<Vol.2 後編>
他者と切り結ぶ偶有的な世界(マーケット)でいかにして秩序が生成するのかはマーケティングの実践と研究の第一義的な問題であると考える。
前回コラム(Vol.1)で顧客集団のインサイトについての議論があった。ここで水口氏が投げかけた課題をもとに二つの考察を展開してみたい。

一つ目は少しさかのぼるが米国大統領選の“トランプ現象”である。
米国文化には、特有の政治的なダブルスタンダード(規範の二重性)がある。そしてそれが市民の顕在(意識)/潜在(意識)的な心理構造に重なっている。「抑圧された政治的欲望」、要するに「政治的に正しくない」潜在意識での本音のことで、人種・宗教差別はその最たるものだ。

カリフォルニアのファーストフード・ビジネスの事例では、「ファット(脂肪)フリー」「カロリーフリー」などという文言で、「体にいい」ことを強調したメニューが提供される。そして、米国民の顕在意識にある「健康主義」にアピールする。しかしその裏で、店舗は甘いデザートを用意し、脂肪分さえスープのような目立たない形で提供して、顧客の顕在意識の背後で抑圧されている(不健康な)食欲に、巧みにつけ入っている。顕在意識レベルにおける正義の圧倒的優勢と、潜在意識レベルの不満、鬱屈の膨大な集積、これがマーケティングにおいても鍵となる。

次にフロイト的解釈―エスと超自我の相克について、この心理規制は、「フロイトの精神力動理論」の枠組みで語ることができる。とりわけ「エス/自我/超自我」の考えとよくマッチする。
フロイトによれば、「エス」とは原初的で生物的な衝動のことであり、むきだしの欲求や衝動のことである。また、「超自我」とは、社会の倫理的な規範を教育などによって内側に取り込んだ自己規律のルール群のようなもので、「文化によって強制された良心」ともいえる。
このエスと超自我の間には、無意識レベルで多くの葛藤が生じる。「自我」はそうした葛藤を調整し統合する役割を担っている。エスに引きずられがちで自己愛的な自我を超自我が倫理的に抑圧するともいえる。また超自我は集団(共同体)の中でより顕著に現れる。

しかし今日、精神分析学は社会評論としては評価されても、精神科学的根拠はないというのが通り相場である。・・精神分析学の枠組みに頼らなくても、より科学的な理解をするために、神経倫理学、神経政治学の知見が役に立つ。ごくおおざっぱにみると、意思決定や判断は二つの大きな神経ネットワークのやりとりによってなされる。

その一つは大脳辺縁系などの報酬・情動回路で、これが自律的、無意識的に働いて直感的で素早い判断をする。他方、前頭を中心とするより分析的で計算高い回路もあり、さらにこれと重なる形で制御、実行の回路もある。
この回路が場合によっては先の情動回路を抑制し、より適切な判断や行動へ導く。しかし「公共的な利益をとるか、自己の利益を優先するか?」の葛藤では、情動的な直観が、まず判断の方向を決める。この二つの神経ネットワークは自律し拮抗するが、情動的な神経ネットワークのプロセスがより決定的である。また食欲(主観的な味の良さ)は、報酬系とも関係が深い腹内側前頭前野という部位でエンコード(記憶)される。それは「健康のために節食する」意思とは独立の過程である。つまり食欲が先にあって、それを高次の自己制御の機能で押さえている。

この対照的な特性をもつ二つの神経回路の機能は、認知心理学者ダニエル・カーネマンが提唱した区分で、マーケティング分野でもよく引用される「システム1/システム2」ともある程度かさなる。システム1(ファスト)とは直感的、自律的で素早いヒューリスティックな判断システム、システム2(スロー)とは意識的・分析的で努力を要する遅い判断システムのことだ。

二つ目の考察としては、方法としての弁証法である。
創造は二律背反を両立させるダイアレクティック(dialectic;弁証法)の発想から生まれる。
優れた企業は「ORの抑圧」をはねのけ「ANDの才能」を生かすべきであることを指摘している。「ORの抑圧」をはねのけ「ANDの才能」を生かすべきであることを指摘している。「ORの抑圧」とは、矛盾する考え方は同時に追求する。陰と陽を同時に競争させることなのである。 「ビジョナリー・カンパニー」 ジェームズ・コリンズ、ジェフリー・ボラス著

弁証法を説明するのに「正・反・合」のプロセスがよく使われる。
ある命題(正:テーゼ)に対し、それを否定する命題(反:アンチテーゼ)を対置し、この二つが綜合(合:シンセシス)されて、新しい命題が生み出され、より高い次元の真実に至るという展開でざる。モノ作り(テーゼ)とコンテンツ創り(アンチテーゼ)はよく、ハードとソフトという対立項で表わされるが、これらの対立項を綜合(アウフヘーベン)することによって新しいビジネスが創られる。またこの考え方は、知識創造理論の根底をなしている。過去に一橋大学の竹内弘高、野中郁二郎は、「暗黙知」と「形式知」、「カオス」と「秩序」などの両極を同時に追求することで知のスパイラルが生まれると論じている。

マーケティングにおいて、このようなダイアレクティックな発想は浸透しているのだろうか。マーケティングは「サイエンスかアートか」その主たる分析方法は「定量的か定性的」か、目指すべきは「理論か実践か」などのORの抑圧が依然としてはびこってはいないか。マーケティング・リサーチを中心にサイエンスと定量分析と理論を追求し、同時にブランディングにおいてはアートと定性分析と実践を追求する。

この方法がマーケティングの発展に貢献することになる。
「ダイアレクティック・マーケティング」これは、イノベーションを絶えず実現し、新しいビジネスを創出し続けることである。この思考を実践することがこれからの日本の企業に求められることなのでは。・・・いくつもの偶然の中で一つの選択が決定されていく「妙」に注意を払うこと。その「妙」は後からみれば必然性を帯びているが、それは後からになって分かること。リアルタイムで変化していく世界にはそのような必然性は意味がない。「他」でもありえた可能性に注意を払うことが重要なのでは。
「現実世界は可能性によってささえられている。」 柄谷行人 『探求Ⅱ』 1944
反マーケティングで水口氏に異論、反論、オブジェクションを投げかけたM氏。すでに資本主義やマーケティングの効力が問われていたとき、ミズグー(水口健二氏のこと)が寂しげに吐いた一言・・・
「フィリップ(コトラーのこと)にはがっかりだよ。」 が忘れられないという。・・・ で次コラムに繋ぎたい!

2022年5月22日(日)
MCEI大阪支部
顧問 橋詰 仁

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