時代を超える魚の骨

前川洋一郎氏は1967年神戸大学経営学部を卒業し同年松下電器産業に入社、翌年創業50周年を迎える。
1997年本社経営企画室長、2000年eネット事業本部長、2001年取締役、2003年〜05年渉外担当役員、2005年顧問、同年高知工科大学大学院博士課程起業家コース終了という経歴を持つ。
著書に「なぜあの会社は100年も繁盛しているのか、老舗に学ぶ永続経営の極意20」がある。

2003年以降パナソニックの社史を探究的に研究した。その社史のエピソードの中でも熱海会議はインパクトがあった。


<高度経済成長を続けてきた日本経済は、1964年の東京オリンピックブームの中で深刻な時期を向かえていた。高度成長の行き過ぎで金融が引き締められ、景気は急速に後退した。年率30%もの成長を続けてきた電機業界も、主要商品の伸び率が鈍化し、需要が停滞し、設備過剰が表面化して深刻な影響を受けた。1964年11月期の半期売上は1950年以来、初めて減収減益となった。販売不振により販売会社、代理店も赤字経営に陥るところが激増した。このような中、1964年7月、全国販売会社、代理店と懇談会を熱海で開催した。>


「このような事態を招いた原因の半分は、日本経済と業界の混乱にあるが、我々が好況に慣れて安易感を持ったことにも原因がある。販売会社の依存を責める前に、まず我社自身が改めるべき点は改め、その上で販売会社にも求める点があれば率直に改善を求めて、危機を打開していくしか方法はない。売上の減少などはこの際、問題ではない」と反省の念を表明した。


松下会長の目には涙が光っていた。「老舗学」への構想の基礎をここに得たと推察する。


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松下電器産業の創業期は1894年〜1918年(明治27年〜大正7年)である。

1918年に松下電器器具製作所として創立された。創業から終戦まで(1918年〜1945年)

終戦から熱海会議まで(1945年〜1964年)、新販売制度から2000年まで(1965年〜2000年}、2000年以降(2000年以降)区分される。創業期から太平洋戦争や高度経済成長を経て現在に至るまでのパナソニックの社史は前川氏の研究の基礎となっている。

老舗とは、先祖代々の業を守り継ぐことで、継続して繁盛している店、又それによって得た顧客の信用と愛顧である。
「仕似せる」先祖からの家業を絶やさず守り続け、資産を形成していくことである。

前川氏による老舗の定義とは、
1.創業後100年以上。
2.現在も日々繁盛。
3.規模の大小は問わない。
4.業種業態(形体)は変わっても資本、経営主体が繋がっている。
5.公開、非公開は問わない。
6.個人、自営も対象とする。
7.親会社や先祖の活動を引きづっている場合は合計でカウントする。
都道府県別長寿企業出現率(明治末年迄創業)全国24243社によると、大都市圏では数においては上位を占めるが、老舗が育ちにくい事情もあり出現率においては京都、滋賀、三重、長野そして日本海側の都道府県に上位を譲っている。日本海側に老舗が多いのは北前船など廻船業を営む人々が多く住みその航路にあたるなど文化が色濃く残っているなどの要因も仮説として考えられる。

老舗の生成要因「形体(キョウタイ)」とは、ありさま、形態のことである。

 

前川氏が提示する老舗の形体はあたかも魚の姿に似ている。老舗の始まりである起業から創業期が尾鰭であり、そこから頭に至る中央の背骨の部分が時間軸として左右に伸びる経営の現場である。この中枢部分を形成するものは家系・家訓・秘伝・暖簾・歴代の経営トップである。それはブランドにたとえればブランドプロミスであろう。優れたブランドの裏には必ず顧客への確固たる誓約が隠されている。「形体」に変化を与える要因として、外的なマクロ要因と地域要因があり、内的なマネジメント要因とヒューマン要因が作用して老舗の栄枯盛衰を出現させていく。あたかも時代を泳ぐ魚がダイナミックな変化の波を泳ぎ渡り、その「形体」の様を変えていく様である。永続的繁栄の事例もあれば没落・消滅の事例も枚挙に暇がない。

 

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老舗の生成、存続、消滅の共通要因とは、その生成においては、マクロ要因として政治経済体制の変化を起業、創業のきっかけとする。
地域要因として資源の恩恵、地の利である交通インフラのメリット、地産地消の風土があげられる。
マネジメント要因では顧客大事、取引先大事、イノベーションの活用がある。
ヒューマン要因としては母県文化、修行経験、先祖の強み、暖簾分けなどが上げられる。
存続の局面では、地産地消、地域共生、社会貢献を継続強化し、業態転換やリストラなど社会の変化に適応させ、労使協調を重んじながら家系を繋ぐ努力を怠らないことである。
消滅の要因としてはマクロ的地域的生成要因である政治経済体制の変化や大きな自然災害、事業資源の枯渇が考えられ、マネジメント・ヒューマン要因として投資の失敗や不祥事、多角化の失敗、家系継続困難な状態が生じるなどが考えられる。

老舗と地域文化<歴史・経済・生活>との関連について
老舗が地域・都市に存在していくためには儲けるだけではなく、よって立つ都市(まち、むら)の地勢を基盤とした歴史を理解し、そこに居住する生活者と生活スタイルに沿いながらその活性化に努め、さらに都市(まち、むら)を統治する政治と効果的に連動した経済活動を継続していくことが必要である。
経済×歴史×生活の中にこそ老舗は生成し継続して繁栄していける。そのような老舗の出現率は朝日新聞が1964年より刊行している民力<国民の総合的な力・マーケティングにおいては、「生産・消費・文化」などの分野にわたり国民が持っている総合的な力>と幸福度、1970年頃より示される概念で<一人ひとりの幸福を所得などの経済要素に限ることなく、家族や社会との関わり合いなどの要素を含めて評価する考え方>の順位合計と強い相関関係が認められる。
日本の長寿企業誕生の要因、日本型経営の特徴が老舗を持続させ活かしていくことの大きな要因となっている。
その要因とは、
①島国、四季の自然環境と自主自立の精神
②江戸、明治、戦後と大きな戦争・政変を除いて経済の持続成長がなされた。
③老舗ならではのマネジメントシステム<丁稚番頭、複式大福帳、屋号、引き札、家訓>
④「家」制度による和の精神・家業継承の仕組み
⑤商売尊重と信用重視の精神風土。
さらに私見ではあるが日本国家に古くからねづいた律令制度に基づく「公(おおやけ)」という概念も少なからず働いているように思う。
倒産と廃業について、景気の好不況、業界の構造変化、自然災害、経営組織と戦略の不具合、不祥事や事故、政府の緊急対策、中小企業金融円滑化法<2009年12月に施行された時限立法であり、中小企業等から条件変更等の申し込みがあった場合、出来る限り応じるように金融機関の努力義務を定めている。
リーマンショック後の連鎖倒産を防止する狙いがあった。>があっても倒産、消滅は決してなくならない!老舗においても避けられない現実である。
倒産率、消滅率0.3%うち老舗は2%である。そのような中で老舗の浮沈と悲喜の事例は様々な示唆を与えてくれる。
倒産廃業・再生転身の事例として浮沈の激しいアルコール飲料業界。デジタル化、活字離れと制度疲労で淘汰される出版業界。お客様の選別が厳しい、サービス業界。転地で生き残っていく事例もあれば、ひっそりとあっさりと退場していく事例も多い。


守成経営、時には逆櫓も必要
最近の老舗の行きづまりの原因は
①人口構造の変化
②流通構造の変化、中央資本
③重要の本質的変化
④新興国とのコスト競争
⑤グローバル大手が覇権をにぎる
⑥技術のイノベーション
⑦IT化の進歩
⑧法規制の緩和と新規制
⑨天変地異
⑩事故、事件の被害
老舗の財務状態は、過去の経験から多めの原材料在庫でリスクへの対応。
先祖の財産を堅実活用で営業外収入。自己資本比率が高いので安心感から現状に胡坐をかいてしまう。
老舗の精神状態は、自分の代で潰したくない。家族、従業員の一致団結の助け。何か新しいものを考えださなくては。このような状態は焦りから適切な行動に繋がりかねない。
老舗の行きづまりの本質は、まず経営者に起業家精神が欠如し、企業に社会的責任のストレスがかかること。そして後継者が見つからない。新しい事業の展望が見えず事業意欲の喪失につながっていく。社会、縁者など周囲の見限り。ステークホルダーの崩壊、ネットワークの陳腐化、顧客満足の低下、社会、時代の文化とのかい離などが上げられる。

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持続とは守成!
貞観政要における「創業守成」によって老舗の持続は成ると前川氏は説く。
「貞観政要」は唐王朝二代目太宗李世民(在位626−649)、中国の名君であり重臣たちの諫言を聞き緊張感を持って国の平和と安定を持続させた。
死去50年後に史家によってまとめられた。創業か守成を問うとき、「創業は易し、守成は難し」の見解を示す。安きに居りて危うきを思う、率先垂範、わが身を正す、臣下の諫言に耳を傾ける、人材を育成し登用し活用する。
ここが名君と暗君を分かつものである。創業に王道なし、頂上を目指す道は幾つもある、勘を働かして選べばよい、教えられないし、学べないし、継承できないが、「守成」は学ぶことができる。先祖先輩の歴史を見れば何が悪いのか共通因子が抽出できる。創業から守成への転換が難しい。この持続の意志、戦略、体制づくり、いわゆる中興が重要となる。
守成には保守と革新の二つがある。そのフローは創業から守成へ、そこから保守・伝統と革新・開拓とに分かれ持続・繁盛へと繋がる。いわゆる不易流行ということになる。「不易流行」は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の間に体得した概念である。
「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」即ち「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかもその本は一つなりということ。老子にも「無用の用」という概念がありますし、「荘子」にも同じ趣旨の話がある。これらの話から前川氏が説く老舗の「形体」は老舗の中枢部構造化し、魚の骨の部分とそれを包み時代の変化に適応しながら立ち現れる社会共通資本である。それが老舗のフォルムに繋がるのではと考えられる。前川氏は以上に加えて、ときには逆櫓も必要であると説く。
「逆櫓」とは[平家物語]1185年(寿永4年)2月、源義経が平家追討の命を受け摂津国・渡邊津に軍を進めたとき戦奉行の梶原景時とこの地の大きな松の下で行った軍議の評定のことである。景時は、「船のへさきにも櫓をつけて、どの方向へもたやすく回転できるようにしたい」と進言した。義経は「初めから逃げることを考えては縁起が悪い」と景時の意見を退けたといわれている。

 

結びとして
経営のコツここなりと気づいた価値は百万両:松下幸之助翁が昭和9年の元旦に全社員にお年玉として送った言葉である。翁は全社員が取り組んでいる仕事はどの様な仕事でも経営である。
しからばやはり一人一人の社員が「経営のコツは何か」をつかまなければならない。経営学は勉強すれば学ぶ事はできるが、生きた経営のコツは人に教えてもらったり、本を読んでも分かるものではない。実際に実践、体験、経験を積み重ねて体得する以外に方法はないと教えているのである。

 

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