのキャンペーン「モーレツからビューティフルへ」もこの国鉄のキャンペーンを手掛けた電通の藤岡和賀夫氏で、私自身漠然と「デザイン」を志すきっかけとなったことを思い出す。こうして「アンノン族」に代表される女性客が増えるにつれ、国鉄のキャンペーンは女性を重視していった。1978年11月山口百恵が歌う「いい日旅立ち」キャンペーンが始まった。1980年以降は累積赤字が大きな問題となり、キャンペーンも下火となっていった。

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国鉄の起源をたどると

1825年イギリスで、蒸気機関を利用する鉄道が実用化されて以来、鉄道は先進国で産業発展の担い手として発達した。この技術は30年後の幕末に日本に模型として到来した。
1855年(安政2年)佐賀藩のからくり儀右衛門の名で知られる田中久重が蒸気機関の模型を完成させた。
1869年、明治維新の翌年に新政府は官営による鉄道建設を決定した。新政府は自力での建設は無理だったのでイギリスから資金と技術の援助を受けた。
1872年(明治5年)に新橋から横浜間で、日本初の鉄道路線が開通した。鉄道は大評判となり、翌年には大幅な利益を上げた。このとき以来「鉄道は儲かる」という認識が日本に広まった。国(官吏)が建設した鉄道だから官設鉄道または官営鉄道といった。
当時、明治政府は全国に鉄道を建設しようとしたが財力が無かったために、一部は民間会社に建設を許した。先行利益を許すが、国が要求すれば譲渡しなければいけない、という条件があった。これらの主要私鉄路線を国が買い取って国営鉄道と呼んだ。当時の国鉄は国営鉄道の略称であった。
1881年(明治14年)半官半民の日本鉄道が設立されてより、政府保護を受けて営業成績も良かったため、同じ方式で北海道炭鉱鉄道、関西鉄道、山陽鉄道、九州鉄道が設立され、明治の「五大私鉄」と呼ばれた。大私鉄建設の時代であった。
時代は巡り、1945年(昭和20年)太平洋戦争の終戦後、日本は敗戦国となりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本の民主化を進めるために労働組合を認めた。国営鉄道に労働組合を置くために、国から分離して公共事業体とした。これが日本国有鉄道という特殊法人だ。国営から国有へ、国鉄は国有鉄道の略称となった。公共事業体とは、公共性の高い事業に国が出資して、独立採算とした組織で日本では塩と煙草と樟脳を扱う日本専売公社、電話を扱う日本電信電話公社ができて、国鉄と併せて三公社と呼ばれた。

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国鉄赤字転落への道程

その後国鉄は利益を上げ、優秀な公共事業体となった。その利益を蓄積して設備投資に備えたが、1964年国鉄は初めて8300億円の赤字決算となった。東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催された年だ。高度経済成長の中、モータリゼーションの進展により近距離交通では自動車が普及し、長距離交通では旅客機が発達していく中で、鉄道は世界的にも斜陽産業と呼ばれ始めていたのだ。
1966年国鉄は完全な赤字決算となった。補填の方法は、財政投融資の借入と政府保証鉄道債券であったが、これらは返済時に利子の支払いが必要で、後年利子が増大して長期債務を増やす原因となった。国鉄の赤字転落の原因は他にもあった。
民業圧迫を避けるため、副業が制限され多角化ができなかったのだ。私鉄のように不動産や流通部門の黒字で鉄道事業を支えるという仕組みが無かったのだ。さらに都市部の拡大と人口増加により、通勤利用者のための設備更新や増強が必要となり、これに要する費用は国からの補助はなく国鉄の負担となった。ローカル線の建設も政府の決定により国鉄が負担して開業していった。そのローカル線のほとんどが赤字路線となっていった。

新幹線の建設にも巨額の費用が投じられ、そのまま国鉄の債務となった。また政府の雇用対策の受け皿として、戦後の引き揚げ者を大量に雇用し、その給料は年功序列で増え続け、退職金や年金の負担があり、準公務員だから一定以上の役職には恩給の追加負担の必要もあった。結果その労働コストは増え続けた。また国鉄は晩年に至るまで運賃の値上げができなかったことも大きな原因である。特殊法人であるため、運賃値上げ・路線の建設、廃止・役員人事などは政府による法案作成と国会での議決が必要となり、政治の介入を強く受けた。

1969年日本国有鉄道財政再建特別措置法が成立した。経営合理化・赤字ローカル線の廃止・新路線建設の凍結・国鉄用地の固定資産税の減額などが決められた。それでも運賃の値上げは認可されなかった。新路線は国が鉄道建設公団を作って続行された。田中角栄首相の「日本列島改造論」や「我田引鉄」と言われた政治家が選挙区に鉄道を誘致し票を得る、利益誘導のために地方ローカル線は利用された。1980年(昭和55年)路線の新規建設が凍結されるまで続いた。

1976年ようやく国が運賃の値上げを認めた。同年の値上げ率は50%、翌年1977年も50%の値上げ、そして1978年から毎年の運賃値上げが始まった。この極端な値上げ策と1965年(昭和40年)から続く「マル生運動」の失敗から労使関係が悪化し、順法闘争やストが派生し、1975年の8日間のストライキで労使関係は決定的に悪化し、職員のモラルが低下は、国民の国鉄離れを加速させてしまった。

1986年国鉄最終年度となった累積債務は25兆円を超えていた。これは途方もない金額であり、債務解消と赤字体質の改善は疑問視された。当時の大蔵省は財政投融資からの貸付を渋り始め、政府保証鉄道債券も引受先が危ぶまれた。付け加えると、最終年度は値上げと合理化の効果により一般営業利益と幹線の利益は黒字となったが貨物の赤字、利子の支払いで全体的には1兆8478億円の赤字であった。

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30年前国鉄は終わった。

1987年政府は長い議論の末に国鉄の分割民営化を決定した。ことの経過は1981年(昭和56年)第二次臨調を設け土光敏夫会長による国鉄改革など財政再建に向けた審議が始まり、その中で「国鉄解体すべし」や「国鉄労使国賊論」などが発表され、分割民営化を前提とした情報発信がなされていった。
1982年第二次臨調は基本答申で「国鉄は5年以内にお分割民営化すべき」と正式表明、国鉄そのものの消滅へと大きく舵を切った。同年11月国鉄再建監理委員会が設置され、国鉄内部では松田昌士、葛西敬之、井出正敏の「国鉄改革三人組」と称されて分割民営化を進めていくことになる。分割民営化に反対する国鉄経営陣は「国体護持派」と呼ばれ、その後推進派と反対派は政界を巻き込んで争うことになる。結果として国鉄経営陣は分割民営化推進派が勝利を収めた。

ここで分割民営化について確認しておきたい。国鉄が分割民営化されてJRになったと理解されていることが多い。JRは政府が100%株主となった新しい会社で、国鉄を継承したわけではなくて、その債務も消えていない。国鉄の債務と人材を承継した組織は国鉄清算事業団である。引き継いだ遊休地の公示価格は約7兆円であった。元々清算事業団が解消した債務の残りは国の一般会計で処理することになっていた。バブル期には一度追い風が吹いた、バブル経済の到来で地価は高騰した。汐留貨物駅跡地など一等地は2倍の価値があるといわれたが、このタイミングで土地売却はできなかった。政府が過剰な地価高騰を招く恐れがある国有地などの売却を停止したからだ。ここで全ての遊休地を売却できれば、長期債務の半分程度は減らせたかもしれなかった。
政府はJRには介入しなかったが、国鉄清算事業団には介入し続けたのだ。国鉄遊休地の売却はバブル崩壊後が再開されたが、景気の停滞で買い手がなかなかつかなかった。当初10年間で売却終了予定が計画通り終わらず、長期債務は25兆円から28兆円まで膨れ上がった。国鉄清算事業団は解散しその業務は日本鉄道建設公団が引き継ぎ、現在は独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構となっている。
遊休地の処分はようやく30年後の2017年に終わった。旧梅田貨物駅跡地の「うめきた再開発用地」と、仙台長町の操車場跡地である。残された長期債務の28兆円は、1998年から一般会計で処理されることになった。国民の負担で、返済期間は60年である。
ちなみに1904年に始まった日露戦争の戦時国債は海外からの借金で、政府はその返済に82年かかった。返済終了は1986年、国鉄が終わった年である。

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JR九州のこと

通称JR九州、九州旅客鉄道(株)は1987年4月国鉄から鉄道事業を引き継ぎ発足した。津高氏が入社した年である。九州地方を中心に鉄道路線を有し、旅行業や小売業、不動産業、農業なども展開し海外にも進出している。
九州新幹線と九州地方の在来線を営業エリアとし、総営業キロ数2273.0㎞、567駅の運営を行う。JR九州発足以来2016年3月まで一度も営業黒字を計上したことがなく、九州新幹線が全線開業した2011年以降も厳しい経営状況が続いていた。2015年に減損会計を実施し、減価償却の大幅な圧縮や合理化で2017年3月決算で発足以来始めて鉄道事業で250.8億円の営業黒字とした。
一方でこの鉄道事業を補完するために、事業の多角化を進めている。その営業範囲は首都圏や関西圏そして海外へも広げている。2017年9月にはタイに不動産開発を手掛ける現地法人を開設し長期滞在用サービスアパートメント事業にも参入している。
総売上高に占める「非鉄道部門」の割合はおよそ51%であり、こうした事業の多角化は経営面での安定化に寄与しており、JR旅客会社の中で経営が厳しいと見られていた「三島会社」では初めて完全民営化を果たしている。
「つくる2016年」中期経営計画で株式場上を掲げ、2016年10月に東証での上場を果たしている。経営環境から鉄道事業をみると、九州は早くから高速道路が整備され、料金面で割安な高速バスと九州新幹線と在来特急による中距離輸送の競争は厳しく、小倉〜博多の新幹線はJR西日本の所有であるなど、主な収益源を得なければならない路線で苦戦を強いられている。近距離輸送でも福岡市や北九州市など輸送量の大きなエリアもあるが首都圏や関西圏に比べると大きな利益をもたらすものではなく、厳しい経営環境である。
このような環境の中で中距離輸送のサービス向上として、割引切符や増発を実施し、あわせてワンマン運転の拡充や駅の無人化を進めている。管内各地のローカル線については「D&S列車」を観光面に特化して運行している。これらの列車はそれぞれ特別なデザインで、運行する地域にもそれぞれの物語がありこのデザインと物語のある列車で、観光地としての印象が希薄な九州を国内から海外にまで発信し、交流人口の拡大をねらっている。目指すのは「心の豊かさ」であり、「新たな人生に巡り合う旅」である。
1989年に同社初の観光列車として「ゆふいんの森」が運行を開始し、2004年からは九州新幹線の部分開業に合わせて、鹿児島、宮崎を中心に多数の観光列車が運行されてきた。九州新幹線が全線開通すると、沿線である熊本、鹿児島でもさらに多くの観光列車が投入された。その列車のほとんどは従来から使用されていた列車のリニューアルでその全ての列車デザインは水戸岡鋭治がてがけてきた。内外装やサービスに乗客を楽しませる仕掛けが施されている。「A列車で行こう」「指宿のたまて箱」「海彦山彦」などネーミングからもコンセプトが伝わってくる。
2013年からは九州管内の七県にまたがるクルーズ「ななつ星in九州」も運行を始め、企画に厚みを増している。またJR九州は駅舎にもこだわる。事例をあげると日豊本線にある日向駅とその周辺環境である。2006年に高架化を完成させ、2007年より旧駅舎の解体を着手し、現在の駅舎は建築家の内藤廣氏が手掛けた。東京大学の篠原修氏も都市計画で加わり、鉄道関係者、行政関係者、そして市民が参画しておよそ10年かけて完成させている。
}地元市民からは地産の杉材を活用することを強く要望され、高架駅にもかかわらず杉材を効果的に設計に組み入れ耐風性にも考慮された木造のような駅外観である。駅舎や高架下の建造物インテリアにも杉材が豊富に使われている。島式ホーム1面2線の高架駅でプラットホームも広い。2008年(平成20年)鉄道にかかわる国際的なデザインコンテストであるブルネイ賞で最優秀賞を受賞した。さらに地元杉材を活用した駅舎と駅周辺の景観は国土交通省に評価され、2014年度の都市景観賞を受賞した。内藤廣氏といえば鳥羽にある「海の博物館」が出世作であり土地に根付く建築として印象深い。東京大学では土木課に招へいされ教鞭をとり、「建土築木」を提唱し、ユニークな講義をおこなった。ちなみに今回のスピーカーである津高氏も土木畑である。

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結びとして。

旅からの気づきとは<方向>と<意味>と<感覚>から生まれるものである。多くの人は旅を人生のアナロジー(暗喩)と考える。それは身近な生活の中でもよく見られることである。人は 旅<未知と偶然の要素を多く含んだ>に出るとき、どこへ行きたいか、何かを調べたいかといった、なんらかの意味で目的を持った自分の意思とは別に、一種のあやしい胸のときめきを感じるものだ。それは一抹の不安を交えた心の華やぎであり、それによって旅立ちは独特の感情の色づけがなされる。まさに「いい日旅立ち」という国鉄のキャンペーンはここからきているのではないかと思う。旅への出立がすぐれて演劇性があり、祝祭性を持ちうるのは、そのような感情の色づけのためであろう。
旅立ちの場所である駅舎やプラットホームが現在の生活の中では珍しく濃密な意味場を形作り、そこに毎日多くのドラマや祝祭が見られるのは、誰もが知るところである。旅立ちに際した時のこのような不思議な心の在りようを巧みに捉えた先人は次のように書いている。

「春立る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ神のモノにつきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、云々」(松尾芭蕉・おくの細道)

旅が日常性を超えた、異次元への飛翔ともいうべき側面を持っていることをよく示している。日常が惰性的であればあるほど私達の心は閉ざされる。そんなときに旅は私達の心を開かれた予感に満ちたものにしてくれる。旅先で見たものや聞いたものは、しばしば私達に新鮮な驚きを与え、旅先で出会った出来事はしばしば私達に強い感動を与える。旅に出ると人は誰でも<芸術家>になり<詩人>になる。このとき人は日常とは違った、深層の生を生きることになり想起的で表象的な記憶がイメージの全体性を強化していく。だから旅での想起的記憶はすぐれてコスモロジカルであり身体的であるのではないか。鉄道とそれによる旅はこのように私達に<方向>を与え、濃密な<意味>を与えてくれる。「偉大とは方向を与えることだ。」プラトン